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<追記>この記事は、2009年10月1日付で公開したものです。なお、リンク先では、署名いただいた方のお名前・メッセージを随時追加しています。
ありがたいことに、有志の方々から標記の共同声明文をいただいたので、「資料庫」に掲載した。詳しくはリンク先を参照のこと。より多くの方々から署名をいただきたく思うので、是非ご署名願いたい。 「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」 http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-23.html <追記1>この記事は、2009年6月16日付で公開したものです。
本日2009年6月16日午前、司法記者クラブ事務局にFAXで、リンク先の通知文を送った。司法記者クラブ事務局によれば、同日、クラブ加盟各社に配信したとのことである。 「新潮社・早川清『週刊新潮』前編集長・佐藤優氏への訴訟提起にあたって」 http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-19.html 訴訟に至る経緯や、今回の訴訟が現在の出版・ジャーナリズム界に特に提起すると思われる問題について述べているので、ぜひご一読いただきたい。 <追記2>6月12日の提訴に至る、より詳しい経緯については、このブログの以下の記事をご覧ください。 「佐藤優氏への公開質問状」(2009年2月26日) 「佐藤優氏から、公開質問状への回答が来ない/『週刊新潮』編集部とのやりとり」(2009年3月17日) 「メモ7」(2009年3月27日) 「佐藤優氏、公開質問状の受け取りを拒絶」(2009年4月13日) 「『週刊新潮』編集部、質問状への回答を拒絶」(2009年4月16日) 1.
故・上田耕一郎は、「<佐藤優現象>批判」でも名前を挙げたように、山口二郎や和田春樹らによる「平和基本法」への最も初期の批判者であるが、上田の『現代世界と社会主義』(大月書店、1982年)を読んでいたら、以下のような一節があった(強調は引用者、以下同じ)。 「 日本が「西側諸国」――つまり帝国主義陣営のことです――の一員として、資本主義世界の、東西問題と南北問題とがからまりあって生みだされる国際的な政治・経済危機に対処するために、いま、海外における軍事力の発動能力を含む「柔軟な行動能力」を求められているのです。こうして、国際的には、日本にたいして、安保条約の双務化改定と、そのために必要な集団的自衛権をもてるようにする憲法改悪というきびしい要求が、すでに日程にのぼされています。 このように今日、日本は、資本主義世界の経済危機、政治危機に対処するための、「柔軟な、行動能力を待つ」主要五カ国(注・アメリカ・イギリス・フランス・西ドイツ・日本)の一つとして、国際的に期待されています。これは別の言葉でいえば、NATOと日米安保条約とを結びつけた共同対応が緊急のものとして要請されているということであり、安保のNATO化が国際的に要請されていることにほかなりません。昨年(注・1981年5月)のレーガン・鈴木(注・鈴木善幸首相(当時))の日米首脳会談の要求も核心はここにありました。 いま、日本国内ですすめられている軍備拡張と日米共同作戦態勢の強化、第二臨調によるニセ行政改革、財政再建、憲法改悪の準備などなどは、国内の政治情況にみあった一進一退や戦術的かけひきにいろどられており、タイム・スケジュールはまだ最終的に確定していないとしても、基本レールは、対米従属の日本軍団主義(注・恐らく「日本軍国主義」の誤記と思われる)の復活完了というこの方向にむけて敷かれており、国民の世論と運動や、野党の動向をみながら、安保のNATO化、憲法改悪をゴールとし、それを可能にする政治的力関係をつくりだすことが企図されていることは疑いありません。こうして、国際的比重の高まった日本の、国内での二つの道をめぐる対決は、国際的な対決と、きわめて緊密に結びつけられつつあります。」(同書、84~85頁) 上田のこの「安保のNATO化」への危惧と批判は、少なくとも1995年までは一貫しており、同年の著作『構造変動の時代』(新日本出版社、1995年9月)では、「日米安保のNATO化」という節見出しを掲げて、その中で以下のように述べている。少し長くなるが、現在のASEAN重視の「東アジア共同体」論の原型とも言える動きを、上田はよく捉えていると思う。 「第二の重要な問題は日米安保条約の多国間条約化、いわばNATO化がめざされてきたことです。ヨーロッパのNATOのような軍事同盟機構をアジアにもつくろう、その中心に日米軍事同盟をすえようというわけです。(中略) アジアに新しい軍事同盟機構をつくろうというねらいについて、ナイ国防次官補は、95年2月19日に毎日新聞(小松記者)との単独会見でそのねらいを次のようにのべています。「我々が今度発表する『東アジア戦略報告』で示すのは、固い礎石としての日米安保体制を維持しながら中国や韓国、他の諸国も含めた信頼醸成の場としての多国間協議体を発展させていきたい、ということとだ。これは日米安保にとって代わるものではない。我々が考えているのはNATOのように強固な日米安保関係と、OSCEのような幅広い多国間協議体だ」(毎日新聞95年2月20付)。 これは非常に重大な表明です。つまり、ヨーロッパではソ連がなくなった後、米軍の撤退もはじまるという状況があるのに、アジアでは新たに日米軍事同盟を「固い礎石」としてNATOをつくろうというわけです。ナイ次官補は、「『東南アジア諸国連合(ASEAN)地域フォーラム』の機能強化やアジア・太平洋経済協力会議(APEC)を活用した安保対話機構の設立に、前向きに取り組む構えを示した」(同前)とあります。 これに日本側も積極的にとりくみをはじめているのですね。去年(94年)の11月にナイ国防次官補が日本にきて、外務省、防衛庁と話し会ったことは先にのべましたけれど、ナイ次官補がこういう表明をして2月27日に「東アジア戦略」(注・アメリカ国防総省が1995年2月27日に発表した報告書「東アジア・太平洋地域にたいする安全保障戦略」)が公表された後、朝日新聞3月13日付に、防衛庁のアジアと安保対話を促進するという方針がまとまったという大きな記事が載りました。「日米安保体制を基軸としながらも、対話の促進によって(アジア・太平洋)地域の『不安定要因』を減らすとしている」というもので、防衛庁方針(要旨)の最後はこうなっています。「この地域ではASEAN地域フォーラムを中心に今後、安保面での多国間の対話が促進されていくことが見込まれ、関与を強めていくことが必要」。 「東アジア戦略」もこのASEAN地域フォーラムを重視しています。「1993年、ASEANは、アジア最初の安全保障問題にかんする幅広い基盤をもつ協議体としてASEAN地域フォーラム(ARF)の創設を提案し、他の国々もそれに同意した。……その第一の目的は、アジア・太平洋地域における安全保障問題を協議する場を提供することにある」。日本はASEAN加盟国でないにもかかわらず、昨年7月、この地域フォーラムに河野(注・洋平)外務大臣と福田外務審議官が出席しています。アメリカが重視しているASEAN地域フォーラムを日本政府も重視しているのです。それが、この防衛庁方針にも表われています。アメリカのNATOのアジア版づくりの構想に、日本も前向きにとりくむ姿勢をとっているのです。 こうなると、当然、安保条約の見直し、集団自衛権や憲法改悪の問題が登場してきます。NATOのアジア版に日本が中心になって参加しようとなると、これは本格的軍事同盟です。第一のPKOからPKF、そういう形で自衛隊の海外派兵が量的にも質的にもひろがっていくということも集団的自衛権問題と大いにかかわりがありますが、第二にあげたNATOのアジア版づくり構想への参加は、本格的軍事同盟への重大な踏み切りであり、自衛隊と米軍の日米共同作戦の地球規模化の実行ですね。」(同書、272~275頁) 今、鳩山政権が提唱している「東アジア共同体」というものは、上で上田が言う「NATOのアジア版」、「本格的軍事同盟」以外の何者でもない(進藤栄一はこのことを極めてあけすけに語っている。このリンク記事参照)。前から書いているように、姜尚中や和田春樹を含めた、東アジア共同体の主要な論者は、ほぼすべて、アメリカをもその構成国に入れているのであって、その下での「安全保障体制」=「東アジア共同体」は、「安保のNATO化」されたものにならざるを得ないだろう。 このことは、朝日新聞も認めると思う。朝日は、昨日(11月14日)の社説「日米首脳会談―新しい同盟像描く起点に」で、「さまざまな分野で協力を強化する日米同盟の「深化」。半世紀に及んだ自民党政権にとってかわった鳩山民主党政権にとって、日本の安全保障と外交の基本を米国との同盟に置くこと、地球規模の課題でも信頼できる同盟パートナーであり続けること、の2点を米大統領と確認しあった意味は大きい。 /中国の経済的、軍事的台頭が著しいこの地域にあって、日米が同盟を基礎に連携し、結び合うことは双方の国益にかなう。地域の安定を保ち、繁栄を続けるためにもそれが欠かせない。両首脳が語り合った同盟強化の根底には、そんな共通理解があるはずだ。」などとした上で、首脳会談を「21世紀の同盟のあり方を描き出す起点としたい。」と述べている。その上で、同日の記事(「米、合意履行が前提 日本の先送り論に不満」)でも、恐らく鳩山が「反米」ではないと説明するために、「政権交代した後も、憲法9条の解釈を問う国会の質問主意書の内閣の答弁書に「現時点で、従来の解釈を変えてはいない」と、あえて「現時点」との留保を入れるなど、(注・鳩山首相は)今後の見直しに含みを持たせている。鳩山首相が旗印にかかげる「東アジア共同体構想」にも、日本が東アジアの安全保障環境を率先して整備することで東アジアの米軍依存を減らしていくという発想が根本にあると見られる。」などと説明している。 以前に、「おそらく、いずれの政権になっても米国は国防費を削減し、米軍規模を減らし、海外から米軍を撤退し、米軍再編を進め、国際協調主義を進め、同盟国に貢献を迫ってくるという一般的傾向を示すことになると思います。こうした全体の傾向の中で、(注・米国)民主党政権のほうがむしろ同盟国に具体的な貢献を一層、迫ってくる可能性が高いといえます。」という森本敏の発言を引用したが、そのまんまだ。「安保のNATO化」である。 また、内閣法制局解釈の縛りがなくなり、派兵の一般法・恒久法が成立すれば、実質的には「憲法改悪」と同じことである。 2. 28年前の上田の慧眼は、「日本軍国主義の復活完了」(という言い方はいろいろ語弊があるが)が、「安保のNATO化、憲法改悪」として表れるであろうことを見抜いている。ところが、あろうことかその後、上田自身が共産党の「東アジア共同体論」への傾斜を率先したようである(このリンク記事参照)。 28年前の上田には残念ながら、以下のことは見抜けなかったようだ。現実に、「安保のNATO化、憲法改悪」を実現しようとする政権を、共産党が実質的に支えることを。また、渡辺治のような共産党系の学者が、東アジア共同体構想を宣伝したり、民主党主導政権を(「監視」しながらも)応援しようなどと大衆に率先して勧めたりすることを。 上田の本から、もう一箇所引用しておこう。 「小選挙区制は、日米支配層にとっては、憲法にもとづく民主主義の原理を合法的に破壊できる一石二鳥の絶大な効果を持った反動的政治手段である。なぜなら第一に、小選挙区制は、『自民党一党独裁の三十八年間に終止符を打つ「政権交代」を可能にする制度』という美辞麗句のもとで実際には主権者の意思を反映できる民主的選挙制度を絞殺して、自民党の絶対多数の確保を可能とし、同時に、憲法改悪に反対する社会党の護憲派を解体し、日本共産党をもほぼ完全に封じ込めることを可能とする選挙制度であるからである。(中略)第二に、小選挙区制は、(中略)金権腐敗にたいする国民の怒りを『政治改革』にすりかえる大規模な欺瞞を可能にし、大企業の企業献金と政・官・財の癒着構造という金権腐敗政治の根源はそのまま温存することを可能とするからである。」(上田耕一郎『政界再編と日本の進路』新日本出版社、1993年12月、27~28頁。上田は、小沢一郎や武村正義の政治構想についても、「自民党政治の大枠での引き継ぎ、危機に瀕した自民党「五五年体制」のいきづまりを、再編強化しようという」ものだと捉えている(『構造変動の時代』53頁)。) 