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3.
青瓢箪は「結局知人は謝罪したのですが、金はブログ記事を削除しませんでした。」と書いている。だが、上のやりとりから明らかなように、私は、韓にブログ記事の削除などそもそも約束していない。 しかも、謝罪すれば実名および関連個所を削除する、などという取引もしていない。韓のメールからも明らかなように、謝罪は韓が自発的に行なったものであり、そのことを韓は何度も強調している。また、私による韓の実名の削除も、「先ほど、当該記事の、貴殿の実名および関連個所は削除しましたが、これは、取引として応じたということではなく、これ以上のメールのやりとりがあまり生産的ではないと思ったからです。貴殿も、当該発言を削除しておいてください。」と書いているように、謝罪すれば実名および関連個所は削除するなどという約束なしに、韓の謝罪を受けて、私から自発的に行なったものである。 また、上の経過から明らかなように、大学時代の出来事についてのやりとり、謝罪要求と韓の謝罪は、一連の削除が終わった後に行なわれたものであって、「「あのときのことを謝罪しろ、謝罪しなければお前の会社名や実名をブログに書く」と脅しました。」などという青瓢箪の主張は完全な作り話である。 また、青瓢箪は、「その方が迷っているうちに彼はブログに彼の実名所属会社名を晒した上で「このアカウントは上司も読んでるとtwしていたので、講談社の公式アカウントと見なす」と言い出しました。そしてこういうことを書いてるのは講談社の公式見解なのだから講談社に対して抗議をする、とか…。これは完全に脅迫だと私は思っています。」と書いているが、上記のように、韓が「迷っている」などといった事実はそもそも存在しない。また、私のブログ記事(旧記事)の元の(注)は以下のものである。 「(注) 言うまでもないが、根拠も提示せずに誹謗中傷を公に加える人間の匿名性を守ってやる道理はない。また、韓(注・原文では実名)は漫画編集者としてもそれなりに知られている人物であるから公人であると見なせるし、会社の上司・同僚、会社関係の書き手らしき人物にも「韓西満」の名前でツイッターをやっていることは伝えているとのことであるから、実名を公開しても問題あるまい。 2011年03月19日(土) 「よく考えたら同僚も読んでるココで周囲の人間の悪口を言うとか、俺も狂ってるな。だが、まだ怒ってる。俺はもうあいつとは遊んであげない。」 posted at 15:43:32 http://twitter.com/#!/Radomyslsky/status/48998018325807104 2011年04月06日(水) 「上司がツイッターのアカウントを教えてくれと正面切って言うので教えた。さて、どのタイミングで読むだろうか? 何か面白いそうなことを言わねばならぬと考えはじめて加速度的自己緊縛。」 posted at 23:57:12 http://twitter.com/#!/Radomyslsky/status/55645234306097153 2011年06月10日(金) 「作家に「君の(ツイッター)、面白いよね」と褒められた。苦笑いではあったけど面白いと言われたので嬉しかった。うそ偽りない生活のボヤキをお笑いいただけるのは、とっても嬉しい(食えてるかぎりは)。これからも、笑わせるより笑われる人間を目指したい。ときおり笑われることにキレるのが理想。」 posted at 03:09:19 http://twitter.com/#!/Radomyslsky/status/78886405190860801 上司にツイッターのアカウントを伝えているということは、韓のツイッターは、講談社公認のそれであることを意味する。 」 このように、私は「講談社公認」とは書いているが、青が言うような「講談社の公式見解」などとは言っていない。会社公認でツイッターをやっている人間は、岩波書店でも数人いるし、今やかなり多くの会社でそのような人物はいるであろうが、それは会社の「公式見解」とは全く別である。もちろん、しかるべき役職の人物の発言はただちに会社の公式見解になる場合もありえるだろうが、韓の発言がそうなるはずもない。青瓢箪は、意図的なのか無知なのかは知らないが、私の発言を曲解している。 もちろん、「こういうことを書いてるのは講談社の公式見解なのだから講談社に対して抗議をする」などということも私は書いていないし、韓に対しても言っていない。これも作り話、悪質なデマとしか言いようがない。 4. さて、青瓢箪のDMの内容を知った後、私は、証拠として青瓢箪のメール画像を添付した上で、以下のメールを3月1日4時22分付で韓に送った。 「ご無沙汰しております。今日は、ご相談があって、メールさせていただきます。 さて、@ProdigalSon_JPこと「放蕩息子と青瓢箪」(以下、青と略)という人物は、貴殿が極めて頻繁にツイートをやりとりする相手であり、2月28日にも、貴殿は青とやりとりしていますから、青の以下の発言は既にご存じかもしれませんが、私は、青に、2月28日に、以下のメールを送っています。これを読めば、問題の争点がお分かりになるかと思います。 (注・前回記事で引用したものと同じなので略) このメールに対して、青は、24時間を経たのちも、何ら回答を行ないませんでした。そこで、上でDMを送るとしていた@×××氏に、青が回答してこないことを説明し、私に関してDMの中でどのようなことが話されていたのか聞いたところ、事実に反したものだったので、大変驚きました。 そこで、DMの全文を見せてもらったところ(添付画像参照)、虚偽につぐ虚偽で、呆れ、驚き、かつ怒りました。以下、掲載します。 (注・既に引用したもの。略) ここで青が言及している「講談社で編集者をしている私の知人」とは、もちろん貴殿のことですが、当該記事関係の青の発言は、お分かりなように、完全なデマです。 しかし、「学生時代にあることで私怨をもち」、そのことに関しては貴殿に謝罪を求めた、ということは事実です。これは、貴殿と私とのメールのやりとりの中で行なわれたものですが、私は貴殿とのやりとりについて他人に話していないので、貴殿が青に直接話したか、または、別の誰かに話したものが青に伝わったのではないか、と推測しています。 私は、貴殿が話したことをここで批判するのではありません。そうではなく、 ・貴殿は、青にこの件について直接、話したことはあるか ・貴殿が青にこの件について話したことがあるとすれば、上のDM内での青の発言とどの点が同じで、どの点が違っているか ・貴殿が、青とはこの件について話したことはないが、他の人物にはこの件について話したことがあるとすれば、上のDM内での青の発言とどの点が同じで、どの点が違っているか といった点に関して、まず、お答えいただきたく思います。 また、青は、「別の私の知人にも粘着しててちょっと気持ち悪いとすら思ってます。」と書いています。これは、現在は面倒くさくて中断していますが、笑った発言をRTするという趣旨でツイッターを行なっていたことを指していると思います。それを粘着と捉えるのは青の勝手なのでここではどうでもいいのですが、RTした在日朝鮮人の「別の私の知人」となると、韓東賢と金香清とリヨンヒャンくらいしかいません。 もし貴殿が、青とはこの件について話したことはないが、他の人物にはこの件について話したことがあるとすれば、この3人のうちのいずれか、ということはありますか。可能ならば、私は、デマの出所を特定したいのです。 私は、自分のブログ上で、青の上のDM内での私に関する発言を紹介し、それがいかに事実と異なるか、を説明する予定です。このようなデマが流布されては困るからです。この件に関する貴殿とのやりとりは、メールのみですので、その証明は容易にできると考えています。 そこで、そのブログ記事上で青のDM上での発言を紹介する際に、貴殿と私の間での共通認識を示したいのです。例えば、 「この件に関しては、韓との間で事実を確認し、以下の点に関して共通の事実認識を持っている。 ・青は、「その方のtwitterをみつけると「あのときのことを謝罪しろ、謝罪しなければお前の会社名や実名をブログに書く」と脅しました。その方が迷っているうちに」と書いているが、金が、当該記事の発表以前に、韓のツイッターまたは連絡先に連絡してきた事実はない。したがって、韓が迷ったという事実もない。 ・青は「こういうことを書いてるのは講談社の公式見解なのだから講談社に対して抗議をする、とか…。」と書いているが、このような事実はない。 ・・・・・」 といった形です。もしやってよいということであれば、私から、上のような形で、虚偽である点を列挙したものを作成して貴殿に送り、確認していただきます。なお、できないということであれば、貴殿に作業を断られたことを明記した上で、私が一人で、虚偽であることを示さなければなりません。 なお、「これは完全に脅迫だと私は思っています。結局知人は謝罪したのですが、金はブログ記事を削除しませんでした。」という点は、貴殿の認識が反映しているようにも思えます。なぜならば、貴殿は、12月8日14:07に×××(注・原文は韓のメールアドレス)から送ってきたメールで、 「 記事が復活していますね。 これは、さらに謝罪せよとメールを書くために、私にゆすぶりをかけようと復活させたものでしょうか。 そのようなものがあろうとなかろうと、私の真意・申し上げることに変わりはありません。」 と書いているからです。 ですが、これは貴殿の勘違いとしか言いようがなく、その返信である12月8日14:42で、私は以下のように書いています。 「記事は、貴殿の実名と関連個所を削除したものに差し替えています。新記事の「追記」をご参照ください。 私は、旧記事についた「はてなブックマーク」へのコメントに、「韓」の名前の引用がなされていたので、旧記事はいったん消去して、別記事(別のアドレスで)として新記事を作っています。これらは、旧記事の削除とほぼ同時(3分以内)に行なっています。「ゆすぶり」云々は心外で、以上の経過にも反しています。 誤解されているのかもしれませんが、私はメールで貴殿の実名と関連個所は削除すると書きましたが、記事を削除するとは書いていません。」 この通りです。補足すると、下の元の記事に対する「はてなブックマーク」で、 http://b.hatena.ne.jp/entry/watashinim.exblog.jp/15068502/ 極めて皮肉なことに、青が、 「Prodigal_Son 「上司にツイッターのアカウントを伝えているということは、×(注・原文から変更)のツイッターは、講談社公認のそれであることを意味する。」なにこのめちゃくちゃなリクツ…単なる私怨で本名暴くのを正当化してるだけじゃねえか。」 などと、貴殿の姓を出してしまっているため、このまま実名と関連個所を削除するのでは意味がないと思い、URLをわざわざ別のものにするために新記事にしたのです。 したがって、この記事に関する「はてなブックマーク」は二つあります。 http://b.hatena.ne.jp/entry/watashinim.exblog.jp/15074427/ このような、貴殿への配慮から行なったものを、「ゆさぶり」などと解釈されては心外です。 また、青は、「いったん社名を消したのにまた復活させたんですねえ」と書いていますが、貴殿もこのような認識をお持ちなのでしょうか。 また、貴殿は、青、青の夫と、直接お会いされたことはありますか。また、青にメールする際、貴殿の実名を書いてよいのでしょうか。 ご多忙の折に、大変恐縮ですが、なにとぞご検討のほど、よろしくお願いいたします。」 多分、韓は、このメールを青瓢箪に送ったのではないかと思う。それまで私のメールに対して無視を決め込んでいた青瓢箪は、前回記事で書いたように、この後すぐ、私への誹謗中傷をツイッター上から削除したからである。 韓からは私に返事がなかった。韓のツイッターは非公開になっており、私は読むことができなかったのであるが、@shiso_umeなる人物のツイッターを見ると、この人物と韓と青瓢箪との間でやりとりをしているようだった(下記リンク先の3月2日の発言参照)。 http://twittaku.info/usertweet.php?usr=shiso_ume&num=0 そこで私は、3月2日16時43分付で、韓に、@shiso_umeのツイッターを読むと、この人物と韓と青瓢箪が同一の話題について話し合っているように見えることを指摘し、現在、青瓢箪と韓がコンタクトをとっているのかを確認した上で、 私が新しく作ったツイッターアカウントについて、韓にフォローリクエストを送ったので、承認して私にも韓のツイッターが読めるようにすることを求めた。 ところが、韓は私のフォローリクエストを承認しなかった。また、メールに対する返事も依然としてなかった。 したがって、私は3月3日4時9分付で、韓に以下のメールを送った。 「先ほど、下の記事をブログにアップしました。 @ProdigalSon_JPなる人物による私への誹謗中傷について(1) http://watashinim.exblog.jp/15516668/ それで、3月1日のメールでご検討をお願いした件ですが、その後、いかがでしょうか。 私は、3月1日に貴殿にメールを送った時点では、発言の一部に貴殿の見解が反映されているとしても、主要なデマそれ自体は貴殿のものではないと思っていました。ただ、貴殿から返事がないので、いまはよく分からなくなっている、というのが正直なところです。 貴殿の回答に関しては、青瓢箪(以下、青)が流したデマを紹介・批判する際に紹介するつもりですが、貴殿が、青の発言のデマの主要部分には関与していないならば、3月1日にお送りしたメールに回答いただければ、それで貴殿は関与していないことを示すことができるはずです。そのように質問事項も設定しています。 貴殿から回答のないままであると、青にあのデマを話したのは、貴殿ではないか、という疑問を持たざるを得ないのです。貴殿は、青と300回以上もツイッターをやりとりしていますし、いかに青が愚かな人間であるとは言え、絶対的な確信がなければ、普通、あそこまで自信を持って他人を「キチガイ」呼ばわりするだろうか、とも思うからです。貴殿から回答がない限り、私としては、そのような疑問をブログ上でも表明せざるを得ません。 何か勘違いされていると困るのでお伝えしておきますが、私としては、3月1日のメールは、貴殿を罠にかけるとかそういった目的は一切ありません。私としては、デマがどのような人々(特に在日朝鮮人)によって共有され、広められているのか、ということを突き止めたいです。貴殿は、デマの主題それ自体には、私と並び、最も関係が深い人物であり、貴殿の回答が大変重要であると考えています。 ご多忙ではあると思いますが、改めて、なるべく早めにご回答をいただくことをお願いします。結局いただけずに記事を書く場合、上で書いたような私の疑問を付記することになることを、あらかじめご了承いただきたく思います。また、回答をいただけず、私が一人でデマが虚偽である理由を説明しなければならなくなった場合は、貴殿からいただいたメールを引用することも、デマの内容の悪質性に鑑み、あらかじめご了解いただきたく思います。」 このメールにも韓からの回答はなかった。 3月1日以降、韓へのメールは全て、昨年12月に韓から送られてきたメールの送り先であった、韓の私用メールアドレス2つに同時に送っていた。12月に送られてきたメールの中には、会社の韓のメールアドレスも送り先の一つとしてあったので、5月8日8時32分付で、私は会社の韓のメールアドレスに以下のメールを送った。 「さて、私は貴殿に、3月1日から3日にかけて、下記の貴殿の私用のメールアドレスに数通のメールを送りました。 (注・2つのメールアドレスを記載。略) 私はメールの返事をいただいていません。そこで確認したいのですが、貴殿は私が送ったメールを受け取っているのでしょうか。 上記メールでは、一応配慮して、貴殿の所属する会社のメールアドレスは送り先としていませんでしたが、私が送ったメールを受け取ったか確認しなければならないので、このメールにて確認したく思います。 なお、このメールの送付後72時間以内に返答がない場合、貴殿は、私が送った上記メールを受け取ったものと見ることをお伝えいたします。」 このメールにも韓からの返事はなかった。結局韓からもらったメールは、前述の、昨年12月9日のものが最後である。 4. 青瓢箪に私は、5月9日3時51分付のメールで、青瓢箪が送ったDMを引用し、「この発言はそのほぼ全てが虚偽です。しかも貴殿は、これと同趣旨の発言を、ツイッター上でも発言している旨明言しています。貴殿は、私の社会的評価を低下させる虚偽の主張を流布させており、これは犯罪行為です。/そこで、貴殿が上記の主張をするしかるべき根拠に関して、このメールの送付後48時間以内にこのメールアドレスへの返信にて回答するよう、貴殿に要求します。」と書いたが、これにも返事はなかった。 また、前回記事で書いたように、青瓢箪は、私が「一般に公開された形で、謝罪の理由を付記して、謝罪」することを求めているにも関わらず、一貫して私の要求を無視している。また、以下のリンク先にあるように、多くの在日朝鮮人を含めたツイッターを行なっている人物と、直接会う等の交流を行なっている。私の前回記事の存在しているならば、これらの人物は、私への誹謗中傷を行なったにもかかわらず謝罪なしに済ませている青瓢箪の姿勢を容認しているということになる。許し難いことである。 http://twittaku.info/usertweet.php?usr=kyonghagi&num=0 http://twittaku.info/searchtweet.php?type=tweet&word=%40ProdigalSon_JP したがって、青瓢箪が私に関するデマを流すことに対する自衛策を講じざるを得ないため、今回のように、ブログ上で、青瓢箪が流している私に関する話がデマであることを、韓からのメールという証拠も用いて、示した次第である。 韓が沈黙しているため、デマに対する韓の関与の度合いは不明であるが、韓は、自身の見解が反映されている可能性もある誹謗中傷に関して、それがデマであることが明らかであるにもかかわらず、デマであることを証明しようという私の当然の行動に対して、こちらが何度も要請しているのに一切協力しないのであるから、この件に関する韓の責任も免れないと私は考える。 なお、以下の青瓢箪自身の発言記録によれば、青瓢箪の夫は李龍一といい、白夜書房で編集者だった人物とのことである。 http://twittaku.info/usertweet.php?usr=ProdigalSon_JP&num=2 上および下の発言記録から明らかなように、この@dragon_smileがその李龍一という人物である。 http://twittaku.info/searchtweet.php?num=0&type=name&word=dragon_smile 韓は、下の一例が示すように、今でもこの李龍一とはツイッター上で頻繁にやりとりを行なっており、青瓢箪周辺の人物とのつながりの一端を見ることができる。 https://twitter.com/#!/dragon_smile/status/200184311801069569 https://twitter.com/#!/dragon_smile/status/200146729683783680 https://twitter.com/#!/dragon_smile/status/199742794393329664 私は「金明秀の弁明について(下)」で、金明秀の振る舞いについて、「ツイッター仲間等の自分の周囲の人間にさえプライドが保たれていればそれでよい、という認識が根底にあるように思われる」と書いたが、金明秀と親しい韓もまた、青瓢箪かその親しい人物も同席した飲み会か何かで、自分の対面を保つために、青瓢箪が流布させていたデマのようなことをしゃべったのではないか、と私は考えている。 韓は、私による批判は、「私怨」によるものだと印象付けたかったのではないか。私が姜を不快に思っていたことは事実であるが、私はそもそも面白い文章には多かれ少なかれ「私怨」が含まれていることが多いと思っているので、「私怨」があるとされても痛痒を感じない。私の文章が単なる「私怨」に終始して価値を持っていないか、それを超えたものがあるかは、読者が判断することである。また、韓宛のメールにも書いたように、私に関する韓による中傷表現をツイッター上で見なければ、改めて韓のツイッターを詳しく見て、批判することもなかったであろう。 青瓢箪による愚かしい誹謗中傷がなければ、私が知らないまま、このようなデマが広がっていたかもしれない。その意味では青瓢箪に感謝すべきかもしれない。 韓に送ったメールにあるように、私はこのデマの出所と流布の経緯・範囲を特定したいと考えている。こうした話を耳にしたという方がいれば、私にメールでお伝えいただきたい。 それにしても、青瓢箪やその周辺の人物の振る舞いを見るにつけて、その酷さに呆れると同時に、既視感も強く持った。前に書いた「マスコミ界隈の在日朝鮮人と日本人リベラル・左派の「共生」、または共犯関係(上)」から引用して、この文章を終えることとする。 <「在日朝鮮人問題」について考えられるべきは、在日朝鮮人の民族的権利という抽象的権利の尊重と、それに基づく施策の実現である。