by kollwitz2000 カテゴリ
以前の記事
2019年 05月 2019年 04月 2019年 03月 2019年 01月 2018年 11月 2018年 06月 2018年 02月 2017年 11月 2017年 10月 2017年 03月 2016年 09月 2016年 07月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 02月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 06月 2007年 01月 2006年 12月 検索
その他のジャンル
|
2007年 11月 18日
佐藤優が、『金曜日』2007年11月9日号の文章(「小沢代表辞意で重要になる社会民主主義の再評価」)で、自分の左派メディアにおける自分の「立ち位置」(嫌な言葉だが)を変えている。佐藤はここで下のように書いている。
「『週刊金曜日』の読者の御批判を覚悟して言うが、筆者自身は、右翼陣営に属する保守主義者である。社会民主主義の立ち位置はとらない。しかし、社会民主主義と保守主義が切磋琢磨して、現下日本を覆いつくしつつある新自由主義がもたらす災厄を防がなくてはならないと考える。『週刊金曜日』は岩波書店が発行する『世界』と並んで、意識的に社会民主主義の重要性を説いているから、その外部にいる筆者もこの二誌には心の底から協力したいと思うのである。」 ポイントは、この文章が、佐藤が『金曜日』で自分を「右翼陣営に属する」と書いた多分初めてのものだということである。佐藤は、これまでは、『金曜日』では自分を「国権主義者」と名乗ってきたのであって(「六者協議と山崎氏訪朝をどう評価するか」(2007年1月19日号)、「集団自決の検定問題文部官僚を追い込め」(2007年9月14日号))、「右翼」とは言っていない。なぜならば、それは、下のような言説と結びついていたからである。 「ソ連崩壊後、もはや有効性を喪失している左右とか保革といった「バカの壁」を打破したいと考え、筆者は文筆活動を続けているのだ」(「集団自決の検定問題文部官僚を追い込め」) 「左右」は「もはや有効性を喪失している」らしいのに、今度は佐藤は自ら「右翼」であることを公言している(佐藤は、今回の文章で「右翼の保守主義者である筆者」とも発言している)。 「<佐藤優現象>批判」(『インパクション』第160号)で、私は、佐藤が、左派メディアでは<左右図式>自体を否定しておきながら、右派メディアでは、「右」が「左」と対峙するという枠組みを否定していないことを指摘した(155頁)。だが、佐藤は今回の文章で、<左右図式>自体を否定することをやめて、「左」と「右」が存立することを前提として、「右」である自らと、「左」との関係のあり方を明確化しようとしているのである。 これは要するに、佐藤が、「他の『金曜日』の常連執筆者と政治的立場はあまり変わらない人」から、「鈴木邦男のような人」に自分の『金曜日』での「立ち位置」を変えようとしているのだと思われる。 これが詐術であることは言うまでもない。このブログや『インパクション』の論文でも指摘したが、右派メディアで先頭に立って排外主義的主張を展開する佐藤と違い、鈴木は右翼であるとは言え、そんなことはやっていない。むしろ、各種メディアで、排外主義、時には在日朝鮮人への排外主義すら批判している(もっとも、左派メディアも、鈴木に対してもっと緊張感を持って接するべきだとは思うが)。左派メディアで口先だけで「右傾化」を憂うる佐藤とは、右翼である以外、ほとんど共通点がない。 もしこの解釈が正しければ、この件は、『金曜日』編集部が絡んでいるのかもしれない。少し前に、佐藤と「読者」との八百長っぽい「論争」が展開されたことはこのブログで既に述べた( 「『金曜日』での佐藤優批判の投書掲載は編集部の自作自演では?」、「『金曜日』の二重基準:佐藤優の「慰安婦」問題に関する発言について」)。今回の佐藤の変身振りも、 佐藤を『金曜日』が使うことへの批判を意識して、佐藤が編集部と打ち合わせのもと、スタンスを変えてきているのかもしれない。あくまで推測の域を出ないが。この秋は、佐藤と『金曜日』編集部(と読者)の関係にとって、調整の季節なのかもしれない。 この佐藤の「立ち位置」の変更は、恐らく、佐藤が「そろそろ自分が右翼であると言っても、『金曜日』でも大丈夫だろう」という状況認識が前提となっているのではないか。佐藤は、多分今回の記事と近い時期に書かれた「保守再建② 村上正邦氏と私の吉野詣り」(『諸君』2007年12月号。この論文の末尾に、「2007年10月19日脱稿」とある)で、以下のように述べている。 「(注・村上正邦は)この二年、司法問題や小泉改革批判というテーマで『週刊金曜日』(株式会社)や『世界』(岩波書店)などの左翼、市民派の雑誌には頻繁に登場している。しかし、村上氏の尊皇精神、右翼思想には変化がない。それをそのまま左翼系メディアが載せているのだから、この点でも左右の壁が崩れかけていることがうかがわれる」 「左右の壁」が、「左」の自壊によって崩れている(この引用の3行後で、「現下日本の右翼、保守陣営」という用語を使っているように、「右」の存在は豪も揺らいでいないことが前提)ことを佐藤が認識していることを示す興味深い文章である。この状況認識のもとで、「鈴木邦男のような人」への位置づけの変更が行われたのではないか。もし、「鈴木邦男のような人」のように思われないとしても、右翼だからと言って排斥されまい、という認識である。仮にこの解釈が正しければ、『金曜日』の読者もナメられたものである。 いずれにせよ、佐藤が自分の位置づけを変えたところで、「平和」「人権」等を擁護することを謳っている『金曜日』が佐藤を使うことが、おかしいことにかわりはない。『金曜日』編集部のこれまでの佐藤への傾倒ぶりは、ここで指摘したように、佐藤があたかも「他の『金曜日』の常連執筆者と政治的立場はあまり変わらない人」であるような見せかけの下に成り立っていたが、位置づけは既に変わっているにも関わらず、これからも同じような傾倒ぶりをわれわれに見せ付けるだろう。前は、佐藤が右翼であることを隠した上での傾倒だったが、これからは、右翼であることを前提とした傾倒となる。どちらも悪質だが、後者の傾倒ぶりは、「平和」「人権」等を擁護することを謳う『金曜日』が、そのタテマエすら放棄した、より悪質なものであることは間違いない。
by kollwitz2000
| 2007-11-18 22:15
| 佐藤優・<佐藤優現象>
|
ファン申請 |
||