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2011年 04月 03日
5.
原発危機関連の佐藤の発言においては、佐藤の言説の特徴が凝縮された形であらわれている。そのうちの一つが、「1」でも指摘したように、マスコミ関係者を自律的な読者層として位置づけた上で、それの取り込みを図ろうとする姿勢である。実際、これまでにも佐藤は、しばしば(もちろん何一つ褒めるところなど存在しない)日本のマスコミを称賛しており、明らかにマスコミ関係者に媚を売っているのであって、これは、マスコミ関係者による擁護が<佐藤優現象>の不可欠な要因であることの裏返しである。 ただ、それだけでは佐藤のマスコミ称賛言説の性格を十分に捉えたことにはならないと思われる。今回の原発危機関連の発言で露呈したのは、佐藤のマスコミ称賛言説が、マスコミ関係者――ひいては佐藤の読者全般――を「エリート」として位置づける性格を持っていることである。 具体的に見てみよう。まずは、3月13日にアップされた、「福島原発に関する報道協定を結べ」なる一文からの引用である。 「ここでマスメディア関係者に考えてほしいことがある。いまは非常事態だ。1人の日本人として、現在の状況がはらむ内在的危険を理解して欲しい。戦後、日本の国家システムは近代主義に基づいて作られている。そこで中心となるのが個人主義と生命至上主義だ。個人の生命と職務の遂行が天秤にかかった場合、個人の生命の方が重い。従って、国家も民間企業も、職務の遂行のために命を捨てる命令を行うことはできないのである。しかし、今回の東日本大震災による被害を極小にするために、文字通り命を賭して職務を遂行してもらわなくてはならない人々がいる。福島第一原発に関しては、東京電力の原子力専門家や経済産業省、原子力安全・保安院の文官、技官には無限責任(仕事のために命を差し出すこと)が日本国家と日本人同胞のために求められている。菅直人首相は民主的手続きに基づいて選ばれた日本の最高権力者である。ここで重要なのは菅直人という固有名詞ではなく日本国内閣総理大臣(首相)という役職だ。現行の法体系に不備があるならば、日本国家と日本人同胞を救うために首相は超法規的措置に踏み込む必要がある。マスメディアが責任追及の姿勢をとると官僚と原子力専門家が萎縮する。そして、規則やマニュアルの範囲内でしか行動しなくなる。これらの規則やマニュアルは生命至上主義に基づいて作られているので、命を捨てる職務は想定されていない。規則やマニュアルの想定をはるかに超える事態が生じている。破滅的結果が生じることを防ぐためには官僚や東京電力関係者を萎縮させてはならない。マスメディア関係者は是非そのことを理解してほしい。国民、マスメディア、政府が一体となって危機を脱する方策を、誠実に探求することがいま求められている。 そこで具体的提案がある。福島第一原発、福島第二原発を巡り政府と主要マスメディアが緊急に報道協定を結ぶことだ。政府は、持っている情報を迅速にマスメディアに対して提供する。確認がとれた情報だけでなく、未確認情報や錯綜する情報もただちに提供する。ただし、マスメディアに対しては、それが報道された場合、国民心理にどのような影響があるかについて十分配慮した報道を行うよう要請し、いくつかの合意をする。こうすれば、国民の知る権利と国益、公益の折り合いをつけることができる。 まさに日本国家と日本民族の存亡の危機がかかっている。政治家、官僚、マスメディア関係者も「われわれは同胞である。日本の生き残りはわれわれにかかっている」という意識をもって職務を遂行して欲しい。」 ここにおいては、マスコミ関係者(「マスメディア関係者」)は、大衆からは距離を大きくとった形で、「政治家、官僚」の側に所属することが自明視されている。だからこそ「報道協定」を結ぶことがあたかも問題がないかのようにされている。 次の文章も、同様の文脈の中にある。3月14日にアップされた「頑張れ東京電力!」なる一文からの引用である。 「 本14日から実施される予定の東京電力の計画停電(輪番停電)について東京電力側の発表に間違いがあり、混乱が生じている。その関連で、JR、地下鉄、私鉄の運行に大きな支障が生じている。マスメディアが東京電力に対する批判を強めている。国民の不満、怒りを代弁するのはマスメディアの機能であるので、これは当然の動きである。ただし、ここで立ち止まって考えて欲しい。東日本大震災という未曾有の事態に直面して、東京電力関係者が混乱しているのはやむを得ないことだ。電力供給に関して、東京電力の専門家たちがもっとも動きやすい環境をつくるために政治家、官僚、マスメディア関係者、有識者、国民が全力を尽くすことが焦眉の課題である。批判はあとからでもできる。現在、われわれがかけなくてはならないのは「頑張れ東京電力!」というエールだ。 福島第一原発、福島第二原発で、危機を回避するために命がけで取り組んでいるのも東京電力の専門家たちだ。東京電力の専門家たちが萎縮し、判断を誤ることがないような環境を整えることが重要だ。そこにおいてマスメディアの報道が決定的に重要な役割を演じる。報道に従事する人々はそのことに十分留意して欲しい。」 「日本の官僚、エリート会社員の能力は高い。しかし、他者からの評価に対して極めて敏感なので、危機的状況になると萎縮しやすい。責任追及がなされるという恐れを抱くと、身体が文字通り動かなくなり、判断を停止してしまう。筆者自身、外務官僚としてこういう人たちを目の当たりにしてきた。「ひよわなエリートだ」と批判することは簡単だ。しかし、このようなひよわさを筆者を含むすべての日本人がもっている。この現実から出発しないとならない。