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2010年 03月 10日
4.
では、以下、川瀬氏の反論を検討していこう。 そもそも、この件に関する論点は、実は単純なはずである。川瀬氏が(後に示すように)肯定的に評価する「こっちから寛容さを示して道徳的な優位性を保つ」姿勢について、私は、二つの問題点を指摘した。 一つ目は、「寛容」論という論理の問題性である。「朝鮮学校排除問題は、在日朝鮮人、外国人の教育権及び人種差別禁止という普遍的権利の問題」であって、「「国益」上の問題、あるいは「寛容」の問題として朝鮮学校排除問題を位置づけること」は、それが反対論の主流になれば、危険な結果をもたらしかねない点である。「北朝鮮と関係する朝鮮学校以外の外国人学校には「寛容」だが、朝鮮学校は「寛容」の対象外、とする人々は数多く存在するわけであるから、この種の主張はそうした人々に簡単に否定されるだろう」し、また、「マジョリティの恣意的な「寛容」の程度によって在日朝鮮人、外国人の教育権が左右されるということならば、情勢次第で簡単に在日朝鮮人、外国人の教育権は否定されることになる」からである。 二つ目は、「道徳的な優位性」という主張の問題性である。私はこれに対し、「なぜ「寛容さ」を示せば「道徳的な優位性を保つ」ことになるのかは不明」、「植民地支配の過去清算問題はどうなるのだろうか」と述べている。 したがって、川瀬氏が本来行なうべき反論は、一つ目の論点に対して、「寛容」論が朝鮮学校排除反対論の主流になったとしても、私が憂慮するような事態が生じるはずがないことを示すこと、または、在日朝鮮人、外国人は、マジョリティによる「寛容」論を是認すべきと説得的に主張することである。後者については、例えば、「国民国家においては、外国人の権利は国民のそれに対して制限されるべきであるのだから、「普遍的権利」などというものは在日朝鮮人を含めた外国人の主張は考慮されなくともよい。外国人の権利は、マジョリティ側(国家)の裁量次第の不安定なものであることは当然であって、マジョリティの「寛容」に依拠する以外に、外国人の権利の実現はあり得ない」という前提に立ったものとなろう。 また、二つ目の論点に対して本来行なうべき反論は、例えば、「「植民地支配の過去清算問題」なるものは、日朝平壌宣言で解決済みであるのだから、問題になりえない。したがって、問題は、両国の体制の優位性に還元されるのであって、国民を恐怖と抑圧の下に置く北朝鮮の政治体制に対して、日本国家が外国人、特に、在日朝鮮人に対してすら高校実質の無償化を認めれば、以前から継続していた、北朝鮮への「道徳的な優位性」をさらに継続させることができることは自明である」といった形のものがありうるだろう。 上記の反論例は、あくまで仮定であるが、論点自体はこの二つのはずである。ところが、川瀬氏のとった行動は実に奇妙であって、一つ目の論点については、金の「誤読」かつ「思いこみ」あり、自分はそうは思っていないなどと主張し、二つ目の論点については何ら言及していないのである。 一つ目の論点に関する川瀬氏の見解を見てみよう。 「いやあ、敢えて「国益」的な立場だったとしても、という意味なんですけどねえ。普遍的人権と思ってるに決まってるっつーの(笑)。リアルポリティックスとか言うなら、それくらいの「外交手腕」を見せろよ、というつもりだったんですけどね。 」(②) 「要するに、僕が府知事や大臣だったら、内心はどうあれ(ここ重要)、寛容な態度を取って、「向こう」に好き放題言わせないくらいのずるさは発揮するのにな、ということです。本心からでなくてもそういう態度は結局朝鮮学校の生徒の利益になるだろ、ということですよ。」(⑪) 川瀬氏は②で、自分自身は「寛容」論の立場に立っていないと主張している。