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2014年 03月 21日
19.
この連載も大幅に間隔が空いてしまったが(前回記事はhttp://watashinim.exblog.jp/16203019/)、今回は、直近での「在日朝鮮人言説の変容」について述べる必要があるので、叙述を先回りすることにした。後日、前回との間の時期に関しても記述を行なう。 さて、私はこれまで、姜尚中を何度も批判してきたが、現在の在日朝鮮人の直面している状況に関しては、「ヘイトスピーチ反対」やら「朝鮮学校無償化」やらを唱えながらも<佐藤優現象>をはじめとしたリベラル・左派の朝鮮問題・人権問題に関する悪質な行為を黙認している朝鮮人に比べれば、はるかに姜と近い認識を持っていると考えている。他の朝鮮人が、日本人・日本社会から割り与えられた枠組みの下で「在特会反対」その他を唱えるという形で転向しているのに対して、姜は問題の所在を認識しつつ自覚的に転向しているように思われる。 私は以前書いた連載記事「姜尚中はどこへ向かっているのか――在日朝鮮人の集団転向現象」で、2006年夏頃に姜が従来の立場を大幅に変えている(転向している)ことを指摘した。管見の範囲では、この転向後、姜は在日朝鮮人の今後の方向性についてまとまった形では論じていない。しかし、転向後の姜がこの問題をどのように考えているか、また、この転向自体が在日朝鮮人の今後に関する考察を契機としてなされたものではないか、と推察させてくれる資料を残してくれている。 それが、2008年1月に集英社文庫として刊行された『在日』である。これは、2004年3月に講談社から刊行された単行本『在日』を「文庫化にあたり、大幅に加筆したもの」(文庫版、255頁)である。だが、これは単なる「加筆」ではなく、姜が「在日」についてどのように日本社会に提示していくべきか、極めて周到に考えてた上で修正したことが窺われるものとなっている。以下、単行本版(単)と文庫版(文)を比較しつつ、見て行こう(以下、強調は引用者)。 20. ① 単<子供の頃の思い出をたどるとき、単に懐かしいという以上にメランコリックになってしまう。それは、大人になってからもずっと引きずってきた。どうして、メランコリックになってしまうのか。その答えはやはり、分断に象徴される「在日」の境遇なしには考えられない。/「在日」には複雑な感情がある。「在日」のある若い世代は、「世界中でいちばん好きな国、日本。世界中でいちばん嫌いなのが朝鮮半島。同時に、世界中でいちばん好きな国、朝鮮半島。世界中でいちばん嫌いな国、日本」その両方が自分の中にあるという。それは極端に矛盾した言い方であるが、わたしにもそれと似たような感情がある。つまり、日本というのはいちばん好きな国、愛すべき国であると同時にいちばん嫌いな国でもある。朝鮮半島もいちばん嫌いな国だけれど、ある意味で愛すべき国である。そういう状態がなぜこんなにも続くのか。/わたしのメランコリーの根源には、つねにこの分裂の感覚があるように思う。/・・・・・・「在日」と日本、「在日」と南北、南北と日本の間にある分裂の「和解」が少しでも成し遂げられるとき、そのときこそ、わたしはおじさんたちにやっと出会えるような気がしている。>(64~65頁) 文<子供の頃の思い出をたどるとき、単に懐かしいという以上にメランコリックになってしまい、それは、大人になってからもずっと引きずってきた。どうして、メランコリックになってしまうのか。その答えはやはり、分断に象徴される「在日」の境遇なしには考えられない。/わたしのメランコリーの根源には、つねにこの分裂の感覚があるように思う。その分裂がわたしの不安の根源をなしていた。不安を解消するのではなく、そこから逃れるために、わたしはどれほど滑稽で無様な「作為」を弄してきたことか。涙ぐましいとしか呼べない、しかし傍目には愚行としか見えない逃避の試みの数々。/しかし、不安はつきまとう。そこから逃れられないのだ。半ば諦めかけて、逃れようとするものに片目でもしっかりと向き合おうと思ったとき、わたしは徐々に、不安の根源にあるものに近づくことになった。おずおずとした、たどたどしい歩みだったが、わたしは父や母、おじさんたちの生まれた国、そして「郷土」に目を向けるようになり、そして彼らの生きた軌跡について考えるようになったのである。