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2011年 03月 09日
1.
姜尚中がまた醜悪な発言をしている。ちょうど、「在日朝鮮人言説の変容について」の連載とも直接関わってくる内容なので、簡単に触れておこう。 姜は、『AERA』2011年2月28日号(21日発売)で、自身の連載「愛の作法」で、李忠成のサッカー・アジアカップ決勝戦での活躍に触れて、「鮮烈なボレーシュートが予言する未来」という表題の文章を書いている。そこには、以下のようにある(強調は引用者、以下同じ)。 「どうやら日本の優勝を決めた李忠成選手は東京生まれの在日コリアン4世らしいですね。たまたま映像を見たらユニホームの背中にも「LEE」と書かれていました。今回の活躍で李選手の存在を初めて知ると同時に衝撃を受けた方も少なくなかったのではないでしょうか。数十年前では考えられなかった光景です。在日につきまとうステレオタイプな悲壮感あふれる演出ではなく、自らの完璧なボレーシュートの如く突き抜けた感じのスター然とした風格がとても新鮮でした。 彼は4年前に日本国籍を取得しながら、本名の「李」を名乗っています。以前は韓国代表候補になったこともあるようですね。わたしとは親子ほど年が離れているとはいえ、彼の名前に込めた覚悟も迷いも十分すぎるぐらいわかります。わたしも彼と同じ20歳を過ぎたころ、初めて韓国を旅し、日本名の「永野鉄男」を捨てる決意をしましたから。 当時のソウルは「やあ同胞!」なんて言える雰囲気ではありませんでした。在日を卑下する「パンチョッパリ(半日本人)」という言葉があるぐらい。いまの若者の間では昔ほどではないとしても、韓国社会にある同質意識は依然として根強い。しかも、韓国から海外に流出した「在外同胞」にはヒエラルキーがあって、裕福で出て行った一家か、住み移った国の発展段階、暮らしぶりが比べられます。そのような中で在日の地位はあまり高くありませんでした。祖国に救いやよりどころを求めても、苦い幻滅が待っている場合が多かったのです。 とはいえ、わたしにもいろいろありましたが、「姜」を名乗っていて何の不自由も感じなくなりました。在日を取り巻く環境もかなり変化してきて、ソフトバンクの孫正義さんのような誰もが知っている名経営者も生まれました。ニューカマーも増え、日本国籍を取得しても本名で通すケースが当たり前になってきました。テレビでは毎日のように韓流スターが登場し、コリアタウンは若い女性であふれ返っています。今回の李選手の決勝ゴールは入るべくして入った。そんな気がします。 同じ在日であっても、祖国、国籍、アイデンティティーのねじれ方は多種多様です。在日のプロサッカー選手には、李選手以外にも、北朝鮮代表としてワールドカップに出た鄭大世選手や安英学選手がおり、それぞれに熱狂的な日本人ファンがいます。サッカーが映し出す在日社会のねじれは現代的であり、しかも未来志向ですね。」 上の一文は、現在の姜が、最低限の恥の感覚すら失ってしまっていることを示すよい文章である。姜自身や孫正義といった超少数派のエリートの事例を持ち出して、「在日を取り巻く環境」の変化を強調し、あたかも日本社会で在日朝鮮人が差別とは無関係に「自由」に生きれるかのごとく発言しているくだりにいたっては、もはや言うべき言葉すらない。姜以前に、こんな発言を平気で掲載する朝日新聞が、どれほど腐敗したメディアであるかを示している。 ただ、もちろん姜に反論することは何通りものやり方で可能なのではあるが、ここで行いたいのはそうしたことではなく、上の姜の文章が示唆してくれるものの検討である。 2. まず、最近の姜にはもはや定番となっていることではあるが、かつての自らの発言を180度ひっくり返している。まずはその点を見ておこう。 姜は上の文章で、初めての韓国行で、本国の韓国人による在日朝鮮人への排外的な意識を感じた、と述べている。だが、以前は、以下のように書いていたのである。 