だが、私の元の文章、「川瀬貴也の以下の発言などがその典型である」、「こうした「国益」論的な枠組みに基づいた「寛容」の論理--川瀬のブログによれば川瀬が大ファンらしい、内田樹がまさにこれである--は、今のところそれほど目立っていないから放置しておいてよいとしても、リベラル・左派メディアがいかにも好みそうな論理であるため、反対論の主流にならないよう注意しておく必要がある。」といった一節からも明らかなように、私は別に川瀬氏が<本心では>どのような見解を持っているか、など問題にしていないのである。川瀬氏が肯定的に評価している「寛容」論という「論理」を問題にしているのであって(後述するように、私の元の文章が、川瀬氏自身が本心からこのような見解を持っている、と見なしているものだとしても、何ら問題はない)、川瀬氏が<本心では>どのような見解を持とうが行論には何の関係もない。しかも、後述するように、私がとりあげた発言の前後で川瀬氏は「普遍的権利」またはそれに該当する発言を一切行なっていないのであるから、何をかいわんやである。 そして、⑪で、「寛容」論の姿勢を肯定的に評価している。したがって、私の元の文章は「誤読」でもなんでもなく、川瀬氏が肯定的に評価する「寛容」論への批判であるのだから、一つ目の論点に対して川瀬氏が肯定的に評価するゆえんを説明すればよいだけの話である。そのような反論の責任を「誤読」だと言い張ることによって回避して、あたかも自分は第三者であるかのように振る舞っているのが奇妙なのである。 この川瀬氏の態度は、冒頭で指摘した、川瀬氏の反論が私や読者一般に向けてなされた形のものではないことと関連しているように思われる。両方とも、発言の社会的責任をとることを(できる限り)回避しようとする姿勢であって、前者では、川瀬氏自身の「内心」を救い出し、後者では、twitter上の友人に<川瀬さんは悪くない>と慰めてもらうことによって、自らの内面に<癒し>を施して、内面を救い出すことが志向されているように見える。また、私には、川瀬氏においては、朝鮮学校排除問題をめぐる言説上の「立ち位置」確保が優先されており、その「立ち位置」と矛盾するような発言の社会的責任をとることが拒否されているように見える。 また、ここに、<佐藤優現象>と結託するリベラル・左派との共通性も見取ることができよう。私はかつて、編集部内での中国人差別発言に対する岡本厚『世界』編集長の対応に関連して、以下のように述べた。 「岡本氏やA氏には多分、「進歩的」で「良心的」な、「日本唯一のクオリティマガジン」の担い手である自分たちが、差別発言などするはずがない、という大前提があるである。自分たちの発言が差別発言のはずがないのだから、それを差別的だと感じたり不快に思ったりする方が異常であり、非常識である、という図式だ。」 「この差別発言に関する岡本氏とのやりとりは、『世界』が自発的には、佐藤優を使い続けることをやめるはずがないことを、よく示していると思う。佐藤を使い続ける(使い続けてきた)ことへの批判は、「岡本厚『世界』編集長の「逆ギレ」」)で書いた、岡本氏による私への電話対応と同じように、徹底した憎悪を持って返されるだろう。自分たちのような「進歩的」で「良心的」な、「日本唯一のクオリティマガジン」の担い手が、佐藤と組んでいるからといって、社会に悪影響を与えるような雑誌であるはずがない。こんなに「良心的」な誌面を作っている(作ってきた)のだから、自分たちにそのような悪意があるはずがない。批判するのは、自分たちの思いを理解しようとしない、非常識かつ異常な輩である、と。」 私や「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」の署名者たちが問題にしているのは、佐藤優を起用することの社会的効果(悪影響)であるが、岡本編集長ら<佐藤優現象>を推進する人々はこの社会的効果(悪影響)への批判について何らまともに答えず、自分たちの「内心」は違うとしている。これは、「寛容」論の社会的効果(悪影響)について何らまともに答えず、自分の「内心」は違うとしている川瀬氏の態度と大変似ている。