個々の「在日」がどのように言っているか、ということは「在日朝鮮人問題」において基本的に関係がない。 この、抽象的権利と個々の人格との関係性は、在日朝鮮人だけではなく、マイノリティ全般について考える上でもそうである。マイノリティ集団において、マジョリティに媚びて地位上昇を狙う人々は必ず存在するから、こうした関係性への認識が欠如していると、マジョリティは、都合のいいマイノリティの発言を持ち出すことで、容易に、マイノリティの権利を縮減することができる。あるいは、自らが当該マイノリティ集団を代表していると称するマイノリティ団体の言うなりになり、腐敗が発生する。 なぜこのようなことを改めて述べるかというと、冒頭に挙げたような言説は、現在のマスコミ界隈の在日朝鮮人を見る限り、極めて悪質に機能する可能性があると考えるからである。こうした人々は、日本人「同胞」として扱ってもらおうとしており、そのためにはリベラル・左派の右傾化に協力することも辞さない人々で、朝日・岩波的な日本人リベラル・左派程度の政治的見解は持っていようとも(実際に持っている人が多いが)、現代の「親日派」と見た方がよいと思う。25年ほど前までならば、こういう「親日派」的に振舞う若手の在日朝鮮人に対して、問題点はあるにせよ民族団体の人々がたしなめる、という構図があったのだが、現在ではむしろ、こうしたマスコミ界隈の在日朝鮮人に、民族団体の人々が媚びるという始末である。 とにかく、日本人「同胞」として扱ってもらおうとする在日朝鮮人が跳梁し、「在日朝鮮人問題」が何らかの利権問題と表象されるようになっては、在日朝鮮人が有すべき「普遍性」が消失してしまう。> <在日朝鮮人という存在は、朝鮮学校無償化排除問題に端的に見られるように、他の外国人と比べてもそれ固有の露骨な差別を受けつつも、一旦日本の「支配」の枠組みを肯定しさえすれば、日本人に準じた地位という「特権」が与えられる。名誉日本人の地位を得た(得ようと努める)在日朝鮮人は、日本人に対して、「自分たちは朝鮮人への差別意識はない」という意識を満足してあげると同時に、日本社会が外国人(労働者)への差別意識・排外意識を持っていないということを示すためのモデル外国人たる役割を果たしている。また、同時に、それらの在日朝鮮人は、「反日的」「民族主義的」な在日朝鮮人への違和感を表明することで、差別批判や民族的権利の尊重を要求する主張を周辺的なものとしてくれるのである。実際、マスコミ界隈の朝鮮学校出身の人物は、朝鮮学校や朝鮮総連について露悪的に語り、日本人の歓心を得ようとする人が多い。 在日朝鮮人は、そのような日本人内部の「空気」を読むことに長けている。私は、そのような「空気」を認識しているからこそ、そのような「空気」を破壊しようと努めているのだが、大多数のマスコミ内の在日朝鮮人は、「空気」を読んでひたすらモデル在日朝鮮人役を務めるのである。> <リベラル・左派のグループの右傾化においては、必ず、メンバーに(在日)朝鮮人が存在する。その(在日)朝鮮人の言明または黙認によって、日本人は自らの右傾化を(自己)弁明できるし、その(在日)朝鮮人は、日本人のこうした意識を読み取って、自らの利用価値を高く売ることができる次第である。> 副題「@ProdigalSon_JPなる人物による私への誹謗中傷について(2)」
1. 「@ProdigalSon_JPなる人物による私への誹謗中傷について(1)」(以下、前回記事と略)を書いた後、@ProdigalSon_JP(ハンドルネーム「放蕩息子と青瓢箪」。以下、青瓢箪と略)をはじめとした、下らない連中について時間と労力を割くこと自体が馬鹿馬鹿しいので、なかなか続編に取り掛かる気になれなかったのだが、ちょうど、金明秀やその他の、在特会やネット右翼を敵としつつ、<佐藤優現象>やリベラル・左派の右傾化については沈黙するかその問題性を過小評価しようとする類の人々への批判を行なっているところであり、今回取り上げる青瓢箪や韓西満はその典型例であって、よい機会なので今回取り上げることにした。また、前回記事で書いたように、青瓢箪はデマを流しておきながらまともに謝罪することなくツイッターを非公開とし、また、後述するように、この件と関連が深い韓西満も、そのデマを正そうとする私の要請に対して一切無視しているので、自衛のためにも、誹謗中傷がデマであることを指摘せざるを得ない。 前回記事の中で、私は、以下のように述べた。 「私が再三要求しているにもかかわらず、この人物(注・青瓢箪)が一旦公開して削除したという、私に関する「一部突っ込みすぎた内容」は、私は知らされていない。これも極めて不当な態度である。人間としての根本的な何かが欠落しているのではないか。実は、私はこの内容を入手しているのであり、これが完全なデマだったのである。この人物も、これがデマだったことが自分で分かったか、私にデマを流しているのがバレたことに気づいたかしたが故に、削除して逃亡してしまったのではないかとも思う。この件については次回以降に詳しく書くので(ある意味で、こちらこそが本題である)、楽しみにしていただきたい。この内容があるがゆえに、この記事は、「韓国・朝鮮(在日朝鮮人)」のカテゴリ(注・現在は「在日朝鮮人」)にしているのである。」 そこでまず、青瓢箪が流していたデマを挙げておく。 前回書いたように、青瓢箪は、ある人物への発言で、「@××× 一部突っ込みすぎた内容を書いたのでその分は削除しました。詳細をお知りになりたいのでしたら、DMをお送りします。」と書いている。 私は、前回記事で書いたように、2月28日21時13分にメールを青瓢箪宛に送ったのだが、青瓢箪から回答期限の24時間を過ぎても返事はなかった。そこで、青瓢箪がこのDM(ダイレクトメール)を送ったという人物に、青瓢箪が私に回答してこないことを説明し、私に関してどのようなことがDMの中で述べられていたかを聞いた。すると、事実に反したものだったので、青瓢箪が送ったDMを添付画像つきで送っていただいた。私はそれを見て、唖然とするとともに、拍子抜けしてしまった。ここまで全く根も葉もないものだとは思っていなかったからである。同時に、このようなデマを平気で流すこの青瓢箪に言いようのない怒りを覚えた。 以下が青瓢箪と、青瓢箪がDMを送った相手との全文である(一部のツイッターアカウントを変えた。以下同じ)。この相手の方は、「Prodigalsonがあまり説得力のない金さん批判をしているので馬鹿のふりして「ハイハイ、わかりました。金には気をつけます。」みたいなことを言っておきました。」とのことである。 なお、3月2日1時31分付で青瓢箪に送ったメールで、DMのブログ上での公開許可を求め、「72時間以内に私が見ることのできる形でご回答をいただけない場合、全文公開を貴殿が了承したものと見なします。」と書いたが、青瓢箪からは回答がなかったので(これに限らず、青瓢箪は、私が送ったメールに対して一切返信を送ってきていない)、公開する。 「@ProdigalSon_JP 金光翔は、講談社で編集者をしている私の知人と学生時代にあることで私怨をもち、その方のtwitterをみつけると「あのときのことを謝罪しろ、謝罪しなければお前の会社名や実名をブログに書く」と脅しました。その方が迷っているうちに彼はブログに彼の実名所属会社名を晒した上で 「このアカウントは上司も読んでるとtwしていたので、講談社の公式アカウントと見なす」と言い出しました。そしてこういうことを書いてるのは講談社の公式見解なのだから講談社に対して抗議をする、とか…。これは完全に脅迫だと私は思っています。結局知人は謝罪したのですが、 金はブログ記事を削除しませんでした。また私の別の在日知人や@han_orgのtwitterアカウントに粘着的な嫌がらせをしたりしています。おそらく在日社会でも評判は良くないと思います。(わたしの知る範囲内ですが)ある意味日垣隆の在日版という気もします。 確かに佐藤優批判のあとの岩波の対応には問題があると思いますが、おそらく当人も岩波の中で相当のことをやっているんじゃないかと予測してます(この辺は推測や噂もまじるので断言はできないのですが…)なので金光翔については相当の留保を置かれたほうがいいと思います。 以上です。長文失礼しました。 @××× ありがとうございます。講談社社員の人とはこの件とはまた別なのでしょうね。http://t.co/pn2jglF 全く別の件で学生時代の意趣返しをしたのだとすれば確かに金氏にも問題があると思います。これから注意して読もうと思います。 @ProdigalSon_JP これです。この記事です。この記事に彼の実名が記載されていました。(いったん社名を消したのにまた復活させたんですねえ…よほど私怨していると思われます)金はここでなにかいってますが、結局の所在日運動の中でメインストリームに乗れず落ちこぼれたことがルサンチマンになってるだけ、という… @××× よくわかりました。ありがとうございました。金氏の言動には注意したいと思います。ただ、金明秀氏との対立に関しては両方とも大物で論戦を普通にやっているだけでなないかと思います。 @ProdigalSon_JP 金光翔のtwitterアカウントをみるととても普通の論戦とは思えないんですが…(そのアカウントがいまはちょっとわからなくなってます。ごめんなさい。)別の私の知人にも粘着しててちょっと気持ち悪いとすら思ってます。その知人に粘着する理由がわからないので… とまれ、そういう情報を片隅にでも入れていただければ幸いです。失礼しました。」 2. ここで青瓢箪が言及している「講談社で編集者をしている私の知人」とは、私が以前、「続・マスコミ界隈の在日朝鮮人と日本人リベラル・左派の「共生」、または共犯関係(1)」 で批判した、韓西満(@Radomyslsky)というハンドルネームを用いている人物である。 青瓢箪は、私が韓を脅迫したと書いている。ここにまず、途方もないデマがある。韓への上記の批判記事を書いた以前の韓とのやりとりは、直接話したのは約10年前、メールでは6年前の2005年である。それ以降は一切やりとりをしていなかった。したがって、「脅迫」の事実など成立するはずもない。 私が批判記事を書いた2011年12月7日の14時48分に、韓からメールが来て、会社にツイッターを公にしているわけではないから実名を削除してほしいとの要望があり、その際に、「金光翔君は文章は正論だが筆致に陰険さが出ているから読んでて気分が暗くなるだろう」は確かに誹謗中傷だからお詫びして削除する、と申し出があったので、韓の実名を出すのはやめたのである。 以下はそのメールの全文である。誤字が散見されるが原文ママとした。 「今日は時間がないので手短に。 私のツイッターアカウントは職場とはいえ一部の人にかぎられていますし、現在の職場では知られていません。 上司にあたる人間には、その後考えなおしアカウントを訊かれたこと自体をさ抗議して、ブロックしたあと、外に漏らさない約束になっています。 あなたの暴露はわたしの実生活に大きな被害をもたらすので、暴露の結果が最小限で済むようご配慮くださいませんか。 以下は検討しないままの、余談で、間違いも含まれていようと思いますが、私の認識を記します。 私があなたを悪く言うようなことがあるだろうかと驚いたのですが、引用を見てたしかに中傷していました。 これは謝って削除します。 ① http://twitter.com/#!/Radomyslsky/status/34723534152409089 しかし、私は「金光翔を悪く言うようなことがありえるだろうか?」と思いこんでいたので驚きました。 あなたが紹介した次のツイート↓。 ② http://twitter.com/#!/Radomyslsky/status/97598258184069121 このツイートは覚えていますが、相手を攻撃するもので相手の「欺瞞的」との認識に同意していないばかりか、そもそもあなたを話題にしていないはずです。彼の発言とあわせて読んでもらいたいと思います。 私はどうにもあなたを誹謗中傷したことがない(と思っていた)ので、それにあたる発言を他にも指摘されれば弁明・謝罪する用意があります。 あなたから来た「コリアNGOセンターに人権擁護法案に賛成するよう要請してください」という内容メール(注・これが2005年に私が送ったメールである)を受け取った際「韓西満さん(注・原文では実名)とは過去とのいきさつがありかかわりたくありませんが」という内容のことが末尾に書かれていました。腹立たしいけれども、そう宣言するのであれば、私からもかかわることはないだろうと思っていました。 あなたが私に対して抱く感情については理解していれば、たしかに愉快ではいられません。 しかし、それでもあなたについて話題にする際に、悪く言うことはないよう気を配ってきたつもりです。 あなたを悪く言って、あなたが書いていらっしゃることの値打ちを(まだ読んでいない相手にとって)損なうことを避けたかったし、なにより私がブログを拝読して蒙きを啓かれる思いを何度も覚えているからです。 そう考えてきた記憶が鮮明であなたを誹謗中傷しないでいようという意識でいたので、①番以外には見つからないだろうと思います。」 上で述べたように、そもそも私は韓に事前に何も伝えていないのであるから、「あのときのことを謝罪しろ、謝罪しなければお前の会社名や実名をブログに書く」と脅した事実など存在するはずがないし、韓がそうしようか「迷ってい」た事実もあるはずもない。よくもまあ、青瓢箪はここまで途方もない嘘が言えたものである。 私は同日の19時1分に下記のメールを送った。 「お久しぶりです。 今見たところ、①の発言は削除されていませんが、これは、「暴露の結果が最小限で済むよう」配慮する意図が示されれば、削除する、という意味ですか。 http://twitter.com/#!/Radomyslsky/status/34723534152409089 」 これに対して、翌日8日の5時46分に韓から返事があった。そこにはこう書かれている。 「 お久しぶりです。接客が深夜まで長引いて、帰りが遅くなりました。 お話ししたいことはたくさんありますが(週刊新潮に載っているという知らせを受け取って以来、お話ししたいことがありましたが)、いまは我が事にかぎらせていただきます。 |今見たところ、①の発言は削除されていませんが、これは、 |「暴露の結果が最小限で済むよう」配慮する意図が示されれば、 |削除する、という意味ですか。 | http://twitter.com/#!/Radomyslsky/status/34723534152409089 ちがいます。 メールを出した以上、なんのやりとりもなく勝手に削除すれば、発言を隠蔽しようと意図して削除したのだと思われるのを恐れたからです。 週刊新潮の記事は、人の知らせがあって、遅れてバックナンバーを読んだにすぎませんでした。が、それ以来あなたのブログを読みつづけていました。ブログがどう読まれるかあなたは当然想像できると思います。当然ながら、「私にも話させて」を読んだ私は、あなたを中傷したいとも揶揄したいとっも思ったことはありません。 あなたが挙げた発言は私の本意ではなく、前便で書いたとおり撤回・謝罪したいと思っています。幾分記憶がよみがえりましたが、ひとが使った表現を真似てイキがって発言したことも思い出し、恥じ入っています。 もとより削除は当然のことであると思っています。しかし、それではあなたが私のメール送信第一便の動機を理解してくれないだろうと考えて、おいてあるにすぎません。単なる削除で許されるならこんなに楽なことはありません。 |「暴露の結果が最小限で済むよう」配慮する意図が示されれば、 |削除する、という意味ですか。 これ↑は、読んだ瞬間には理解できませんでした。 私が「暴露が最小限で済む」ことを取り引き材料にしようとしていると疑ってのお尋ねでしょうか? 言うまでもないと言いたいところですが、そのようなもの取り引き材料にできると考えたことは(少なくとも今日一日)ありません。 あなたが取り上げた私の発言は私の本意ではありませんから、誰にもわかるように撤回するべきだと考えています。少なくとも「韓西満がしゃべっている」と思って読んでいる人には。 今日の私の悩みどころは、私の発言によって損ねられてしまった(とあなたが感じた)名誉を回復するためにはどうするべきだろうということでした。私とあなたのお互いの関係はさておき、私は、世の中に対して金光翔の名誉を損ねたくありません。私の恥ずかしい軽口のせいで、世のかたがたに金光翔発言の値打ちが下がれば痛恨です。そのへんの人があなたの悪口を言うよりも、「朝鮮人・×××(注・原文は実名)」が金光翔の悪口を言ったと受け止められれば多くの人はあなたの告発を取るに足らぬものだと思って安堵するでしょうし、そのことはひどい害悪をもたらすだろうと思っています。 (余談ですが、10年、15年前から、あなたが私を嫌うほど私はあなたを嫌っていません。あなたから唐突に蔑意を表した(と私が感じる)メールが来るのはそのつど衝撃でした)」 これに対して、私は、同日の11時32分に返事を送った。そこには以下のように書かれている。 「> |「暴露の結果が最小限で済むよう」配慮する意図が示されれば、 > |削除する、という意味ですか。 > > これ↑は、読んだ瞬間には理解できませんでした。 > 私が「暴露が最小限で済む」ことを取り引き材料にしようとしていると疑ってのお尋ねでしょうか? これは、そもそも謝って削除するということであれば、先に削除してから言うのが筋であろう、と考えたからです(普通はそう考えると思うのですが)。先ほど、当該記事の、貴殿の実名および関連個所は削除しましたが、これは、取引として応じたということではなく、これ以上のメールのやりとりがあまり生産的ではないと思ったからです。貴殿も、当該発言を削除しておいてください。 > あなたが取り上げた私の発言は私の本意ではありませんから、誰にもわかるように撤回するべきだと考えています。少なくとも「韓西満がしゃべっている」と思って読んでいる人には。 もちろんこれは貴殿の自由ですが、私としては「誰にもわかるように撤回」されなくても結構ですし、ツイッター上での謝罪も求めていません。 > 今日の私の悩みどころは、私の発言によって損ねられてしまった(とあなたが感じた)名誉を回復するためにはどうするべきだろうということでした。私とあなたのお互いの関係はさておき、私は、世の中に対して金光翔の名誉を損ねたくありません。私の恥ずかしい軽口のせいで、世のかたがたに金光翔発言の値打ちが下がれば痛恨です。そのへんの人があなたの悪口を言うよりも、「朝鮮人・×××」が金光翔の悪口を言ったと受け止められれば多くの人はあなたの告発を取るに足らぬものだと思って安堵するでしょうし、そのことはひどい害悪をもたらすだろうと思っています。 前述のとおり、当該ツイッターの削除以外は私は何も求めていません。そもそも貴殿が「筆致に陰険さが出ているから読んでて気分が暗くなるだろう」という感想を持ったという事実から読者が受ける印象自体は、貴殿が謝罪するにせよ、「あれは事実ではない」と今から訂正するにせよ、一般読者からすれば変りません。 また、貴殿が謝罪したので当初構想していたものとは若干表現等は異なることになると思いますが、貴殿のツイッター上での諸発言は、問題点が大変多く、社会的影響の観点から、今後も批判していかなければならないと思っています。その過程で、貴殿が反論されるならばもちろん結構ですし、その反論によって実名を改めて出すようなことはしません。」 また、この返事では、「(余談ですが、10年、15年前から、あなたが私を嫌うほど私はあなたを嫌っていません。あなたから唐突に蔑意を表した(と私が感じる)メールが来るのはそのつど衝撃でした)」という韓のメールの一節について、大学時代の韓との出来事を述べ、大学卒業後2、3年後に偶然飲み会で遭遇し、韓にその件で謝罪を求めたにもかかわらず韓が謝罪しなかったのであるから、私が韓について「不愉快に思うのは当たり前」であり、また、「私はそれほど数多く貴殿にメールを送っておらず、私の卒業後は、2005年に人権侵害法関連で二度ほど送ったきりのはずだと思います」と述べた。 これに対して、同日12時55分に韓から来たメールには、このメールを書きながら該当発言は削除した、と記されてあった。また、以下のように書かれていた。 「下記の点、真意である旨うけとってください。 別途、ツイッター上で述べる述べないにかかわらず(真意ですので)謝罪と真意を述べたいと思います。 まず大多数の読者に、金光翔の論考の値打ちを損わしめるような論評を行ったことを謝罪します。申し訳ありませんでした。 私は、金光翔ブログこそ、真っ先に誰もに読んでもらいたいものだと考えています(多くの人にそう訴えてしばしば相手にされませんが)。私の発言があなたの文章を読みたいと思わせることはあれ、あなたの値打ちを損なうものとなるのは非常に痛恨です。 |また、貴殿が謝罪したので当初構想していたものとは |若干表現等は異なることになると思いますが、 |貴殿のツイッター上での諸発言は、問題点が大変多く、 |社会的影響の観点から、今後も批判していかなければ |ならないと思っています。 了解しました。 おそらく受け入れて反省すべき指摘でしょうから、それを読む日を楽しみ…ではないけれど、歓迎します。」 また、私が挙げた飲み会については事実関係が違うとし、「双方に覚えていないことが多いのでしょう。」と書いていた。 私は同日13時34分のメールで韓に返事を送り、該当発言の削除を確認した旨を述べた。また、事実関係について、韓の記憶こそ食い違っている旨を述べた。 