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2010年 03月 10日
8.
川瀬氏の発言の検討を続ける。 ③「@mythrim 佐藤氏と一緒に批判されるくらいの大物になったと喜ぶべきでしょうか(笑)?僕は今学校で「朝鮮学校を差別するな」っていう署名集めてるんですけどね・・・。 」 川瀬氏は、「佐藤氏と一緒に批判されるくらいの大物になったと喜ぶべきでしょうか(笑)?」と発言しているが、私は川瀬氏の発言を「典型」としたまでであって、佐藤優と同質の問題を含んでいることを指摘しているが、同列には扱っていない。 また、「僕は今学校で「朝鮮学校を差別するな」っていう署名集めてるんですけどね・・・。 」と川瀬氏は発言しており、これも何とおりもの反論が可能である。 そもそも、川瀬氏がどのような活動を行なっていようが、発言とは何の関係もない。 また、川瀬氏は「今学校で「朝鮮学校を差別するな」っていう署名集めてる」ことを、私の前回記事発表時まで、私が容易に知り得る形で明らかにしていないのであるから、そのような情報なしに発言を評価することは何ら問題がない。 また、川瀬氏が「「朝鮮学校を差別するな」っていう署名集めてる」ことは、上で指摘した、「寛容」論に基づく反対論の社会的効果(悪影響)についてどのように考えるか説明することが、その立場からして、より強く要求されることになるだけの話であって、反論にすらなっていない。そもそも私の文章は、「国益」上の問題、あるいは「寛容」の問題として朝鮮学校排除問題を位置づける論理が、朝鮮学校排除への反対論の主流にならないよう警戒を呼びかけたものであるから、そのような運動を行なっている人々に特に呼びかけていることは明らかであって、この意味からも、川瀬氏がなぜこれが反論となると考えているか謎である。 また、普遍的権利の否定と「朝鮮学校を差別するな」という主張が両立することは、戦前の皇民化政策期をとっても明らかである。この人は本当に朝鮮史研究者なのだろうか? ④「@Marukusu_hakase 僕は逆説的な言葉遣いをしたつもりなんですけどね・・・。そもそも、朝鮮学校いじめは「象徴的暴力」であって、現実の北朝鮮には痛痒も与えないでしょ?そんな「ゲーム」を批判したつもりです。」 「つもり」という言葉が二度使われている点に注目しよう。そのように読解するには途方もない飛躍が必要なのだから、私の「誤読」ではなく、川瀬氏の問題であることを示唆している。それにしても、自身の内面を救い出すことが好きな御仁である。 また、「象徴的暴力」なる用語を使って、何か意味があることを言ったつもりになっているらしいのもイタい。 ⑫「で、僕の上のコメントを見ても、そういうことをおっしゃるわけですね。じゃあ、対話じゃないや。それに、そもそもこれが橋下知事を思いっきり罵っているエントリってことは理解しています?ただ、あなたの僕への批判で「マジョリティの権益の上にあぐらをかいている(意訳)」というのは当たっていると思います。そのことを多少自覚するがゆえに、どう動こうか、とモヤモヤ考えているこちらの事情も少しは分かって欲しい、というのもマジョリティの傲慢さだ、といわれればそれまでですが。」 この「マジョリティの権益の上にあぐらをかいている(意訳)」というのは当たっていると思います。どう動こうか、とモヤモヤ考えているこちらの事情も少しは分かって欲しい」というのは何なのだろうか。これは、「マジョリティの傲慢さ」以前の、川瀬氏個人の問題であって、「モヤモヤ考えているこちらの事情」というのが、まだ結論が出せていないといったことであるならば、社会的な発言などするなよ、というだけの話である。川瀬氏には、評価の対象となるのは発言だけ、という言論人としての常識がなく、内心やら「今までの生き方」やら、驚くほど幼稚な発言が目に付く。甘えるな、としか言いようがあるまい。 9. さらに発言の検討を続けるが、以上の私による川瀬氏への反論について、川瀬氏が回答するかしないかは、もちろん川瀬氏の自由である。 だが、以下の川瀬氏の発言は、私に関する虚偽の記述であって、私の社会的評価を低下せしめるものである。したがって、発言の根拠となる具体的な私の文章を提示した上で、それらの文章からなぜ、川瀬氏の発言のようなことが言えるか、理由を説明することを要求する。川瀬氏には、この要求に答える社会的義務がある。念のために書いておくが、私の文章内で川瀬氏からすれば不当ととられる表現があるかもしれないが、それらはすべて具体的な根拠に基づいた「論評」である(もちろん、川瀬氏がそうではないと主張するならば、具体的に問題となる表現を挙げてもらえれば、根拠を示す)。これに対して、以下の川瀬氏の発言は、具体的な根拠すら挙げない、虚偽に基づいた誹謗中傷である。 ⑧「不寛容な「味方」って厄介だな。原理原則、理想論は重要。