川瀬氏が私について、「ブログから判断するに、思いこみがどうも激しいみたい」(⑥)、「不寛容な「味方」って厄介」(⑧)、「倫理的にどれだけ自分が優位か」を味方内で競うゲームばかりに夢中になっている連中」(⑧文脈上、「これは金を指していない」という弁明は成立し得ない))、 「利敵行為」(⑩)などと罵っているのも、岡本編集長を彷彿とさせる「逆ギレ」である。こんなに「良心的」な自分にそのような悪意があるはずがない。批判するのは、自分の思いを理解しようとしない、非常識かつ異常な輩である、と。 ある意味では、川瀬氏は「正直」または「素直」なのだと思う。それが、①の「「やっぱ、twitterでの発言は、文脈(今までの生き方も含む)と切り離されて一人歩きして解釈される危険性があるなあ、と実感。」という発言によく現れている。 私はこの「今までの生き方」なる一節(これについては後ほど詳細に論じる)を見て目が点になってしまったのだが、佐藤優を結託するリベラル・左派の人々も、内心では同じようなことを思っているように思う。「今までの生き方」においてこんなに「良心派」として頑張ってきているのだから、佐藤優起用が何らかの「悪意」に基づいたものであるはずがないではないか、と。川瀬氏との違いは、後者の人々が一応は大人であるため、そのように「今までの生き方」で正当化しようとすることが、かなり恥ずかしいことであり、かつ説得力を欠いていることを自覚していると思われるがゆえに、大っぴらには発言しない点にある。 こうした同型性は、川瀬氏が、佐藤優の本を少なくとも2009年12月初頭までは「手に取ったこともなかった」 がゆえに、極めて興味深いのである。 5. また、川瀬氏の⑨の発言は、その友人の「セクトとか内ゲバとかの論理と似ているね。」という発言への賛同として述べられている。どうも川瀬氏は、私を、「倫理的にどれだけ自分が優位か」を競うために、「敵」よりも「味方」を攻撃する、「内ゲバ」をもたらす「セクト」的な人間、と描こうとしているようである。そのことを示す川瀬氏の発言を改めて列挙しておこう。 「僕はこういう運動に関しては「小異を捨てて大同につく」ことを心がけていますので、「朝鮮学校差別反対」のところでは連帯すると思います。彼が嫌がろうとも。 」(⑥) 「不寛容な「味方」って厄介だな。原理原則、理想論は重要。でもそれに拘泥して向こう岸にいる「敵」よりも目前の「味方」を攻撃するってのは勘弁してもらいたいね。「倫理的にどれだけ自分が優位か」を味方内で競うゲームばかりに夢中になっている連中とは、デモは一緒にするけど酒は飲めないな(笑)。 」(⑧) 「でも「お前は俺が認めるほどピュアじゃない」って言われてもなー。方向性は一緒なのにね。 」(⑨) 「あなたが僕にとっては「厄介な味方」であることは確認できました。僕の側からあなたを「排除」することはありません(あなたの側からされるかも知れませんが、こっちの知ったこっちゃありません)。」 (⑬) 何から反論してよいやら迷うのだが、まず、本来は川瀬氏が、二つの論点について反論すべき問題であるにもかかわらず、それをしないどころか、私に関する歪曲した像(そもそも「お前は俺が認めるほどピュアじゃない」などという発言は、該当する一節すらない)を描いてデマを垂れ流し、自分への批判を封じるという、社会人としておよそ信じ難い行為を行なっている点が指摘できよう。 川瀬氏のように、「敵」と「味方」の自らの線引きを勝手に他人に押しつけ、自らへの批判を「敵」に対する「利敵行為」などとする態度こそ、典型的に「セクト」的なものであることは言うまでもない。川瀬氏が何かの政治活動に関与していたようには見えないのだが、行動様式(だけ)は愚劣な左翼のそれを忠実に引き継いでいる点が興味深い。 また、私の元の文章が、なぜ「向こう岸にいる「敵」よりも目前の「味方」を攻撃する」ものになるのかもさっぱりわからない。私の元の文章は、「「国益」論的な枠組みに基づいた「寛容」の論理は、今のところそれほど目立っていないから放置しておいてよいとしても、リベラル・左派メディアがいかにも好みそうな論理であるため、反対論の主流にならないよう注意しておく必要がある。」