日本共産党はこのたびの選挙で実質的に「政権交代」に手を貸したわけだが、結果は、上田が指摘したように、「ほぼ完全に封じ込め」られたままだ。そして、民主党主導政権の下で、「大企業の企業献金と政・官・財の癒着構造という金権腐敗政治の根源」が温存され続けるであろうことは、誰の目にも明らかになっている。ただし、雑誌『世界』や、リベラル・左派の物書きたち(渡辺治や周辺も含む)はそのことを認めないかもしれない。『世界』は、鳩山政権について、こんなことまで言っている。もはやこれでは与党の雑誌である。 「自民党政治からの「大転換」である。こうした転換は、政権交代の意味と意義を一か月足らずで誰の目にも明らかにした。これまでの政治から利権と特権に与ってきた人々からは怨嗟の声と抵抗が起き、発想を変えられないメディアは戸惑い、苛立っている。しかし、国民は全体として、この大転換について好感を持ってみているようだ。「予想以上」というのが大方の評価なのではないか。」(『世界』臨時増刊号「大転換 新政権で何が変わるか、何を変えるか」巻頭言より。2009年11月8日売) 上田は、『構造変動の時代』で、高畠通敏の言葉を引用しつつ、村山内閣の成立について、「「世界の大勢」への順応という名のもとに、戦前の大政翼賛会つくりに社会大衆党がのみこまれていった経過と同じような事態」だとし、「社会党は、もっぱら、自民党政治を国民に押し付けるための欺瞞の道具、社会党という名で多少いいことをやるんじゃないかという幻想をかきたてて自民党政治を美化する、アメリカ帝国主義と日本の反動勢力を美化する、きわめて醜悪な役割しか演じない党に完全に変質したといわなければなりません。」(同書、62頁)と述べている(なお、上田は村山内閣を「戦後最悪の内閣」としている(同書、133頁))。今の社民党がまさにそれだが、共産党も、似たような道を辿らないという保証はあるまい。実質的にはそうなりつつある。 興味深いことに、上田は、当時の社会党について、以下のように述べている。 「第一次大戦当時の歴史が明らかにしているように、社会党と共産党との違いは帝国主義者のように行動するのかどうかです。帝国主義戦争にたいする態度の問題で別れたんです。いまの社会党の委員長、村山首相をみてごらんなさい、社会帝国主義者です。口先は社会主義で(口でもいわなくなったけれど)、行動では安保も堅持でしょう、自衛隊も合憲でしょう、なんでもアメリカ賛成ですよ。あれも社会帝国主義者です。」(同書、173頁) 私は社会主義者でも共産主義者でもないが、「社会帝国主義」という社会科学上の概念は有効かつ妥当性があると考える。上の上田の指摘は、その通りとしかいいようがないだろう。では、渡辺治らが主張している、民主党主導政権の下での「福祉国家」の成立は、「社会帝国主義」ではないのだろうか。社会主義者たちが自国の第一次世界大戦への参戦を擁護し、レーニンらの激しい批判を招いたことは、高校の世界史でも習うから、渡辺がそのことに無自覚であるはずはない、と普通は思うだろう。では、最近の、渡辺によるこのあたりの叙述について、見てみよう。湯浅誠との対談からの一節である。 「湯浅 (前略)実は戦前から、軍隊にいくのは農家の二男坊、三男坊と決まっていて、野宿している人の中にも自衛隊出身者は多かったのです。だから貧困と自衛隊は切っても切れないのですが語られてこなかった。高度経済成長の中で日本が貧困問題を忘れた。それがいま裏側から問題になってきているのではないでしょうか。 赤木智弘さんの、「『丸山真男』をひっぱたきたい―31歳、フリーター。希望は、戦争。」(『論座』2007年1月号)もそういう話だと思っていて、結局、現状から脱却できるルートはほかに何もないではないか。だから戦争でも起こらない限り流動化しない、何もないことの不在に対するアイロニーとして戦争を持ち出したのであって、彼の言っているところの良質的な部分を読めば、別に若者の右傾化というような話ではないだろうと思っています。 渡辺 いまの話を歴史的に考えると、資本主義の歴史で、「戦争」と「貧困」がセットになるのは19世紀末からの福祉国家と帝国主義の時代です。 それ以前の、古典的な自由主義の時代に、資本の野放図な活動により貧困や格差が深刻化し、社会問題となった。それに反対し貧困の抑止をめざす二つの大きな動きが起こった。労働組合・労働者政党と、もう一つはまったく逆の帝国主義です。 帝国主義間の市場競争の中で、植民地の獲得戦争に国民を総動員するには、帝国主義戦争への同意と引き換えに選挙権・社会権と福祉を与えざるをえなくなったのです。さらに、戦後の「冷戦」の中で、社会主義との対抗の意味でも、福祉国家的な政策が実現していく。「貧困の抑止」と「戦争・冷戦」がセットになった。 「戦争」と「貧困の抑止」というセットが大きく崩れたのが第三の新自由主義の時代です。冷戦が終わって社会主義がつぶれてなくなった。グローバルな競争が激化する中で、今までのように福祉供与のための重い税金とか、労働者に対する保護、国民の安全とか労働者の保護のための規制をやっていたら競争に勝てない。資本の競争力強化のために福祉を切り捨てるドラスティックな新自由主義の改革が強行された。しかも、旧社会主義体制も吸収して拡大したグローバル企業の市場を維持するには、それを守っていくための警察官が必要だし、秩序に刃向かうイラクとかイラン、北朝鮮などの「ならず者国家」は、場合によっては力によってでもつぶさないと、日本やアメリカなどの大企業が安心して活動する世界はつくれない。アメリカを中心として、世界の警察官のための軍事化、冷戦期にもないような戦争の時代が始まった。戦争と貧困の新たなセットが出現したのです。 特に日本の場合には旧福祉国家であるイギリスとかフランス、ドイツには見られないような、非常に深刻なかたちでの戦争と貧困のセットが登場しています。」(湯浅誠・渡辺治「対談 戦争と貧困」『金曜日』2008年9月12日号) 赤木を大して問題だと思っていないらしい、「国家戦略室参与」の発言も興味深いのだが、ここで見ておきたいのは渡辺の叙述である。上の叙述は極めて奇妙なのである。 奇妙なのは、上田が指摘した周知の史実、第一次大戦での参戦肯定に典型的な、「帝国主義」を擁護する「労働組合・労働者政党」である、「社会帝国主義」が独自のカテゴリーとして存在していない点である。あくまでも、「労働組合・労働者政党」と、「まったく逆の帝国主義」という二項対立である。 かつての渡辺(や共産党系の学者)ならば、「社会帝国主義」(ヨーロッパ型の社会民主主義政党)というカテゴリーが自明のごとく存在したから、「帝国主義戦争への同意と引き換え」に、福祉を享受し、戦後の冷戦体制を擁護しつつ「福祉国家的な政策」を実現させてきた「社会帝国主義」への批判は自明のものだった。ところが、上の渡辺の叙述では、そのようなカテゴリーが存在せず、「帝国主義」と「労働組合・労働者政党」の二項対立しかないから、「第三の新自由主義の時代」が来て、新自由主義が、安定装置としての「社会帝国主義」政党や御用組合すら切り捨てようとする動きも、労働者全般への攻撃ということになり、それに反撃してもう一度「福祉国家」を立ち上げること自体も正当化されることになる。かくして、共産党や共産党系の渡辺のような学者は、「福祉国家」の建設という建前で、民主党主導政権に協力できるわけである。 「口先は社会主義で(口でもいわなくなったけれど)、行動では安保も堅持でしょう、自衛隊も合憲でしょう、なんでもアメリカ賛成ですよ。あれも社会帝国主義者です」というのは、臨検特措法にすらまともに反対せず、対北朝鮮政策でも衆議院選候補者の半数近くが「より圧力を」かけることを要求する、今の共産党を表すにふさわしい言葉かもしれない。共産党の幹部らしい(2003年6月時点で共産党政策委員会安保・外交部長)、『ロスジェネ』の出版にも関わっている松竹伸幸は、城内実をすら擁護している人物である。典型的な「社会帝国主義者」である。こんな人物が幹部なのだ。 上田は、『構造変動の時代』で、クリントン政権が、「アメリカ帝国主義の新しい「拡張戦略」のもとで、「冷戦が終わった」という大宣伝にかくれて、実際に彼らは戦時動員態勢をつづけ、作戦を展開してい」ることに触れ、「とにかくみなさん、アメリカ帝国主義を甘くみたらいけないですよ。核拡散防止のために核兵器を使うなどという許せない態度で、マスコミを動員して、日本の反動勢力を動員して、アメリカの方針が当然のことであるかのようなキャンペーンをやっているのですから。ここをしっかり見ぬかなければなりません。」と警告している(193頁)。もちろん、同質の「キャンペーン」に疑問を持たず、「核兵器廃絶」(核拡散防止条約でも謳われているのだが)を訴えたオバマ大統領のプラハ演説に感動し、オバマから手紙の返事を貰って喜んでいる共産党に、そのことを期待するというのは愚かというものだろう。 対『週刊新潮』・佐藤優氏裁判の第3回口頭弁論期日が終わった。東京地裁第708号法廷にて、11月11日14時から約10分間開かれた。被告側は、弁護士2名(岡田宰弁護士・杉本博哉弁護士)が出席していた。
今回は、原告側による、準備書面(その一部は、前回公開した)に基づいた陳述(被告の準備書面への反論)が行なわれた。次回は、被告側の再反論である。 次回口頭弁論期日は、12月14日(月)10時10分より、東京地裁第536号法廷で開かれる。 裁判の第3回口頭弁論期日は、以前にも述べたように明日11月11日であるが、11月5日付で裁判所・被告に送付した「準備書面(1)」から、「第1 本件記事の「公共性」・「公益性」」と「第3 補足」を掲載する(なお、原文にはないが、読みやすさのために、一部に強調をつけた)。
名誉毀損の免責が成立するためには、記事に公共性・公益性があることが少なくとも必要であるから、被告の新潮社らは当然そのように主張しているのだが、ここで私は、本件記事(甲1号証。『週刊新潮』2007年12月6日号掲載記事「佐藤優批判論文の筆者は「岩波書店」社員だった」)は佐藤優が昵懇の『週刊新潮』記者に書かせたものであり、佐藤の言論封殺行為の一環であって、「公共性」も「公益性」も全くない、と主張している。「新潮社・早川清『週刊新潮』前編集長・佐藤優氏への訴訟提起にあたって」 と重複しているところもあるが、佐藤のこれまでの言論封殺行為について比較的まとまっていると思うので、是非ご一読いただきたい。「第3 補足」では、佐藤がこのところ力を入れているらしい、緒方林太郎衆議院議員への攻撃(私によるブログの引用が契機らしい)についても触れている。 佐藤の言論封殺行為の問題は、もちろん佐藤のみに留まるものではない。佐藤によるこのような言動・行為を野放しにしているメディア、特に『世界』や『金曜日』など、佐藤と積極的に結託するリベラル・左派メディアの問題でもある。また、この『週刊新潮』の私に関する記事に便乗して、私への執拗な嫌がらせを行なってきている岩波書店労働組合、この記事に対して会社として抗議するどころか、この記事を根拠の一つとして、「会社に多大な迷惑を与えた」などと私に厳重注意を与え、退職勧告まで行なっている株式会社岩波書店の問題でもある(「首都圏労働組合特設ブログ」参照)。 ------------------------------------------------------------------ 第1 本件記事の「公共性」・「公益性」 1 本件記事(甲1号証)は,もっぱら,被告佐藤優(以下,「被告佐藤」という)が,原告の社会的評価を低下させることにより,原告の論文「<佐藤優現象>批判」(甲3号証。以下,「論文」という)の信頼性を低下させることを企図して,昵懇の 『週刊新潮』記者,被告株式会社新潮社(以下,「被告会社」という),被告早川清(以下,「被告早川」という)と結託して成立せしめたことは明らかであり,なんら公共性・公益性を有しない(なお,被告佐藤による,自身への批判を回避するための言動・行動については,「第3 補足」で詳しく論じる)。以下,具体的に述べる。 原告は,論文を,「1976年生まれ。会社員。韓国国籍の在日朝鮮人三世。」とのプロフィールの記述の下,自らの所属会社を明らかにせずに,被告も認めるとおり一私人として,発表したのであり,被告が本件記事で,原告が岩波書店社員であるという事実を摘示するまで,原告が運営するブログでも,岩波書店社員であることを原告は明らかにしていなかった。本件記事が摘示する,原告が岩波書店社員であるという事実,原告の異動経緯,原告への岩波書店社内の反応,「岩波関係者」の原告への評価等は,原告の論文内容とは何ら関係がなく,公共性を持たない。 本件記事は,原告の社会的評価を低下させることにより,原告の発表した論文の信頼性をも失わせるものであり,被告佐藤は,本件記事の成立にあたって,積極的に関与していると見なしうる。