>(72~73頁) 文庫版では、単行本版にあった、日本への嫌悪感、日本との葛藤という感情の表出が避けられている。 ② 単<一九六〇年からほぼ三十年が過ぎ、韓国は事実上民主化を達成した。権威主義や保守的な心性が残存しているとはいえ、もはや野蛮な独裁に復帰することは二度とないはずだ。その意味で今でもわたしは韓文研の一員であったことにひそかな矜持を持っている。たとえわたしの活動など微々たるものであったとしても、わたしの「在日」の核は、この時代の体験を抜きには語りえない。そして何よりもわたしにとって生涯の友との邂逅がかなえられたのだ。>(80頁) 文<一九六〇年からほぼ三十年が過ぎ、韓国は事実上民主化を達成した。権威主義や保守的な心性が残存しているとはいえ、もはや野蛮な独裁に復帰することは二度とないはずだ。その意味で今でもわたしは韓文研の一員であったことにひそかな矜持を持っている。わたしの活動などは、芥子粒のような微々たるものだった。それでも、わたしについて言えば、この時代の体験を抜きには語りえない。そして何よりもわたしにとって生涯の友との邂逅がかなえられたのだ。>(90頁) 文庫版では、民族運動団体である韓文研への関与の度合いの表現が弱められており、また、「「在日」の核」との関連で「体験」を語ることをやめ、あたかも普通のサークルの「体験」による自己の成長であるかのごとく語られている。 ③ 単<ところでじつは、わたしは吃音だった。話はさかのぼるが、中学生のある日、突然吃音になってしまったのだ。それが、大学に入っても残っていて、人前で話すのが苦手だった。今はもう治っているから、昔を知らない人は信じないのだが、当時は結構つらかった。/韓文研の活動で、声明を読み上げなくてはいけないときや、演説をぶつときなど、とても困った。しかし、どうしてもやらなくてはいけなかったから、仕方なく回数を重ねるうちに、徐々に慣れていったようだ。その後ドイツに行って帰ってきたときには、完全に吃音はなくなっていた。/わたしが「在日」であることと吃音であったことはたんなる偶然の一致ではないように思えて仕方がない。/・・・・・・言いたいのに言えないことで、わたしの内面に、どんどんもどかしさがたまっていくようだった。/そのことを今振り返ると、わたしが「在日」であったことと無縁とは思えない。吃音は、自分のいる社会からつねに、「在日」という理由で受け入れてもらえないのではないかという不安と、どこかで共振していたように思えるのだ。自分は社会を求めているのに、社会はわたしを拒絶している。そんな違和感がわたしを苦しめていた。/その不調が言語行為にあらわれ、吃音になったのではないか。>(92~94頁) 文<そしてわたしもまた、それまで宿痾のようにまとわり続けてきた吃音から解放されていくことになったのである。/思春期からはじまった吃音と、わたしが「在日」であることを過剰に意識し、この世界からはじき出されるのではないかと怯えていたこととの間にどんな関係があるのか、定かではない。ただ、愛すべき一世たちが疎まれているこの世界にもぐり込むために愛すべき人々との間にミゾを作らざるをえないジレンマが、わたしをずっと苦しめ続けてきたことは間違いない。吃音は、そんな無理強いされたわだかまりの歪んだ表れだったのかもしれない。/だが、同じ在日の仲間たちと起居を共にし、時には夜を徹して痛飲し、語り合い、鬱積したものをはき出すうちに、わたしは吃音から知らぬ間に解放されていたのだ。不安を消し去ることはできないにしても、それを抱きしめて生きていくことができるようになったのである。>(97頁) 単行本版では、自らのかつての吃音の原因が、「在日」に対する日本社会の拒絶(されているという不安)から来たものであるとの推測が提示されているが、文庫版では「どんな関係があるのか、定かではない」と否定された上で、身近な人々との関係性の問題に原因が求められている。また、吃音が治った原因については、単行本版では韓文研での政治活動の過程で治っていったとされているのに対して、文庫版では、②と同じく、普通のサークル活動での「仲間たち」との語らいを通して治っていったとされている。韓文研での政治活動という記述が消されている。 (つづく)
by kollwitz2000
| 2014-03-21 00:00
| 姜尚中
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