そして、思い出して腹が立ってきたので、13時50分に改めて韓にメールを送り、この機会に大学時代の件について謝るよう求めた。 すると、同日14時7分に韓からのメールが来た。そこには、大学時代の件については謝罪するが、「なぜ、いま、このタイミングで?という思いがあります。」とあった。 また、 「記事が復活していますね。 これは、さらに謝罪せよとメールを書くために、私にゆすぶりをかけようと復活させ たものでしょうか。 そのようなものがあろうとなかろうと、私の真意・申し上げることに変わりはありま せん。」 と書かれていた。 これに対して、私は14時42分に以下のメールを送った。 「> 記事が復活していますね。 > これは、さらに謝罪せよとメールを書くために、私にゆすぶりをかけようと復活させ > たものでしょうか。 記事は、貴殿の実名と関連個所を削除したものに差し替えています。新記事の「追記」をご参照ください。 私は、旧記事についた「はてなブックマーク」へのコメントに、「×」(注・韓の実名)の名前の引用がなされていたので、旧記事はいったん消去して、別記事(別のアドレスで)として新記事を作っています。これらは、旧記事の削除とほぼ同時(3分以内)に行なっています。「ゆすぶり」云々は心外で、以上の経過にも反しています。 誤解されているのかもしれませんが、私はメールで貴殿の実名と関連個所は削除すると書きましたが、記事を削除するとは書いていません。」 そして、9日2時26日の韓へのメールで、「なぜ、いま、このタイミングで?という思いがあります。」との発言に対して、 「貴殿が、今回の第一報のメールで、自分がなぜ金から嫌われているか分からない、ということを書かれていたのを読んで驚いた次第です。「なぜ、いま」と言いますが、既に10年前に(注・謝罪要求は)伝えているはずのことです。 また、このように貴殿とやりとりする機会がなければ、改めて謝罪を求めることもなかったでしょう。貴殿のツイッターに関しては批判する必要性を感じていましたが、ブログでも書いたように、中傷表現を見つけなければ、全面検討することもなくそのまま放置していたかもしれません。」 と書いた。 それから韓から9日11時4分に、過去の事実関係の話と、ツイッターの発言について、「中傷しようと思っていないどころか、そもそも中傷しようという欲求がないので、そうした発言をしていたことを悔いています。」と書かれたメールがあった。 それから、同日15時40分に、私が、韓の主張する事実関係の食い違いを指摘するメールを送った。その後、韓からの返事はない。 (つづく) 前回記事で批判した@unspiritualizedが、ツイッター上で反論を書いている。「金光翔はさっさと坊主頭にして出直してくるべき馬鹿野郎である。」とまで述べている。前回述べたように、@unspiritualizedは公共的な議論に必要な最低限の論理性を欠いており、こんな人物の相手をしている暇もなく、@unspiritualizedの反論と私の前回記事および関連文章を読み比べていただければ、@unspiritualizedの主張に根拠がないことは明らかであると思うので、逐一反論する気はない。ただ、私が@unspiritualizedの主張を「曲解・捏造・すりかえ」し、「デマ」を作成しているなどと主張しており、このような発言は私の社会的評価を低下させる悪質なものであるので、以下、@unspiritualizedのその点に関する主張が不当であることを示す。
@unspiritualizedは、5月2日のツイッターで、以下のように発言している。 「金光翔は僕の発言を切り貼りして印象操作し、ありもしない「馴れ合い」なるものを捏造した。」 その主張の根拠として、以下のように発言している。 「さらに、金光翔が「馴れ合い」の「醜悪さの一例」として引用している僕のツイート。「「ブログ主>金は自らの主張は「ネトウヨ」の「認識フレーム」を転換させるものだ、と主張したが… は、金さんの言う通り誤読」 ところが、このツイートには続きがあった。僕はなんと書いていたか。以下である。「・・・金さんの主張は「普通の日本人」の「認識フレーム」を本当に変えるのか。 」(※「金さん」は金明秀) つまり、だ。僕はkscykscyの読解は誤解があるが、彼の批判にもあるように、「認識フレーム」をめぐっては金明秀の論に疑問がある、と表明しているのである。「馴れ合い」どころか、たえず疑問、批判をも繰り返しているのだ。」 以上のように、@unspiritualizedは、私が、@unspiritualizedの発言を「切り貼り」することで、@unspiritualizedが金明秀を批判している事実を隠蔽し、「印象操作」して、「ありもしない「馴れ合い」なるものを捏造した」などと主張している。 だが、私の元の記事「金明秀の弁明について(上)」http://watashinim.exblog.jp/15794366/の該当箇所は、以下である。 「金明秀は、kscykscy氏の「3.金は自らの主張は「ネトウヨ」の「認識フレーム」を転換させるものだ、と主張したが、金の主張はむしろその「認識フレーム」にとどまることを積極的に主張したものである。」との指摘に対して、以下のように回答している。 「論点3。ぼくは「ネトウヨ」の「フレーム」を転換するということは論じていないつもりなのだけどね。いま自分の原稿を確認してみたが、やはり書いていない。藁人形を勝手にこしらえてぼくの名前を張り付けられても、それはぼくじゃないよ。」 https://twitter.com/#!/han_org/status/195863162929688576 この発言を受けて、@unspiritualizedも、「ブログ主>金は自らの主張は「ネトウヨ」の「認識フレーム」を転換させるものだ、と主張したが… は、金さんの言う通り誤読」などと書いている。 https://twitter.com/#!/unspiritualized/status/195879927252385792 また、金明秀の取り巻きの一人である韓東賢(この人物の発言については、以前、簡単に批判したことがある)が、@unspiritualizedのこの発言を好意的に引用(RT)している。 だが、金明秀は、争点になっている論文(エッセイ)について、以下のように発言しているのである。 「ぼくがあのエッセイで「国益」レトリックを持ち出したのは、2種類の読者に批判を込めてメッセージを届けるため。ネトウヨと共和国ナショナリストです。事実、どちらにも届きましたよ。受け入れられはしなかったけど。 @gurugurian @mujigedari posted at 17:22:51 あのエッセイで最も重要な論点は、認識のフレームを転換するような運動が必要だということ。「朝鮮学校は日本の国益につながる」というのは、その手段となるレトリックの事例として取り上げたもの。 @gurugurian @mujigedari posted at 17:24:58 ぼくが試行錯誤して見つけた中では、「朝鮮学校は日本の国益になる」というレトリックがネトウヨの認識フレームを揺るがす効果を持っているというだけの話。手段として有効な別のレトリックがあるなら、それを使えばいい。 @gurugurian @mujigedari posted at 17:28:52 もともと、日本人読者のうち、「国益」レトリックの適用自体に違和感を覚えるような方や、損得抜きに同じ住民だという実感を持っている方は、あのエッセイの直接の想定読者ではありませんでした。 @unspiritualized posted at 22:39:47 ぼくがあのエッセイに込めたメタメッセージの一つは、「マジョリティである自覚を持て」というものでした。根拠のない不安によってスケープゴートを不法に排除したり、踏み絵を踏ませたりする特権を持つ立場だと。(続く) @unspiritualized posted at 22:58:56 そのために、使用する用語も、分析視角も、意図的にマジョリティ目線をたどったつもりです。日本人の特権性をマジョリティ目線で可視化するという拙い意図が成功したかどうか、まあ怪しいところではありますが。 @unspiritualized posted at 23:02:20」 これらの発言から解釈すれば、金明秀が自身の論文(エッセイ)について、kscykscy氏の記述通り、「金は自らの主張は「ネトウヨ」の「認識フレーム」 を転換させるものだ、と主張」しているとしか言いようがないのであって、「ぼくは「ネトウヨ」の「フレーム」を転換するということは論じていないつもりなのだけどね。いま自分の原稿を確認してみたが、やはり書いていない。藁人形を勝手にこしらえてぼくの名前を張り付けられても、それはぼくじゃないよ。」な どという金明秀の反論が、単なるハッタリでしかなく、どれほど厚顔無恥なものであるかは明白であろう。また、同時に、こうした金明秀の反論を擁護するその取り巻きたちが、どれほど程度の低い人物であるかも明らかであろう。」 このように、ここで争点となっているのは、kscykscy氏に対する金明秀の「ぼくは「ネトウヨ」の「フレーム」を転換するということは論じていないつもりなのだけどね。いま自分の原稿を確認してみたが、やはり書いていない。藁人形を勝手にこしらえてぼくの名前を張り付けられても、それはぼくじゃないよ。」という主張の真実性である。その主張が明らかに虚偽であるにもかかわらず、@unspiritualizedが何らの根拠も挙げないまま、「金さんの言う通り誤読」などと金明秀の主張を追認していることを指して、「金明秀と日本人馬鹿左翼の馴れ合い」の「醜悪さの一例」だとしているのである。問題は、金明秀の主張を是認するかどうかなのであるから、「ブログ主>金は自らの主張は「ネトウヨ」の「認識フレーム」を転換させるものだ、と主張したが… は、金さんの言う通り誤読だが、問題の本質としては、「ネトウヨ」ではなく「普通の日本人」なのだではないだろうか。つまり金さんの主張は「普通の日本人」の「認識フレーム」を本当に変えるのか。」という発言のうち、「「ブログ主>金は自らの主張は「ネトウヨ」の「認識フレーム」を転換させるものだ、と主張したが… は、金さんの言う通り誤読」という箇所のみを引用し、後の部分を省略することは何ら問題がない。 また、元記事から明らかなように、私はこの箇所の引用のすぐ下に、該当発言のURLを明記しているのである。私が省略した部分を隠蔽して「印象操作」したかったのだとすれば、わざわざURLを貼る理由が分からないではないか。@unspiritualizedこそが、私が発言を部分的に引用したことに関して歪曲して報じて、私が発言を「捏造」し、「デマ」を作成した、などと「印象操作」しているのである。 また、後述するように、そもそも元記事の「金明秀の弁明について(下)」において、@unspiritualizedの金明秀への批判的な発言は@unspiritualizedの発言として金明秀の発言の引用中に出てきているのである。私が@unspiritualizedによる金明秀への批判的な発言を隠蔽して「馴れ合い」を捏造した、などというのは言いがかりとしか言いようがない。 @unspiritualizedは、この他にも、自分は金明秀とは「馴れ合い」の関係ではない、と繰り返し主張し、私が「馴れ合い」なるものを「捏造」した、と主張している。 例えば、以下のように反論している。 「次に、「…被害者面しているが、前の記事でも指摘したように、@unspiritualizedは一貫して、金明秀とkscykscy氏とのやりとりにおいて、金明秀の主張に理があるという立場をとっており、」の箇所。http://t.co/L0GgqFVM これも事実に反する。僕は、「一貫して」、両者に正しさがあると述べている。 http://t.co/6p36Cs0M」 だが、「両者に正しさがある」ならば、金明秀にも正しさがある、と主張していることを意味するから、「一貫して、金明秀とkscykscy氏とのやりとりにおいて、金明秀の主張に理があるという立場をとっており」という私の発言は真実である。なぜこれが「事実に反する」ことになるのかさっぱり分からない。私はこんな次元の人物を相手にしているのである。実際には、Kscykscy氏と金明秀との論争において、金明秀に理は一つもない。 また、@unspiritualizedは以下のように発言している。 「ついでに、金光翔が罵倒する「金明秀と日本人馬鹿左翼の馴れ合いの典型例」http://watashinim.exblog.jp/15794366/ について事実関係を検証してみよう。 追加:金光翔は僕について、「前に金明秀がkscykscy氏に批判された時も、この人物が沸いてきて、金明秀に理があるかのごとき主張を行なっていた。」とも罵倒している。 事実は、僕は最初から「在日が「国益」になる/ならないという判断の下に置かれるということは、いつでも恣意的に”ならない”に振り捨てられるということでもあり、「認識フレームを転換する」ことにはならないのでは。」と、金明秀の論文の根幹について批判している。 それについて、金明秀は真摯に応えてきた。ただ、僕は一貫して「たとえリアリズムであれそこに分割線を引くことに抵抗がある」「問いが「国益」か否かという二択となっていることが、はたしてどうなのか」等、抵抗感を表明している。 その上で、金明秀の説明に納得した。マジョリティー(日本人)として、かくあるべきという理念を優先させるべきだという考えは、いままさに被害を受けているマイノリティー(「現実に犠牲となっている人々」)からすればおかしいものではないか、という点に気付かされたからだ。 その上で、「今後10年〜、日本はいっそう海外の労働力を必要とするでしょう。その時、おのずから排外主義は「益」でなくなっていく。しかし、それでいいのか?ということを、少なくとも思想としては考えねばなりません。」と、大きな宿題があることを提示した。 いったいぜんたい、これのどこが、「「金明秀と日本人馬鹿左翼の馴れ合いの典型例」なのか。どこが「この人物が沸いてきて、金明秀に理があるかのごとき主張を行なって」いるというのか。事実無根の言いがかりであるという他はない。」 このように、@unspiritualizedは、「事実」としては自分はこのように主張しているとして、あたかも私が「馴れ合い」だと主張したいがために@unspiritualizedの批判的発言を隠蔽しているかのように書いているが、前述のように、そもそも元記事の「金明秀の弁明について(下)」において、@unspiritualizedがここで反証として挙げている全ての発言「在日が「国益」になる/ならないという判断の下に置かれるということは、いつでも恣意的に”ならない”に振り捨てられるということでもあり、「認識フレームを転換する」ことにはならないのでは。」「たとえリアリズムであれそこに分割線を引くことに抵抗がある」「問いが「国益」か否かという二択となっていることが、はたしてどうなのか」「今後10年〜、日本はいっそう海外の労働力を必要とするでしょう。その時、おのずから排外主義は「益」でなくなっていく。しかし、それでいいのか?ということを、少なくとも思想としては考えねばなりません。」は、@unspiritualizedの発言として金明秀の発言の引用中に出てきているのである。私に隠蔽の意図があろうはずがない。 そして、@unspiritualizedは、同じ1月9日に、以下のような発言をも行なっているのである。 「RT @unspiritualized: @han_org ご教示感謝します。リアリズムとしてマジョリティの認識フレームを変えるために「国益」を全面に出すべきとのこと、「現状でやれること」としてはその通りだと思い、賛成します。ただ、僕を含め、疑問を持ったひとは、「理詰め」というよりパトスとして違和感を持っているのでは。」 http://twilog.org/han_org/date-120109/asc つまり、金明秀の説明に「納得」したらしいことも合わせて考えれば、ここで@unspiritualizedは、kscykscy氏らの批判よりも、金明秀の主張の方が論理上は正しいことを実質的に認めている。言うまでもないが、kscykscy氏はまさに金明秀の主張の論理こそを問題にしている。これまでの記事で指摘したように、金明秀は、kscykscy氏の批判に対してほとんどまともな反論を行なっていないにもかかわらず、@unspiritualizedは、理屈の上では金明秀の方が正しいと実質的に判定しているのである。 この発言に象徴されるような@unspiritualizedの振る舞いをさして、私は、「前に金明秀がkscykscy氏に批判された時も、この人物が沸いてきて、金明秀に理があるかのごとき主張を行なっていた。」と述べているのであり、上の記述通り、私のこの主張の内容は真実である。 @unspiritualizedは、自分は金明秀を批判しているから「馴れ合い」の関係ではないと主張しているが、その批判は金明秀による愚にもつかない説明によって「納得」してしまう程度の底の浅い「批判」であり、その批判も本質的なものではなく、また、kscykscy氏が提起している争点にまともに触れない金明秀に対して、それに答えるよう促してもいない。しかも、論争において、何ら理のない金明秀があたかも理があるかの主張を行なっている。このような関係性は「馴れ合い」と言うほかない。 もちろん@unspiritualizedが、「馴れ合い」ではないと主張することは個人の勝手である。だが、上で見たように、「馴れ合い」とする相当の根拠があるのであって、「馴れ合い」との主張を「捏造」ということはできない。 また、批判があること自体が「馴れ合い」ではないことを意味しないし、私も元記事で@unspiritualizedによる金明秀への「批判」を掲載している以上、@unspiritualizedの批判を隠蔽して「馴れ合い」を「捏造」しようとした意図があったはずもない。この点からも「馴れ合い」との主張は「捏造」とは言えない。 以上より、私が@unspiritualizedの主張を「曲解・捏造・すりかえ」し、「デマ」を作成しているなどという主張は虚偽であり、それ自体が「デマ」であると言える。@unspiritualizedに、この主張の発言を削除し、ツイッター上でこの件に関して私に謝罪することを求める。 私は金明秀に関して、「議論に関して負けを認めず、無限に「反論」を繰り返して、自分は負けていないという姿勢を崩そうとしない人間が多数存在することを、インターネットが普及して以来、われわれは知るに至っているが、金明秀はその典型例であるように見える」と書いたが、この@unspiritualizedという人物もまたその典型例であるようである。こうした人々の「馴れ合い」によって醸し出される空間から、在日朝鮮人の人権を擁護する言論は手を切らねばならないだろう。 記事「金明秀の弁明について」で名前を挙げた@unspiritualizedが、私の前回記事に関して発言している。後に示すように、@unspiritualizedは、公共的な議論に必要な最低限の論理性を欠いており、通常ならばこのような人物が何を書こうと私も放置するのであるが、これも前回名前を挙げた@h_hyoneeこと韓東賢がこれらの発言を肯定的に引用(RT)しているので、取り上げておく。