でもそれに拘泥して向こう岸にいる「敵」よりも目前の「味方」を攻撃するってのは勘弁してもらいたいね。「倫理的にどれだけ自分が優位か」を味方内で競うゲームばかりに夢中になっている連中とは、デモは一緒にするけど酒は飲めないな(笑)。 」 ⑨「@Marukusu_hakase, @RAHIEM, まさにこういうのを批判したのが内田樹先生なので、僕の批判者が「この内田のエピゴーネンめ」と言ったのは実は正しいのです(笑)。でも「お前は俺が認めるほどピュアじゃない」って言われてもなー。方向性は一緒なのにね。 」 ⑩「@o_tsuka もうちょっと歩み寄れないものですかね。「利敵行為」とか、そういう扇情的な言葉は使いたくないんですけどね。繰り返しますが、社会運動についての僕のモットーは「小異を捨てて大同につく」です。 」 川瀬氏はここで、私について、 A.「原理原則、理想論」に「拘泥して向こう岸にいる「敵」よりも目前の「味方」を攻撃する」人物 B.「「倫理的にどれだけ自分が優位か」を味方内で競うゲームばかりに夢中になっている連中」の一人 C.また、「お前は俺が認めるほどピュアじゃない」と川瀬氏を批判している人物 として描いている。これらの記述は、川瀬氏が仮にいかに弁明しようとも、それこそ「文脈上」、私を指したものとして読者が受け取ることは明らかなものであり、そのように扱うべき記述である(判例上も、ある名誉毀損表現について、出版社や著者が「この表現は貴方を指しているのではない」と弁明したところで、「一般読者の普通の注意と読み方」からすればその人物を指していると思われるのであれば、名誉毀損は成立する)。 私が川瀬氏の発言を批判したゆえんは、そもそも原文で明らかだと思うのだが、これまでの記述で改めて説明したとおりである。そして、上記A~Cのような行為は一切行なってない。川瀬氏の記述は、私の言論活動を歪曲して描き、私の言論内容への読者の信頼性を低下させようとする極めて悪質なものである。したがって、川瀬氏が、私について、A~Cのように判断するに至った根拠を公的に明らかにするよう要求する。 また、「利敵行為」とは、私の行為の何を指しているのかも具体的に明らかにされたい。 ⑤「@NaokiKashio 批判はいいんです。こうしてウェブ上に発言しているんだから、それなりの「覚悟」はありますけど、思いこみや誤読だと、消耗しちゃうなあ、という愚痴です。 」 ⑥「@mythrim そう、彼は結構いい事も言っていると思うんですが、ブログから判断するに、思いこみがどうも激しいみたいですね。僕はこういう運動に関しては「小異を捨てて大同につく」ことを心がけていますので、「朝鮮学校差別反対」のところでは連帯すると思います。彼が嫌がろうとも。 」 川瀬氏は、私が川瀬氏の発言を取り上げた文章について、「思いこみや誤読」だと発言している。そうではないことは既に説明した。 これに加えて川瀬氏は、「ブログから判断するに、思いこみがどうも激しいみたい」などと発言している。自分の発言の責任を私の「思いこみや誤読」にすり替えておいて、私が「思いこみ」が激しい人間だと中傷することで、自らを正当化しようとしている。ここで川瀬氏が「思いこみ」という言葉を、私が、自説に固執するあまり、現実とは懸け離れた主張を展開している、という意味で用いていることは明らかである。この発言も完全な虚偽であって、私の言論活動を歪曲して描き、私の言論内容への読者の信頼性を低下させようとする極めて悪質なものである。 したがって、川瀬氏が、「ブログから判断するに、思いこみがどうも激しいみたい」なる発言の根拠となる、私のブログにおける具体的な記述例を挙げた上で、なぜその記述例が現実とは懸け離れた「思いこみ」であるかを公的に説明することを要求する。もちろん、その際の記述例は、単なる勘違いなどの軽微なものではなく、私について、「思いこみがどうも激しいみたい」という一般化が可能な程度のものでなければならない。 10. 川瀬氏は、自著に関する小倉紀蔵による書評について、「大変好意的な書評をしていただき、感謝の言葉もありません。ありがとうございました。」などと書いているから、この書評の内容は、川瀬氏の著書の言わんとすることから外れていない、と見てよいだろう。私は川瀬氏の論文や著書を読んでいないし、積極的に読む必要も感じないので、この書評をその内容紹介として話を進める。 小倉によれば、川瀬氏はこう主張しているとのことである。「支配者の言説としては〈凡庸〉ともいえるほど典型的な高橋の植民地主義的規定に、朝鮮人は同意して自己改造したり逆に反発したりするが、反発する朝鮮人が「朝鮮独自のものがある」というときにも、支配者の論理に呼応する声なのだから、両者は「共犯」関係にあるのだ。」 この手の主張は植民地研究では陳腐化した言説である。「両者は「共犯」関係にある」ことをわざわざ言いたがる姿勢は、「だからどうしたの?」