と述べているように、「寛容」論と朝鮮学校排除論の論理の近似性を指摘しつつも、排除論より優先的に「寛容」論を叩くべき、としているものではない。これは後で、川瀬氏が私淑する内田樹の議論を取り上げる際により詳しく論じるが、「寛容」論が反対論の主流になれば、まともに対抗できないだけではなく、普遍的権利に依拠した反対論が弱まる結果、今後より酷い施策すらもたらされかねないことを指摘したものであり、だからこそ「寛容」論が反対論の主流になることに警戒しておくべき、としたものである。意図的なのか単に読解力がないのかは知らないが、川瀬氏は、問題を「敵」と「味方」の二項対立に問題を過度に単純化している。私は川瀬氏の歴史論文を読んだことがないが、こんな認識でまともな歴史論文が書けるのだろうか。 以下の発言も、同質の問題を孕むものである。 ⑪「僕の発言は、「普遍的人権」を信じているからこその発言なんだけど(敢えて右も左もみんな大好きな「国益」から考えるとしても、という文脈なんだけどね)、批判者及びこれを引用してきた誰かさんは僕という人間を判っていらっしゃらないとしか言えないですね。要するに、僕が府知事や大臣だったら、内心はどうあれ(ここ重要)、寛容な態度を取って、「向こう」に好き放題言わせないくらいのずるさは発揮するのにな、ということです。本心からでなくてもそういう態度は結局朝鮮学校の生徒の利益になるだろ、ということですよ。」 ここで川瀬氏は、自分は、「府知事や大臣」が「ずるさ」から「寛容な態度」をとることが「結局朝鮮学校の生徒の利益」になると言ったに過ぎない、と反論している。だが、このような反論のあり方自体が、印象操作または基礎的読解力の欠如である。「府知事や大臣」が「ずるさ」から「朝鮮学校の生徒の利益」になる「寛容な態度」をとるならば、それが良いことであることは当たり前の話である。 私が問題にしたのは、そのような説得力がほとんどない(その理由は後述する)論理が反対論の主流になることである。ここでの川瀬氏の発言は、あたかも私を「府知事や大臣」が「ずるさ」から「寛容な態度」をとること自体を否定しているような、「「倫理的にどれだけ自分が優位か」を味方内で競うゲームばかりに夢中になっている」人物であるかのように描くものであり、極めて悪質であると言わざるを得ない。 そもそも、ここでは「ずるさ」などという用語を使いながら距離を置こうとしているが、川瀬氏の元の発言は、「府知事や大臣」が「ずるさ」から「寛容な態度」をとることと川瀬氏自身の政治的立場を截然と区別したものとして打ち出されたものではない。「批判者及びこれを引用してきた誰かさんは僕という人間を判っていらっしゃらないとしか言えない」などと言うが、川瀬氏の「内心」は違う(これも後述するように、極めて疑わしいのだが)ということを仮に認めたとしても、元の発言はそのようなものではないのだから、「僕という人間」など知りようがないではないか。したがって、川瀬氏の「内心」は違うということを仮に認めたとしても、問題は川瀬氏が主張するような私の「誤読」ではなく、川瀬氏の説明不足、文章表現の過誤にある。むしろ、ここでの印象操作または基礎的読解力の欠如、責任のすりかえ、押しつけといった点に、「僕という人間」(川瀬氏)の本質がよく表れていると思う。 また、そもそも「敵」と「味方」という区分を自明視し、「味方」(自分)への批判を「利敵行為」として封じるという川瀬氏の態度は、社会人として、また言論人として異常である。市民の社会的活動や、政治的意見の形成の前提において、自由な言論の交換が不可欠であることは自明であって、批判に対しては、反論するなり無視するなりすればよいだけの話である。組織的なプロパガンダならば別だが、単なる一市民の批判で打撃を受け、「利敵行為」などとヒステリックに主張するような「運動」など、その体質はさておき、脆弱すぎて政治的に無価値だろう。自由主義社会というのはそのような前提の下で成り立っている社会であって、川瀬氏の、社会常識の欠如に呆れざるを得ない。 