現下の情勢で、東京電力の専門家が、専門的知見と職業的良心に基づいて活動できる環境をどうすればつくることができるかを考えることが不可欠だ。東京電力のような専門機関で働く人々を萎縮させてはならない。」 「エリート」の政治的・社会的優越性を承認すること、または実体として「エリート」の存在を認めるとしてもその諸活動への監視の必要性を否定することが、百害あって一利ないことは自明である。ましてや、日本の「エリート」の全般的な無能さと無責任さは、今回の原発危機が改めて示してくれたように今さら言うまでもないことであって、日本で「エリートの責任」を語ることほど滑稽なものはない。実際に、日本では「エリート」論は「論壇」以外ではほとんど相手にされていないのであり、今のところ、上の佐藤の馬鹿げた提言もほとんど顧みられることなく、東電の責任がそれなりに追及されているように見える。 それはさておき、この引用文も、マスコミ関係者が東電関係者と同じ「エリート」として、被支配層の上にいることが前提となっているものである。 これまた言うまでもないが、マスコミ、特に(佐藤が親しい人間が多い)出版業界は、構造不況産業の最たるものであり、今回の震災・原発危機により予想される購買力低下により、(特に人文・社会系の)出版業界がほぼ壊滅的な被害を受けることは見やすいであろう。「エリート」どころではない。 ところが、佐藤の文章によれば、マスコミ関係者は「エリート」として位置づけられており、佐藤の文章を読むマスコミ関係者は自分を「エリート」だと確認することができる。これはマスコミ関係者だけではなく、佐藤を支持する読者全般にも当てはまる。佐藤を支持する読者は、「エリート」の大衆に対する優越性を自明視する佐藤の文章に触れることによって、自らは「大衆」ではなく、「エリート」の側の一員であると認識することができる。佐藤は、若年失業者の間には高学歴の人間が多いため、その政治的行動力を侮ることはできない、などと恐ろしく媚びた発言をしていたが、失業状態でも「高学歴」であれば「エリート」の側の一員、ということになる。 要するに、日本の学歴社会が「特技は学歴」という人間を大量に生み出してしまい、何の根拠もなく自らを「エリート」と認識する(または、認識したい)層が大量に存在するがゆえに、そうした読者層が佐藤を支持する、という構図になっているように思われる。 もう一つ指摘しておかなければならないのは、マスコミ関係者やアカデミズム関係者の間で、ここ数年来、「業界人」化とでも呼ぶべき現象が進んでいるように見えることである。 これは特にリベラル・左派系の人々を観察していて思うことなのだが、近年、従来ならば自らを「一般市民」として、「権力」層に対置させていた人々が、自らをまずは「マスコミの人間」または「アカデミズムの人間」と自己同定する傾向が見られるように思う。極端に言えば、当人の距離感覚からすれば、同じような政治的・社会的主張の一般市民よりも、主張は(大きく)異なっていても同じ「業界」(マスコミ、アカデミズム)にいる人間の方が距離は近いようなのである。ほぼ<佐藤優現象>の成立・展開と並行して、マスコミ・アカデミズム関係者のこうした「業界人」化が進行していて、それが卵と鶏の関係のようになっているように私には見える。 これはマスコミとアカデミズム個々にとどまらず、ここ数年、「言論の公共空間」だか何だかという美名のもとに、ジャーナリズムとアカデミズムの馴れ合いが進行しており、一つの「場」のようなものになってしまっている(その最悪の事例の一つがかつての『論座』であった)。これは半ば冗談なのだが、かつては天野恵一や太田昌国のような人物の名前は、ノンセクト系や総会屋系の左翼雑誌でしか見ることができなかったのである。また、渡辺治や後藤道夫のような人物も主な活躍の場は当然ながら共産党系の雑誌だったのである。それらの人物の主張が朝日新聞的な「リベラル」にほぼ同質化してしまった結果でもあるが、従来のある種の「すみ分け」が溶解してしまい、馴れ合い的な「論壇」の同質的な「場」が成立してしまっているように見える。この「場」の一員としての「業界人」という自己意識が、自らを「エリート」層の一員と位置づけることへの違和感を消失させる上で、一定の機能を果たしているように思う。 自らを「マスコミ人」または「大学人」と位置づける意識が強まっていることは、佐藤が主張している「中間集団」の擁護、という主張に極めて親和的である。佐藤の主張自体は、近年の「論壇」界隈で流行っていたトクヴィルの議論を援用した中間集団擁護論を恐らく意識したもので、独創性はないとはいえ、「論壇」で佐藤が擁護される一つの背景になっている。また、「論壇」で近年、コーポラティズム的言説が肯定的に言及されることが散見されるのも、こうした「業界人」化が一つの背景になっているように思われる。 <佐藤優現象>は、マスコミ関係者やアカデミズム関係者の「業界人」化による「エリート」意識の確立、という現象と並行していると思われる。その意味では、「格差社会論」がメディアで話題になるにつれて、中間層没落危機論に回収されてしまったのは、当然と言えば当然である。 今後の購買力の全般的な低下に伴い、没落への危機意識の下、マスコミとアカデミズムの馴れ合いはますます強まるだろう。また、日本の中間層の没落危機意識も拡大するだろう。今後、恐らく佐藤は、読者の「エリート」意識を助長させる、より奇矯な言説を展開していくのではないか。
by kollwitz2000
| 2011-04-03 00:00
| 佐藤優・<佐藤優現象>
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