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2017年 03月 10日
2015年4月1日から新しく施行された岩波書店の就業規則では「会社および会社の職員または著者および関係取引先を誹謗もしくは中傷し、または虚偽の風説を流布もしくは宣伝し、会社業務に重大な支障を与えたとき」を「諭旨解雇または懲戒解雇」の対象としている。 これについては何度か書いたり関係記事を紹介したりしてきているが、最近、あたかもこの件について論じているかのようなカントの文章の一節を見つけたので、これも紹介しておく。岩波書店のこの規定は、カント以前、近代以前ということだ。 岩波書店宛「要請書」の呼びかけ 新聞労連声明と岩波書店新就業規則 浅野健一氏のコメント ここで私が理性の公的使用というのは、或る人が学者として、一般の読者全体の前で彼自身の理性を使用することを指している。また私が理性の私的使用というのはこうである。――公民として或る地位もしくは公職に任ぜられている人は、その立場においてのみ彼自身の理性を使用することが許される。このような使用の仕方が、すなわち理性の私的使用なのである。(中略) 上官から、何か或ることを為せ、と命じられた将校が、勤務中にもかかわらずその命令が適切であるかどうか、あるいは有効であるかどうかなどとあからさまに議論しようとするなら、それは甚だ有害であろう――彼はあくまで服従せねばならない。しかし彼が学者として、軍務における欠陥について意見を述べ、またこれらの所見を公衆一般の批判に供することを禁じるのは不当である。 また公民は、課税の納付を拒否することはできない。まして納税の義務を果たすべき場合に、賦課に関して差し出がましい非難を口にすることは、(全国的に反抗を誘発するおそれのある)不届きな行為として処罰されてよい。それにもかかわらず彼が学者として、かかる賦課が適正と公平とを欠くことに反対する見解を公表することは、公民としての義務に背反するものでない。 聖職者についても、事情はこれとまったく同様である。彼は自分のところで教理問答を学ぶ人たちや、また自分の教区に属する信者たちに対しては、彼の勤務する教会の信条書通りに講義しあるいは説教する義務がある。彼はこのような条件で聖職者に叙せられているからである。 しかし彼が学者として、信条書の欠点に関し、周到な検討を経た好意ある意見を述べ、また宗教に関係する事項や教会制度などを改善するための提案を公衆一般にも知らしめることについては、完全な自由を――それどころか、そうする使命をもつのである。実際この場合には、彼の良心を苦しめるものは、なに一つ存しないのである。(中略) 教会の伝道者が、教区の信者たちを前にして彼の理性を使用する仕方は、もっぱらその私的使用である。教会の会衆は、いくら大勢であっても所詮は内輪の集まりにすぎないからである。このように理性の私的使用に関して言えば、牧師たる彼は決して自由でない。また他からの委任を果たしているのであるから、自由であることを許されないのである。 しかし彼が、著者や論文を通じて、本来の意味での公衆一般、すなわち世界に向かって話す学者としては、したがってまた理性を公的に使用する聖職者としては、自分自身の理性を使用する自由や、彼が個人の資格で話す自由は、いささかも制限されていないのである。> (引用は、カント「啓蒙とは何か」より。『啓蒙とは何か 他四篇』篠田英雄訳、岩波文庫、10~13頁。強調は引用者。一部の漢字を平仮名にし、句読点を整理し、改行を増やした)
by kollwitz2000
| 2017-03-10 00:00
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