@unspiritualizedは4月30日にツイッターで、以下のように発言している。 「私にも話させて 「金明秀の弁明について」 http://t.co/4waZ8MXm 僕は「教養俗物系馬鹿ツイッター」「日本人馬鹿左翼」とボコボコ。好きな書き手なだけに、グサッと刺さった。この傷と痛みは心に刻んだままにする。 以下、僕が金光翔さん宛に書いたメールより、抜粋。 金明秀さん、kscykscyさんと金光翔さん、それぞれが正しいことを言っておられると、私は考えています。もちろん、それぞれの差異を覆い隠してチャンチャンにしようというつもりはありません。それぞれが正しいからこそ、分断が惜しい。以下、それについて述べます。(続く) (ブログエントリー「下」について)あなたは、「分断、孤立化の道を選択」という金明秀さんの言を、彼の”取り巻き”の中で「分断、孤立化」するぞという主張ととらえておられるようですが、それは誤読でしょう。(続く) 彼が言っているのは、kscykscyさんの主張のまま進めば、”日本社会”そして”在日コリアン社会”において「分断、孤立化」してしまうということだと思います。その「道を選択」するのか、と。(続く) ここに現状認識のズレがあります。私も議論してはじめて気付きました。私は金明秀さんの論を読み、最初にツイートしたように、「これではマジョリティーがマイノリティーを役に立つかどうかという損得で恣意的に支配することを意味しないか」と考えました。いまもそのことは問題視しています。(続く) しかし、金明秀さんは、それも踏まえてあえてあのように書かざるを得ないし、書くべきだとしている。なぜなら、私のような原理主義的正義(とあえて言います)では、もはや現状を変えることはできない、そういう冷徹な認識に基づいているのでしょう。(続く) これは彼が関西在住(私もです)ということも考えに影響しているのかなと推測しています。橋下のポピュリズムに対して、原理主義的正義は有意な抵抗ができていない現状がある。(続く) 朝鮮学校への日本政府の差別は不当です。そして「共和国ナショナリズム」にだって義はあるでしょう。しかし、それぞれの義を主張しても、おそるべきことに、いまの日本社会には通じない。もちろんこのような現状そのものが異常だと言えますが、それを糾弾するばかりでは何も動かない。(続く) そういう時代だ。金明秀さんは、おそらくはこのような事態を在日コリアンの内側から打開していくために、一種の「転回」(「転向」ではない、断じて)を決行したのではないか。それが私のいまの考えです。(続く) こうした「転回」に対して内側から批判が起きるのはむしろ当然です。言ってみれば、原理的な正しさを放棄して実利に走ろうというのですから。その批判にも正しさがある。しかしその「正しさ」では「分断、孤立化」しかしない、と金明秀さんは考えているのでしょう。ゆえにこちらもまた正しい。(続く) この二つの正しさの分断は、まぎれもなく、「普通の日本人」に責任がある・・・というのが、私からの金明秀さんとkscykscyさんへの答えでした(お暇があれば、ツイート履歴をご覧ください)。(続く) いたたまれないのは、この分断が、かつての親日派への批判と相似してはいないか、ということです。その意味もあり、徐勝さんの批判がそのまま金明秀さんにあてはまるという意見については、私は反対です。(続く) ただし、金明秀さんは、kscykscyさんの批判に対し「現状認識が遅れている」という考えを(恐らく)持ってしまっている。それでは内側から事態を動かすことは難しいし、それ自体が「分断」を生み、結果統一的な打開の行動に踏み出せず「孤立化」を促進しはしないかという恐れすらある。(続く) 個別の論点については、朝鮮学校や総連とかかわりのない私には論及できませんし、その資格もありません。(続く) ただ、問題の本質について、最低ラインの交点はどこなのかだけでも、いま議論の上で一致させておく必要があるのではないか。金明秀さん、kscykscyさんと金光翔さんにはそれができると思います。(了)」 まず、私が記事で問題にしたのは、金明秀の弁明が支離滅裂な点である。金明秀の主張の内容に関する議論は、kscykscy氏とのやりとりでなされているものである。したがって、金明秀の主張にも理がある、などというこの@unspiritualizedによる弁護は、論点のスリカエ以外の何者でもない。私の記事に対して反論するならば、私が具体的に挙げた金明秀の発言の矛盾点について述べるべきであろう。 しかも、私が挙げた矛盾点の一つは、kscykscy氏が「誤読」しているなどと、@unspiritualized自身が主張していたものであり、私はそれが「誤読」とは到底言えない根拠を示したのであるから、@unspiritualizedはこの件について発言を撤回するか、私に反論すべきであろう。ところが@unspiritualizedはこの点については沈黙している。これは極めて無責任な態度である。 また、上の引用中で、@unspiritualizedは、「(ブログエントリー「下」について)あなたは、「分断、孤立化の道を選択」という金明秀さんの言を、彼の”取り巻き”の中で「分断、孤立化」するぞという主張ととらえておられるようですが、それは誤読でしょう。彼が言っているのは、kscykscyさんの主張のまま進めば、”日本社会”そして”在日コリアン社会”において「分断、孤立化」してしまうということだと思います。その「道を選択」するのか、と。」と述べているが、私は「誤読」などしていない。ここでは、@unspiritualizedの論理性の欠如が端的に表れている。 私が書いた該当箇所を引用しておこう。私は以下のように書いた。 「金明秀は、kscykscy氏に対して、「「日朝国交「正常化」と植民地支配責任」氏は、この問題を論争にするつもりということなんだろうか。刊行から半年もたっての反論ということは、迷った挙句にそう決意したという解釈でいいんだろうか。分断、孤立化の道を選択したということでいいんだろうかね。」などと発言しているが、逆に言えば、自分の周囲の界隈の影響力を過大視しているということでもある。その種の連中など、何人集まろうと下らないことしか言っていないのだから影響力も意味も全くないと思うのだが、金明秀の中では大きな意味を持っているように思われる。」 このように、私は、「彼の”取り巻き”の中で「分断、孤立化」するぞという主張」などとは捉えていない。私が書いているのは、金明秀が「自分の周囲の界隈の影響力を過大視している」ということである。金明秀は、自分の主張に共鳴する人々(その筆頭が「自分の周囲の界隈」)が在日朝鮮人やその支援者においては多数派のはずだ、と主張している、と私は述べているのである(そして、そんなことはないと私は主張しているのである)。@unspiritualizedは、金明秀は実際には「”日本社会”そして”在日コリアン社会”において「分断、孤立化」してしまう」と主張しているのだ、と私の「誤読」を指摘したつもりになっているが、そんなことは初めから分かり切ったことではないか。@unspiritualizedこそが私の発言を誤読しているのである。 @unspiritualizedは、「僕は「教養俗物系馬鹿ツイッター」「日本人馬鹿左翼」とボコボコ。好きな書き手なだけに、グサッと刺さった。この傷と痛みは心に刻んだままにする。」などと被害者面しているが、前の記事でも指摘したように、@unspiritualizedは一貫して、金明秀とkscykscy氏とのやりとりにおいて、金明秀の主張に理があるという立場をとっており、また、kscykscy氏に対して、「「金明秀氏の筆者に対する不当な非難への抗議」 ←あなた、応答性を過剰に要求しすぎ。金さんは第三者の僕にすら真摯に応えている。少なくともメール公開するか、コメント欄を開けるか、twitterアカウントを取るべき。議論しましょう。」などと発言している。 https://twitter.com/#!/unspiritualized/statuses/194415911527120896 不当な非難に対して、kscykscy氏が抗議するのは当然の権利であるにもかかわらず、この人物はそれに対して「応答性を過剰に要求しすぎ」だなどと主張しているのだ。何様のつもりなのか。なぜこの人物がkscykscy氏にメール公開等の要求をしているのかも意味不明である。kscykscy氏の所論に異議があるならば、公的に批判・反論すればよいだけの話である。「弱者」「被害者」ぶっているが、この人物の傲慢さには驚くべきものがある。 また、上の引用中、以下の発言(金明秀の主張にも理がある、という主張)は、@unspiritualizedがどれほどこの論争をまともに読んでいないかをよく示している。「私のような原理主義的正義(とあえて言います)では、もはや現状を変えることはできない、そういう冷徹な認識に基づいているのでしょう。これは彼が関西在住(私もです)ということも考えに影響しているのかなと推測しています。橋下のポピュリズムに対して、原理主義的正義は有意な抵抗ができていない現状がある。朝鮮学校への日本政府の差別は不当です。そして「共和国ナショナリズム」にだって義はあるでしょう。しかし、それぞれの義を主張しても、おそるべきことに、いまの日本社会には通じない。もちろんこのような現状そのものが異常だと言えますが、それを糾弾するばかりでは何も動かない。そういう時代だ。金明秀さんは、おそらくはこのような事態を在日コリアンの内側から打開していくために、一種の「転回」(「転向」ではない、断じて)を決行したのではないか。それが私のいまの考えです。」 だが、これでは話が振り出しに戻ってしまうのである。そもそもkscykscy氏は、この件に関する金明秀批判の第一弾(「金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」)で、以下のように書いているのだから(強調は引用者)。 「何より、「日本の国益につながっている」などという理屈は事実に反する上、これまで日本政府の弾圧政策にも屈せず民族教育を継続し、担ってきた在日朝鮮人一人ひとりの歴史と尊厳を毀損するものである。金明秀氏のいうように「朝鮮学校は日本の国益につながっている」という理屈を用いて仮に「無償化」適用となったとしても、私は、その後永久に朝鮮学校は「日本の国益」という鎖につながれ、また、数多くの在日朝鮮人の尊厳を傷つけることにより、金銭ではあがないきれないほどの大きな「損害」を蒙ることになるのではないかと考える。 ただ、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」というレトリックはおそらく「有効」ですらない。金明秀氏は「有効な打撃」を与えうると主張しているが、実際にはむしろ逆の効果しか生まないことは明らかだ。そもそも、「日本の国益」という言葉は、その性質上日本政府あるいは日本人マジョリティに独占的な解釈権がある。一度「朝鮮学校は日本の国益につながっている」などというレトリックを用いたが最後、今般の情勢をみればわかるように、政府や自治体、マスコミ、右翼、ネットイナゴが朝鮮学校に押し寄せて「日本の国益」に反する「事実」を無限に挙げ続けるだろう。これに反論するのは困難である。何より金明秀氏自身が認めているように、「この種のデマは事実に基づいて形成されるのでなく、情動的側面が強いため、反証する事実を示すだけでは修正されにくい。しかも、「反日教育」というあいまいで都合のよいマジックワードが、あらゆる反論を無効化してしまう」からである。よって有効ですらない。」 http://kscykscy.exblog.jp/17567948/ つまり、本来ならば、金明秀がこのkscykscy氏の指摘に対して、具体的に反論すべきであるにもかかわらず、それを行なわずにごまかしているのである。ところが、@unspiritualizedは、金明秀の不作為には触れないまま、何事もなかったかのように話を振り出しに戻しているのである。こんな人物とどうやって議論すればよいのだろうか。 「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と主張すべきという金明秀の見解が仮に朝鮮学校で支持されるような事態になれば(ならないであろうが)、朝鮮学校やそれを支える陣営は、kscykscy氏が示唆するように、内部崩壊するだろう。だいたい、自分から日本の「国益」になると言い張る朝鮮学校に、高い金を払って子供を通わせる朝鮮人がどれくらい現れるというのか。そんな卑屈な姿勢の教育機関で、どうやって日本社会で生きていける朝鮮人が育てられるのか。今回の一件で浮かび上がったのは、金明秀らの徹底的な無責任さである。 @unspiritualizedの「ただ、問題の本質について、最低ラインの交点はどこなのかだけでも、いま議論の上で一致させておく必要があるのではないか。金明秀さん、kscykscyさんと金光翔さんにはそれができると思います。」という発言に至っては、ほとんど言うべき言葉もない。上で私が示したような、この人物の徹底した論理性の欠如、傲慢さ、独善性、明らかに自分の手に負えない問題に関して無謀にも仕切ろうとするその非常識さは、「日本人馬鹿左翼」として切り捨てざるを得ないものであり、本来まともに相手ができる人物ではない。 こんな人物の発言を嬉々として引用(RT)する韓東賢の姿勢にも失笑せざるを得ない。自分の仲間(金明秀)を擁護したい気持ちは分かるが、だとすればもう少しましなやり方でやってあげないと、金明秀にとって却って迷惑ではないのか。
(補注)
岩波書店の縁故採用問題に関して、金明秀は、2012年2月3日のツイッターにおいて以下のように発言している。 http://twilog.org/han_org/date-120203/asc 「岩波の採用条件だけど、あれって、http://watashinim.exblog.jp/ が原因の一つなんだろうなあ。なんというか、何重にも残念というかね。 posted at 02:06:17 どうしてですか? RT @pochi_go: え、こうしたことが理由のひとつなら、コネ採用に対する感想もちょっと違ってくるんだけど…; RT @han_org: 岩波の採用条件| posted at 07:50:31 誤解があるようだと本意ではないので補足説明しておきます。岩波は、採用に当たって公平性よりも、(岩波的な)文化資本と(岩波との)社会関係資本を重視するという公表したわけです。身分制社会ではあるまいし、それは責任ある企業のとるべき態度ではありません。 posted at 08:00:10 加えて、もし、金光翔氏に対する労使をあげてのバッシングが採用方針の背景にあるとすれば、自立した個人の言論よりも組織で波風を立てない同調性を重視していることを意味します。それは、出版社としては存立にかかわる閉鎖性だといっていいでしょう。 posted at 08:08:32 岩波は、実態はともかく、学術と言論を通じて民主主義に寄与するといったリベラルなイメージをもっています。それが、平等で公平な採用ではなく、応募者を特定の階層性と文化性に制約する縁故採用を行うという時点で残念だし、ましてやその理由の一部が社員の言論抑制だとすれば相当にガッカリです。 posted at 08:16:23 本日第一の業務終了! しんどかった。 posted at 15:21:35 まさに。 RT @pochi_go: |岩波も組織である以上、「適性」には主張・信条といったものも含まれてくるのだよな…と、この事件を知る前には気づきませんでした。岩波書店にはリベラルなイメージがあり、好感を持っていたので、そうした点もとても残念だったです。 posted at 15:26:06 RT @pochi_go: @han_org このニュースを聞いた時、出版がちと特殊な業界であることと、私自身がそこに近い所にいたこと、自分のTLで起こっていること(まさに出版社絡み)に対する苛立ちがあり、「適性のありそうな人をあらかじめ選別するのは、そう悪し様に言うことでもないのじゃないか」と思いました。 posted at 15:27:03 RT @pochi_go: @han_org 公明正大に募集、と言っても、結局選別されるのだし、あらかじめ選別の条件が明示されるのなら、応募者にも良いのでは、とも思いましたが、「その条件が仕事をする上での」「能力」「適性」というシンプルなものではないのなら、先の感想は違ったものになります。 posted at 15:27:07 RT @pochi_go: @han_org しかし考えてみれば、岩波も組織である以上、「適性」には主張・信条といったものも含まれてくるのだよな…と、この事件を知る前には気づきませんでした。岩波書店にはリベラルなイメージがあり、好感を持っていたので、そうした点もとても残念だったです。 posted at 15:27:10 岩波も民間企業である以上、組織文化に適合的な人物を採用するのはある意味で当然ともいえますが、申請時点でシャットアウトというのは公正ではないですね。ましてや、その選別方法が「いちげんさんお断り」というのは、どうもね。 posted at 15:31:24」 こうした諸発言からすれば、金明秀は、岩波書店の縁故採用の件でまともな言論を展開しており、私への「労使をあげてのバッシング」にも言及している点で、私にとってみれば「良心的」に振る舞ってくれているように見えるだろう。実際に私は、金明秀のこうした発言を評価している。ただ、一応、この件に関しては以下のような経緯があったことを付言しておく。 金明秀の一連の岩波批判と私を擁護するかのような発言は、実は、私の金明秀あてのメールが契機となっている。 上で引用した発言のうち、一番最初の発言「岩波の採用条件だけど、あれって、http://watashinim.exblog.jp/ が原因の一つなんだろうなあ。なんというか、何重にも残念というかね。」を見て、私は激怒し、2月3日7時32分に、金明秀に以下のメールを送った。 「金明秀殿 金光翔です。 貴殿はツイッター上で、以下のように発言されています。 「岩波の採用条件だけど、あれって、http://watashinim.exblog.jp/ が原因の一つなんだろうなあ。なんというか、何重にも残念というかね。」 https://twitter.com/#!/han_org/status/165118856992534528 この発言は、一般読者の普通の注意と読み方に従えば、岩波書店の今回の「縁故採用」の原因が金のブログにあり、その点で情状酌量されるべきである、という意味合いのものとして読まれると思います。私はそのように読みましたし、実際、貴殿のこの発言に対して、 「え、こうしたことが理由のひとつなら、コネ採用に対する感想もちょっと違ってくるんだけど…; RT @han_org:岩波の採用条件だけど、あれって、http://watashinim.exblog.jp/ が原因の一つなんだろうなあ。なんというか、何重にも残念というかね。」 https://twitter.com/#!/pochi_go/status/165125295140122625 「あー、複雑な背景があるのかしら。とても追いきれないが。」 https://twitter.com/#!/han_org/status/165118856992534528 と、私のブログとの関係で岩波書店を情状酌量するかのごとき発言が出てきています。そのような主張は、私の受け入れるところではありません。 私の件を今回の岩波の措置と関連付ける見方は、以下でもなされていますが、 http://togetter.com/li/250004 ここでは、当然のことながら、今回の岩波の措置の問題性は、私の件とは無関係で判断され、厳しく批判されています。 仮に貴殿が、上の2つのツイッター発言の理解のように、私のブログとの関係で岩波書店を情状酌量するとの趣旨で発言されたのならば結構ですが、もしそうではなく、私の件とは無関係に岩波の今回の措置は批判されるべきものであると認識されているならば、上の2つのツイッター発言は貴殿の趣旨を「誤解」しているということになります。したがって、もし貴殿の発言の趣旨が後者ならば、私のブログとは無関係に、岩波書店の今回の措置は批判されるべきであり、私のブログがあるからといって正当化されるわけではないと考えていること、上の2つのツイッター発言の理解は「誤解」であることを意味する内容の発言を、貴殿のツイッター上で、早急に行なうことを求めます。」 私のこのメールに対して、金明秀から、自分の発言から「縁故採用が「情状酌量されるべき」であるという発想が可能になるとは思ってもい」なかった、補足説明をしておいた、との回答を貰った。その補足説明が、上の引用中の、7時50分以降の発言であると思われる。 私もこうした金明秀の姿勢――本心からの誠実さか、言質をとられることを恐れての豹変かはさておき――を受けて、今度批判する時は少し優しくしようかな、などとも思ったが、kscykscy氏への態度があまりにも酷いものであり、こうした態度が容認されるのは社会的に有害であり、また、金明秀の弁明態度は「厚顔無恥」という表現以外に適当な言葉が見つからないので、その種の配慮はやめることにした。 3.