被告も「準備書面(1)」の「4」の「(3)」で「岩波書店の社員から「社外秘のはずの組合報まで引用され問題になっている」と耳にした被告佐藤」と記述しているところからも,被告佐藤が,単に本件記事中での自身の発言だけではなく,本件記事の成立に関与していることは明らかである。また,2009年3月14日に原告が『週刊新潮』編集部に電話したところ,その際応対に出た『週刊新潮』編集部佐貫(法務担当)は,本件記事を執筆した『週刊新潮』記者は,被告佐藤と昵懇の関係にあり,被告佐藤と「毎日のようにやりとりしている」と思うと発言している。 また,原告以外にも,これまで,被告佐藤の怒りを買ったと思われる書き手について,『週刊新潮』が中傷記事を書くというケースが,短期間の間に2つも存在する。 大鹿靖明(雑誌『AERA』編集部員)が執筆した記事「佐藤優という『罠』」(『AERA』 2007年4月23日号掲載)について,被告佐藤氏は代理人弁護士を通じて抗議し(『週刊金曜日』2007年5月11日号に被告佐藤による「大鹿靖明『AERA』記者への公開質問状」が掲載されている),公開質問状の掲載とほぼ同時期の発売である『週刊新潮』2007年5月17日号では, 「朝日『アエラ』スター記者が『佐藤優』に全面降伏」とのタイトルの記事(甲13号証)が掲載されている。この記事は,大鹿が被告佐藤に謝罪したこと,匿名の第三者による「記者としてこれからやっていけるのか」などの大鹿批判,被告佐藤による大鹿批判などを取り上げており,大鹿の社会的評価を低下させるものである。 また,原田武夫(原田武夫国際戦略情報研究所代表,元外務省職員)は,自身のブログで被告佐藤を批判する記事を書き(2007年5月13日付),2007年12月12日には,「佐藤優という男の「インテリジェンス論」研究(その1)」なる被告佐藤への批判記事をブログで掲載し,この批判をシリーズ化することを予告していた(甲14号証)。そして,被告佐藤への批判の内容を含む原田の著書(原田武夫『北朝鮮vs.アメリカ』ちくま新書,2008年1月10日発行)が刊行される直前である,12月29日発売の『週刊新潮』2008年1月3日・10日号で,「「天皇のお言葉」の秘密を暴露してしまった「元外務官僚」」なるタイトルの,大々的な中傷記事(甲15号証)を書かれている(この「元外務官僚」とは原田であることが,同記事では実名で示されている)。 このように,2007年5月~2008年1月という短期間に,原告の事例も合わせて,被告佐藤の怒りを買ったと思われる書き手について,『週刊新潮』が中傷記事を書くというケースが3つも存在しており,本件記事への被告佐藤の関与,本件記事執筆記者との親しい関係からも,本件記事の成立自体に被告佐藤が積極的に関与していることは十分に推認し得る。 また,被告会社は,被告佐藤の単著の本を,本件記事掲載時に至るまで,『国家の罠』(2005年3月25日刊行),『自壊する帝国』(2006年5月31日刊行),『国家の罠』(文庫版,2007年11月1日刊行)と3冊刊行しており,本件記事掲載直後の2007年12月18日にも,『インテリジェンス人間論』なる被告佐藤単著の単行本を刊行しており,被告会社と被告佐藤の関係は深く,被告会社が被告佐藤の著述家としての社会的評判を低下せしめない措置をとる合理的理由も存在する。 以上から,本件記事は,原告の社会的評価を低下させることにより,論文の信頼性の低下を企図して,被告佐藤が,昵懇の『週刊新潮』記者,被告会社,被告早川と結託して成立せしめたことは明らかであり,何らの公共性はない。 2 前項で述べたように,本件記事は何ら公共性を持っておらず,本件記事が摘示する事実も,論文内容とは無関係なものである。本件記事は,論文が原告の私怨に基づいて書かれており,客観性を持っていないと読者をして思わしめるものであり,原告に対する人身攻撃であって,なんら公益性を有しない。 第3 補足 (1) 「第1 本件記事の「公共性」・「公益性」」で,「本件記事は,原告の社会的評価を低下させることにより,論文の信頼性の低下を企図して,被告佐藤が,昵懇の『週刊新潮』記者,被告新潮社,被告早川清と結託して成立せしめたことは明らか」だと述べたが,ここでは,被告佐藤が,自身への批判を回避するために,自身の主張への批判を萎縮させる効果を持つ発言を繰り返していることを示しておく。 まず,「第1 本件記事の「公共性」・「公益性」」で挙げたように,被告佐藤の怒りを買ったと思われる書き手について『週刊新潮』が中傷記事を書くというケースが,短期間の間に原告のケースも含めて3つも存在することが挙げられる。これが,被告佐藤を批判する人物は,『週刊新潮』に中傷記事を書かれるという認識を読者に与える,「見せしめ」の効果を持つ,被告佐藤への批判を萎縮させるための行為であることは明らかであり,憲法第21条が保障する「言論の自由」への挑戦であると言える。 (2)また,被告佐藤自身も,被告佐藤を批判する人物が『週刊新潮』に中傷記事を書かれるという認識が一般読者に広がっていることを自覚し,そのことを利用して,自身への批判を萎縮させる行動を行なっていると思われる。 被告佐藤は,株式会社産経デジタルが運営するニュースサイト「イザ!」において「佐藤優の地球を斬る」を連載しているが,その連載の,2009年10月19日12時1分付で投稿された記事(表題「国益を損なう「思いつき外交」」(甲17号証)において,以下のように述べている。 「もちろん外務官僚もこのこと(原告注・岡田克也外相がアフガニスタン「電撃訪問」の結果,「恥をかいた」ということ)に気づいている。「今回の(岡田)大臣のアフガニスタン電撃訪問は,外務省出身の民主党衆議院議員の入れ知恵によるもので,われわれとしても当惑しています」という情報を流している。近く,週刊誌でスキャンダル仕立ての記事になるかもしれない。与野党問わず外務官僚出身の議員には,外交官としてのたいした経験もないのに官僚的体質を引きずっている者がいる。そういう人間の専門知識を欠いた助言を採用すると国益を毀損し,岡田外相自身の政治力も低下する。」 また,被告佐藤は,株式会社ライブドアの運営するニュースサイトでの連載「佐藤優の眼光紙背」の,上記記事の投稿と同時期(2009年10月21日11時0分)に投稿した,「岡田外相の危険な思いつき外交」なる表題の記事(甲18号証)でも,以下のように述べている。 「外務省関係者が筆者に流してきた情報によると,今回の電撃訪問は,外務官僚出身の民主党国会議員が岡田外相に進言して行われたという。アフガニスタンは専門知識を必要とされる地域だ。外務官僚であったという過去があるから,適切な外交政策を提言できるという保障はどこにもない。こういうことを繰り返すと,日本人は頭が悪いと国際社会から軽く見られるようになる。」 被告佐藤はここでも,「外務官僚出身の民主党国会議員」を攻撃している。そして,この「外務官僚出身の民主党国会議員」は,多くの読者からすれば,緒方林太郎衆議院議員(民主党・福岡9区・当選1回)を指すと理解されると思われる。緒方は,外務官僚出身の民主党国会議員である。 被告佐藤は,自身への批判的記述のあった,緒方のブログの記事(「Raspoutin Japonais」2007年3月4日20時投稿。甲19号証に対して,被告佐藤による上記2つの記事の投稿の直前である10月7日付の内容証明を送付し,抗議している。その結果,緒方の上記記事は削除され,緒方により,そこには,かわりに,以下の文章(甲20号証)が記されている。 「2年半前くらいにこのアドレスで書いた記事を削除しました。関係者の代理人という弁護士の方から「名誉毀損だ」という平成二十一年十月七日付内容証明が議員会館に送られてきました。 この場に書かれていたエントリーは衆議院選挙候補者になる前に書いたもので,書いた事実を放念していました。このブログで誰かと戦っているわけではなく,たしかに内容証明が送付されてきた時点においては国会議員の名の下で存在するブログになっていたわけであり,特定の私人の評価に過度に踏み込むものは適切ではないと判断しました。 上記を踏まえ,削除しておきます。なお,内容証明の中で「謝罪を求める」と書いてありましたので,上記の認識の下,お詫び・訂正をいたします。」 また,被告佐藤の熱心なファンであり,被告佐藤の執筆・講演活動などを,ほぼ網羅的に情報発信しているブログ「マイページ」を運営しているハンドルネーム「えっつぃ」は,同ブログに2009年10月17日22時21分付で投稿した記事「民主党: おがた林太郎氏」(甲21号証)において,以下のように証言している。 「さて,10月16日の佐藤さんの講演によると,やはり,(原告注・緒方を)許さないようですね。(笑) 2週間後の週刊誌?で,書いてしまうようです。 そういえば,以前言われていましたが,佐藤さんには,「水に流す」っていう習慣が無いそうです。 おがた氏も,えらい人を敵に回してしました。 口は本当に災いのもとですね。 (中略) 10月11日の講演で佐藤さんは,おがた林太郎氏に対しても言及。 おがた氏は,外務省勤務の際に感じた佐藤さんの事を2007年に不適切な批判をしていました。 それについて,佐藤さんは,内容証明書付きで送付し,謝罪が無い場合については,週刊誌などで言及すると言われていました。 民主党が選ばれたのでは無く,自民党が大負けしたことをわからなければならない。決して優秀な人が議員になっている訳ではない事を,このおがた氏を例に出して言及。」 緒方自身が「書いた事実を放念してい」たとする,緒方の記事を佐藤が取り上げるに至ったのは,原告が,自身のブログ「私にも話させて」で,2009年9月21日付で投稿した記事「外務省時代の佐藤優に関する民主党当選議員の証言」(甲22号証)で,被告佐藤と同時期に外務省に勤務していた緒方が,被告佐藤について,「あれを私物化と言わなければ,私物化という言葉が死語になってしまうくらい(原告注・ロシア外交を)私物化してい」たなど,批判的に記述していることを紹介したことが発端であると思われる。原告の同記事がきっかけで,緒方が被告佐藤を批判していたことが,インターネット上で広く話題になっていったからである。 以上より,被告佐藤が,自身を批判していた緒方に対して,強い憤りの感情を抱いているであろうこと,または,強い憤りの感情を抱いていることは,被告佐藤の「イザ!」への10月19日付記事の投稿時点で,多くの人間に認識されていたと解するべきであり,同記事において,「外務省出身の民主党衆議院議員」について,被告佐藤が「近く,週刊誌でスキャンダル仕立ての記事になるかもしれない。」などと述べていることが,被告佐藤を批判する人物が『週刊新潮』に中傷記事を書かれるという認識が一般読者に広がっていることを自覚し,そのことを利用した上での,自身への批判を萎縮させる効果を狙った発言であることが,十分に推認し得る。 (3)また,被告佐藤は,以下のように,テロリズムを背景とした,自身の主張への批判を萎縮させる効果を持つ発言を頻繁に行なっている。 被告佐藤は,各誌・単行本で,ガザ侵攻等のイスラエルの軍事行動を擁護する発言を繰り返しており,国際法違反すら容認している(『国家の謀略』小学館,2007年12月4日刊行,275~276頁。甲23号証)。被告佐藤が,イスラエルの軍事行動を一貫して擁護している人物であることは,数多くの著作によって,広く知られている。 その一方で被告佐藤は, 「アラブの原理主義やパレスチナの極端な人たちの中から,「佐藤は日本におけるイスラエルの代弁者だ」ということで,「始末してしまったほうがいい」と言ってくる人たちが出てくるかもしれない。それはそれでかまわない。それを覚悟で贔屓しているわけです。しかしそれと同じように,アラブを贔屓筋にしている人たちは,イスラエルにやられても文句は言えないですよという話です。たとえばアルカイダ,ハマス,ヒズボラのテロリストを支援するような運動をやった場合,これはイスラエルにとって国家存亡の問題ですから,その人は消されても文句は言えない。それくらいの覚悟が求められる贔屓筋の話だと思います。」(『インテリジェンス 武器なき戦争』(手嶋龍一との共著,幻冬舎,2006年11月30日刊行。甲24号証),168頁) 「日本の論壇では,中東問題について,親パレスチナ,親イランの言説が大手を振るって歩いている。筆者は,数少ない,イスラエルの立場を理解しようとつとめる論客に数え入れられているようだ。講演会の質疑応答でも,(あまり数は多くないが)思考が硬直し,自らが日本人であることを忘れ,ハマスやヒズボラの代理人であるかの如き人を相手にすることがある。」