というだけの話だ。「両者は「共犯」関係にある」などと言って何か意味があるように思える主張は、「民族主義というのは、フィクションであって、本来的なものではない。だから、対抗の機軸として、民族主義を持ち出すのは無意味」「民族主義それ自体が、フィクションであって、それ自体が排外主義の元凶」といった主張に結びつきやすい(念のために言うが、川瀬氏がこう言っているわけではない)。こうした主張はよく見かけるが、これこそが、国際人権A・B規約の第1条でもそれぞれ規定されている、民族の権利を否定する排外主義である。 以前にも指摘したが、日本のリベラル・左派(特にアカデミズムのそれ)は、レイシズムや排外主義というものは、無知な大衆や「民族主義者」や右派がウィルスのように感染するもの、もしくは、そうした人々が宗教のように信仰しているものと捉えているように見える。でも私たちは、理性や、民族主義は社会的に構築されたものという教養があるから、レイシズムや排外主義に感染しませんよ、と。そうではなくて、民族の権利を否定する行為・言説こそがレイシズム・排外主義なのであって、発話者が主観的に「良心的」であることは、何の関係もない。日本のアカデミズムのリベラル・左派が、話が分かり合える仲間以外の多くの人間を不愉快にさせるのは、自分たち(だけ)は「民族主義」や「ナショナリズム」のゲームから逃れられている、「良心的」な人間だ、と言いたげな点にある。これは、他の欧米諸国も似たりよったりだと思う(韓国も最近はこの傾向がある)。欧米の人種主義関係の翻訳書の大半がつまらないのは、人種主義をウィルスか何かと捉えている点にある。 前置きが長くなったが、今回川瀬氏の主張を検討して思ったのは、日本で90年代以降流行した国民国家論の本質は、川瀬氏によってよく引き継がれているのではないか、ということである。日本では、国民国家論は、主としてリベラル・左派の知識人によって受容されたために、何か左派的なものとして流通しているが、日本の文脈で考えれば、結果的にはそれは保守的なものとして機能したのではないか、と思う。1980年代後半頃から、日本の侵略と植民地支配の加害責任を追及する声が日本の周辺諸国で強まり、それにまともに向き合って日本国内でも「日本国民としての責任」を果たそうという声が一部で広がった(念のために言うが、加藤典洋の『敗戦後論』などは、「加害責任を追求する声」にまともに向きあったものではないから、これには含まれない)。高橋哲哉の『戦後責任論』など、その成果も一定存在する。だが、国民国家論は、リベラル・左派論壇や戦後補償関連の市民運動圏内で流行したがゆえに、萌芽的に市民レベルで現れた「日本国民としての責任」論を結果的に解体し、周辺諸国からの批判は「ナショナリズム」として否定的に見る傾向を、結果としてはもたらす機能を果たしたと思う(もちろんそれが唯一の理由ではない)。 川瀬氏が内田樹に私淑しているというのは、左派からみれば、「おかしい」ということになるだろう。だが、むしろ、民族主義批判の植民地研究者は、内田のようなリベラル・ナショナリストと親和的なのではないか、というのが最近の私の考えである。実際に、リベラル・左派ジャーナリズムの論調が、<佐藤優現象>という形でリベラル・ナショナリズム化している一方でも、ポストコロニアリズム系の左派はそれと共存している。戦前と戦後の連続性を批判し、日本国家の過去清算を要求するような人々だけが、リベラル・左派ジャーナリズムから消えていっている。 川瀬氏の「知り合い」らしい、與那覇潤の新刊『翻訳の政治学』を読んで思ったのだが、このところどうもポストコロニアリズムの右旋回が定着化しきったようである(與那覇は自らをポストコロニアリズム系として括られることを否定するだろうが、広義にはそうである)。與那覇の本においては、極めて陳腐な形でリベラル・ナショナリズムとポストコロニアリズムが融合され、恐らく無自覚なまま保守イデオロギーとして打ち出されている。 その意味で、川瀬氏がリベラル・ナショナリズム的な「寛容」論と極めて強い親和性を持っているのは、その意味では不思議でもなんでもない。また、川瀬氏による私への反論が露呈させている、責任をとることの回避や「立ち位置」調整、「内面」がどうであるかを政治的に意味あるものとする姿勢は、ポストコロニアリズムの特徴である。その意味で、川瀬氏の問題は、90年代以降、日本のアカデミズムや市民運動圏、左派ジャーナリズムを席巻した、国民国家論やポストコロニアリズムについて考えるよい材料になると思う。川瀬氏の反論を期待する次第である。もちろん、その私の「期待」とは別に、「9」で述べた私の要求に、川瀬氏は答える義務がある。
by kollwitz2000
| 2010-03-10 00:03
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