kscykscy氏の前回の批判に対する、金明秀の反論も奇妙なものである。2012年1月9日の発言から引用する。 http://twilog.org/han_org/date-120109/asc 「あー、やっぱり来たか。読みたくないなあ。 RT @mujigedari: そもそも「国益」という概念を否定するしか道はないと思う。 / “日朝国交「正常化」と植民地支配責任 : 金明秀「リスク社会における新たな運動課題|」批判” http://htn.to/7hHqCe posted at 12:26:09 いくつかイジワルな読み方もしてはるけど、全体的にオーソドックスな批判。この正論があってはじめてぼくの主張が生きてくる。 http://kscykscy.exblog.jp/17567948/ posted at 13:09:13 ただ、あのエッセイの最も重要な論点は、「認識フレームを転換するような運動が必要だ」ということなのだけど、そこだけはすっぽりと議論から抜け落ちてるな。論点を理解できなかったか、理解したうえで議論を避けたか。 http://kscykscy.exblog.jp/17567948/ posted at 13:13:38 ただ、この正論の中で、ぼくがどうしても好きになれないのは、「福岡安則氏が用いて人口に膾炙して以来、心ある在日朝鮮人を苛立たせ続けている「祖国志向」云々のレッテル貼り」って部分だな。 http://kscykscy.exblog.jp/17567948/ posted at 13:31:05 最終的にこの論争はかならず「在日にとっての(メタ)ナショナリズム」という争点に帰着する。そのとき、「祖国志向」は重要な鍵概念となる。付与されたカテゴリーを否定するのはいいが、自分の立ち位置までボカすのは誠実な態度とは言えないだろう。 http://ow.ly/8mmya posted at 13:37:11 「祖国志向」というカテゴリーを否定しようとする人たちには、こちらにもコメントをいただきたいところだ。 / 「だからと言って北朝鮮支持では無い」をめぐって http://togetter.com/li/141916 posted at 13:41:38 「日朝国交「正常化」と植民地支配責任」氏は、この問題を論争にするつもりということなんだろうか。刊行から半年もたっての反論ということは、迷った挙句にそう決意したという解釈でいいんだろうか。分断、孤立化の道を選択したということでいいんだろうかね。 posted at 16:25:38 総連問題という切り口であればいくらでもやりあう準備があるけど、朝鮮学校問題では子どもたちがとばっちりを受けるわけでね。ぼくは、容易には論争化に踏み出す気持ちになれないな。 posted at 16:29:14 決めた。少なくとも無償化問題に何らかの回答が出るまで、このケンカは買わない。ただし、「在日の(メタ)ナショナリズム」という論点を避けながら、誤読を修正する努力だけはさせていただこう。 posted at 16:59:48 論点としてはこちらがよく似ている。 / ジェンダーフリー&バックラッシュ騒動まとめ - 2-5-2 「ジェンダーフリー=男女同室着替え」の構築 #atwiki http://www12.atwiki.jp/seijotcp/pages/30.html posted at 17:17:46 ぼくがあのエッセイで「国益」レトリックを持ち出したのは、2種類の読者に批判を込めてメッセージを届けるため。ネトウヨと共和国ナショナリストです。事実、どちらにも届きましたよ。受け入れられはしなかったけど。 @gurugurian @mujigedari posted at 17:22:51 あのエッセイで最も重要な論点は、認識のフレームを転換するような運動が必要だということ。「朝鮮学校は日本の国益につながる」というのは、その手段となるレトリックの事例として取り上げたもの。 @gurugurian @mujigedari posted at 17:24:58 ぼくが試行錯誤して見つけた中では、「朝鮮学校は日本の国益になる」というレトリックがネトウヨの認識フレームを揺るがす効果を持っているというだけの話。手段として有効な別のレトリックがあるなら、それを使えばいい。 @gurugurian @mujigedari posted at 17:28:52 にもかかわらず、あのエッセイの主たる論点を「国益」論だとみなしたのは、いずれもナショナリストたちですよ。確かに、ぼくは日本のナショナリストも共和国のナショナリストも、頭を冷やしてみろというメッセージは込めましたので、正当な反応かも。 @gurugurian @mujigedari posted at 17:33:14 「国益」かどうかはどうでもいいのだけど、ようは「その社会へのマイノリティの貢献」を取り上げることがマイノリティの地位向上に寄与する現実があるというのがあのエッセイの背後にある実証的な背景です。日本だけが例外という根拠はない。 @gurugurian @mujigedari posted at 17:38:55 いい質問です。 RT @unspiritualized: |お気持ちはよく分かるのですが、在日が「国益」になる/ならないという判断の下に置かれるということは、いつでも恣意的に”ならない”に振り捨てられるということでもあり、「認識フレームを転換する」ことにはならないのでは。 posted at 21:20:47 3つの観点からお答えします。一つは、外国籍住民はつねに/すでに「国益になる/ならない」という判断にされされてきたということ。在日の場合、恣意的に「国益にならない」と規定されてきたのはデフォルトです。ならば、それを前提に戦略を立てるべきだという話。 @unspiritualized posted at 21:25:59 もう一つは、短期的な運動課題と中長期的な運動課題とを弁別すべきだということ。ナショナリズムを超克する制度の創出によって問題を根本的に解消するという理想も数十年スパンの課題として考えるべきでしょう。でも、現状でやれることも推進すべきです。 @unspiritualized posted at 21:31:46 最後に、運動のターゲットの問題。「フレームを転換する」というとき、国家による外国人政策のフレームも問題となりますが、個々のマジョリティの認識フレームも同様に重要です。前者は法律を盾に改善を迫ることもできますが、後者は理詰めだけでは動きません。 @unspiritualized posted at 21:38:24 RT @unspiritualized: @han_org 日本史を学べば、外から来てくれたひとびととその学識が、日本を豊かにしてくれたことは明白であり、誇りでもあります。それを得だったか損だったかで割ることはできない。すでにそれは「私」の前提条件なのです。たとえリアリズムであれそこに分割線を引くことに抵抗があるのです。 posted at 22:34:02 抵抗感を覚えたと言っていただけるのは、ありがたく思います。少し迷いましたが、ぼくも正直に返答したいと思います。 @unspiritualized posted at 22:37:16 もともと、日本人読者のうち、「国益」レトリックの適用自体に違和感を覚えるような方や、損得抜きに同じ住民だという実感を持っている方は、あのエッセイの直接の想定読者ではありませんでした。 @unspiritualized posted at 22:39:47 RT @unspiritualized: @han_org もちろん、このように言ったとて、リアリズムとしては在日は差別されている。誠に残念ながら、日本人のパトスは現在、歪んでおり、無効です。これを是正することは私たちの責務。その時の問いが「国益」か否かという二択となっていることが、はたしてどうなのか。そう思ってしまう。 posted at 22:40:28 もう少し待ったほうがいいかな。 posted at 22:40:46 ただし、「国益」レトリックに次のようなメタメッセージは込めました。(1)朝鮮学校の生徒たちは《国家の敵》として人権侵害にあっている。(2)在日は《国家の敵》でないことを主張せざるをえないところに追い込まれている。その不正義を許容できるのか。 @unspiritualized posted at 22:45:08 民族関係について、ナショナリズムを経由しない問題解決のパトス(とエートス)を発見しなければならないという問題意識そのものはぼくも共有しています。一方、戦後の日本においてその可能性を期待させるような事象をぼくは観察したことがありません。 @unspiritualized posted at 22:49:56 RT @unspiritualized: @han_org (1)(2)どちらについても日本国による人権侵害であると考えます。しかし、これらのマターが「国益」にそぐうか否かという問題設定で、マジョリティは変わるのでしょうか? posted at 22:54:25 エッセイにも書いたとおり、「その移民集団が当該社会の利益になっている」という理解は、多くの国で排外意識を引き下げているという証拠があります。また(続く) @unspiritualized posted at 22:56:03 ぼくがあのエッセイに込めたメタメッセージの一つは、「マジョリティである自覚を持て」というものでした。根拠のない不安によってスケープゴートを不法に排除したり、踏み絵を踏ませたりする特権を持つ立場だと。(続く) @unspiritualized posted at 22:58:56 そのために、使用する用語も、分析視角も、意図的にマジョリティ目線をたどったつもりです。日本人の特権性をマジョリティ目線で可視化するという拙い意図が成功したかどうか、まあ怪しいところではありますが。 @unspiritualized posted at 23:02:20 RT @unspiritualized: @han_org 僕自身の立場を表明しておきます。僕はかなりパトスの強い、日本人を意識した人間です。なればこそ、日本の歴史を背負うべきだと考えます。であれば、戦争から連続した現在も背負う覚悟がある。実際、ともに生きる在日は同じ仲間です。同化せずともいい。違うからなおいい。 posted at 23:02:39 ナショナリズムの枠内での多文化主義ということですよね。それだと、理屈の上ではむしろあのエッセイの問題設定と親和的だと思うのですね。 @unspiritualized posted at 23:07:46 こちらこそ貴重なコメントありがとうございます。 RT @unspiritualized: @han_org 僕もまた「マジョリティ」の一員であり、論の意図は重く受け止めました。自分たちが無意識だった「目線」を可視化していただいたことに感謝します。 posted at 23:10:17 結局、あれかな。あのエッセイもメタメッセージを込めすぎた失敗例だろうか。意外と文脈が共有されないな。 posted at 23:12:08 RT @unspiritualized: @han_org メタにしすぎるとベタな共感を得にくくなると(笑) 冗談はおいて、今後10年〜、日本はいっそう海外の労働力を必要とするでしょう。その時、おのずから排外主義は「益」でなくなっていく。しかし、それでいいのか?ということを、少なくとも思想としては考えねばなりません。 posted at 23:18:31 まさにまさに。 RT @unspiritualized: |おのずから排外主義は「益」でなくなっていく。しかし、それでいいのか?ということを、少なくとも思想としては考えねばなりません。 posted at 23:18:47 「国益」レトリックは、国家の犠牲になっている現実を可視化するためのカウンターとして用いたものですが、「国益につながらなければ排除してよい」という反応は別途、問題化されなければなりません。 @unspiritualized posted at 23:22:27 そういうことですね。正確に理解していただきまして、ありがとうございます。 RT @unspiritualized: @han_org よく理解できました。たしかに、まず改善すべきは「国家の犠牲になっている現実」。それをスルーして理念を優先するのは欺瞞ということになりますね。 posted at 23:27:10」 金明秀はここで、争点となっている文章「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」について、「ぼくがあのエッセイに込めたメタメッセージの一つは、「マジョリティである自覚を持て」というものでした。根拠のない不安によってスケープゴートを不法に排除したり、踏み絵を踏ませたりする特権を持つ立場だと。そのために、使用する用語も、分析視角も、意図的にマジョリティ目線をたどったつもりです。」と発言している。だが、この文章の初出は、在日本朝鮮人人権協会発行の『人権と生活』という雑誌の32号(2011年5月発行)に掲載されたものであり、現物を確認したが、金明秀のブログ上にその後加筆・修正の上で掲載されたという同じ題名の文章とほとんど内容の変更はない。 在日本朝鮮人人権協会というのは朝鮮総連系の団体であり、『人権と生活』の読者層も、朝鮮総連系の人間以外は在日朝鮮人の人権問題に関心がある人間にほぼ限られよう。私ですら、同じ号に論文が掲載されていた板垣竜太氏からこの号を貰う機会がなければ、金明秀が文章を掲載していたこと自体にその時点では気付かなかっただろう。金明秀は「日本人読者のうち、「国益」レトリックの適用自体に違和感を覚えるような方や、損得抜きに同じ住民だという実感を持っている方は、あのエッセイの直接の想定読者ではありませんでした。」と述べているが、それならば、『人権と生活』の日本人読者の圧倒的大多数は「想定読者」ではなかったことになろう。金明秀の『人権と生活』における日本人の「想定読者」はどのような人物だったのだろうか。公安関係者だろうか。金明秀は「共和国ナショナリスト」にも「批判を込めてメッセージを届ける」意図があったと発言しているが、仮に初出の「想定読者」が日本人を一切想定していなかったとすれば、「マジョリティである自覚を持て」という「メタメッセージ」は全く意味不明であり、「使用する用語も、分析視角も、意図的にマジョリティ目線をたどった」理由も不明だということになってしまう。 このように、金明秀のここでの弁明は支離滅裂なのであって、これも、kscykscy氏が的確に要約しているように、文章の趣旨は「「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない」との主張に対しては、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論するのが「有効な打撃を与える」リスク・コミュニケーションだ」というものなのであるから、批判に対してもそのような観点から反論すればよいだけであるにもかかわらず、批判は「誤解」だとして、無理矢理自分の立場を正当化しようとするから、このような訳の分からない弁明になるのである。この金明秀の態度は、上で見た、「池田信夫的なものに名前をつけるとしたら?」に関する弁明と酷似している。 また、「総連問題という切り口であればいくらでもやりあう準備があるけど、朝鮮学校問題では子どもたちがとばっちりを受けるわけでね。ぼくは、容易には論争化に踏み出す気持ちになれないな。」「決めた。少なくとも無償化問題に何らかの回答が出るまで、このケンカは買わない。ただし、「在日の(メタ)ナショナリズム」という論点を避けながら、誤読を修正する努力だけはさせていただこう。」などと主張しているが、そもそも金明秀の文章自体が、「「人権」「平等」が分配の正義として通用した時代なら、「在外公民」として理不尽を訴えるだけで一定の改善は得られたであろう。だが、現代はリスク社会である。たとえ、根拠のない、偏見交じりの不安であろうとも、それを解消しないかぎり、理不尽な扱いも解消することはない。民族運動にもイノベーションが必要な時代である。」という末尾の文章から明らかなように、既存の「民族運動」およびそれによる朝鮮学校無償化排除への反対運動の在り方への批判として打ち出されているものであって、「子どもたちがとばっちりを受ける」から「論争」しないということであれば、金明秀はなぜ文章を発表したのか、ということになる。子供をダシにして、論争が拡大することから逃げているとしか思えない。 同様の弁明は、今回の弁明にも現れている。金明秀は4月22日の発言で、以下のように述べている。 「@unspiritualized あの論点だと総連と朝鮮学校の運営を批判する形にならざるをえません。ブログで反論するとなれば、日本語で読める総連と朝鮮学校への批判が数万人の読者の目に触れることになります。ネトウヨ界隈は「金明秀ですら朝鮮学校を批判した」と大騒ぎになるでしょう。 posted at 19:42:29 @unspiritualized 朝鮮学校の支援者だって無条件に支援しているわけでなく、不満や言いたいことはあっても今はそれをあえて争点化せずにサポートする時期だと判断して黙って支援しているということもあるわけですが、それをつぶやいたら「恫喝」だとか呆れて二の句が継げない。 posted at 19:46:23」 ここも呆れた主張である。批判したければすればよいではないか。そもそも金明秀は、2010年4月3日の発言では、kscykscy氏の「何に怒るのか――朝鮮学校と高校「無償化」問題⑧」という文章に関して、「一から十まで完全同意。」と書いている。だが、kscykscy氏の文章の前提として、「朝鮮学校が高校課程相当の各種学校であることが確認されさえすれば、高校「無償化」の枠内に含」まれるべき、という認識があるのであって(「案の定の『朝日新聞』社説――朝鮮学校と高校「無償化」問題③」)、金明秀がその認識に同意するならば(同意せざるを得ないと思うが)、教育の中身自体が問われているわけではないことは文科省も明言しているのであるから、「総連と朝鮮学校の運営」云々を主張するのは意味が分からない。金明秀がどのように朝鮮学校を「支援」しているのか知らないが、「不満や言いたいことはあっても今はそれをあえて争点化せずにサポートする時期だと判断して黙って支援している」と主張するのは、そもそもこの問題の争点が朝鮮学校(在日朝鮮人の民族教育)の権利性であることを理解しておらず、朝鮮学校の教育の中身は変わった、日本社会に対してもフレンドリーな「日本の学校」だ、といった類の主張で対抗できるかのように考えていることの現れである。権利性の問題であることが強調されていれば、「総連と朝鮮学校の運営」への批判は、かえって運動の風通しのよさを示すものとして、普通は歓迎されるだろう。恐らく誰も、金明秀に「総連と朝鮮学校の運営」を批判することを止めていないと思うのだが。また、金明秀はそもそも「共和国ナショナリスト」「総連系知識人」などと批判しているのであるから、実際には総連を批判しているのであって、ここでも金明秀の主張は根本的に矛盾している。 他にもいろいろあるが、きりがないのでこれくらいにしておく。一点だけ加えておくと、金明秀はネット右翼との論争を在日朝鮮人の人権にとって何か有意義かつ重要なものであると見なしているようだが、ネット右翼などというものは日本の世論形成において何ら寄与していない、無力なものであって、大学教員ならば、ネット右翼と本質的には大差ない同様の主張・メンタリティのアカデミズムや論壇を批判すべきであろう。金明秀(およびその取り巻きの在日朝鮮人や日本人左翼)は、最も容易に叩ける(無力な)相手を批判することで、「反差別」の「在日朝鮮人」という「立ち位置」を確保しているようにしか見えない。本気で「反差別」を考えているならば、アカデミズムや論壇、特にリベラル・左派ということになっている存在の主張の欺瞞性(右派の主張との本質的共通性等)こそを衝くべきである。 4. 以上見てきたように、金明秀の反論は、kscykscy氏へのそれにしても、「池田信夫的なものに名前をつけるとしたら」に関するそれにしても、場当たり的・当座しのぎ的なものの範囲を超えないものであり、それを逆ギレで糊塗するという底の浅いものである。 金明秀の振る舞いを見ていると、ツイッター仲間等の自分の周囲の人間にさえプライドが保たれていればそれでよい、という認識が根底にあるように思われる。議論に関して負けを認めず、無限に「反論」を繰り返して、自分は負けていないという姿勢を崩そうとしない人間が多数存在することを、インターネットが普及して以来、われわれは知るに至っているが、金明秀はその典型例であるように見える。金明秀には、議論の公共性という認識もなければ、公正性に対する意識もない。ディベートのように、その場を切り抜けられればいいという姿勢だ。金明秀のツイッター仲間には、在日朝鮮人ネタ(ネット右翼、在特会など)を消費する日本人左派や在日朝鮮人が何人もいて、下らないおしゃべりをやっている。 金明秀は、kscykscy氏に対して、「「日朝国交「正常化」と植民地支配責任」氏は、この問題を論争にするつもりということなんだろうか。刊行から半年もたっての反論ということは、迷った挙句にそう決意したという解釈でいいんだろうか。分断、孤立化の道を選択したということでいいんだろうかね。」などと発言しているが、逆に言えば、自分の周囲の界隈の影響力を過大視しているということでもある。その種の連中など、何人集まろうと下らないことしか言っていないのだから影響力も意味も全くないと思うのだが、金明秀の中では大きな意味を持っているように思われる。金明秀にとっては、在日朝鮮人の行く末よりも、在日朝鮮人を含めたその界隈で「お山の大将」であり続けることの方がより大きな問題であるように思われる。 金明秀は、2010年2月15日に、自身のブログで「はてブって面白いね」という記事を書いている。 これを読んだのは金明秀がこの記事をアップした少し後だが、私はこれを見て、危ういな、と思ったものだ。金明秀はその時期以来、「はてな」界隈の人気者だが、いつの間にか、金明秀の文章自体が「はてなサヨク」をはじめとした、「反差別」「ナショナリズム批判」のネット上(に限られないが)の「サヨク」の欲望におもねるような内容になっている。例えば、片山さつきの愚かしい言い間違えを「公人によるヘイトスピーチ」などとあげつらった文章などがその典型である。金明秀からは、自分がこの種の人々を主導しているように見えているかもしれないが、客観的に見れば、金明秀こそがこの種の人々に支配されている。金明秀のその場しのぎの弁明も、元々のこの人物の特性かもしれないが、こうした状況がその酷さを助長しているように思われる。 金明秀とkscykscy氏の発言を読み比べれば、金明秀の主張の不当性は明らかであるから、「金(注・金明秀)による「陰で人格攻撃」「卑劣な対応」「言いがかり」「主張の内容ではなく人格を攻撃する愚論」という筆者への非難が無根拠であることを、公正な読者が認識すること」というkscykscy氏の「期待」も問題なく満たされると考えるが、私が不愉快なのは、金明秀のツイッター仲間の在日朝鮮人たちが、この件に関して沈黙を決め込んでいることである。金明秀は自身のツイッターで繰り返し、kscykscy氏を誹謗中傷しているのだから、「論争」の存在を彼ら・彼女らが知らないはずがない。「論争」の対象の重要性からも、彼ら・彼女らは、この問題に関して公的に態度表明すべきである。そうしないならば、それらの人物は、公共的な重要性よりも馴れ合いを重視する、日本的「ムラ社会」に骨の髄まで浸かった「在日朝鮮人」であって、そんな連中の日本社会批判など何ら耳を貸す必要はない、ということになろう。 1.