(「なぜ私はイスラエルが好きなのか 上」『みるとす』2009年4月号,20頁。甲25号証) などと語っており,イスラエルの軍事行動を批判する人物を,「ハマスやヒズボラの代理人であるかの如き人」とした上で,そのような人物はイスラエルに「消されても文句は言えない」と主張している。 また,被告佐藤は,自身がモサド元長官をはじめとして,イスラエルの多数の要人と懇意であることを多くの媒体で表明しており,イスラエルで「インテリジェンス」を勉強した,そのことは自分の本や論文を読めば誰にでもわかるとの旨の発言を行っている(佐藤優「『AERA』,『諸君!』,左右両翼からの佐藤優批判について」『月刊日本』2007年6月号,39・40頁。甲26号証)。 以上のように,被告佐藤は,自身のイスラエルとの関係の深さをことさらに顕示した上で,イスラエル批判者はイスラエルに殺害されても文句は言えないなどと,「言論の自由」を原理的に否定する主張を行っており,こうした被告佐藤の振る舞いおよび発言が,被告佐藤のイスラエル擁護の諸発言を批判することを萎縮させる効果を持つことは明らかである。 実際に,被告佐藤は,自身を批判した漫画家の小林よしのりを攻撃する文章の中で,以下のように述べている。なお,この文章は,「言論封殺魔」(被告佐藤のこと)との争いに脅える「大林わるのり」(小林よしのりのこと)の架空の相談に,被告佐藤が忠告するという形式で書かれている。 「まず,「言論封殺魔」の履歴をきちんと調べることです。CIA(米中央情報局),KGB(旧ソ連国家保安委員会),モサド(イスラエル諜報特務庁)などと「言論封殺魔」が関係をもったことがあり,インテリジェンス業務の経験があるならば要注意です。」(「佐藤優のインテリジェンス職業相談 第三回」『SPA!』2008年12月9日号,24・25頁。甲27号証) こうした発言が,被告佐藤が,モサド等と関係が深いという自身のイメージを利用した,小林に対する威嚇であることは明らかである。 また,被告佐藤は,オリックスの宮内義彦会長の発言に対しても,「北海道の右翼が情けないですよね。街宣車で会社の回りをグルグル回るというようなことをして,怖いと思わせなければ,こういう発言はやめないですよね。「発言は自由である。しかし,それには責任がともなう。これが民主主義だ」って」などと,言論に対して暴力をちらつかせて威圧させて黙らせることを積極的に肯定している(山口二郎編著『政治を語る言葉』七つ森書館,2008年7月1日刊行,242頁。甲28号証)。これが,「言論の自由」の原理的な否定であることは明らかである。 こうした被告佐藤の「言論の自由」への挑戦と言える特異な言動は,多くの人間が注目し,警戒するところとなっており,11月5日時点で99名が署名している「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」(甲29号証。原告が管理するブログ「資料庫」で公開されている)も,「佐藤氏は,言論への暴力による威圧を容認し」ていると述べた上で,本件訴訟にも触れ,被告佐藤と本件記事と論文について,「佐藤氏は,その記事のなかで,同論文を「私が言ってもいないことを,さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容」だなどと中傷しています。これは,市民の正当な言論活動を萎縮させかねない個人攻撃です」と指摘している。被告佐藤のこのような特異な言動は,自身の主張への批判を萎縮させるためのものであることは明らかであり,このことは,本件記事が,自身への批判者に対する「見せしめ」のための,被告佐藤への批判を萎縮させるためのものであることを裏付けている。 (4)また,被告佐藤は,小林による雑誌『SAPIO』および雑誌『わしズム』における自身への批判に対しても,直接反論することなく,小林の批判を掲載した『SAPIO』(株式会社小学館発行)編集長に対して,「既に刊行した書籍の重版を中止し,他の版元から文庫本を出す」,「刊行中の書籍は一切引き揚げ,この会社で行っている雑誌連載や出版計画などもすべて白紙撤回す」る,「今回の内幕について,どこかの雑誌に手記を寄稿するか,新書本を書き下ろす」などと通告するなどの圧力をかけて,自身への批判の掲載をやめさせようとしている(「佐藤優のインテリジェンス職業相談 第一回・第二回」『SPA!』2008年9月23日号,27~29頁。甲30号証)。被告佐藤のこうした行為から,小林は被告佐藤を「言論封殺魔」と名づけて批判しているが,被告佐藤は,こうした小林の批判に対し,小林が指摘するように,その行為の「言論封殺」性を否定することのないまま,開き直りと言える態度をとっている。 被告佐藤がこのように,わざわざ公開の形で『SAPIO』編集長に対して圧力をかけたのは,被告佐藤への批判を掲載すると,紛糾事態が生じるということを各誌の編集者に知らしめ,被告佐藤を批判する記事を掲載することを各誌の編集者に萎縮させるためであると思われる。これも,本件記事が,自身への批判者に対する「見せしめ」のための,被告佐藤への批判を萎縮させるためのものであることを裏付けている。 (5)なお,『実話ナックルズRARE』2008年11月号の記事「マスコミを手玉に取る「佐藤優」の「剛腕」ぶり」(甲31号証)は,大鹿や原告への被告佐藤の行動を,「エグい批判封じ」と報じており,「佐藤を知るジャーナリスト」の証言を用いて,本件記事は「佐藤が新潮に書かせたものだったんじゃないかといわれている」と述べている。また,『中央ジャーナル』第203号(2008年11月25日発行。甲32号証)の記事「佐藤優が岩波書店社員を恫喝」においても,被告佐藤が,「出版社への佐藤批判封じ」をエスカレートさせ」ていると報じられている。 以上述べたように,被告佐藤は,批判に対しては言論による反論で応じるという,「言論の自由」の下での基本的な原則を一貫して踏み躙っており,被告佐藤のこのような言動・行動から,本件記事は,原告の社会的評価を低下させることにより,論文の信頼性の低下を企図して,被告佐藤が,昵懇の『週刊新潮』記者,被告新潮社,被告早川清と結託して成立せしめたことは明らかであると考える。 前回(第1回)からかなり間隔が空いてしまったが、「レイシズム的保護主義グループの成立」の第2回である。
1. このところ、日本のリベラル・左派の間で、「ナショナリズム」の復興論(「リベラル・ナショナリズム」)があちこちで唱えられている。そして、私見によれば、ここで唱えられている「ナショナリズム」は、非常に奇妙な特徴を持っている。この奇妙な「ナショナリズム」は、レイシスト的保護主義グループの存立基盤の根本を支えるものであると思われる。 この「ナショナリズム」を検討するに際しては、「ナショナリズム」肯定論者の一人である萱野稔人と、高橋哲哉の対談(高橋哲哉・萱野稔人対談「ナショナリズムが答えなのか」『POSSE』vol.2、2008年12月)が大変興味深い。 萱野はここで、 ①グローバリゼーションそれ自体は、先進国と第三世界の経済格差を縮小させているのであるから、日本国内の経済格差を問題にするならば、「ナショナリズム」を肯定しなければならない ②下層労働者は、外国人労働者と競争することが多く、「排外的ナショナリズム」を支持する人が多い。そうした人々に社会的承認を担保する上でも、「ナショナリズム」を肯定しなければならない と、二通りの仕方で、「格差問題に関して、ナショナリズムを肯定しなくてはならない」理由を説明している。①で示されている現状認識には相違があるかもしれないが、①を<日本国内の経済格差を問題にする上では、「ナショナリズム」を動員することが、仮にそれが保護主義の傾向を帯びるとしても、有効であり、かつ必要である>という命題に言い換えれば、このところの「格差問題」に関連した「ナショナリズム」肯定論の大半も、大雑把に言って、萱野のこうした主張に帰結すると思われる。 無論、萱野の主張に対して、①を先進国の国民の醜悪な居直り、②を排外主義の容認(および下層労働者の政治的判断力への蔑視)として片付けてもよいのだが、私が今回検討したいのは、むしろ、萱野の言う「ナショナリズム」とはどのような性質のナショナリズムなのか、それは一体何なのか、ということである。 私がなぜわざわざ、萱野の多くの媒体での「ナショナリズム」肯定論のうち、この対談での発言をとり上げたかといえば、それは、この対談において、萱野の以下の発言があるからである。 「萱野 「慰安婦」問題に関して日本政府の責任を問うという議論のなかで、高橋さんは、「主権者である日本人の応答責任」ということを問題にしましたよね。これは、まさにナショナリズムの中心的なテーマをなすものだと思います。というのも、ナショナリズムの最も核となる主張とは、「国家はネーション(国民・民族)によって、ネーションのために運営されなくてはならない」というものですから、つまり国民こそ国家の主体であるという意識がナショナリズムの一番の核をなすという以上、国民としての責任を問う高橋さんの議論もナショナリズムと親和性をもつのではないでしょうか。格差の問題においても同じです。国民経済のもとである程度平等な分配政策なり雇用政策なりをめざすかぎり、それはナショナリズムを前提とした議論にならざるをえない。で、僕はそれでいいと思うんです。ナショナリズムだということを素直に認めれば。僕自身はだから、自分の立場は高橋さんと同じだと思っていますし、高橋さんの議論もナショナリズムだと認めてしまったらどうかと思うんです。」(強調は引用者、以下同じ) 高橋は、萱野のこの問いかけに対しては、「日本国民である限り、日本政府のすることへの政治的な責任というのは、多かれ少なかれみんな共有している」が、「自分が帰属している政治的共同体に対して、帰属意識が成り立つためにはナショナリズムが必要である、とまではたして言えるだろうか」と否定的である。 ところで、萱野はこの対談の冒頭で、「今日は高橋哲哉さんとお話をするということで、個人的な気持ちとしては、最近僕が言っていることを批判してもらおうというつもりでここに来ました(笑)」と述べている。 高橋の上記の発言も、一応は萱野への「批判」ではある。もちろんこの批判でもよいのだが、高橋の「批判」は、萱野の「ナショナリズム」肯定論の奇妙さの核心には届いていない。僭越ながら、私が高橋に代わって「批判」してあげよう。以下の私による「批判」は、高橋の『戦後責任論』の論理から帰結するはずのものであり、こうした「批判」ができないところに、誰も言わないが、ここ3年ほどの高橋の迷走振りが示されている(そもそも、萱野ごときと好意的に対談すること自体が迷走の最たるものだが)。高橋は、萱野に、こう聞けばよかったのである。 萱野は、日本の周辺アジア諸国に対して、侵略と植民地支配それ自体およびそこから派生するもろもろの「大日本帝国の加害行為」(『戦後責任論』講談社学術文庫版、40頁)が存在したと認識しているのか? もしそれが存在したと認識しているとすれば、萱野は「自分の立場は高橋さんと同じ」だと言っているのであるから、以下の高橋の主張にも同意しなければならない。 「この責任(注・「日本人としての責任」)は、戦後責任をきちんと果たしてこなかった日本国家の政治的なあり方に対する責任として、日本国家が戦後責任をきちんと果たすように日本国家のあり方を変えていく責任であり、日本政府に戦後責任を果たさせることを通じて、旧帝国の負の遺産を引きずった既成の「国民化」や「皇民化」を可能にし、またそれらによって可能となった「日本人」や「日本国民」を解体し、日本社会をよりラディカルな意味で「民主的」な社会に、すなわち、異質な他者同士が相互の他者性を尊重しあうための装置といえるような社会に変えていく責任なのです。」 「「日本人として」戦後責任を果たすとは、侵略戦争や植民地支配を可能にしたこの社会のあり方を根本から克服し、日本を「日本とは別のもの」に開かれた「別の日本」に変革していくことにほかならないと私は思っています。」(『戦後責任論』文庫版、60頁) とすれば、萱野は、まさにナショナリストとして、「日本を「日本とは別のもの」に開かれた「別の日本」に変革していく」ために、萱野自身の①や②のような主張に対してこそ、徹底的に戦わなければならない。 このジレンマを避けるためには、萱野は、「大日本帝国の加害行為」は基本的に存在しなかったし、大日本帝国の「負の遺産」など存在しない、としなければならない。その上でならば、ナショナリストとしての萱野の一貫性は保たれるのである。もちろんこれでは小林よしのりその他の極右と同じになるから、その立場は萱野は採らないだろう。