「 韓国のあちこちをみて回った。父や母の故郷に行ったり、大学を見学したりした。みるもの聞くもの、すべてがまさにワンダーランドだ。とりわけ、何十人という親戚がわたしをやさしく迎えてくれたことが、印象深かった。本当に大勢の人たちと会ったのだ。 父の母、つまり私の祖母にも会えた。といっても実の祖母は早くに亡くなっていて、後妻にあたる人だった。電気も通っていない貧しい農村で、藁葺き屋根のボロボロの土塀の家で暮らしていた。目がまったくみえない人だった。「アイゴー(哀号)」と泣きじゃくりながら、わたしの顔に頬をあて、わたしの温もりを確かめるように何度も相槌を打っていた。きっとわたしの父、息子のことを思い起こしていたに違いない。 その村はとにかくなにもないところで、夜になると真っ暗になってしまう。最初は驚いたが、しだいにそれが愛着に変わっていった。村の風情には、子供の頃の「在日」の集落を髣髴とさせる趣があったからだ。」(『在日』講談社、2004年、76~77頁) ごく最近でも、以下のように述べている。 「日本と未だ見ぬ韓国というふたつの祖国の間に漂う閉塞間を打破するために、韓国にいる叔父の招待を受けて、初めて渡韓したのが1972年の夏休み。軍事統制下でしたが、叔父は裕福な生活をしていて、大きな家に住んでいました。ところが叔父の家を一歩出ると、そこにはみすぼらしいバラックの建物がひしめきあい、路上はストリートチルドレンで溢れている。私が生まれ育った場所を彷彿とさせる、非常に貧しい生活があった。生きるために、人間がのたうちまわっている。祖国を求めて渡韓したのですが、まるでデジャヴのような風景に打ちのめされ、二重の意味で祖国喪失を感じました。しかし日が経つにつれ、次第に人の温かさを感じるようになりました。日本からやってきた自分を、皆が歓待してくれる。居心地の良さすら感じるようになったのです。到着したときは一日も早く離れたいと思っていたのに、もう一日ここにいたいと思うようにすらなっていました。」(松平定知・姜尚中「松平定知の生活を豊かにする言葉術 言霊 連載第8回」『本の窓』2011年1月号) これらの文章では、姜の初の韓国行においては、「「やあ同胞!」なんて言える雰囲気ではありませんでした」どころか、同胞の韓国人に歓待され感動している姿、また、そこでの貧困を在日朝鮮人の貧困と同質的なものとして捉える認識が示されている。ここには、連載「在日朝鮮人言説の変容について」の第1・2回で言及した、姜のかつての「祖国定位」論の原体験を見ることができるかもしれない。 また、姜はこの『AERA』の文章の中で、日本国籍コリアンまたは韓国・朝鮮系日本人にとって、日本社会が、あたかも「何の不自由も感じ」ずに、「当たり前」のように「本名で通す」ことが可能である社会になったかのように書いているが、これもかつての主張の180度の転換である。 私の連載の第1回目で引いた、姜のかつての(1985年)「少数民族としての自覚のもとに「定住化」の方向を目ざし、民族性の確保が可能であれば日本国籍の取得も不可避であるとする考えは、日本の社会と国家の、精神構造も含めた根源的な転換がない限り、とうてい実現される見込みはない」その他の指摘は、いまでも十分に妥当性を持つと思うが、そこまで遡らなくても、数年前にも以下のように発言している。 「 よく日本国籍を取得するとコリアン系日本人だという人がいますが、それはまったく虚構です。積極的に日本国籍を取得し、民族名を名乗る人であればそう言えますが、多くの帰化者はコリアン系日本人ではありません。そこにはコリアンの痕跡は残っておらず、これはもう完全な日本人です。だからこそ日本は国籍取得を奨励しているわけです。つまり、地方参政権を与えるよりも国籍を取得しやすいようにして問題をクリアしていこうというのが日本政府の考えであり、だから定住外国人の地方参政権は一向に進まないのです。 日本国籍を取得することによってコリアン系日本人の可能性が広がっていくという人もいますが、そうなる人はごくわずかであって、現実的には非常に難しい選択です。