ブログ「日朝国交「正常化」と植民地支配責任」のkscykscy氏が、金明秀に対して抗議をしている。下の記事にまとめられている。 http://kscykscy.exblog.jp/18212443/ 詳しくはそちらを見ていただきたいが、金明秀は、kscykscy氏を「総連系知識人」「朝鮮大学校あたりの人」などとレッテル貼りし、自分への批判を「陰で(の)人格攻撃」だとしている。Kscykscy氏もこれには的確に反論しているが、私は金明秀による反論の幼稚さ、厚顔無恥さにほとほと呆れかえった。 そもそも「陰で(の)人格攻撃」などというが、kscykscy氏はブログ上で公開で金明秀批判をしているのであるから、なぜこれが「陰で」ということになるのかさっぱり分からない。また、kscykscy氏は、金明秀の具体的発言を挙げて批判しているのであるから、反論したいのならば具体的に反論すればよいだけの話なのであって、「人格攻撃」呼ばわりしているのは金明秀が具体的に反論できないから逆ギレしているだけなのではないか、と思わざるを得ない。しかも、kscyskscy氏の発言のどこが「人格攻撃」にあたるかも明確に提示していない。 唯一該当するのは、「しかも、ぼくのツイート群をつまみ食いして印象操作かw それでよくも人格攻撃じゃないなどと言い張れたもんだな。 」という発言だが、kscykscy氏による引用がなぜ「つまみ食い」「印象操作」と言えるのかを説明していない。金明秀の発言の方が、論争をまともに読んでいない読者に、あたかも自分が優位に立っていると思わせようとする「印象操作」であり、虚勢である。kscykscy氏の批判は「人格攻撃」ではないのだから提示できるはずもないのだ。 私は昔、東浩紀が、自分への当然の質問に対して、「人格批判」だと決めつけた発言を引用してその脆弱さを嘲笑したことがあるが、金明秀の「反論」を読んで同様の脆弱さを感じた。 また、当初は、kscykscy氏が匿名であることを理由に批判していたにもかかわらず、@unspiritualizedなる人物から、「匿名をなじって「うざっ」はどうかと思います。」と言われると、「匿名そのものを詰ったことはない」などと弁明しているのもおかしい。前回のkscykscy氏による金明秀批判への反論の時もそうだが、金明秀は、別に誤解ではないのに、お前の主張は誤解だなどと言い張って、議論としては負けていないことにしたがる傾向がある。 なお、@unspiritualizedなる人物は、ネット上に無数に存在する教養俗物系馬鹿ツイッターの一つのようであり、今回読み返していて気付いたのだが、前に金明秀がkscykscy氏に批判された時も、この人物が沸いてきて、金明秀に理があるかのごとき主張を行なっていた。金明秀と日本人馬鹿左翼の馴れ合いの典型例であると言える。 その醜悪さの一例を示しておこう。 金明秀は、kscykscy氏の「3.金は自らの主張は「ネトウヨ」の「認識フレーム」を転換させるものだ、と主張したが、金の主張はむしろその「認識フレーム」にとどまることを積極的に主張したものである。」との指摘に対して、以下のように回答している。 「論点3。ぼくは「ネトウヨ」の「フレーム」を転換するということは論じていないつもりなのだけどね。いま自分の原稿を確認してみたが、やはり書いていない。藁人形を勝手にこしらえてぼくの名前を張り付けられても、それはぼくじゃないよ。」 https://twitter.com/#!/han_org/status/195863162929688576 この発言を受けて、@unspiritualizedも、「ブログ主>金は自らの主張は「ネトウヨ」の「認識フレーム」を転換させるものだ、と主張したが… は、金さんの言う通り誤読」などと書いている。 https://twitter.com/#!/unspiritualized/status/195879927252385792 また、金明秀の取り巻きの一人である韓東賢(この人物の発言については、以前、簡単に批判したことがある)が、@unspiritualizedのこの発言を好意的に引用(RT)している。 だが、金明秀は、争点になっている論文(エッセイ)について、以下のように発言しているのである。 「ぼくがあのエッセイで「国益」レトリックを持ち出したのは、2種類の読者に批判を込めてメッセージを届けるため。ネトウヨと共和国ナショナリストです。事実、どちらにも届きましたよ。受け入れられはしなかったけど。 @gurugurian @mujigedari posted at 17:22:51 あのエッセイで最も重要な論点は、認識のフレームを転換するような運動が必要だということ。「朝鮮学校は日本の国益につながる」というのは、その手段となるレトリックの事例として取り上げたもの。 @gurugurian @mujigedari posted at 17:24:58 ぼくが試行錯誤して見つけた中では、「朝鮮学校は日本の国益になる」というレトリックがネトウヨの認識フレームを揺るがす効果を持っているというだけの話。手段として有効な別のレトリックがあるなら、それを使えばいい。 @gurugurian @mujigedari posted at 17:28:52 もともと、日本人読者のうち、「国益」レトリックの適用自体に違和感を覚えるような方や、損得抜きに同じ住民だという実感を持っている方は、あのエッセイの直接の想定読者ではありませんでした。 @unspiritualized posted at 22:39:47 ぼくがあのエッセイに込めたメタメッセージの一つは、「マジョリティである自覚を持て」というものでした。根拠のない不安によってスケープゴートを不法に排除したり、踏み絵を踏ませたりする特権を持つ立場だと。(続く) @unspiritualized posted at 22:58:56 そのために、使用する用語も、分析視角も、意図的にマジョリティ目線をたどったつもりです。日本人の特権性をマジョリティ目線で可視化するという拙い意図が成功したかどうか、まあ怪しいところではありますが。 @unspiritualized posted at 23:02:20」 これらの発言から解釈すれば、金明秀が自身の論文(エッセイ)について、kscykscy氏の記述通り、「金は自らの主張は「ネトウヨ」の「認識フレーム」を転換させるものだ、と主張」しているとしか言いようがないのであって、「ぼくは「ネトウヨ」の「フレーム」を転換するということは論じていないつもりなのだけどね。いま自分の原稿を確認してみたが、やはり書いていない。藁人形を勝手にこしらえてぼくの名前を張り付けられても、それはぼくじゃないよ。」などという金明秀の反論が、単なるハッタリでしかなく、どれほど厚顔無恥なものであるかは明白であろう。また、同時に、こうした金明秀の反論を擁護するその取り巻きたちが、どれほど程度の低い人物であるかも明らかであろう。 金明秀の言動に見られるこうした幼稚さ、厚顔無恥さは、私が偶然遭遇した事例でも見られたものである。今回のkscykscy氏とのやりとりに垣間見られる、金明秀の人間性を考える上で参考になると思うので、今回改めて書くことにした。 2. 私は以前、記事「民族的劣等感が問題なのか?」で、以下のように書いた。 「ところで、前に書いた記事で私は、「池田信夫的なものに名前をつけるとしたら?」などという問いに罵倒表現を使って答えるなどという醜悪な遊びを、在日朝鮮人たちがやっていることを指摘し、当該ツイッターを削除すべきだと主張した。結局、私の指摘は聞かれなかったのだが、この遊びを始めた在日朝鮮人学者というのが金明秀だったのである。これに加担していたもう一人の在日朝鮮人が、前回記事で取り上げた、Radomyslsky こと韓西満である。 この件に関する金明秀の一部始終は、極めて不誠実なものであったため、私も再度批判を書こうと思ったが、途中まで書いてあまりの相手のレベルの低さに馬鹿馬鹿しくなって放置してしまった(この記事を書くことにしたのでまた後日書く)。」 間隔が空いてしまったが、今回は、この一旦は書きかけてやめた、「池田信夫的なものに名前をつけるとしたら?」という問いに関する金明秀への批判を掲載する。 まずは、この件に関する諸発言を引用し、流れを再構成しておこう。金明秀の2011年9月24日の発言は、以下で読むことができる。 http://twilog.org/han_org/date-110924/asc 金明秀の以下の発言が発端である。 @han_org 金明秀 Myungsoo KIM 「池田信夫的なもの」に名前をつけるとしたら何になるんだろうなあ。 http://twitter.com/#!/han_org/status/117389036909371392 この発言に対して、早速、別の人間から、「池田信夫的なもの」の名前として、「大人げない大人」「馬鹿だなあ」「頓馬」が提案され、金明秀は「ノーコメントですw」と答えている。 @han_org 金明秀 Myungsoo KIM ノーコメントですw RT @takahito_ubagai: 『大人げない大人』『馬鹿だなあ』『頓馬』とか、どうでしょうかw @han_org: 「池田信夫的なもの」に名前をつけるとしたら何になるんだろうなあ。 http://twitter.com/#!/han_org/status/117390501438685185 この後、noiehoieなる人物による、「素っ頓狂」という池田評が掲載されている。 @han_org 金明秀 Myungsoo KIM あぁ、なるほど。「経済学」というカテゴリーで正当化させてはいけないということか。 RT @noiehoie: @han_org 単に、ああいうのは、「素っ頓狂」としか言い様がないとおもいますよ。 9月24日 HootSuiteから http://twitter.com/#!/han_org/status/117393731224743937 @han_org 金明秀 Myungsoo KIM なるほど同意です。RT @noiehoie: |そうですそうです。当然のことながら、論理的な正しさと、主張としての正しさは別問題ですし、彼の場合は両方共怪しいわけですし、「素っ頓狂」としかいいようがないわけです。挙げてる看板が経済学だからといって、経済学にこちらが拘る必要はない。 9月24日 HootSuiteから http://twitter.com/#!/han_org/status/117397007655636993 ここで金明秀は以下のように喜びを表現した上で、次々に「池田信夫的なもの」の回答例を掲載してゆく。 @han_org 金明秀 Myungsoo KIM 「池田信夫的なもの」に名前を付けると何になるかネタは、地味に人気があるらしいw 9月24日 HootSuiteから http://twitter.com/#!/han_org/status/117406838584131584 @Bondra Yuji Sakata 寂しがりやのチャンピオン。RT @han_org: 「池田信夫的なもの」に名前をつけるとしたら何になるんだろうなあ。 9月24日 Twittelatorから http://twitter.com/#!/Bondra/status/117393060836540416 @NoW_Watanabe わたなべ 名ばかり博士 RT @han_org 「池田信夫的なもの」に名前をつけるとしたら何になるんだろうなあ。 9月24日 webから http://twitter.com/#!/NoW_Watanabe/status/117393834828247040 @nejimi T.Ikuma とても難しいが、限りなくオリジナリティが高くひどく厄介なものになりそう。RT @han_org 「池田信夫的なもの」に名前をつけるとしたら何になるんだろうなあ。 9月24日 TwitBirdから http://twitter.com/#!/nejimi/status/117399241835552768 韓西満 @Radomyslsky 韓西満 反動?RT @han_org: 「池田信夫的なもの」に名前をつけるとしたら何になるんだろうなあ。 9月24日 Tweenから http://twitter.com/#!/Radomyslsky/status/117404913297915904 @tosamoto Ryouma 唐変木 RT @han_org: 「池田信夫的なもの」に名前をつけるとしたら何になるんだろうなあ。 9月24日 Twipple for Androidから http://twitter.com/#!/tosamoto/status/117405212033024000 @takahito_ubagai 祖母井崇人 『大人げない大人』『馬鹿だなあ』『頓馬』とか、どうでしょうかw @han_org: 「池田信夫的なもの」に名前をつけるとしたら何になるんだろうなあ。 9月24日 Twitter for iPhoneから http://twitter.com/#!/takahito_ubagai/status/117390229450661888 @noiehoie noiehoie @han_org 単に、ああいうのは、「素っ頓狂」としか言い様がないとおもいますよ。 9月24日 HootSuiteから AmaterasuJpと他1名がリツイート http://twitter.com/#!/noiehoie/status/117392171677659136 RT @general_rikako: 曲学阿世の徒? RT @Radomyslsky: 反動?RT @han_org: 「池田信夫的なもの」に名前をつけるとしたら何になるんだろうなあ。 RT @NozomiTokyo: 経済学の学門としての信頼性を破壊する為に送り込まれた工作員RT @han_org: 「池田信夫的なもの」に名前をつけるとしたら何になるんだろうなあ。 RT @hayato00000: 破れかぶれ 上から目線 NHK崩れ 拗ね男 原発以外はまともなのに 出来心の煽り収拾つかず RT @general_rikako: 曲学阿世の徒? RT @Radomyslsky: 反動?RT @han_org: 「池田信夫的なもの」に名前をつけるとしたら何になるんだろうなあ。 @han_org 金明秀 Myungsoo KIM 既出ですw #池田信夫的なものに名前をつけるとしたら? RT @emiri_t: 唐変木 RT @han_org 「池田信夫的なもの」に名前をつけるとしたら何になるんだろうなあ。 9月24日 HootSuiteから http://twitter.com/#!/han_org/status/117415241972842496 このような金明秀の作業に対して、Joli_C0eurなる人物が「ただの悪口大会じゃないですか。批判したいならもっとまともな意見を採用したらどうですか。」と批判するが、金明秀はそれに対して、「届いたのを機械的にRTし」た、などと弁明する。 @han_org 金明秀 Myungsoo KIM 届いたのを機械的にRTしました。ぜひあなたがまともな意見を。 RT @Joli_C0eur: @han_org ただの悪口大会じゃないですか。批判したいならもっとまともな意見を採用したらどうですか。 9月24日 HootSuiteから http://twitter.com/#!/han_org/status/117419195603488768 そこで、Joli_C0eurは、以下のように、「オピニオンリーダー」「世論形成者」との名前を提案する。 @Joli_C0eur ジョリクール as 310 U-Ichi @han_org そうですか。僕は池田信夫さんのことを尊敬しているので悪口ばかりでついカッとなってしまいました。良いアイデアが思い浮かびませんが、オピニオンリーダーとか、世論形成者といったところでしょうか・・・。 9月24日 webから http://twitter.com/#!/Joli_C0eur/status/117426162883502080 ところが、金明秀は、Joli_C0eurのこの発言を自らのツイッターに掲載(RT)しなかったのである。言うまでもないが、「機械的にRTし」ていたのであるならば、池田への罵倒表現は掲載されているにもかかわらず、このような池田への肯定的表現のみ掲載されないのはいかにも奇妙である。これは、他の罵倒表現と同じく、@han_org宛に送られているから、金明秀は当然見たはずである。 金明秀は、「見落としていた」とでも弁明するのかもしれないが、それならば、上で挙げたような数々の罵倒表現は見落とさずに、唯一の肯定的表現は見落とすというのは、不思議なことではある。 なお、私が金明秀の作業への批判記事をアップした後(約1時間後)、私と同様の疑問・批判に対する回答が掲載されている。金明秀が私の記事を見たのかどうかは知らないが、仮に私の記事を見ていなかったとしても、それが「最終回答」ということになるのだろう。 金明秀の「機械的にRTし」たとの弁明に対して、以下のように、国崎涼介という人物が、金明秀を批判している。 @a_bms 国崎 涼介 あれだな、 @han_org という人は「池田信夫」をさんざんバカにしているが、今まさにこの人がやっていることが「イジメ」そのものだ、ということには全く自覚がなく、あげく「機械的にRTしただけ」とか言ってしまうのか。これはちょっとすごいなぁ 9月24日 webから http://twitter.com/#!/a_bms/status/117497840191811584 この批判は私の記事の金明秀批判と同趣旨のものである。これに対して、金明秀は以下のように回答している。 @han_org 金明秀 Myungsoo KIM @a_bms まあ、まずは日本語を読めるようになりなさい。ぼくはある種の志向性として「池田信夫的なもの」と表現した。むしろリスペクトのあかしだよ。タグについてはぼくの意思ではなく、人々のイメージだ。あなたがdisりたいだけなら別にそれでもいいが、それならぼくに@は付けないでね。 9月24日 HootSuiteから http://twitter.com/#!/han_org/status/117499339781324802 批判された際の金明秀の反論は、いつも明晰さを欠き、何を言っているのか今ひとつ理解しがたいのだが、このように金明秀は、国崎(および私)の批判に対して、国崎が日本語読解力がなく、自分がやっていることはむしろ「リスペクトのあかし」だと主張している。 だが、上で見たように、「池田信夫的なもの」について金明秀が掲載している表現は誹謗中傷および罵倒のようなものしか見あたらない。しかも、金明秀のツイッター上の交友関係とそこでの池田への批判的なやりとり、池田へのネット上での批判的な声の多さからすれば、このような表現を金明秀が募集すれば、罵倒表現が多く集まることは容易に予測できたはずである。しかも、上で見たように、金明秀は嬉々として罵倒表現を集めている。しかも、金明秀は、肯定的表現の回答は、自分に対してわざわざ直接送られているにもかかわらず、掲載していない。よくこれで、自分のやっていることは池田への「リスペクトのあかし」などと言えるものである。この厚顔無恥さは本当に凄いと思う。 また、金明秀は国崎の批判に対して、「まずは日本語を読めるようになりなさい」などと反論している。こういうのを逆ギレという。上で見たように、金明秀の一連の行動が、池田への否定的感情に基づいて行われており、また、その感情を満足させる形で行われていることは明らかであり、国崎の「@han_org という人は「池田信夫」をさんざんバカにしている」という発言は当然正しい。この姿勢も厚顔無恥としかいいようがない。 また、相手の「日本語」読解力の欠如を云々している点に至っては、同じ在日朝鮮人として恥ずかしくなった。ここには、金明秀の勘違いエリートぶりがよく現れていると同時に、金明秀には、たどたどしい「日本語」で話す人が多く、それを理由としてしばしば差別・嘲笑された在日朝鮮人一世世代への感受性(および在日朝鮮人問題全般への感受性)が、根本的に欠落していることがよく示されている。 また、金明秀は、「池田信夫的なものに名前をつけるとしたら?」とのタグについては「ぼくの意思ではなく、人々のイメージだ」などと反論している。しかし、すでに上で指摘したように、罵倒表現が多く集まることが容易に予測できたにもかかわらず、金明秀は発端から罵倒表現の収集まで一貫して嬉々として行っており、しかも寄せられた肯定的表現は掲載していないのであるから、金明秀の責任は免れないことは当然である。このような責任転嫁の姿勢も驚くべき厚顔無恥と言える。 加えて言えば、金明秀が本当に「リスペクトのあかし」としてこのような作業を行っていたのだとすれば、国崎(および私)の批判があったとしても、編集作業を続ければよいだけの話である。 ところが、金明秀は、私の批判記事が掲載され、国崎への反論を書いた後で、その作業をピタッとやめてしまう。 ツイッターの昔の発言記録は検索しても出てこないから、残念ながら具体的に挙げることはできないが、私が以前見た際には、金明秀が作業をやめた後にも「池田信夫的なものに名前をつけるとしたら?」とのタグに反応していくつかの人々が発言していた。以下の発言もそのうちの一つだったと思われる。 @han_org 高レベル放射性廃棄物(素人には扱いにくい、無駄に熱い、かつては原発で役に立っていたと擁護する人もいる、まだ使い道はあるかも…) http://b.hatena.ne.jp/entry/hashch.info/tag/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%A4%AB%E7%9A%84%E3%81%AA%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%AB%E5%90%8D%E5%89%8D%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%91%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%9F%E3%82%89 これらの池田への罵倒表現は、そもそも金明秀が「池田信夫的なものに名前をつけるとしたら?」なるタグを作り、「名前」を募集したことに基因するものであり、金明秀もこうした発言に部分的に責任を負うことは言うまでもない。そして、金明秀は、国崎に対して上のような啖呵を切っているのであるから、これらの発言も「人々のイメージ」として収集・引用・紹介すればよいではないか。なぜやめてしまったのか? あるいは、今からでも「池田信夫的なものに名前をつけるとしたら?」という「名前」募集を再開すればよいではないか。そもそも、募集は中断したのか?中断したとすればなぜなのか? 言うまでもないが、仮に金明秀が「自分は「リスペクトのあかし」のつもりだったが、誤解する人間が多かったのでやめた」と弁明するとしても、そのような弁明は通用しない。そのように弁明するのならば、自分の行為が「誤解」される余地があったことを国崎に認めておかないと辻褄が合わないからである。ところが、上で見たように、金明秀は、問題は国崎の日本語読解力の欠如にあり、上述の疑問を発した国崎は自分を「disりたい」(「罵倒したい」の意味)だけだ、などと啖呵を切っているのであるから、自分の主張を「誤解」する人間は圧倒的に少数かつ自分に対して悪意がある人間だと主張しているわけである。「誤解する人間が多かったのでやめた」などという弁明は不可能である。 以上の経緯を見れば、金明秀が、池田信夫批判がネット上のリベラル・左派内部で流行しているのに便乗・悪ノリして遊んでいたが、(恐らく私の記事も含めた)批判を受けて、逆ギレしてみたが、続けると自分のイメージダウンにつながるのでやめた、ということは明らかだろう。自分に落ち度があると思ったのならば、そのことを公的に認めればよいのである。金明秀にはそんな最低限の勇気すらない。金明秀が「まずい」と感じているであろうことは明らかであるから、この場合、逆ギレするのは最悪の対応であると言える。この人はリスク管理・対応が非常に下手である。こんな人物に「リスク社会」云々を語る資格はない。 (続く)
「声明:岩波書店の縁故採用に改めて抗議する」
http://shutoken2007.blog88.fc2.com/blog-entry-41.html # by kollwitz2000 | 2012-04-06 00:00