かといって、「自分の立場は高橋さんと同じ」などと言っているにもかかわらず、高橋の言うような形での「日本人としての責任」を果たそうとしているわけでもなさそうである。 だから、高橋は萱野に対して、本来、上記の問いを行なった上で、以下のような結論を下すべきだった、と私は考える。萱野の主張は、そもそも本当にナショナリズムなのか、むしろレイシスト的な保護主義と言うべきなのではないか、と(注1)。 (注1)ナショナリズムという概念は周知のように多義的であるから、ここで私は、萱野の主張が「ナショナリズム」ではない、と言っているのではない。ここで検討しているのは萱野の言う「ナショナリズム」の性質である。萱野は別のところで、「ナショナリズムというのは、ゲルナーが述べているように、民族的な単位と政治的な単位が一致しなくてはならないと主張する政治的原理のことです」(『思想地図』第1号、2008年4月、37頁)と自らの定義を述べているが、ここでは、この定義の下で萱野が肯定する「ナショナリズム」を、萱野の諸発言から鑑みて、レイシスト的な「ナショナリズム」として捉えている。 2. 萱野の語る「ナショナリズム」肯定論には、萱野自身が、「大日本帝国の加害行為」について、「ナショナリスト」としてどのように政治的責任を果たそうとしているのか、また、大日本帝国との現在の日本国との連続性を擁護しているのか、大日本帝国の一時期について否定するというのならば、どの時期までは肯定しているのか、といった、「ナショナリスト」としての肝心要の、自らの歴史的な位置づけという点が、欠落しているのである。 これは、萱野だけではなく、このところのリベラル・左派の「ナショナリズム」復興論全般に見られる傾向である。彼ら・彼女らは、大衆の政治参加を促す等の、政治学の入門書にあるようなナショナリズムの肯定的側面を、得意げに一般論として語るわけであるが、他ならぬこの日本で、大日本帝国の歴史をどのようにナショナリストとして位置づけるのか、という、ナショナリストならば真っ先に来るべき論点についてはほとんど語らない。 もちろんこれは、こうした「ナショナリズム」復興論者たちが、日本の近現代史について饒舌に語ることを妨げない。実際に、中島岳志などは、教養俗物層向けの歴史雑学の文章を大量に書いているが、中島自身の大日本帝国やその加害行為に対する認識はほとんど分からない。だから、中島は、天皇制について誰々という思想家はこう語った、といったことは散々述べる一方で、自分自身については、「僕は、天皇制についての議論をまだ詰め切れていません」(姜尚中・中島岳志 『日本 根拠地からの問い』毎日新聞社、2008年2月、69頁)などと告白するのである。呆れた「保守主義者」「ナショナリスト」である。 「ナショナリズム」復興論者たちは、リベラル・左派が「ナショナリズム」を擁護しなかったことを批判するが、それは、萱野や北田暁大らが言うように、「ネイションやナショナリズムは幻想」といった社会構築主義が蔓延していたからではない。そもそも、そんな話はアカデミズムやジャーナリズムのごく一部でのみ流行したにすぎないのであって大衆的な影響力はほとんど持っていない(彼らが「社会構築主義」をあえて持ち出す理由については、「「楽しくない」思想から「楽しい」思想へ」で推測した)。「平和」や「人権」に関心のある市民が、概ね、ナショナリズムについて積極的に語らなかったのは、戦前の歴史から、ナショナリズムの復興は自分たち庶民がつけを払わせられることになる、と考えていたからだと思う。アカデミズムやジャーナリズム周辺の教養俗物層たち(大学院生なども含めて)は、ほぼ全てが富裕層かプチブル出身だから、「庶民が割を食う」という発想がないのだろう。 ここ数年間のリベラル・左派の論調は、「大東亜戦争」を肯定する人々はニセモノのナショナリストで、保阪正康や半藤一利のような真っ当なナショナリストは日本の過去の加害行為も一定反省する(注2)、といったものである。だが、これは転倒しているのである。彼ら・彼女ら真っ当らしい「ナショナリスト」は、例えばアジア太平洋戦争における日本の加害行為を「恥」として「道義的責任」があるとするが、「道義的責任」の強調は、国家責任の否定とセットで提出されるのである。もし真っ当なナショナリストならば、ナショナリストとして、大日本帝国および日本国の「法的・政治的責任」を追求する、ということになるはずなのだが、彼ら・彼女らにはそうした認識はないらしい。実際に、加害行為を認めてしまえば、それは、「道義的責任」などといった手前勝手なレベルだけではなく、必ず、国家責任の問題にいたることは、「慰安婦」問題一つとっても明らかであろう。 したがって、大日本帝国が、庶民にとっても抑圧者以外の何者でもなかった、という史観(昔の共産党のような史観だ)に立たずに、ある時期までの大日本帝国はよかった、一時的に逸脱して酷いことをやった、という史観は、総じて、自らの日本人性を、歴史的なものとは別のところに置いているのである。それが、自分は日本人だ、という素朴な血統主義的な原理だ。言い換えると、血統主義的な同質性を暗黙の前提として、「ここまでは悪かった、ということを認めようよ」とお互いで肯いているのがこの史観である。 念のために言っておくが、私は、日本人はナショナリストたるべきだ、と言っているわけではない。高橋が言うように、政治的責任を果たすこととナショナリストであることは別だからである。だが、自らを「ナショナリスト」として規定するならば、より一層、歴史問題に関する政治的責任を果たすことに能動的であるべきだろう。現在の「ナショナリズム」復興論は、驚異的な手前勝手さで、歴史問題を回避している。別にこれは萱野や中島らに限らず、福祉国家の建設のためにナショナリズムの意義を積極的に評価すべきとする宮本太郎(佐藤優らの「フォーラム神保町」にも登場している)や、その周辺の論者たちもそうである。また、『現代思想』系の書き手もこれは概ね同じで、民社党の歴史も知らずに「日本には社会民主主義を実現させようという試みはなかった」などと語る市野川容孝や、誰が読んでいるのか分からないヌルい文章を大量生産する立岩真也あたりもこれに含まれるだろう。影響力はほとんどなさそうだが、レジス・ドゥブレの劣化版コピーの「共和国」論者(ただし、天皇制の問題は回避している)もこれに該当する。 血統主義と市民主義という、ナショナリズムの2つの原理から考えれば、現在のリベラル・左派の「ナショナリズム」復興論は総じて、自らの主張を市民主義的なものとして打ち出している。だが、歴史問題を本質的に回避した「ナショナリズム」復興論は、血統主義的な原理を暗黙の前提とすることになるのであって、市民主義的なものを掲げながら、実態としては血統主義的なものとして機能するのである。周知のように共産党の「日本人」理解は、血統主義的な性格が非常に強いものであるから、渡辺治ら共産党系の学者も、「福祉国家」の建設という飴玉がちらつけば、何の躊躇もなくこうしたレイシズム的保護主義グループに参加していくことになる。 (注2)「国益」の観点から考えて、大日本帝国の一時的な逸脱を認めて「謝罪」した方が得だ、といった同種の議論は、大衆的には説得力を持たないだろう。極右であり歴史修正主義者の中川八洋は、福田和也が、「民族の誇り」を取り戻すために「慰安婦」に償わなければならないという大沼保昭の主張に共感していることを指弾し、以下のように主張している。 「「そもそも和也の造語「加害者の誇り」という言葉は、「南京虐殺」という歴史の偽造を日本人に受容させ定着させるため“ハイパー・スキゾ文藝”の魔語として発明された。だから、このスキゾ語「加害者の誇り」が書かれている、次の引用文は、南京虐殺はあったと和也が主張する歴史偽造のエセーの結論となっている。和也の“ハイパー・スキゾ文藝”の正体があらわである。 「加害者の誇り、というこなれない言葉を、この頃私は作り、用いている。私たちが自らの優れた資質、過去を誇るためには、被害者として免責される事を求めず、加害者としてふるまうべきではないか。たとえいかに私たちが、貧しく、悲しい存在であるとしても」(福田和也「ジョン・ラーベの日記『南京大虐殺』をどう読むか」『諸君!』、1997年12月号、46頁) まず和也は、加害していない無実の人間が加害者としてふるまうことはできないのに、日本人を狂人にしたいのか、自分が狂人のためにか、そうしろとアッピールする。次に、「日本人は貧しい存在」「日本人は悲しい存在」だと断じているのに、それを反転させて「日本人は自分の優れた資質を誇れ」「日本人は自分の過去を誇れ」とアッピールする。「貧しい存在」がなぜ「優れた資質」なのか。「悲しい存在」をどうやって「誇る」のか。 これらの言辞は、明らかに精神医学上の分裂症からのもので、この故に、この手法を用いる文学者の、その作品を“スキゾ(分裂症性)文藝”という。和也のは、その度合いが極端に激しいので、“ハイパー・スキゾ(超分裂症性)文藝”と称される。 「加害者の反省」「加害者の悔恨」ならば正常な人間であろう。殺人を犯した加害者が、もし「誇り」をもってその被害者や遺族に対峙すべきとの和也の転倒(スキゾ)ロジックがまかり通れば、そんな人間は倫理を破壊するしかないし、社会の倫理規範も崩壊する。和也は、ポスト・モダンの論法で、日本から倫理・道徳の破壊と一掃を図っている。」(中川八洋『福田和也と<魔の思想>』清流出版、2005年9月、277~278頁) 加害者としての(謝罪も含めた)振る舞いが「誇り」であるとする認識が馬鹿げている、という主張は大変正しい。中川のような歴史修正主義者は、加害者であると認めた場合に発生する倫理的・道徳的な重みを理解しており、それを認めると「ナショナリスト」としての「誇り」が消滅すると考えているのであろう。文春系の保守派からリベラル・左派までよく見られる、「国益」のために一定謝罪した方がよい、という立場は、「良識」でもなんでもない。それは、加害行為の重みを認識しない、富裕層やプチブルの、倫理的・道徳的退廃と言うべきである。 3. いずれにせよ、レイシズム的保護主義グループにおいては、それが大衆的な支持を得て政治的な力を持とうとするならば、いずれは大日本帝国をどう位置づけるか、現在の日本国および日本国民をどのように歴史的に位置づけるか、という点を議論とせざるを得ないだろう。例えば、ナショナリズムの復興を主張している山口二郎(例えばこれ参照)は、例によって鉄砲玉の役割を買って出て、以下のように述べている。 「(注・講演では)戦前と戦後の断絶のみを重視するのではなく、自由や民主主義の追求という理念の連続性を重視する必要もあるということを強調したかった。戦前の日本には悪いことばかりではなかったというのは保守派の主義だが、逆に権威や権力を恐れず自由を貫くという伝統も存在したという主張をぶつけることも必要である。こうした視点については、政治史学者の坂野潤治氏の著作から多くを学んだ。講演で、永井荷風や石橋湛山を重視したのも、この理由による。こうした意味での連続性を強調することによって、ナショナリズムと戦後民主主義との接合を図りたいというのが、私の意図であった。」(「序章 瀬戸際の日本」山口二郎編著『政治を語る言葉』七つ森書館、2008年7月、33~34頁) 山口は、戦前と戦後の連続性ということを何らかの形で担保したいのである。レイシズム的保護主義グループにおいては、自らを天皇制国家の被害者として位置づけ、過去清算を追及していくという路線はあらかじめ排除されているから、連続性をどのような形で正統化するか、という主張にならざるを得ない。その点では山口は、他の「ナショナリズム」復興論者に比べて、問題の所在は理解しているのである。だが、ここでの山口の試みは、悲惨なまでに成功していない。問われているのは大日本帝国という国家の位置づけであって、個々の論者がどうであるかは無関係であるからである(注3)。 山口の試みは失敗しているが、同種の試みは、今後もこのグループから表れ続けるだろう。 (注3)興味深いことに、同書で山口は、以下のように語っている。 「近未来の日本は、このまま進むと、労働力として切り捨てられ、下に滞留し、どんどん希望を失っていく。そのなかではけ口を求めていくという悪いシナリオはあると思います。日本の経済的なエリートは、労働力人口はどんどん減っていくから移民を入れろ、というような議論を内部でしています。教育も、下にはスカスカのメニューでやり上の方へ来る可能性をハナから排除していく気配はあります。新自由主義を進めるエリートたちは、同胞などというものはいないと思っているし、ましてや共感や連帯などももっていません。」(同書、148頁) 移民の流入という文脈で、「同胞」なる血統主義的な言葉が使われている。 1.