だから、どの選択をするかということを「在日」の中で批判し合ってもしょうがなくて、そういう選択が出てこざるを得ない歴史社会的条件があるということを真摯に受け止めなければなりません。」(姜尚中「国民国家を超えて」、白井美友紀編『日本国籍を取りますか?――国家・国籍・民族と在日コリアン』新幹社、2007年5月、240~241頁。編者によるインタビュー、時期は2003年12月~2004年12月の間(同書「おわりに」より)) 3. 姜がいつもながら、主張の180度の転換を行っていることは確認した。だが、ここで見たいのはその転換の破廉恥さではない。その転換の意味である。 それについて考える上で、大変よい材料があるので、見ておこう。 姜は、2004年3月に講談社から自伝『在日』を刊行した。その後、これは集英社文庫の1冊として、2008年1月に同タイトルで文庫化されたのだが、その際に、姜は大幅な加筆修正を行っている。連載「姜尚中はどこへ向かっているのか」で示したように、この間の2006年半ばから後半の時期に根本的な転向を行っているのだが、この大幅加筆修正において、転向が反映していると思われるいくつかの興味深いしるしが示されている。ここで挙げるのは、そのうちの一つの例である。 単行本版『在日』には、以下の記述がある。便宜上、段落番号をつける。 ①新幹線のトンネルの壁が剥落するような、そういう事態が社会のいろいろな分野でめずらしくもない現象となりはじめたのだ。もちろん、金融不安もあるし、大企業の倒産や失業の問題もある。 ②こうして社会の光景がこの十年あまり、かなり変わってしまったような印象を受ける。それはひと言で言うと、戦後日本の安定した豊かさを支えていると思われてきた社会の仕組みや人々の生活意識の変容である。企業や組合、地域や各種団体などを中核とする共同体意識がくずれ、同時に社会的なセーフティーネットが、いろいろなところでほころびはじめるようになったのである。 ③それは、誤解を招きやすいが、日本国民の「在日化」と言えるような現象である。 ④「在日」は、長い間、日本人ならば形式上は平等にその恩恵に浴することができた社会的なセーフティーネットの張られていない状況の下で生きてきた。わたしの父母や「おじさん」などの一世はそうした危険の多い状況を否応なしに受け入れざるをえなかったのである。それは、つねに「明日をも知れない我が身」の境遇だった。それと似通った境遇が大方の日本人によりかかろうとしているのである。 ⑤前に述べた七〇年代初期の疾風怒濤の時代、「在日」は日本から取り残された「落伍者」のような存在だった。 ⑥八〇年代のバブル経済の一時期、「在日」は、その富の均霑にあずかり、バブリーなにわか成金が輩出した。しかし多くの「在日」は社会的なセーフティーネットをさほどあてにはできなかった。 ⑦この十年あまりの間に、一般の国民が、こうした在日的な状況に向かいつつあるのではないか。その趨勢を極論すれば、日本国民の「在日化」と言えるかもしれない。「在日」が、セーフティーネットなき時代を生きながら、やがて日本社会の中に埋め込まれ、「市民」や「住民」として生きていけるような可能性がみえてきたとき、逆に日本の平均的な国民が、あたかも「在日」的な境遇に近づきつつあるのだ。 ⑧うがって言えば、そうだからこそ、「在日」と「日本人」の境界を新たに目にみえる形で作り直す力が働くようになったのかもしれない。それは、多分にナショナリズムの気分を代表しており、「北朝鮮問題」に触発された「在日」バッシングの動きもそれと関連していると思える。 ⑨そして九〇年代の十年、八○年代とはかなり様相が異なり、国家というものがもろに人々の拠り所として急浮上してくるようになった。明らかに国家というタブーが解かれ、それへの求心力が高まるようになったのである。(単行本版178~180頁) 次に、同じ箇所の、文庫版での記述を見てみよう。これにも段落番号をつける。 ①新幹線のトンネルの壁が剥落するような、そういう事態が社会のいろいろな分野でめずらしくもない現象となりはじめたのだ。もちろん、金融不安もあるし、大企業の倒産や失業、格差や地域の疲弊など、数々の問題が社会に重苦しい空気をもたらしている。そして何よりも北朝鮮をめぐる問題が社会の気象を大きく変えることになった。 ②こうして戦後日本の安定した豊かさを支えていると思われてきた社会の仕組みや人々の生活意識が変容し、企業や組合、地域や各種団体などを中核とする共同体意識がくずれ、社会的なセーフティーネットが、いろいろなところでほころび出したのである。それは、日本国民のなかに「在日」と同じような境遇を強いられる人々が増えていくことを意味していた。 ③「在日」は、長い間、日本人ならば形式上は平等にその恩恵に浴することができた社会的なセーフティーネットのない状況の下で生きてきた。父や母、おじさんなどの一世はそうした剥き出しのリスクを強いられながら、明日をも知れない今を生きざるをえなかったのである。「明日をも知れない我が身」。それが彼らの境遇だった。 ④「テツオ、カネは天下の回りもんたい。今日生きられればそれでよかとよ。いろいろ心配ばしてもはじまらんけんね」 ⑤母の言い草には、日本国民の「欄外」に置かれ続けてきた一世たちの諦念と、同時にしたたかな生命力が溢れていた。 ⑥だが、学校の時間を生き、学歴を身に着け、人並に中流の生活がかなえられるようになった「在日」の二世のわたしには、一世たちの激しいばかりの生命力はなくなっていた。しかも、理屈を知ることができるようになったおかげで、将来を「計算」できるようになり、その分、「欄外」に置かれ続けることに堪えられなくなりつつあった。しかし、どこかでそっと諦念を忍ばせておかなければ、もっと失望してしまう。わたしはどこかで先回りした諦念の「作法」を身につけてしまっていたのかもしれない。 ⑦だが皮肉にもわたしは大学に「定職」を得、人並の中流の生活を構える「ゆとり」を 持てるようになった。他方で周りを見渡すと、「落伍者」のような扱いを受けた「在日」の境遇が、大方の日本人にふりかかろうとしているのである。それは、大げさに言えば、日本国民の「在日化」と言えるかもしれない。 ⑧「在日」が、セーフティーネットなき時代を生きながら、やがて社会の中に埋め込まれ、中流のフツーの「住民」として生きていけるようになった時、逆に日本の平均的な国民が、あたかも「在日」的な境遇に近づきつつあるとは・・・・・・。そのすれ違い、ねじれは、新たな問題を作り出しつつあるように思えてならない。 ⑨なぜなら、そうだからこそ、「在日」と「日本人」の境界を新たに目にみえる形で作り直す力が働くようになったからだ。それは、多分にナショナリズムの気分を代表しており、「北朝鮮問題」に触発された「在日」バッシングの動きもそれと関連していると思える。 ⑩そして湾岸戦争以後、それ以前の時代とは異なり、国家というものがもろに人々の拠り所として急浮上してくるようになった。明らかに国家というタブーが解かれ、それへの求心力が高まるようになったのである。(文庫版194~197頁) 単行本版では一応遠慮がちに言及されていた「日本国民の「在日化」」なる馬鹿げた表現が、文庫版では大っぴらに用いられていることも興味深いが、より注目すべきは、単行本版①と文庫版①を比較すればわかるように、文庫版においては、「そして何よりも北朝鮮をめぐる問題が社会の気象を大きく変えることになった。」なる一文が付加されていることである。 これは、姜が、文庫刊行時の2008年においては、単行本刊行時の2004年よりも、「北朝鮮をめぐる問題が社会の気象を大きく変えることになった」度合いが強まっていると感じていることを示している。単行本版⑧および文庫版⑨では、姜は、「「北朝鮮問題」に触発された「在日」バッシングの動き」に言及しているから、上の事実は、姜が、2008年の方が、2004年時点よりも「「北朝鮮問題」に触発された「在日」バッシングの動き」をより強いと認識していることを同時に示している。