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姜の日本社会認識の変容と連動した在日朝鮮人言説の変化としてまず見ておきたいのは、同じく「在日志向」と表象される主張でありながらも、92年以前と以降のそれでは現状認識とその志向性が本質的に異なっている点である。 前述のように、87年の姜の主張は、在日朝鮮人内部における階層化の進展により、在日朝鮮人としての結集軸が消失しつつあり、だからこそ「民族文化」を軸として、結集しなければならない、というものであった。基本的にこの認識は、91年頃までは継続していたと思われる。 例えば、1990年9月に発表された⑥の「日の丸・君が代と国歌――「在日」からみえてくるもの」で、姜は以下のように述べている。 「「日の丸」「君が代」が歴史的変化の一方のシンボルであるとすれば、その対極にある変動のうねりは、ソビエトを中心とする現存社会主義の倒壊を促した民衆=市民革命であり、それによって触発された夥しい数にのぼるエスニシティーの復権の動きである。・・・・・・自分たちのかけがえのない文化や言語、伝統、生活様式から歴史的に形づくられてきた共同性の意識がもつ凝集力は国家による統合とは違った動きを示しつつあるのである。ソビエト・東欧圏の社会主義の倒壊は、単なる自由主義の勝利といったレベルで片付けられる問題ではなく、そのような民衆世界に根ざす「われわれ意識」から噴き出した巨大なエネルギーの結果に他ならない。そしてこれと同じような事態は、体制や国家のタイプの違いを超えて世界中のいたるところで形を変えて生まれつつあるのではないだろうか。とすれば、今われわれがその渦中にある世界の激変の中から読み取ることのできるメッセージは、現存社会主義の破産ということだけではなく、近代世界の中心に位置してきた「民族国家」の存在、その前提が揺らぎつつあるということではないだろうか。/このように考えてみるとき、世界のここかしこに「在日」があると言えるのではないだろうか。そして「日の丸」「君が代」の義務化は、世界史の流れを変えつつあるそのような世界中の「在日」の、国家に抗する動きに対する反動以外のなにものでもないであろう。」 このように姜は、「エスニシティーの復権の動き」、「自分たちのかけがえのない文化や言語、伝統、生活様式から歴史的に形づくられてきた共同性の意識がもつ凝集力」を基にした運動を全面的に肯定し、それを在日朝鮮人の(あるべき)「国家に抗する動き」と同一視している。これは、87年の姜による在日朝鮮人の結集への提言と同じ意味合いの主張である。 また、姜が1991年5月23日に、在日朝鮮人の運動団体で行なった講演記録である⑦では、以下のように発言している。 「「ポスト91年」の中では自分たちの生き方の結集軸というものを創っていかなければならない局面に、私たちは歴史的に立たされている。その結集軸の中身は、一言で言うと文化運動だと思います。これは政治的・社会的なもの、あるいは自分たちの生活の在り方、ウリマル(朝鮮語)、さまざまな風習など、いろいろなものをひっくるめて、広い意味での文化運動を創っていかなければならない。そういう局面に「ポスト91年」は立たされている。そういうものとして私は、91年というものを考えているわけです。/そうすると、「朝鮮系日本人」という選択肢がさしあたり日本の社会の中では成り立ち得ないとすれば、一体どういう選択肢を私たちは創っていったらいいのか。それは言うまでもなく、 民族的なアイデンティティーを具体的に確保できるような文化運動を力強く展開すること、しかもそれを支える社会、経済、就職、結婚の問題、教育の問題、さまざまなレベルで具体的に制度化し、そして運動化していくことです。」 「民団を見ても総連を見てもどうしようもないんだという議論がありますが、しかし私は、そうでありながらも民団と総連を除いた在日の将来はないと思います。…… 私はこれから在日朝鮮人が具体的な経済的基盤を北と南とを問わず民族財産としてどのように保存していくのかというのは非常に大きな問題だと思います。しかも、それをこれから先、在日の企業人や、あるいは給与所得者に対しても、金融機関が財政的な面でバックアップできる体制作りをとっていかなければなりません。…… 「少なくとも、経済的な基盤のないところで文化運動はないと思います。新しい自営的な企業を興す場合の金融機関のバックアップ体制、そういう 非常に自助的な、本来の権益擁護運動団体としての在日同胞の物質的な基盤作りをすべきだと思います。これがないところでは、私は在日同胞の将来は暗いと思います。これは決して絵に描いた餅ではないし、少なくとも今の政治状況で決して私たち在日の中で創れない構想ではないと思います。/そうすると、地域社会の中での教育、就職、そして地域社会の中にいかせるような民族学校、さらには地域社会の中で生かされ全国的にオンライン化された金融機関、あるいは経済団体などを作り、そうした中で、例えば奨学金制度、文化運動、学術運動に対する財団というものが現実的にはいろんなレベルで少しずつ出てきました。全国的に見ても、今、学術振興のためのさまざまな基金団体が出てきました。もう少し規模を大きくして全国的なものにしていけば相当のパワーになると思います。/ そうして、初めて在日同胞の民族的なアイデンティティーが作られるでしょう。戦後50年近くたって初めて そういうものを作り出すことができる物質的な基盤を、在日同胞は客観的には作っていると思います。私たちは在日同胞をあまりにも過小評価し過ぎた。それは、政治の壁や分断の壁があってできなかったわけですが、やっとそういうものを作ることができるような時代状況に到達したと思います。/そういう中で私が考えているのは、在日同胞が密集している6大都市に、文化センターをこの10年間で作っていくことです。」 「今のような現状が続く限り、 在日同胞の帰化を食い止め、朝鮮人としてのアイデンティティーを保ちつつ、そして統一された祖国との関係を持ちながら、そして南北朝鮮をまたぐ、ユニークな存在として生きることのできる可能性を開いていくのは、個別としては可能かもしれませんが、マジョリティーとしてはなかなか難しいだろうと思います。そのための具体的なことを考えなければならない。そういう時期に来ていると思います。そういうことを今まであまりにも考えてこなかったということですね。」 このように、姜はここで、「在日同胞の帰化を食い止め、朝鮮人としてのアイデンティティーを保ちつつ、そして統一された祖国との関係を持」った上での、「在日同胞の民族的なアイデンティティー」のための持続または創出のための場所、そのための物質的な基盤作りの必要性について熱弁している。これも87年の姜の主張に沿ったものである。 だが、92年以降の姜の主張は、同じく「在日志向」と表象されるものであっても、その内実は異なっている。 その変化は、前述のように、日本社会認識の変容と連動して生じていると思われる。第11節で、1992年5月頃には既に、日本社会の本質的閉鎖性・特殊性という認識が消失している点を指摘したが、全く同じ時期に、姜は、在日朝鮮人規定・民族論においても、従来の姜ならば発しなかったと思われる主張を展開するようになる。 その文献が、前出の、1992年5月3日の講演記録である『アジアから読む日本国憲法』(かもがわ出版、1993年5月)である。既に第11節でも引用・指摘したように、ここで姜が在日朝鮮人の日本社会に対する「義務」を強調している点がまずその指標として挙げられるが、その他にも、以下のような主張を行なっている。 「「在日」の人達を外国人というべきかどうか、さらに日本国籍を取得して公務員の一般職に就きたいという人がいるかと思えば、「在日」のアイデンティティを考えている人がいる。どのように日本の方々は考えたらいいのか。非常に難しい問いです。それは、「在日」自体が今、これまでのようにはっきりとした、枠組の中でとらえられなくなったからです。今まで祖国へのアイデンティティとして一世が考えたように、国というものはこういうもんだというものがあった。これは先ほど申しましたように、北でも南でも一民族一国家で長い歴史をもったわが民族というところの素朴なナショナリズムがあったが、それが見えてこなくなった。これは私は一面ではいいことだと思います。/本当に自分達にとって民族とは何か、祖国とは何か、実はこれは今申し上げたように大げさにいえば、世界史的なテーマを私達は考えているわけです。そういう時代に一発主義の答えが出てくることはないわけです。当然それは悩まざるを得ない。ですからアイデンティティというものを今あるものとして私達は考える必要はなくて、将来にあり得るものとして考えていくべきですし、それだからこそ多様な生き方が出てきた。これが逆にいうと、「在日」のある種の可能性だと思うのです。」(55頁) 「「在日」はやっぱり 多様性のるつぼの中であえいでいるわけです。これは本国にとっていい意味での大きなインパクトを与える。それは自分のアイデンティティがゆらいでいる。まさに自分の アイデンティティのゆらぎの中で、あるべきアイデンティティを模索している人々こそ今、好むと好まざるとにかかわらず、もっとも歴史の最前線に立たされていると思う。それを生きることが、実は今問題のもっとも先端に立たされていることだと思います。」(59頁) 「祖国へのアイデンティティ」に依拠した「素朴なナショナリズム」ではなく、在日朝鮮人のアイデンティティの「ゆらぎ」「多様性」にこそ可能性があるのだという、90年代以降の在日朝鮮人言説で呆れるほど繰り返された言説――それを鼓吹した中心人物はもちろん姜だが――の、管見の範囲での姜の言論活動における初出である。ここには既に、この種の言説の特徴が現れている。つまり、在日朝鮮人の「ナショナリズム」を、一世中心の「祖国」への同一化を志向したナショナリズムであると決めつけ、それでは駄目だとしてナショナリズム批判を志向する自己の立場を正当化するものである。 第4節で紹介した、姜の86年時点の主張はそのように戯画化されがちな発言の典型であるが、ちゃんと読めば分かるように、そのような戯画化は不適切である。そこで姜は、大雑把に言えば、在日朝鮮人の直面する諸課題と分断「祖国」が直面するそれとの歴史的共通性を重視し、その共通の課題解決の努力を通じて「祖国」を志向するようなあり方に在日朝鮮人の社会的・政治的アイデンティティを置くべきであり、「定住外国人」としての権利についてもその視点から論じられるべき、と主張しているのである。また、第7~9節で見たように、87年から91年にかけての姜は、在日朝鮮人が日本社会で「定住外国人」として生きていくためには在日朝鮮人の政治的・社会的結集、「民族文化」の育成が不可欠であり、それを媒介として祖国との絆が再発見されうる、との主張を展開している。そして、既に見たように、双方の時期において、在日朝鮮人の「多様化」現象は、肯定どころか極めて深刻な問題として懸念されている。 「在日朝鮮人のアイデンティティの「ゆらぎ」「多様性」にこそ可能性がある」といった言説では、91年以前の姜のような主張も、「祖国」への同一化を志向したナショナリズムということになってしまう。だが、これは、ありもしない虚構を捏造して単純な二項対立を作成し、自己正当化を図ろうとする類の言説に過ぎない。 興味深いことに、この『アジアから読む日本国憲法』の講演の約1年前(1991年5月23日)の講演記録である⑦では、「多様な「在日」のあり方」という、恐らく編集者がつけた小見出しの下で、以下のように述べられている。 「問題は、在日朝鮮人というカテゴリーを、これから私たちは一体どう考えるのか。つまり、国籍は日本国籍を取っているけれども、民族としては在日朝鮮人として生きたいというような民族性に目覚める人がいると思うんです。/例えば、名前をもう1度元に戻したい、という裁判訴訟がありますね。現在の帰化制度は基本的に法務省は家族ぐるみでやろうとしてますから、実際に成年に達して、自分は民族的には朝鮮人だ、朝鮮人として生きたい、しかし国籍は日本国籍だという場合も、やはり私たちは在日同胞として考えるべきだと思います。そうすると、 在日朝鮮人の範囲というものをもう少し多様に、そしてもう少し広く考えていくべきではないかと思うんです。それはハーフも入れて。あるいは場合によっては、非常に少ない場合でしょうけど、例えば在日同胞と中国人が結婚するという場合も現実としてあり得るわけです。/つまり、 それほどまで非常に在日同胞のアイデンティティーというものも、単一の尺度ではなくて、もう少し豊かに、広く考えていくべきではないかと思います。これを最後の問題提起として言いたいと思います。そして、 もしそれに成功すれば、まかり間違っても1920年代から30年代の歴史に安定するような現実にはならないと考えます。/そういう点からしても、この10年が、在日同胞が事実上消滅していくのか、あるいは少なくとも何らかの形で21世紀に向けて具体的に継承していけるものを私たちが創り出せるのかにおいて、ひとつの大きなヤマだと思います。」 ここでも確かに在日朝鮮人の「多様」性と、「単一の尺度」ではない「在日同胞のアイデンティティー」について語られている。だが既に見たように、この講演では「在日同胞の民族的なアイデンティティー」のための持続または創出のための場所、そのための物質的な基盤作りの必要性が論じられているのであり、上の主張も、その文脈の下で、包摂する在日朝鮮人の範囲を「多様」に広げることによって、在日朝鮮人のアイデンティティの「多様化」という現象に対処することにより、「1920年代から30年代の歴史に安定(注・「暗転」の誤記か)するような現実」を回避しようという趣旨で述べられている。つまり、 多様化という現実を在日朝鮮人の共同性の下に取り込むために在日朝鮮人の範囲およびアイデンティティの尺度の「多様」化が提唱されているのであって、その1年後の講演のように、「多様化」「ゆらぎ」それ自体に(自己目的的に)「可能性」を見出そうとする姿勢とは方向性が180度逆なのである。 また、1990年9月に発表された⑥では、当時のソ連・東欧圏の「エスニシティの復権の動き」を極めて肯定的に論じていたことは既に述べたとおりであるが、この『アジアから読む日本国憲法』では、恐らく同じ現象を念頭において、以下のように述べている。 「今、民族問題が噴出しているのは、まさしく国民国家の軛の中からエスニックグループというものが、自己主張をしたいというやむにやまれない現実がまさに今、表れた。これをただアナーキーと見るだけでは私は短絡的だと思う。これは必ず国民国家を超えたもう少し大きなまとまりへと向かっていくと思います。ヨーロッパの中にある国民国家を超える動きと、部族単位にまで分裂していく方向と、これは同時並行的に生まれていきつつあるわけです。今、求心力と拡散力とか、同時的に世界で起きているわけです。」 1991年後半にバルト三国が完全独立を果たす一方、同年6月にはスロベニア、クロアチアがユーゴスラビアからの独立を宣言してユーゴスラビア紛争が始まっている。また、この講演の直前である1992年4月には、3月のボスニア=ヘルツェゴビナの独立宣言を契機として、ボスニア=ヘルツェゴビナ紛争が起こっている。そのような政治的現実の進展により、かつてのように「エスニシティーの復権の動き」を手放しに褒めることをやめ、「これは必ず国民国家を超えたもう少し大きなまとまりへと向かっていく」などと苦しい主張を展開するようになっていると思われる。 92年5月の以上のような認識は、1992年8月刊行の『季刊青丘』13号に発表された「「在日」の新たな基軸を求めて――抵抗と参加のはざまで」(⑧)で、より発展することになる。 ここで姜は以下のように書いている。 「もし住民として地域社会に参加しつつ、しかも 文化的自決権の主体としてその民族性を涵養していく可能性が開かれていくとすれば、「在日」の積極的な参加は結果として日本の国家を内側に向けて開いていくことになるはずであり、そのことは間接的に 日本の民主化に貢献し、ささやかではあっても、その国家主義的な拡大に対する抑割となるのではないか。」 「通常民族問題と言えば、政治的独立権としての民族自決権が想定されていたが、これに対してバウアーは文化的自決権の保障を主張し、行政や教育における言語政策の必要を説いたのである。/「在日」の実体、その歴史的由来を考えるとき、通常の民族問題とはその性格を異にしていることは言うまでもない。しかし日本社会に散在し、しかも 異民族として、住民として居住していこうとする限り、バウアーらが考えた 文化的自決権に基づく異民族との共生という立場は、かなりの普遍的な妥当性を有しているのではないか。/・・・・・・ 「地域」への参加と文化的自決権に基づく民族性の涵養と継承が車の両輪のように噛み合うための条件を整えていくこと、このことこそ、次の世紀に向けた「在日」の最大の課題ではないだろうか。」 このように、「文化的自決権」なる用語を用いており、これが「民族性を涵養していく可能性」を持っていると述べている。これは、それ以前の姜の立場と同一であると一見思われるかもしれないが、そうではないと思われる。なぜならば、姜はこの論文のほぼ同時期に発表したエッセイ「「民族問題の迷宮」とオーストロ・マルクス主義」(『思想』1992年8月号)において、オットー・バウアーの所論に触れつつ、以下のように述べているからである。 「この大著(注・『多民族問題と社会民主党』(1907年))が書かれた段階でバウアーが最も腐心したのは、いわば計画的理性の設計によって諸民族を帝国の中に接近、融合させようとするのではなく、伝統的なもの、歴史的に与えられたものの中に自覚的に政治的意志を吸収し、 民族主義を歴史によって基礎づけられている帝国の中の協同作用を通じて和らげることであった。それはある意味で国民国家のリジッドでハードな同一性原理のオールタナティブを模索する試みであった。そこから導き出された「超-民族的な国家」形態は、 現在のヨーロッパ統合を先取りした構想であると言える。/この学校から何を学ぶことができるのか、大袈裟に言えば、ここに 「民族の逆流」に対応する人類の知恵がかかっているようにも思える。」 このように、「文化的自決権」とは、姜においては、「民族主義を歴史によって基礎づけられている帝国の中の協同作用を通じて和らげること」と不可分のものとして認識されている。言わば、ナショナリズム抑制論である。 このことは、姜が、恐らく旧ソ連・東欧圏の民族運動の隆盛に関して、「民族の逆流」などと、極めて否定的な表現を用いている(⑧にも論評抜きで「現存社会主義の崩壊と民族の逆流」「東欧・ソ連型社会主義の倒壊とそれに続く堰を切ったような民族の奔流」と文言がある)こととも関連している。5月時の講演での苦しい弁明すら放棄し、もはや姜は「世界のここかしこに「在日」がある」との発言の根拠であった「エスニシティの復権の動き」を否定的に評価するようになっていると言える。 したがって、ここでの「文化的自決権」云々は、それまでの姜による「民族文化」の育成と民族運動の発展の必要性という主張とは完全に異質の議論であり、むしろ、 在日朝鮮人の民族文化・民族運動を脱政治化し、日本国家(「帝国」)の枠内において統御可能なものとすることが企図されている、と言えよう。そのような民族文化・民族運動は、それ以前の姜が強く強調するような、第三世界との連帯や、「祖国と自分たちとの絆を再発見」することをあらかじめ否定するものにならざるをえないだろう。 もちろん、この時点では姜は、在日朝鮮人の朝鮮半島の「祖国」との結びつきの可能性を否定するわけではない。ただし、これに関する姜の発言は、支離滅裂なものになっている。姜はこの⑧で国民国家論に全面的に依拠しつつ、以下のように述べている。 「ふたつの国家に分断された祖国は、いびつな形で 国民国家の「虚構性」を再現しており、「在日」にとってその民族的な成長に貢献するよりもむしろ 桎梏となる部分が大きかったことは否めない事実である。とくに定住化を自明のものと受け入れている「在日」世代にとって、ふたつの国家はどこかよそよそしい存在でしかない。しかしながら、ここから祖国そのものが「在日」の若い世代にとって単なる記号のような存在と化している、と短絡してはならない。/冷戦の氷解とともに国家の論理ではなく、民族の立場から和解と統一への模索がはじまり、 国家主導のナショナリズムではなく、民族主導のナショナリズムが現実の力を獲得するようになれば、「在日」にとってもそれは大きな転機となるはずである。「在日」が 日本と朝鮮半島の「あいだ」に生きる特異な存在として、独自の意味と役割を果たしうる可能性は完全に摘み取られているわけではない。」 姜は「民族主導のナショナリズム」による「和解と統一」を肯定的に評価しているように見えるが、他方で南北両国家について、「近代国家の形成に挫折し、植民地支配に転落した民族が、フランス革命以来の国民国家の「モジュール」にとりつかれ続けてきたとしても決して不思議ではない」などとも述べている。「民族主導のナショナリズム」によって主導された結果樹立(統一)される国家は、姜が否定的に述べるところの「国民国家」にはならないのだろうか。ここでの姜の主張はほとんど意味をなしていない。 姜は、「祖国」とのつながりという点もとりあえず言及しておかなければならない、という「立ち位置」上の必要性から、十把一絡げに「国民国家」「ナショナリズム」=悪という図式に立つ国民国家論に依拠しながら「祖国」との結びつきを称揚するという、支離滅裂な行為を行っているのであって、これは、それまでの姜による「祖国」と在日朝鮮人の関係性に関する議論とは異質のものである。 ところで、前述のエッセイ「「民族問題の迷宮」とオーストロ・マルクス主義」の上の引用文にあるように、姜は、バウアーの志向する「超-民族的な国家」形態を、「現在のヨーロッパ統合を先取りした構想」であると評価している。これは、極めて示唆的である。 姜は、この文章の約1年前に『世界』に発表した論文「<戦後パラダイム>はよみがえるか」(『世界』1991年5月号)において、「北東アジアにまたがる地域的な共同安全・平和機構の構築」、「最終的にはアジア版CSCE(欧州安全保障協力会議)を射程に入れた、多国間協議の制度化」を提唱している。管見の範囲では、これは、姜が東アジア共同体論に類似した構想を打ち出した、最初の事例である。 そうすると、姜の論理からすれば、 「アジア版CSCE」(≒東アジア共同体)の樹立のためには、在日朝鮮人は「文化的自決権」のレベルにまでナショナリズムを抑制させておかなければならない、ということになる。 ⑧には東アジア共同体論およびその類似構想への言及は全くないが、この解釈が正しければ、同時期に連動して生じている日本社会認識の変容も、東アジア共同体論の構想の結果としても説明できる。東アジア共同体においては、各国の歴史認識の共有が不可欠であるが、従来の姜のような天皇制・日本社会の本質的閉鎖性を強調するような認識に日本社会が進む可能性が、現実にはほとんど存在しない以上、共有される歴史認識は、せめて周辺アジア諸国との「折り合い」が可能であるような、本質的には極めて不十分なレベルの「過去への反省」で決着されるしかないからである。その意味で、東アジア共同体論の構想を抱くようになれば、姜の日本社会認識が変容することはある種の必然であったとも言える。 (つづく) 一水会の鈴木邦男のホームページに、和田春樹の面白い写真があったので掲載しておく。
![]() http://kunyon.com/shucho/110418.html また続きを書かなければならないが、以前書いた「和田春樹について(1)」の趣旨とこれほど合致した写真はないだろう。 http://watashinim.exblog.jp/12577810/ 15.
姜が放棄した日本社会認識についてもう少し述べておこう。在日朝鮮人の批評家であり、かつて『日本のなかの朝鮮問題――文化のファシズムと在日朝鮮人』(現代書館、1986年)という示唆に富む本を刊行した、元省鎮は、1995年の文章で以下のように述べている(「私たちの民族性にとって「同化」とは何か」『ウリ生活』第12号、1995年8月)。 「民族的誇りは文化的優越感なしには生まれえないとは言えないにせよ、初期の在日同胞(すなわち一世)は歴史的事実をありのままに受け止めるという形で、そのような意識を持ち、その反面で日本人に対する蔑視感情も内に秘めていたと言ってよいであろう。/ところが、そのような一世でさえ、今日では在日同胞の「帰化」がかつてほどの抵抗感を覚えないようになってきたと言える。これは要するに、一世を含めた在日同胞の全体がそれぐらいに日本に同化してしまっているということであろう。/もちろん、このような変化は、日本人側の在日同胞への対応の仕方と密接につながっている。いま、それについて簡単に整理すれば、次のように二段階に分けることが出来るであろう。すなわち日本人側は、在日同胞一世がまだ多数を占め、その「移民性」が色濃い時期には排除の傾向を強く見せたがゆえに「帰化」も容易に認められなかったが(第一段階)、在日同胞が実質的に日本に同化した段階では、その同化の完了としての「帰化」を積極的に支持するようになる(第二段階)ということである。/現在はまさに、この第二段階に来ていると言えるが、注意すべきなのは、この二つの段階に日本人側の思考様式の変化があったわけではないということだ。すなわち、日本人の側では上記の第二段階がただい一つの「落ち着き先」として想定されてきたのであり、第一段階から第二段階への移り行きはすでに当初から見通されていたのものである。これを分かりやすく言うと、在日同胞の日本人化という実体がなければ「帰化」の意味がないということなのである。日本において、異民族の同化とは、終局的にはそれら異民族の民族的徴表を残さない形での同化を意味するものであると言える。つまり、日本という「場」では異民族が「少数民族」として残ることさえ阻害する、ある特別な力が働くのである。/「同化」の問題を考える時、私たちは何よりも、多くの在日同胞が当初から日本ふうの姓を日常的に用い、自己の民族的出自を分かりにくくさせた形で日本に在住してきたという事実を想起しなければならない。このような在日同胞の姿はほかでもなく、日本という国、日本人という民族の「本質的な暗さ」を反映している。それはちょうど、学校を中心とした子供の世界での「いじめ」の問題が本質的に日本人の暗さを反映しているのと同じである。それらの問題は、いわゆる先進国病の所産でも何でもない。/しかし、ここでより重要なことは、在日同胞が結果的にその日本の「暗さ」に飲み込まれているということ、言い換えればその「暗さ」を追い払うことがまったく出来ないでいるという事実の方なのである。」 かつての姜が、「天皇制」その他のさまざまな表現を用いて言おうとしていたのは、恐らく、ここで言われている、「異民族が「少数民族」として残ることさえ阻害する、ある特別な力」、「日本という国、日本人という民族の「本質的な暗さ」」のことである。その特殊性は、日本の主として左派――そして92年以後の姜――がしばしば「絶対主義」や「血統主義」や「単一民族神話」などと比較可能な形で表現してきた「特殊性」とはまた別のものであり、言うなれば、むしろそれらの比較可能な「特殊性」の背景にある「特殊性」である。 元はまた、この文章の中で、以下のように述べている。 「私の考えでは、日本人が真正の「他者」を理解し、日本にいわば「融け合うことのない意識の複数性」(バフチン)を花開かせる唯一の機会は、私たち在日同胞の中で一世が多数を占めていた時代をおいてなかった。もちろん、それはあくまで一つの「機会」に過ぎなかったのであり、そのような種類の「他者」理解を実現する条件を日本人は持っていなかったのである。ところが、そのような絶好の機会がはるか彼方に遠ざかった現在になって、日本人化した異民族との相互理解を「他者」同士の理解と見立て、そこにあたかも「多様性」があると思いなす気分が急速に拡散している。これは(少なくとも私においては)実に戦慄すべき事態と言うほかはない。」 そして、元が言うところの「戦慄すべき事態」を、在日朝鮮人側から牽引したのが、「日本という国、日本人という民族の「本質的な暗さ」」という認識を完全に放棄した上での、姜に代表される在日朝鮮人知識人たちであり、それらの在日朝鮮人言説である。そこで、姜の日本社会認識の変容と同時期に生じた、在日朝鮮人言説の変化の検討に移る。 (つづく)
「「岩波書店著者もしくは岩波書店社員の紹介」なる応募条件への撤回要求・抗議文」
http://shutoken2007.blog88.fc2.com/blog-entry-40.html # by kollwitz2000 | 2012-03-12 00:01
14.