『金曜日』の最新号を見ると(と書き出さなければならないのが嫌なのだが)、佐高信による鈴木宗男への提灯インタビュー記事があったり、本多勝一の「何度でも言う、千島全島はロシアの侵略だ」というタイトルの記事があったりと、また一歩混迷が進んだような内容だったが、それらだけならばあえてこのブログで取り上げるまでもなく、「また『金曜日』が自滅している」と感想を持つだけで終わっていただろう。 ただ、同号には、本橋哲也による岡真理氏へのインタビュー記事が掲載されている。岡氏と『金曜日』については、思うところがあるので、今回は、この件を中心に取り上げる。 なお、岡氏へのインタビューは、『金曜日』の全66頁(表2・表3を含めれば68頁)中、6ページにわたっており、岡氏の大きな写真も4枚も掲載されている。破格の待遇と言っていいだろう。少なくとも私は、『金曜日』でこんなに長いインタビュー記事を見たことがない。イスラエル批判とパレスチナ支援で知られる岡氏についてのこの破格の扱いを、前回取り上げた「佐藤優の歴史人物対談」における「和田洋一」の登場に続く、「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」への『金曜日』編集部の対応策と考えるのは、私の考えすぎだろうか。 2. ところで、まず確認しておきたいのは、今号の鈴木宗男への提灯記事である。『金曜日』のこの記事の紹介文を引いておこう(強調は引用者)。 「佐高 信 対談 日本を何とかしよう3 鈴木宗男 外務官僚のニセ情報によって世論の猛反発をかった鈴木宗男氏は、国会議員の職を失った時期さえある。衆議院外務委員長に就任し、なにを外交の最優先事項として取り組み、外務官僚とどう向き合うのか。」 単に鈴木の言い分を載せるだけではなく、ここまであからさまに鈴木を持ち上げる雑誌を私は知らない。「外務省時代の佐藤優に関する民主党当選議員の証言」で、「護憲派ジャーナリズムは鈴木に関しても佐藤と同様の擁護論を展開する、と思われる」と書いたが、そのまんまだ。そして、『金曜日』が鈴木を持ち上げるのはこれが初めてではない。 だが、鈴木は、2009年1月26日質問書提出の国会質問で、「今般の武力紛争において、パレスチナ側に一千万ドルの緊急人道支援を行うことは、国際社会に対して、我が国はテロ支援をし、テロに加担する国であるというアピールをすることに等しく、我が国の国益を損なうことに繋がるのではないか。」と発言している。鈴木のこうした活動は、すでに、パレスチナへの支援者の間でも問題とされているようである。私のよく知らない人々であるが、以下を参照のこと。 http://list.jca.apc.org/public/aml/2009-February/024069.html http://wind.ap.teacup.com/applet/palestine/msgcate3/archive このうち、「パレスチナ民衆連帯!イスラエルボイコット行動」は、鈴木の行動を、以下のように要約している。 「イスラエルがガザ地区に対して攻撃を加える最中、新党大地の鈴木宗男衆議院議員が、「ハマスがテロリストである事を政府に対して確認する質問主意書」を繰り返し提出している事が判明しました。 内容的には、「ハマスがテロリストである」とすることで、イスラエルによる虐殺を正当化するものであるのみならず、それをファタハのパレスチナ自治政府、パレスチナ民衆全体をも「テロリスト」だとして描き出そうとする、恐るべきものでした。」 鈴木と佐藤優との結びつきは周知のことであろう。『金曜日』や『世界』は、こうした人々を積極的に擁護しているのである。 だとすれば、今回の岡氏の記事は一体何なのか、ということになろう。これでは、岡氏の記事は、『金曜日』が鈴木や佐藤を擁護することに対するアリバイ役にしかならないのではないか。人々は、『金曜日』は岡氏に謝罪するべきだ、岡氏は『金曜日』がそんなことをやっているなんて知らないのだから、と言うかもしれない。 だが、事態の実際は、そうではないのである。 3. 岡氏は、『金曜日』の2009年1月23日号で、イスラエルのガザ侵攻に関する、「いま見逃してはならないこと」なる記事を書いている。 私はこの記事を見て、大変驚いた。そもそも岡氏は私の「<佐藤優現象>批判」掲載時の『インパクション』編集委員である。その岡氏が、イスラエルの侵略行為を積極的に擁護している、佐藤優と結託す『金曜日』に執筆しているというのは、やはり奇妙だろう。 私は、岡氏の知人から岡氏のメールアドレスを聞き、原稿依頼のメールを2月12日に送った。私の運営するブログ「資料庫」に、短いものでいいので、「イスラエルを擁護する佐藤優への批判か、そうした主張を行う佐藤を重用する左派メディア(『金曜日』など)への批判の文章」をもらえないか、という趣旨の内容である。以下、私の送ったメールから抜粋する。 「佐藤優のこれまでのイスラエル擁護の発言については、「<佐藤優現象>批判」でも触れましたが、以前書いたブログ記事の「佐藤優のイスラエル擁護に嫌悪感を抱かないリベラル・左派の気持ち悪さ」http://watashinim.exblog.jp/9193135/で主なものをまとめましたので、ご参照ください。 そこでも書きましたが、佐藤は、天木直人氏も指摘しているように、モサドとの関係やイスラエルの人脈を誇示し、イスラエル擁護論を展開しながら、日本政府が対パレスチナ政策をイスラエル全面擁護の方向に転換するよう積極的に主張しています。彼の2002年の逮捕に関しても、恐らく、鈴木宗男と佐藤のイスラエルとの関係が背後にあったことは、佐藤自身が示唆しています(上の私のブログ記事参照)。 今回のイスラエルの侵略についても、佐藤は、各メディアで、日本のマスコミ関係者はパレスチナへの思い入れが強く、この件に関しては信頼できない、対テロ戦争の観点から、日本はイスラエルを全面的に支持すべきである、という主張を繰り返しています。●さんが挙げられたメディア(引用者注・私の知人が岡氏あてのメールで挙げたもの)だけではなく、最新号の「クーリエ・ジャポン」(講談社)の自身の連載でもそのように主張していました。いずれも、数万(十数万)部の売上げを誇る、左派メディアとは比べ物にならないほど影響力のある媒体です。 彼は、先月からテレビにも進出しているので、そうした場でもイスラエル擁護の発言をこれから行なっていくでしょうし、新聞や雑誌、ベストセラーたる単行本でもこうした主張を行なっていくでしょう(私が確認できていないだけで、すでに行なっていると思います)。 仮に経済規模が世界第二位の日本が、イスラエルの全面支持に向かうとすれば、大変忌忌しき事態になることは、火を見るより明らかです。天木氏も指摘しているように、これほど日本でイスラエルを全面的に擁護している人間は右派の間でもいないでしょう。かつ、彼には大きな影響力があります。 そこで、天木氏は、●さんが送られたメールにもあるように、佐藤を批判しており、私も、ブログ上で佐藤批判、イスラエルを擁護する佐藤を左派メディアが重用することを批判してきました。 また、ウェブ上でも、パレスチナ支援のブログ等で、佐藤の主張への批判も若干ながら出てきています。 私は、この<佐藤優現象>に対して、私の論文が出てからも、「「<佐藤優現象>批判」スルー現象」と言われたり、前田朗さんが「奇妙な沈黙」と評するように、左派から表立って<佐藤優現象>に批判的な声が出ないことを、大変奇妙に思い、かつ腹立だしく思ってきました。http://watashinim.exblog.jp/8863402/ http://watashinim.exblog.jp/9096346/ こうして、<佐藤優現象>を批判することがいまだにほぼタブーであったところに、ここにきてようやく、天木さんのような方の批判や、ウェブ上での批判(「日刊ベリタ」等)が出てきたというのが現状です。 そこで、私としては、ここで、岡さんから、お願いしたような趣旨の文章をいただければ、<佐藤優現象>と、その現象を通して拡大するイスラエル擁護論の蔓延に大きな打撃を与えることができると思います。(引用者注・「岡さんがが大変多忙であろうことは」という一節が脱落)岡さんの各種のご活動を見るだけでも、十二分に分かります。したがって、このようなお願いをするのは大変心苦しいのですが、事柄の重要性に鑑み、そこで、岡さんにお願いする次第です。 岡さんにお願いするのは、こういうことを言うのはこれもまた心苦しいのですが、岡さんが少し前に、今回のイスラエル侵略に関する文章を『金曜日』に執筆されていたからでもあります。 私は、岡さんの文章の掲載を知り、大変当惑しました。天木さんが佐藤のイスラエル擁護論を批判し、私が佐藤と結託する「金曜日」の問題を批判していたちょうどその時に、岡さんの文章が載ったので。 「金曜日」編集部は今はもちろん、イスラエル批判の立場ですが、彼ら・彼女らがもし本気でイスラエルの行為に怒りを感じていれば、言うまでもありませんが、佐藤と手を組んだりはしないでしょう。 「金曜日」編集部は、私(ら)の批判に対し、直接は答えないながら、アリバイ的な行為をこのところ行ってきています。例えば、私が、「金曜日」が集会のポスターで日の丸を使用したことを取り上げ、ウェブ上でちょっとした話題になった際も、北村肇編集長は、編集後記で釈明しています。 http://watashinim.exblog.jp/8744661/ 率直に言って、岡さんの文章も、「金曜日」としてみれば、イスラエルを擁護する佐藤を使うことへのアリバイ作りとして活用された面が否定できないと思います。岡さんは、「インパクション」編集委員でもあるわけですし。 もし、「金曜日」に執筆されるならば(「金曜日」に何らかの積極的な可能性を見いだされているならば)、少なくとも、「資料庫」に文章を下さった、梶村太一郎氏や中西新太郎氏のように、<佐藤優現象>が問題であることを公的に表明していただきたい、と強く思います。 なお、「金曜日」の佐藤との結託については、「金曜日」の主催するイベントで最近ではほぼ必ず佐藤を登場させる、佐藤に連載を持たせ、佐藤による長文記事も頻繁に掲載する、佐藤の単行本を「金曜日」が出版している、佐藤が実質的に主催する「フォーラム神保町」の「世話人」を、「金曜日」の複数の関係者がつとめていることなど、枚挙に暇がありません。http://www.forum-j.com/agreement.html 「情況」や「世界」や「創」もそうですが、今、左派メディアで最も佐藤と深い関係にあり、影響力も大きいのが、「金曜日」であるといえます。なお、なぜ、彼ら・彼女らが佐藤にはまっているかは、下で考察しました。 「佐藤優の議員団買春接待報道と<佐藤優現象>のからくり」 http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-8.html とにかく、本当に、短い文章で結構です。岡さんの名前が出て、佐藤または<佐藤優現象>を憂慮されているということが示されれば、それだけでも大変効果があります。もしいただけるならば、ことの性質上、早ければ早いほどよいです。 岡さんは、一人でもできるパレスチナ支援のやり方を提案されていますが、私としては、日本の世論がイスラエル擁護の方向へ向かうこと(いかに「金曜日」がイスラエル批判をしていようとも、<佐藤優現象>が進行するということは、そうしたことを意味します)を食い止める上で、僭越ながら、非常に大きな意義があると考えます。 ご多忙の中、本当に、本当に恐縮ですが、なにとぞご検討のほど、宜しくお願いいたします。」 なお、岡氏の提言する「一人でもできるパレスチナ支援のやり方」は、下のリンク先を参照のこと。 http://asyura2.com/09/senkyo57/msg/587.html 4. そして、2月14日に、岡氏から返信をいただいた。そこには、時間がないので結論だけ述べるが、佐藤の書いたものは読んだことがない、「わたくしがいま、しなければならない仕事をこなすだけでも、おかまりのコピーロボットが5体くらい必要」状態で、読む時間もない、金の要望に「いま、すぐに」応えることができないのは申し訳ないがご理解いただきたい、とのみ記されていた。 私は、岡氏のメールに対し、2月17日に「ご多忙の折に、お返事、ありがとうございます。」と題した返事を送った。以下、全文を掲載する。 「岡真理様 金光翔です。 ご多忙の折に、お返事、ありがとうございます。 > (引用者注:佐藤の書いたものは読んだことがない、読む時間もない、という岡氏のメールの内容) 前のメールで書いたように、佐藤優のこれまでのイスラエル擁護の発言については、「<佐藤優現象>批判」でも触れましたが、以前書いたブログ記事の「佐藤優のイスラエル擁護に嫌悪感を抱かないリベラル・左派の気持ち悪さ」http://watashinim.exblog.jp/9193135/ で主なものをまとめています。これを読まれれば十分だと思うのですが。 また、彼がメディア上で行っているイスラエル擁護の発言については、たとえば、「クーリエジャポン」(講談社)の最新号に出ています。 別に佐藤の著作を読まずとも、こうした文章を書いている佐藤を、『金曜日』他の左派メディアが擁護し、<佐藤優現象>を推進していることは、明らかだと思うのですが。 私は、論文等でも書いているように、佐藤自身よりも、佐藤優を持ち上げている左派メディアを批判しています。佐藤ではなく、佐藤を持ち上げる左派メディア(引用者注・「を批判」という一節が脱落)されるならば、上の私の記事での佐藤の諸発言を読まれるだけでも十分だと思うのですが。 > (引用者注・金の要望に「いま、すぐに」応えることができないのは申し訳ないが、ご理解いただきたい、という岡氏のメールの結びの一文) 岡さんは、イスラエルの擁護をする佐藤を重用することを、「金曜日」が私たちに批判されている中で、ご自身が「金曜日」に登場することが、「金曜日」にとってのアリバイになっていると思われませんか。私は、私や天木氏が佐藤や佐藤を「金曜日」が重用していることを批判している最中に、「金曜日」誌面で岡さんのお名前を拝見して、驚き、かつ途方にくれました。 ましてや、岡さんは「インパクション」編集委員でいらっしゃるわけですから、アリバイとして一層有効に機能しているでしょう。 前にも書きましたが、アリバイにさせないためには、梶村太一郎さんや中西新太郎さんのように、<佐藤優現象>が問題であることを公的に表明されることでしょう。お2人とも、「金曜日」の常連執筆者ですが、私が管理している下のサイトで、そうした立場を表明されています。