この認識はもちろん正しい。 とすれば、日本社会で在日朝鮮人が置かれている状況に関する記述は、2008年の文庫版の方がより厳しい認識になるはずであろう。 ところが、単行本版⑦と文庫版⑧を見比べていただきたい。単行本版⑦には、以下の記述がある。 「「在日」が、セーフティーネットなき時代を生きながら、やがて日本社会の中に埋め込まれ、「市民」や「住民」として生きていけるような可能性がみえてきたとき、逆に日本の平均的な国民が、あたかも「在日」的な境遇に近づきつつあるのだ。」 この箇所が、文庫版⑧においては、以下のようになっている。 「「在日」が、セーフティーネットなき時代を生きながら、やがて社会の中に埋め込まれ、中流のフツーの「住民」として生きていけるようになった時、逆に日本の平均的な国民が、あたかも「在日」的な境遇に近づきつつあるとは・・・・・・。そのすれ違い、ねじれは、新たな問題を作り出しつつあるように思えてならない。」 単行本版では「「市民」や「住民」として生きていけるような可能性がみえてきたとき」と、可能性としてのみ記述されていたものが、文庫版では、「中流のフツーの「住民」として生きていけるようになった時」という記述に変わっている。 これは文庫版で「そして何よりも北朝鮮をめぐる問題が社会の気象を大きく変えることになった。」なる一文が付け加わっている事実と矛盾しているように見える。確かに文言だけ見れば矛盾している。だが、これは、姜においては矛盾していないと思われる。 姜は、2008年の方が2004年に比べて、日本社会での在日朝鮮人をめぐる状況はより厳しくなったと認識しているのである。だからこそ姜は、行為遂行的に、自分たち「在日」は日本社会が差別的だ、などと「反日」的なことはもはや考えてもいませんよ、「在日」は日本社会の「フツーの「住民」」として完全に適応していますよ、日本人化していますよ、とアピールしているのである。 言うまでもないが、姜のこうしたアピールが、意識的なものであるか無意識的なものであるかは私は知らないし、関心もない。姜は本気で『AERA』の一文に書いたことを信じているかもしれない。そこはどちらでもよいのである。 4. 前節で見たからくりは、姜の『AERA』の一文(および転向後の姜の全行動)にも完全に妥当する。 文庫版『在日』が刊行された2008年時よりも、現在の方が在日朝鮮人にとって状況は厳しくなっている。朝鮮学校無償化排除のように、在日朝鮮人に対する公然たる排除が国家的に公認されている。また、在日朝鮮人の民族団体への政治的弾圧を煽動してきた佐藤優は、相変わらず左派も含めたマスコミによって持ち上げられているが、これは左派も含めたマスコミが、在日朝鮮人の人権問題について、本質的には関心がないことを示している。延坪島事件以後の朝鮮半島情勢の緊迫で、在日朝鮮人への社会的圧力は今後も強まっていくだろう。 このような認識を、姜は、「在日につきまとうステレオタイプな悲壮感あふれる演出」とレッテル貼りすることにより(お前はその「悲壮感あふれる演出」でその地位に登り詰めたのではないか、と言いたくなるが)、自分たち「在日」はもはやそのような「反日」的な認識を持っていない、と日本人読者にアピールするのである。だからこそ、かつての韓国行の記憶は改竄され、韓国本国の韓国人がいかに「在日」に対して差別的かをアピールし、言外に、こんなにかわいそうな「在日」を日本社会は抱きとめてくれています、という訴えを提示している。 これは、姜が可能になったと言祝いでいる、コリア系日本人という「選択肢」に関する問題とも関連している。サッカー・アジアカップ決勝戦以後の李忠成に関するメディアの報道では、まさしく姜の『AERA』の一文のように、李が韓国のサッカーチームでは本国の韓国人による「在日」への偏見により、疎外感を強く感じていた、といった点が好んで報じられていた。