姜の日本社会認識の変化を、端的に示してくれる資料をもう一つあげておく。 姜は、1995年12月、「一九八九年の昭和の終焉と冷戦の終わりから戦後五〇年の現在に及ぶ間の、折々の事件や出来事に触発されていくつかの雑誌に発表したもの」(「はじめに」より)から成り立っている単行本『ふたつの戦後と日本――アジアから問う戦後五〇年』(三一書房)を刊行する。単行本収録に際して、いくつかの論文には注釈が書き加えられている。そのうちの一つを見てみよう。 同書には、既に挙げた、「昭和の終焉と現代日本の『心象地理=歴史』」(第7節の⑤)が収録されている。原文(本文)は、以下のとおりである。 「『オリエンタリズム』の著者エドワード・サイードが指摘しているように、「東洋人」(オリエンタル)の表象が、嘆かわしい異邦人という表現にふさわしいようなアイデンティティを共有する、西欧社会のなかの諸要素(犯罪者、狂人、女、貧乏人)と結びつけられていたとすれば、日本の社会でこうした「内なる他者」としての役割をあてがわれ、「遅れたアジア」というイメージの媒介者となったのは、在日韓国・朝鮮人であった。「暗い、陰鬱、卑屈、汚い、田舎臭い、貧しい、みじめ、あわれ、恐い、恐ろしい、劣る、遅れている、野蛮、非文明国」、これらの朝鮮についてのイメージは、決して植民地時代のそれではない。それは戦後教育を受け、発達したメディアの恩恵に日々浴している日本の平均的な高校生の、一九七七年の意識調査の結果である。/その後の韓国の経済成長とオリンピック開催、一定の民主化の進展などによってイメージの変容がみられたが、国民意識の深層に根をはった朝鮮観のステレオタイプは依然としてしぶとく残留している。この点はとくに、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の場合にあてはまるはずである。」(同書、21~22頁) この一節について、姜は、以下のような注釈を加えている。 「この論稿が発表されたのは、一九八九年の末であったが、その五年後、いわゆる「核疑惑」を契機に民族学校に通う学生に対するいやがらせや排斥が相次いだことは、ここでの私見を裏書きする結果になった。ただ、これらの事件をとらえて過去の記憶を呼び覚まし、民族排外主義の「先祖返り」が繰り返されていると断定することはできない。記憶の想起が、現在の対立や相克を和らげるのではなく、逆に抜き差しならない民族的アイデンティティの二項対立的な図式をより強化するように作用するとすれば、それは不幸な事態である。「やはり日本は変わっていない」「共生など言葉の遊びにすぎない。やはり民族的な違いは超えられない」、こうした「やはり……」というところに落ちついてしまう思考こそ、問題にしなければならない危険な「アイデンティティ・ゲーム」ではないか。冷戦の終結以後、ナショナリズムやエスニシティなどにまつわる文化の「政治化」が急速に浮上するなか、そのような対立図式のなかにはまり込んでしまいやすい条件にあると言えよう。それは必然的に民族や国民のアイデンティティについて多分に「原理主義」(ファンダメンタリズム)的な傾向をよみがえらせることになり、「われわれ」対「彼ら」の二分法を決定的なものにしてしまうことになりかねない。重要なことは、そうした対立の図式そのものを廃棄する可能性をさぐることにある。このようなコンテクストのなかで、日本の差別的な朝鮮観が問題となるのである。そこには後にも触れているとおり、アジアのなかの日本の位置についての自己意識や、それとのかかわりを求める日本国民の自意識が反映されているからである。それは明らかに歴史的につくられた、もっと極端に言えば、「ねつ造」されたものにほかならない。したがって、決して文化的なアイデンティティに還元することで説明される性質のものではないのである。その批判的な再構成が、一九八九年の昭和の終焉に触発された本稿の目的であった。少なくとも現在から振り返ってみれば、そのように評価されうるはずである」(同書、22~23頁) 「少なくとも現在から振り返ってみれば、そのように評価されうるはずである」などという言い訳じみた弁明が、その前の「その批判的な再構成が、一九八九年の昭和の終焉に触発された本稿の目的であった。」などという主張が虚偽であることを自ずから示唆しているように思われる。 言うまでもないが、姜が言及している1994年以後の「民族学校に通う学生に対するいやがらせや排斥」は、かつての姜が的確に指摘していたように、北朝鮮系と見なされる在日朝鮮人に特に排外的にはたらく、「国民意識の深層に根をはった朝鮮観のステレオタイプ」が土台となって行われたものである。普通に考えれば、「やはり日本は変わっていない」「共生など言葉の遊びにすぎない」としか結論づけられないものであり、当然これに対しては、かつての姜のように、祖国定位論であれ在日結集論であれ、民族(主義)的抵抗が対置されなければならない。 ところが姜はこの注釈において、上のように、そうした認識と抵抗こそが「危険な「アイデンティティ・ゲーム」」だと主張している。そして、恐らく書いている本人も何が言いたいかよくわからないような文章をそのまま写せば、「「われわれ」対「彼ら」の二分法」の「対立の図式そのものを廃棄する」ことこそが必要だ、と述べている。どうやって?襲ってくる日本人に「ナショナリズムというのは幻想です」と説教するのか?それとも「対立の図式そのものを廃棄」するために帰化した上で身も心も日本人(地球市民)になるべきというのか?また、「このようなコンテクストのなかで、日本の差別的な朝鮮観が問題となるのである」などと言っているが、ここでの姜のような立場を共有しない人物(朝鮮人)による、日本人の朝鮮観批判は、「危険な「アイデンティティ・ゲーム」」で不当だとでも言うのであろうか?こうした疑問はさておくとして、このような認識が、論文の初出発表時の姜とは180度異なっていることは明らかであろう。この本文と注釈は、おおよそ92年以降の姜が、それ以前の姜とは立論の前提を根本的に変えてしまっていることを、非常に鮮明に照らし出している。 また、姜は、1996年2月刊行の『青丘』第25号に収録された「対談 二十一世紀に向けて」(文京洙との対談)では、以下のように発言している。 「清算したと思われていた戦前のものが表出したのが八九年の昭和天皇が亡くなった前後だったと思う。この年は私の父親が亡くなった時でもあるわけですが。ようするに明治維新をハッピーなビギニングにして、昭和の終わりをハッピーエンドとする、そして一貫した国民としての日本人のサクセスストーリーとして明らかに一つの物語が出来てしまった。しかしそういう形で日本人としてのアイデンティティを確かめ合った時期は、昭和天皇の死とともに終わったと思います。」 こうした発言が、前に引用した、昭和天皇の死去のすぐ後(1989年5月)に発表された発言、特に④の「われわれにとって日本とはなにか(1)「昭和」の終焉とわれわれ」の発言と180度食い違うものであることは言うまでもない。そして、今日から振り返れば、どちらの認識が正しかったかもまた明らかである。 (つづく)
13.
この講演記録⑦の1991年5月から約1年の間に、姜の日本社会認識において、どのような変化が生じたのだろうか。この点を考える上で、姜がこの時期頻繁に言及している、「戸籍」に関する発言を検討することが示唆的であると思う。 姜は、講演記録⑦では、以下のように述べている。 「私は最終的に異民族と日本人とを分けるものは何かというと、戸籍しかないと思います。最終的にはそこにいきつきます。戸籍がない人間は、ある意味で日本の社会の中で人外の人だと思うんですね。」 「戸籍制度というものはやはり日本という社会を成りたたしめている根幹だと思います。それが日本の場合、ナショナリティを形成している。ですから、よく日本が単一民族的な非常に同質的な社会だと言われているのは、その根幹には実は戸籍制度があるからなんですね。世界の中でも戸籍制度というものを、これほどまでに徹底して完成したというのは、私は日本しかないと思うのです。」 「戸籍制度こそ日本型の動員体制の根幹をなしている。ですから日本の人々が、自分は日本人であり、そして自分たちの社会は非常に同質的な社会であって異民族とは違う、そういう違いを確認できる最終的な根拠はそこにあるわけです。」 「言うまでもなく、戸籍制度は血統主義になっています。つまり血の原理によって成り立っています。そうすると日本に異民族が60年、70年いたとしても、血統が違う限りは日本人には成り得ない。ところが中国残留孤児の場合には、彼らが日本には実体として生活の根拠が今までなかったにもかかわらず、中国残留孤児は日本人であると認定され、戸籍が証拠だてられれば、その日からすぐ日本人になり得るわけです。」 「これが戸籍制度を貫く血統原理です。そしてその血統原理の集約点に、私はやはり天皇制があると思うんです。そのような基本的な日本型の動員体制は明治以降に作られましたが、その骨格は、1945年の敗戦によっても根本的には変わっていない。ですから、憲法第1条に「天皇は日本国の象徴である」とあるのは、まさしく、戦前と戦後を媒介する戦後の平和憲法に明文化されている1つの極めて象徴的な規定ではないかと思います。/それゆえ、今まで在日朝鮮人が日本の人々にとってこれほどにも無視され、軽視され、ほとんど問題にされてこなかったのです。」 このように、ここで姜は、戸籍制度を「日本という社会を成りたたしめている根幹」と位置づけた上で、その血統原理の集約点として「天皇制」があるとしている。一応、それまでの日本社会の本質的閉鎖性、という認識の延長上にあると言えるが、これは実は危うい議論である。この講演では、そのような疑問が出るまでもなく強固であるという前提になっているようであるが、問題が戸籍制度に特化されるのであれば、戸籍制度が変われば問題ないのか、ということになりかねないからである。 その意味では、⑦の時点で問題は含まれていたともいえる。この問題が顕在化するのが約1年後の『アジアから読む日本国憲法』の講演であり、そこでは、戸籍制度および日本社会への認識自体が変質していることが読み取れるのである。 姜は、ここで以下のように発言している。 「日本民族から日本人に変わったという時に一体何が変わったのか、実は今申し上げたおうな、日本国民及び国民主権という考え方の中に、その国民の範囲というものが結局は戸籍法を土台にして、日本国内に定住している旧植民地出身者に関しては国民の埒外に置いていたことは、私はまちがいないと思うんです。/それを一体どのように考えていったらいいのか。もしその国民という範疇の中に、旧植民地出身者をも加えて、自分達の社会への共同の参加権というものを認めていたとしたならば、私はすでに日本の社会は戦後の出発的において「国際化」されていたと思います。悲しいことですけれど戦前の日本は帝国主義という形で「国際化」しました。敗戦の直前、形の上では当時の植民地にいた人々には国政参加権が与えられました。これは一度も行使されずに八月一五日を迎えたわけですけれども、国家総動員のために旧植民地出身者にも参政権を与える、これは帝国主義がやったいわば戦争に参加させるための代償でした。ゆがんだ形で「国際化」されていったわけです。/このゆがんだ形で「国際化」された状況が戦後においてはすべて忘却され、そして日本民族という言葉は、日本人という言葉に素早く変えられてきました。そこにおいて日本はすでに帝国主義という形で「国際化」されていたという現実をすべて、忘却してきた、ないしはそれに対して目をふさいできた。あるいは少なくともそれを過小評価してきたと思うんです。」 姜はここで、竹内好のようなことを言っているが、これは、竹内の主張がそうであるように馬鹿げた議論であって、1945年4月の衆議院議員選挙法改正(次回選挙からの朝鮮への適用。実際には、朝鮮の独立により施行されず)は、それこそ戦時動員の手段以外の何者でもなく、肯定的に評価されるべき「国際化」とは何の関係もない。ここで興味深いのは、姜がここで、戦後直後の日本で旧植民地出身者が「日本国民」に統合されること(これは言葉の正しい意味での「同化主義」である)を「国際化」として肯定的に語っている点と、「戸籍法」を土台にして構成されている「日本国民」の枠組みが、旧植民地出身者を含み得たかのような可塑性を持っているかのごとき発言を行なっている点である。 戸籍制度の可塑性という見解は、「在日韓国・朝鮮人に日本人は外国人として接するべきか」という聴衆からの質問への姜の回答に、より顕著に表れている。姜は以下のように答えている。 「「在日」の人達を外国人というべきかどうか、さらに日本国籍を取得して公務員の一般職に就きたいという人がいるかと思えば、「在日」のアイデンティティを考えている人がいる。どのように日本の方々は考えたらいいのか。非常に難しい問いです。それは、「在日」自体が今、これまでのようにはっきりとした、枠組の中でとらえられなくなったからです。」 「その中で日本の人々が「在日」に対してどういう対応をしていったらいいのか。これは逆にいうと、自分達がよっかかっている日本人という共同幻想というか、想像の共同体というものを自分達がどうとらえているかにかかってくる、と私は思います。そこには日本人というものはアイデンティティがはっきりしているはずだという暗黙の前提があるんではないでしょうか。はたしてそうでしょうか。日本人とは一体何か。何をもって日本人というのか。戸籍の中に日本人があるから日本人というんでしょうか。ある人類学者もいう通り、ナショナリズムというのは想像の共同体だとすれば、これはフィクションです。自分達はまちがいなく日本人であるという一つの確証はどこに持てるのか。結局これは戸籍以外にない。このようにして戸籍の由来というものを考えていくと、これは日本の徴兵制度を整理させるために大きなテコになった制度です。そのように考えていくと、自分達のアイデンティティは暗黙のうちに、ソリッドではっきりしているという前提で、「在日」のアイデンティティはよくわからないという問いをする前に、では一体、日本人とは何なのか、それをもう一回問い直す必要があるんじゃないでしょうか。社会主義の終焉の中で、お互いがゆらいでいる中で、本当にあるべき自分達のアイデンティティというのは何なのか。それを模索していかなきゃならない。」 この回答はそもそも奇妙である。「在日韓国・朝鮮人に日本人は外国人として接するべきか」という問いはそもそも「非常に難しい問い」でも何でもないのであって、「外国人として接するべき。ただし、日本の植民地支配に由来する歴史的経緯があるため、日本国民と同等の市民権を持つ「外国人」として」とでも答えればよい。それはさておき、ここで注目されるべきは、⑦の講演記録では、戸籍に登録されることが日本人であることを証立てるという事実に関して、「最終的に異民族と日本人とを分ける」ものとして、また、血統主義と天皇制に基づいた堅固なものとされていたにもかかわらず、ここでは、その事実は、日本人という規定の恣意性・虚構性を示すものとして提示されていることである。つまり、戸籍に登録されることが日本人であることを証立てるという事実に関する評価が逆転しているのである。 もちろん姜は、『アジアから読む日本国憲法』でも、「日本国民とはまさしく日本人として血を共有し日本国籍法及びその土台となる戸籍法に基づいて、日本国民のナショナリティが与えられる」(21頁)と述べており、戸籍制度が血統主義に基づくものである、という認識は変化していないと思われる。だが、戸籍や血統主義の問題は、天皇制や、それが象徴する日本社会の本質的閉鎖性という問題とは切り離されてしまっている。 このように見てくると、前述の「「在日」のアイデンティティーを求めて」(⑨)における論理が、戸籍登録=日本人という事実の恣意性・虚構性を強調する姜の新しい評価と同一であることが見て取れよう。既に見たように、姜は⑨において、「日本的システム」という日本社会の否定的な側面の恣意性・虚構性を強調している。恣意的・虚構的であるがゆえに、天皇制および日本社会の本質的改変なしに、「日本的システム」の除去が可能であるかのように書かれている。そうすると、日本社会の特殊性・特異性とは一体何なのか、そもそも存在するのか、ということにもなろう。 上で見たように、⑨では、「国民の文化的な価値や意識の面からみるならば、この歴史のある局面において人為的に形成されたシステムは、常に日本文化の古くからの伝統的な特殊性のあらわれとみなされてきた。ここに同質的なナショナリズムとその単一のアイデンティティーの「虚構」が、戦後の国策としての成長主義に対して潜在的な仕方で十分作動し続けてきた根拠がある。「同質性」と「特殊性」の神話が「国際化」の時代においても依然として根強く生き続けているのも、日本型国民国家の甲羅から脱却しえていないからである。/このような日本社会の特異なナショナリズムと文化的な「モーレス(心の習慣)」は、常に単一のナショナル・アイデンティティーしか許容してこなかったし、それが一元的な国家管理を可能にしてきたのである。」と述べられている。だとすれば、姜は日本社会の「特異」性を、「日本文化の古くからの伝統的な特殊性のあらわれ」という「虚構」に基づいて形成された、「同質的なナショナリズムとその単一のアイデンティティー」なる概念が支配的である点に見ているようである。そうすると、その側面を指して「血統主義」と呼ぶとしても、それは比較可能な「特殊性」、神話に過ぎない「特殊性」ということになる。⑨から約1年後に発表された「転形期の「在日」と参政権――複合的アイデンティティの可能性」(『季刊青丘』20号、1994年5月)(⑩)において、そのことは明瞭に見て取れよう。ここでは以下のような記述がある。 「国家的秩序のゆらぎが進みつつあるのは、そうした「単純性のパラダイム」によっては、複合的な諸要素の変化が仕掛けてくる挑戦に耐えられなくなっているからである。/具体的に日本の場合についていうと、欧米諸国と較べて、「外国人」が占める人口比率は極端に少なく、国内の先住民族の割合も相対的に低いため、単一民族=国家の神話がしぶとく生き続けていることは知ってのとおりである。しかもこの神話は、大戦中の二〇年代から四〇年代にかけて作られた国家統制の総力戦体制のもとで社会の底辺にまで浸透するようになった。この国民総動員体制は、戦後改革の変型と挫折のなかで形を変えて蘇生し、戦後復興の日本型モデルに貢献することになったのである。」 日本社会で「単一民族=国家の神話」が根強いのは、単に人口比率と総動員体制のためであるようだ。天皇制、日本社会の本質的閉鎖性という問題は完全に消えている。 この文章は以下のように続く。 「しかし冷戦の崩壊以後、そうしたモデルは明らかに耐用年数を終えようとしている。政治や経済、社会や文化にいたるまで「改革」が叫ばれているのも、そうした現代日本の転換期を示している。このことは逆にいえば、国民総動員型のハードな国家秩序に対して、複合性と多様性を尊重する市民型社会が確実に根を下ろしつつあることを意味している。」 当時の「政治改革」や規制緩和の動きと、「複合性と多様性を尊重する市民型社会が確実に根を下ろしつつあること」が結びつくはずがない。姜は恐らく地域社会を希望の根拠にしたいのだろうが、地方議会こそがむしろ右翼的な各種の決議を採択する場であることは周知のことである。こうした、ほぼ根拠のない希望的観測は、「いずれにしても、「在日」の側からの参政権の要求に共鳴する内外の条件がある程度成熟しつつあることだけは確認しておかなければならないだろう」という、今日から見れば信じがたい楽観的な発言につながる。 このように、姜において、国民国家論やポストコロニアリズムの導入と、天皇制や日本社会の本質的閉鎖性という認識の消滅はほぼ同時に生じている。むしろ、天皇制や日本社会の本質的閉鎖性という認識が消滅したがゆえに、国民国家論やポストコロニアリズムの旗手としての姜が出現した、と言った方がよいだろう。ついでに指摘しておくと、これは、日本における国民国家論やポストコロニアリズムそれ自体が、天皇制や日本社会の本質的閉鎖性・排外性といった問題との対決を回避した、左派の転向イデオロギーの一形態であることを強く示唆するものである。 (つづく)
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