前田朗氏もさまざまなところでそのようにされています。 http://gskim.blog102.fc2.com/ 残念ながら、この点に関しての、岡さんのお考えは伺えませんでしたので、改めてお伺いさせていただきます。 もちろん、岡さんが大変ご多忙でいらっしゃることは、重々承知しておりますので、もしメッセージをいただけるならば、どれくらいのご日程でいただけそうかをお伺いできれば幸いです。前にも書きましたように、短いもので十分効果がありますので。 それでは、宜しくお願いいたします。」 だが、このメールには、残念ながら返信をもらえなかった。結局、私が岡氏からもらったメールは、上で引用した2月14日付のもの一通だけだ。 5. それ以降、講演会などで岡氏の名前を見ても、私は、シラケる思いを禁じえなかった。 岡氏についてほとんど関心を失っていたし、このままであれば、上記のやりとりについて書く気にも、あえて批判する気にもならなかっただろう。そこに現れたのが、今号のインタビュー記事だったのである。 岡氏は、『金曜日』の佐藤優との結託ぶり、そのことへの批判を十分に知っており、『金曜日』に岡氏が登場することが「アリバイ」になるのではないか、という疑問も十分に承知した上で、今回、『金曜日』に登場しているのである(万一、私の送った二通目が届いていないか、岡氏が見落としていたかしても、一通目で趣旨は伝わっているはずである)。だとすれば、私がメールで送った疑問にもどこかで公的に答えて欲しいものだが、こういう人だ、と認識するほかないのだろう。 岡氏の振る舞いが、生活に困っているとか、社会的立場が不安定であるとかならば、私は肯定はしないし軽蔑はするけれども、まあ仕方がないな、と思うことだろう。だが、京都大学教授の岡氏が、これに該当しないことは言うまでもない。この人は一体、何がやりたいのだろうか。 岡氏は、日本の国政や世論醸成において、最も積極的にイスラエルの侵略行為・抑圧行為を擁護している鈴木や佐藤を支援する雑誌のアリバイ役を、客観的に見れば務めており、そのことを指摘されても黙殺を決め込んでいるのである。私は、岡氏のその他の「パレスチナ支援」の諸活動についてとやかく言うつもりはないが、岡氏がこうした振る舞いを行なっていることは、知られておくべきだと思う。 岡氏は、自分のやっていることは絶対的な善で、自分は絶対的に「良心的」であるから、自分が登場するメディアも「良心的」なのだ、という認識を持っているのではないか(岡氏は岩波書店から単行本を刊行しているから、岩波書店も自動的に「良心的」な出版社となるだろう)。こういうタイプの人は、岡氏に限らず、「戦後補償」関係などの市民運動家やインテリにも多いように思う。その裏には、まともな考えの伝達は、「良心的」で高邁な考えを持つ知識人→メディア→大衆、という形でのみなされるという恐ろしく古臭い図式(昔の「進歩的知識人」のような)があるように思われる。そこには、自分の言動や活動が社会的にどう機能するか、という視点が欠落している。 これは、佐藤優を重用するリベラル・左派メディアの編集者たちのメンタリティとも合致していると思う。私は、「首都圏労働組合 特設ブログ」に書いた「差別発言への注意は「非常識」――岡本厚『世界』編集長の私への怒り 」で、佐藤を重用する『世界』には、「自分たちのような「進歩的」で「良心的」な、「日本唯一のクオリティマガジン」の担い手が、佐藤と組んでいるからといって、社会に悪影響を与えるような雑誌であるはずがない。こんなに「良心的」な誌面を作っている(作ってきた)のだから、自分たちにそのような悪意があるはずがない」という認識があるのではないかと書いたが、そう考えると、佐藤優を重用するリベラル・左派メディアは、自分たちの雑誌が「良心的」でないはずがないと考える編集者が、自分たちの発言を掲載する雑誌が「良心的」でないはずがないと考える書き手を取り込むことによって成立している、と規定できよう。したがって、この人々には、私が一貫して問題にしているような、リベラル・左派が「佐藤優を使うことの社会的悪影響という観点」など、はじめから問題になりようがないのだと思われる。 もう少し言うと、<佐藤優現象>というリベラル・左派メディアの右傾化は、右傾化のアリバイ役として、自分たちの発言を掲載する雑誌が「良心的」でないはずがないと考える書き手、例えばポストコロニアル系の知識人――岡氏やら本橋やらテッサ・モーリス=スズキやらその他の面々を積極的な構成要素として必要としているのだと思う。 また、編集者たちは、こうした「良心的」な書き手を使うことで、自分たちや自分たちの雑誌が「良心的」だと再確認できるだろう。岡氏らは、編集者に対して、「癒し」の機能も果たしていると思われる。 岡氏や、戦後補償その他に携わる「良心的」な人々は、愚かな右派や保守派からの批判はさておき、「左」から批判されることはほとんどなかっただろう。もちろん、私も彼ら・彼女らの活動の意義を否定しているわけではない。だが、<佐藤優現象>という形で、従来のリベラル・左派が「国益」論的なものに変質した現在においては、いいことを言っているだけでは駄目なのである。「日本は右傾化しているのか、しているとすれば誰が進めているのか」で論じたように、遅くとも2007年以降の日本の情勢においては、「戦後日本国家」および「戦後社会」を擁護するという「国益」論的立場に、批判勢力としての従来の「左」が回収されていっているのであって、そこでは、「右」に対抗するという政治的立場や、「良心的」な立場は、このプロセスに容易に組み込まれ得るのである。だから、言説内容よりも、むしろ、発話者の社会的な位置こそが重要なのである。「良心的」な人々は、主観的にはどれだけ批判的であろうとも、むしろ批判的であれば却って右傾化への「アリバイ役」として、容易に民主党的なものに組み込まれるのであり、実際に組み込まれている。 そして、(無意識的に)選択された各人の社会的な位置は、何らかの形で言説内容にも影響を及ぼすものである。戦後補償運動の主張でも、微妙に変質しているものが多いし、今回の岡氏のインタビューの記事でも、それを感じる箇所がいくつかあった。こうした点はいずれより大きくなっていくと思う。 それにしても、私へのメールでは、「わたくしがいま、しなければならない仕事をこなすだけでも、おかまりのコピーロボットが5体くらい必要」なほど多忙だと言っていた岡氏が、その後も講演会などいろいろ活動しており、今回の『金曜日』でもロングインタビューを受けているのは謎である。秘密裏に「おかまりのコピーロボット」が大量生産されているに違いない。「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」の署名が大量に集まっている現在、情勢を見て、そのうちの一台が協力を申し出てくるかもしれない。一種の「運動」だから一概に拒否はしないが、私はもう個人的には関わりたくないな。 1.
『金曜日』の最新号(2009年10月23日号)に、月1回連載「佐藤優の歴史人物対談」の第10回目が掲載されていた。この連載は、佐藤が、「歴史人物」に架空のインタビューを行なう、という形式で書かれているものである。 そして、今号の「歴史人物」は、和田洋一(1903年―1993年。ドイツ文学者)だった。これは、この連載のこれまでの登場人物からすれば、かなり異例である。これまでの登場人物を並べてみよう。 第1回:マルクス 第2回:エンゲルス 第3回:マルクス 第4回:ムッソリーニ 第5回:ラッサール 第6回:ルクセンブルク 第7回:ベルンシュタイン 第8回:マサリク 第9回:ニーバー そして第10回が和田洋一である。ネームバリューの点でも、唯一の日本人という点でも、唐突感は免れないだろう。普通の読者ならば、なぜ和田なのか、と思うはずである。 一応、今回のこの「対談」には、編集部によるものかもしれないが、「奈落への地すべりを押し返すのは民衆の力」と題して以下のリード文が付されている。 「政権交代で、劇的と言ってよいほどの政策転換が起きている。だが、世界を覆う同時不況の行方は楽観を許さず、私たちは帝国主義やファシズムの危険性から目を背けてはならない。戦前の知識人たちは日本型ファシズムの時代をどのように過ごしたのか。久野収らと『世界文化』を拠点にした和田洋一に登場していただこう。」 まず、佐藤は最近、共著でその名も『日本流ファシズムのススメ』(田原総一朗・宮台真司との共著。ぴあ、2009年10月10日刊)なる本を刊行しており、『WiLL』11月号でも、「民主党全体主義政権が始まった」と題した一文を書いて、「政権交代」を言祝いでいるのだから、このリード文が、いつもながらの佐藤と『金曜日』編集部の合作による、『金曜日』読者を馬鹿にしきったアリバイづくりに他ならないことを指摘しておこう(なお、「佐藤優(現象)とソフト・ファシズム」も参照のこと)。 だが、より重要なことは、このリード文では、なぜ和田なのかがさっぱり分からないことである。「帝国主義やファシズム」は重要な問題だが、なぜ他ならぬ2009年10月において、「帝国主義とファシズムの危険性」を取り上げなければならないか、また、その際に取り上げる人物が、なぜ和田でなければならないかは、本文中でも全く言及されていない。要するに、なぜ佐藤が今回和田を取り上げたかは、リード文からも本文からも読み取ることはできないのである。 2. では、なぜ和田なのか。もちろん私も佐藤自身ではないのだから理由を断言できるわけがないが、私は、佐藤が和田を今回持ち出したのは、佐藤及びリベラル・左派メディアの危機感の表れと見るべきなのではないか、と考えている。 というのも、佐藤が、自伝以外の場所で和田を持ち出す際には、一つの傾向性があるように思われるからである。前から興味深く思っていたのだが、佐藤は、リベラル・左派系(新左翼系は除く)の出版社から本を出す際、必ず冒頭で和田を持ち出しているのである。 『獄中記』(岩波書店、2006年12月)でも『世界認識のための情報術』(金曜日、2008年7月)でも今回の「対談」でも、佐藤が和田から引き継いでいると言いたげな和田の主張は、「人民戦線」の提唱と、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)における国内の人権侵害への批判である。このうち、現在の情勢で「人民戦線」を語ることの愚と問題性については既に「<佐藤優現象>批判」で指摘した。 佐藤は、和田による北朝鮮国内の人権侵害への批判を強調することによって、自らの、少なくとも小泉・安倍政権時の対北朝鮮強硬論の主張は、和田による批判と問題意識を受け継いでいるものだ、とリベラル・左派系の読者に印象づけたいのだと思われる(注)。また、『獄中記』と『世界認識のための情報術』では、佐藤が和田から聞いた話として、「先生の行動が誰を利するかをよく考えてください」と、「朝鮮総連の幹部」が和田の下を訪れたことも記しているから、佐藤による、朝鮮総連への政治的弾圧の擁護もある程度正当化できる、と考えているのかもしれない。 より具体的に見ておくと、『獄中記』(全502頁)では、「序章」の2頁目から、和田に関する説明と和田と佐藤との交流が9頁にわたって記されている。 また、『世界認識のための情報術』(全250頁)に至っては、「『週刊金曜日』への私の想い――序論として」の1頁目から、同じく和田に関する説明と和田と佐藤との交流が9頁にわたって述べられており、しかも、この「序論」の章全体(全31頁)が、佐藤が語るところの和田の姿勢と発言を補強する形で構成されている。そして、『世界認識のための情報術』は、以前にも指摘したように、恐らく、佐藤を『金曜日』が起用することへの批判への対応として出された性格が強いと思われる本である。 佐藤およびリベラル・左派メディアは、読者に対して、本の冒頭で、佐藤の立場は和田の思想を受け継いだものだと印象付けることで、「右翼」「国家主義者」である佐藤が、リベラル・左派系の出版社から本を出すことへの読者の違和感を弱めようとしている、と見てよいだろう。だからこそ、『獄中記』に比べてより弁明的性格が強い『世界認識のための情報術』において、本の中で和田の占める比重はより大きくなっているのである。 ということは、今回の「佐藤優の歴史人物対談」における和田の登場も、佐藤及び『金曜日』編集部が、読者に対して、何らかの弁明の必要性を感じたから、と考えるのが妥当であろう。では、この連載の第9回目が掲載された2009年9月25日号(9月25日売)から、この10月23日の間に、佐藤及び『金曜日』編集部が弁明の必要性を感じるような事件が起こった、と見るべきであろう。 そして、その事件とは、「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」が10月1日に発表されたことではないか、と私は思う。 佐藤がこの和田との架空対談をいつ頃から書き始めたのかは知らないが、佐藤及び『金曜日』編集部が、共同声明への着々と増え続ける署名とメッセージ、反響に危機感を抱き、佐藤が『金曜日』に登場することを改めて正当化する必要性に迫られて現れたのが、今回の和田との架空対談ではないかと思う。 佐藤及び佐藤と結託するリベラル・左派系のメディアが、この共同声明に言及したり反論したりすることは、恐らくないだろう。そんなことをして、この共同声明の存在が読者に直接知られるようになっては困るからである。そして、以前にも説明したように、リベラル・左派系の編集者たちが佐藤の起用を反省し、起用を一切止めるという可能性は極めて低いと見ておいた方がよいだろう。だが、今回の、和田の唐突な登場のように、この共同声明への(一時的な)対応策として、佐藤がリベラル・左派メディアに登場することへの新しい正当化、より狡猾な方策を打ち出してくる可能性は大いにありうる。そうした方策に惑わされないことが重要である。 (注)そもそも、和田は、「私はまた「朝鮮は一つ」という立場に立っている。「朝鮮は一つ」というのは「朝鮮は過去においては一つであったが、現在は二つに分断させられている。しかし朝鮮半島に住んでいる圧倒的多数の民衆は、もう一度一つになりたいと願っており、在日朝鮮人・韓国人も同様なので、私自身も隣国に住んでいる人間の一人として、朝鮮が近い将来に一つになることを望んでいる、そういう立場である。朝鮮の南北統一は、冷静に判断すれば、絶望状態ということになるが、万が一実現すれば、アジアの平和を守ることに大きく貢献するであろうとも考えている」(和田洋一・林誠宏『「甘やかされた」朝鮮――全日成主義と日本』三一書房、1982年、44~45頁)と発言しているのであって、「<佐藤優現象>批判」の「注(6)」で指摘したように、「僕(注・佐藤)は、朝鮮半島が統一されて大韓国ができるシナリオより、北が生き残るほうが日本には良いと思う。統一されて強大になった韓国が日本に友好的になることはあり得ないからね」(〈緊急編集部対談VOl.1 佐藤優×河合洋一郎〉雑誌『KING』(講談社)ホームページより)などと語る佐藤とは基本的な立場が異なる。 記事が出て10日以上経つが、護憲派団体はどこも声明も出さないし、ウェブ上でもほとんど問題にされていないようである。