「在日」が本国の韓国人に差別され、見下されている、という主題は、<嫌韓流>シリーズでも繰り返し語られる物語であり、そのような物語への選好には、<嫌韓流>シリーズが実際に主張しているように、そのような可哀想な「在日」を抱きとめてあげる日本社会への感謝の要求が付随している。 ところで、姜は以前、もはや国籍にこだわる時代ではなくなった、という趣旨の一文を『AERA』での連載「愛の作法」で書いていたが、そこでは、以下のように述べている。 「考えてみれば、サッカーの世界では外国人選手の日本国籍取得が日常茶飯事に行われています。ラモス瑠偉、呂比須ワグナー、三都主アレサンドロと、昨今の日本代表を主力として支えているのはブラジルから日本国籍を取得した選手ばかり。それでも一人ひとりに「日本への愛国心は・・・・・・」「日本とブラジルとの外交関係は・・・・・・」と問いただすような人はいないでしょう。日本生まれで外国の代表としてワールドカップに参加する選手が出ればもっと理解が進むかもしれません。」(姜尚中「多様性を競うオリンピック」『AERA』2010年3月15日) 姜に聞きたいのは、では、韓国国籍または朝鮮籍から日本国籍を取得した選手の場合、一人ひとりに「日本への愛国心は・・・・・・」「日本と韓国(北朝鮮)との外交関係は・・・・・・」その他を問いただされないのか、ということである。李忠成を含めて、問いただされるだろう、というのが私の考えである。そこに、日本社会での在日朝鮮人問題の本質がある。 現在の姜らが日本社会の「国際化」や、「在日」を構成員とする社会になったと言祝ぐのとはまるで逆で、在日朝鮮人が日本国籍を取得し、「コリア系日本人」として社会的に生きようとした場合、他の外国人に比べてはるかに強く、日本国家・社会への忠誠を示すことへの社会的圧力を受ける。以前述べたように、マスコミ界隈の在日朝鮮人の立場とそれは似ている。そして、現在の姜のように、民族的な尊厳を尊重して生きようとする他の在日朝鮮人を貶めずに生きるのは、私の友人の日本籍在日朝鮮人のように、極めて強い知的・倫理的姿勢の堅持を必要とするだろう。 日本国籍取得が自由であることは当たり前であるが、日本国籍取得によりあたかも「コリア系日本人」というカテゴリーが、他の「~~系日本人」と同じ形で成立するという認識は幻想に他ならない。姜の上の発言に反し、実際のラモスは、(恐らくレイシズムを意識して)「愛国心」を自ら強調しており、他の元外国人ならば教科書的なシビック・ナショナリズムが成立する、ということでは全然ない。だが、日本社会における朝鮮人の場合、単なる「外国人」(の血統)へのレイシズムだけではなく、(朝鮮半島の同胞であれ在日朝鮮人であれ)同じ朝鮮人を攻撃する、という忠誠表示が必ず必要とされる。「コリア系日本人」が、仮に明示的に、日本社会で歓迎される形で成立する場合、同時にそれは朝鮮半島の民衆や在日朝鮮人の「ナショナリズム」に対する批判その他の役割を引き受けているだろう。現実に、現在、「権利としての日本国籍取得」を主張している在日朝鮮人たちは、ほぼそのような人々しかいない。 現在の姜の醜悪な姿は、日本社会に歓迎される形で成立する場合の「コリア系日本人」の姿を暗示している。そのような在日朝鮮人は、今の姜やマスコミ界隈の在日朝鮮人の多くがそうであるように、日本人にとって、海外派兵の常態化の容認(それ自体への賛同ではなく、そのような政治的流れを容認する自分たちを肯定してくれる存在として)、外国人労働者の本格的流入と排外主義的規制・差別の並存状態の容認という機能を果たしてくれる、不可欠な装置である。そうした視角から問題を考えない限り、李忠成をめぐる報道にせよ、日本国籍取得論にせよ、排外主義(ネット右翼)対同化主義(朝日新聞系)という下らない図式を再生産するだけに終わるだろう。
by kollwitz2000
| 2011-03-09 00:00
| 姜尚中
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