川瀬氏のこのような認識の背景には、市民の自由な意見交換への否定があるが、それは端的に愚民観であり、時代錯誤な左翼エリートの世界観そのものである(前述のように、川瀬氏が奇妙なのは、川瀬氏自身は「左翼」ではなさそうであるにもかかわらず、体質だけは濃厚に引き継いでいる点である)。 そもそも、私は別に、川瀬氏が「味方」だと主張するであろう左派向けに文章を発表しているわけではなく、一般読者向けに書いているのであるから、なぜ川瀬氏のような時代錯誤な党派的な論理に従わなければならないのかさっぱりわからない。ついでに言うと、「味方」「敵」という区分を用いるならば、むしろ、「味方」相互でこそ言論の応酬と意見交換が活発になされるべきであることは自明である(念のために言うが、川瀬氏の発言への批判も含めた私の一連のリベラル・左派批判は、こうした考えに基づくものではない。「味方」と見なしているわけではないので)。 また、川瀬氏が批判を控えるべきだとする「味方」というのはどの範囲まで広がるかもさっぱりわからない。川瀬氏の主張を適用すれば、読売新聞は社説で朝鮮学校排除に反対しているから、「味方」ということになるだろう。また、「敵」を在特会に絞れば、今回の朝鮮学校排除には賛成している人々のうち、多くの人々も「味方」ということになるだろう。川瀬氏が言う「味方」「敵」という区分の範囲は、ことほどさように曖昧なものであって、ほぼ無意味である。このような恣意的な「味方」「敵」区分を楯にとった批判の封じ込めが、自らが批判された場合に用いられる常套句であるように、川瀬氏のこうした発言も、つまるところ、「俺を批判しないでくれ」という(後述するように、川瀬氏の発言の随所に見られる)幼児性の発露に過ぎないように思われる。 また、⑥や⑬のように、金は嫌がるであろうが、「「朝鮮学校差別反対」のところでは連帯する」などと改めて強調するのも奇妙である。川瀬氏が何を指して「連帯」と言っているのか不明だが、川瀬氏の元の文章のように、「寛容」論の立場で「連帯」しようと言うのであれば、少なくともそれは私の批判に答えてから言うべきであろう。川瀬氏は予想される私の「拒否」を、私に関して歪曲化した像に基づいた、私の性格上のものとした上で、それに対して自分を優位に立たせようとしている。「寛容」論が孕む外国人の客体化という論理を、当の在日朝鮮人に押しつけることの問題性が、全く分かっていないらしいのである。どこまでこの人物は独善的かつ傲慢な人物なのだろうか? ところで、これらの川瀬氏の発言は、北村肇『金曜日』編集長が、佐藤優起用の問題点について質問された際に答えたらしい回答と、極めて似ていると思う。ブログ「ヘナチョコ革命」によれば、北村編集長はそのような質問に対して、「「味方の中に敵をつくらず、敵の中に味方をつくる」が私のポリシー」、「異論を排除しない。排外主義ゆえ戦後の左翼・革新運動は力を持てなかった」、「自説は控える(「味方の中に敵をつくる」ことになりかねないので)」といった要旨の回答を行ったらしい。 http://blogs.yahoo.co.jp/henatyokokakumei/25801123.html http://blogs.yahoo.co.jp/henatyokokakumei/25820537.html 「敵」「味方」という単純な二項対立の自明視と、それに基づいた「味方」陣営内の批判の封殺、自らが行っていること(佐藤優の起用、「寛容」論の肯定的評価)の社会的効果(悪影響)は一切無視する姿勢、自由な言論の交換への否定的態度など、川瀬氏そのままである。川瀬氏の問題は、川瀬氏個人の性格的なものだけではなく、現在のリベラル・左派内においてかなり共有されている心性が露呈したものとして、捉えるべきではないかと思う。
by kollwitz2000
| 2010-03-10 00:01
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