「「法制局長官も官僚」国会答弁禁止へ…小沢氏」(読売新聞10月8日) 「憲法解釈 内閣法制局長官の答弁禁止 小沢氏が意向」(朝日新聞10月8日) 自公政権がこんなこと言い出したら大騒ぎしていただろうに。私は、衆議院選直後に、今後、左からの政権批判はほぼ消滅するんじゃないか、と書いたが、その通りになっているようである。 私が言うより、前防衛大臣補佐官の森本敏先生に解説してもらおう。 「集団的自衛権を政治的にどう実現していくかは、依然として、安全保障・防衛政策の重要部分ですが、これを解決する方法は三つしかないのです。 一つは、いわゆる“解釈改憲”で、従来の解釈が間違っていましたとして解釈を変えることです。これは総理が国会で答弁するだけではなく、内閣法制局としての統一見解が必要でしょう。ですから法制局としてはどう対応すればよいか判断を迫られます。このように憲法の条文は変えないが、従来の解釈を変えるという“解釈改憲”といった方法です。 しかし、この方法はあまり感心しません。政権が替わるたびに解釈を変えますと、野党が政権をとると、また引っ繰り返されるという事態を生みかねません。憲法は変わらないのに、解釈の変更によって政策がコロコロ変わるのは、むしろ諸外国の信頼を失うことになります。ですから、これは議院内閣制の王道としては本来とってはならない方法だと思います。 そこで第二の方法として考えられるのは、具体的な法律の成立をもって実現可能にするという形です。これは、日本の領域外に自衛隊を出す場合の一般的な基準に間する法律、すなわち“一般法・恒久法”です。正式名称で言えば、“国際平和協力基本法”という法律を2009年の通常国会で通して、それによってこれまでできなかったことを法律上可能にするという方法です。こちらのほうが議院内閣制の下では合法的な感じがします。 しかし、この場合に問題なのは「その法律自体が憲法違反ではないか」として、違憲立法審査権を行使される場合であり、それに対する対応を検討しておく必要があります。 第三の道は、憲法改正しか残されていません。しかし、これには時間がかかります。 従って、現実の問題としては、一と二を併用した形が良いのではないかと思います。すなわち、従来の解釈と違う説明を政府が行うことによって、具体的な法律の形でこれを実現し、さらに憲法改正時に正しいあり方を憲法条文の中に書き込むという手順にして実現するという方法しかないと思います。」(森本敏『日本防衛再考論』海竜社、2008年5月、191~193頁。強調は引用者、以下同じ) 民主党はそのうち海外派兵の「一般法・恒久法」を出してくるだろうから、内閣法制局の答弁禁止というのは、その前段階ということだろう。「憲法改正」に至る方向性自体は、自民党も民主党も何の違いもない。当面は「憲法9条」が残されても(残ったままの方がたちが悪いとも言えるが)、海外派兵して戦死者が出ることが常態化すれば、国民は自然と改憲を選ぶだろう。 それにしても、リベラル・左派の間では、自民党と民主党の安全保障政策は違う、と思っている(思い込みたがっている)人が多いようである。 豊下楢彦「日米安保における「対等性」とは何か」(『世界』2009年11月号)で、「麻生前首相の肝いりで設置された」という、諮問機関「安全保障と防衛力に関する懇談会」が、麻生前首相に今年8月4日に提出した報告書の主張について、以下のように述べている。 「(注・この報告書が)憲法解釈から防衛の基本原則に至るまで変更せねばならない(注・とする)理由はどこにあるのであろうか。それは言うまでもなく、核・ミサイル開発を続け、「抑止が働くかどうか」が懸念される北朝鮮という「直接的な脅威」の存在である。同時に、米国の影響力が低下し「世界に対する関与が減る」恐れが出てきたことである。従って、「米国に守ってもらう」のではなく「共に守る」という領域に日本も踏み込む必要がある、ということなのである。現実には、在日米軍は日本防衛ではなく世界戦略を任務としているのであるが、それは別としても、従来の枠組みを突破することが自己目的となっているからであろうか、およそ現実に合わない「方針」が提起されている。」 豊下はこのように述べた上で、鳩山政権の掲げる米国との「対等性」なる言葉に期待する。豊下は、報告書の主張と鳩山政権の掲げる安全保障政策は、断絶しており、だからこそ鳩山政権に期待しているようだ。だが、断絶ではなく、連続しているのである。「「米国に守ってもらう」のではなく「共に守る」という領域に日本も踏み込む」こと、これが、鳩山や小沢が言う「対米自立」であり、米国との「対等性」ということだ。 もう一度森本に登場してもらおう。常識的な話だと思うのだが・・・。 「米国では、2007年2月、R・アーミテージ前国務副長官やマイケル・グリーン、カート・キャンベル、ジョセフ・ナイが、「日米同盟――2020年を見据え、アジアを正しく方向付ける」というレポートを発表しました。この中では、「ソフトパフーではなくスマートパワー」という概念を打ち出して、軍事力を思い切って効率的な規模に縮小し、国際公共財を使って地域を安定させると指摘しています。(中略) 軍事力については、その必要性を認めつつも、それにより治安を維持し、戦後復興を行い、政治的・宗数的安定を図ることに専念するよう変質させることをねらいとするものです。治安維持のためには、ある程度の軍事力は必要ですが、圧倒的な軍事力があっても地域の安定を維持できないという意識が定着しつつあるということが、こうした概念発展の背後にあります。 この概念が新しい米国政権に採用された場合、米軍は今よりも規模が縮小され、米国がゆっくりと世界各地から手を引いていくことも予想されます。これは、米国が同盟国と一緒になって、多国間の安全保障協力や安全保障的枠組みの中で地域の安定を維持するという概念と手法が採用されるようになり、そうなると同盟の意味がこれまでとは変わってくるということです。」(前掲書、63~64頁) 「米国は2008年の大統領選挙でいかなる政権が誕生しても、軍事戦略の大筋は変わらないと思います。 もし民主党政権になっても、この米軍再編というトランス・フォーメーションのプロセスを進める必要があるという点では、国防総省の幅広いコンセンサスがあるからです。 おそらく、いずれの政権になっても米国は国防費を削減し、米軍規模を減らし、海外から米軍を撤退し、米軍再編を進め、国際協調主義を進め、同盟国に貢献を迫ってくるという一般的傾向を示すことになると思います。こうした全体の傾向の中で、民主党政権のほうがむしろ同盟国に具体的な貢献を一層、迫ってくる可能性が高いといえます。 伝統的に共和党は、対外的に積極介入する傾向にあります。それにより力強い国際的リーダーシップをとろうとするわけです。それで自ら財政を負担して苦しむことになります。これに対し、民主党は、クリントン、カーター政権のように、やや内向きに閉じこもり、協調主義的になる傾向があります。その代わり同盟国に対しては負担増を求めるわけです。ですから、同盟国にとっては民主党政権のほうが手強い相手になるといえます。 このような傾向があまり強い民主党政権になった場合、日米関係が冷える可能性もあります。具体的に同盟国に役割を果たさせて、それに乗じて自国の国内経済を重視するというのが民主党のやり方だからです。(中略) 大統領選挙の結果、民主党政権になった場合、イラクにある程度の戦略拠点を維持するとは思いますが、米国は海外における軍事介入から、かなり手を引き、つまり自国内に閉じ込もることになります。アフガン・イラク戦争で疲弊した地上兵力の立て直しをするためでもあります。これはアジアの問題にも積極的に関与しないということであり、その分だけ米国は同盟国による一層の貢献を強く求めてくるということになります。」(前掲書、71~73頁) 共産党政権ならば話は変わってくるかもしれないが(多分変わらないと思うが)、(日本の)民主党主導政権が掲げる「対米自立」「米国との対等な関係」は、上述の、アメリカの負担を日本が肩代わりすることにしか帰結しないのであって、鳩山政権が掲げている「東アジア共同体」というのは、ここで言うところの「多国間の安全保障協力や安全保障的枠組み」だ。別に私はアメリカ陰謀論を採っているわけではなくて、上述の国際情勢認識は、日本の海外派兵を肯定する自民党や民主党の政治家には、ごく一般的なものである。 本来ならば強硬に反対していたであろう護憲派の市民運動や左派が、「対米自立」「米国との対等な関係」さえ掲げていれば、勝手に自滅してくれるどころか積極的な応援団すら買って出てくれるわけであるから、日本の民主党や米国の民主党からすれば笑いが止まらないだろう。 なお、森本は同書で、日米同盟、米韓同盟はあっても日韓同盟がないことを問題視し、日米韓の安全保障協力関係の構築、防衛協力ガイドラインの設定、朝鮮半島統一の前に韓国を日本に引き寄せることを提唱している。来年に本格化するであろう日韓の「和解」キャンペーンも、こうした文脈の中にあると考えるべきだろう。 前回に続いて、『思想地図』創刊号(2008年4月刊)での発言を取り上げる。「鼎談 日本論とナショナリズム」(参加者は東浩紀・萱野稔人・北田暁大。鼎談の日付は2008年2月13日)での、萱野の発言である(279~280頁)。
「萱野 (中略)まあ、個人的には、「愛国心」教育を義務教育のなかに導入したり、国民道徳を復活させようとするようなナショナリズムの再生はまったくナンセンスだと思いますが、たとえば、昨年(2007年)11月に改正入管法の施行にともなって導入されたJ―VISIT(入国時に外国人の顔写真や指紋といった生体情報を採取するシステム)なんかを見ると、ナショナリズムに訴えたい気持ちにかられますね。あれ、「テロの未然防止」という口実のもと、たんにアメリカの公共事業の下請けをしているだけですから。 東 アクセンチュアですね。『権力の読みかた』で触れていました。 萱野 そう。アクセンチュアというアメリカのコンサルタント会社がきて、アメリカのシステムを導入していきました。結局、日本の入管システムの心臓部は、アメリカ政府と一体となった外資の手に握られることになったわけです。問題は、日ごろ「愛国心」が大事だとか唱えている政治家たちによってそれが実現されたということです。こうした国家主義的ナショナリズムとグローバリゼーションのねじれた共犯関係を批判するには、ナショナリズムを逆手にとるのが一番有効なのではないか。お前ら、口先では愛国心とか言っているけど、やってることは売国行為じゃないか、と。」 奇妙な論理である。外資系企業への発注を「売国行為」などと罵るような類の「ナショナリズム」であれば、そもそもJ―VISIT(日本版US-VISIT)に反対するのではなく、積極的に肯定すべきだろう。萱野の日頃の言説からしても、そうした類の「ナショナリズム」こそが「本音」だと思う。さすがにリベラル左派メディアでも、排外的入管政策そのもののJ-VISITは当時は肯定されていなかったから、萱野は建前として反対しているだけのことではないか。 この、萱野における、建前と本音の分裂という事態は、この後さらに悲惨な姿を呈する。萱野のこの発言に対して、東は以下のように疑問を呈している。 「東 詳細に検討する必要があります。外資系企業が目本のセキュリティを担当しているのが本当に問題なのか、問題だとしたらどのように問題なのか。実際には、じゃあ本当に国内資本にすれば国益にかなうのか、それがわかるのは専門家だけだと思うんです。そもそも、そんなことを言ったら、僕たちがみなマイクロソフトのOSを使いグーグルを使っているのはどうなんだ、という話になる。」 これに対して萱野は、以下のように答えている。 「萱野 もちろん、もっと専門的に細かく見ていって、それが実は日本にとって損失よりも利益のほうが大きいということがわかれば、べつにJ-VISITを批判する必要は(プライバシーや管理の問題を除いて)ないです。ただその場合も、われわれにとっての利益になるかどうか、という価値基準のところは変わりませんよね。」 萱野はあっさりとJ-VISITに対する反対を撤回してしまう。「ナショナリズムを逆手にと」るんじゃなかったのかよ。まあ、本音が露呈したと言えるが、ここで注目すべきは、「(プライバシーや管理の問題を除いて)」なる、カッコ内の一節である。これは何なのか。 ここでの「プライバシー」、「管理」は、J-VISITの性格から考えて、外国人の「プライバシー」、外国人の「管理」であると考えられる。J-VISITを擁護するにせよ批判するにせよ、その焦点が、まさに外国人のプライバシー情報の収集、外国人管理にあることは誰も否定しないだろう。だからここでの萱野の発言は、わけのわからないものになってしまう。中心的論点たる「プライバシーや管理の問題を除いて」しまえば、J-VISITの評価など不可能なのだから。 多分、「(プライバシーや管理の問題を除いて)」なるカッコ内の一節は、鼎談後の加筆時に加えられたものではないか。鼎談時の生の発言では、後々叩かれるとまずいと萱野は考えて、「立ち位置」の調整のために後から付け加えたように思われる。仮にそうではなく、鼎談時にこのようなことが発言されていたとしても、このカッコ内の一節の補足の馬鹿馬鹿しさは変わらない。 萱野の登場する場のほとんどはリベラル・左派系のメディアや団体であるから、こうしたせこい「立ち位置」の調整を行いつつ、リベラル・左派の右傾化に即応して、徐々にレイシスト的ナショナリストとしての本音を露わにしていく、というのが萱野の戦略だと思われる。そこまで考えておらず、単に無意識的にやっているだけかもしれないが。萱野の「立ち位置」調整は、あまりにも小心かつ稚拙なので、萱野には佐藤優大先生に学ぶことを勧めたい。 言うまでもないが、問題の本質は萱野ではない。問われるべきは、萱野の下らない「立ち位置」調整を可能にしている、萱野を使うリベラル・左派である。
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