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2008年 04月 28日
ところで、ここにきて、私の論文への反応と思われる佐藤の文章が出てきている。『SPA!』2008年3月15日号の「佐藤優のインテリジェンス人生相談 第33回」における、「在日朝鮮人三世」からの相談(佐藤の創作くさい)への佐藤の回答もその一つであるが、ここでは、佐藤の新連載「猫は何でも知っている」(『WiLL』2008年5月号)の該当箇所を取り上げよう。
佐藤は言う。 「「お前は『神皇正統記』や『大日本史』を熱心に読んでいるのに、マルクスの『資本論』や『経済学・哲学草稿』のような共産主義の本を読むのか」と批判されたり、あるいは、「『世界』や『週刊金曜日』のような良心的雑誌に寄稿しながら、『SAPIO』、『諸君!』、『正論』(それにこれから本誌『WILL』が加わる)のような排外主義を煽る雑誌に書くのか」というお叱りを受ける。率直に言って、私には、なぜそのようなお叱りを受けるのかがわからないのである。/いま名前を挙げた雑誌はすべて商業媒体である。党派の機関紙・誌ならばともかく、商業媒体に載せる原稿に対しては、基本的に原稿料が支払われる。書き手は、自分の主張を媒体で行うとともにカネ儲けのために寄稿するのだ。物書きは、表現者であるとともに売文業者であるという原点に立ち返る必要があると思う。/何をもって左翼、何をもって右翼とするかについての基準がどうもステレオタイプ化しているように思えるのだ。」 私は、排外主義そのものの主張を撒き散らしている佐藤のような右翼を重用するリベラル・左派を批判しているのであって、佐藤が「良心的雑誌」や「排外主義を煽る雑誌」に書こうとすることについて、佐藤個人を批判したことは一度もない。当たり前だが、書こうとするのは佐藤の勝手である。だから、佐藤がここで挙げている佐藤への「批判」なるものは、形式的には、私のものではないはずである。だが、私には、佐藤のこの文章は、私の<佐藤優現象>批判に対して、自らが何らかの回答をしている、と読者に思わせるための、アリバイづくりとして書かれているように思われる。 この文章が興味深いのは、これが、一見、佐藤自身の弁護に見えながら、佐藤を重用するリベラル・左派の弁護にもなっていることである。佐藤のここでの主張の論理を適用すれば、次のようになろう。「『世界』や『週刊金曜日』のような良心的雑誌」も「商業媒体」であり、「党派の機関紙・誌」ではないのだから、どのような政治的主張をしている人間に書かせようが自由ではないか。佐藤を「良心的雑誌」が重用することを批判する人々は、「何をもって左翼、何をもって右翼とするかについての基準」が「ステレオタイプ化」しているのだ、と。一応、コメントしておくと、この手の主張ほど下らないものはない。八木秀次や櫻井よしこはなぜ『世界』や『週刊金曜日』に、佐藤のような常連執筆者として登場しないのか?「右」を代表する著名人だからである。はじめから、「左」「右」を超えて登場している佐藤と違うからだ。<リベラル・左派雑誌も「商業媒体」だから>といった<佐藤優現象>の正当化は、あらゆる雑誌が「編集方針」を持っている現実を無視した、カマトトぶった駄論にすぎない。 このことを念頭において、いささか長くなるが、以下の佐藤の文章を読んでみよう。『月刊日本』(2007年11月号)に掲載された、「村上正邦論」の中の一節である(以下、太字は引用者)。 「私は『国家の罠』(新潮社)上梓以来、『世界』や『週刊金曜日』、更に新左翼系の『情況』から、右翼媒体では、『諸君!』『正論』からこの『月刊日本』まで、左右の両翼の活字メディアで仕事をさせていただいています。そうした縁もあって、魚住昭さんや宮崎学さんといった、コワモテの左翼の論客を村上先生にご紹介するようになりました。すると、不思議なことに、本来左翼であって、「右翼の親玉」のように思われていた村上先生のことなど蛇蝎の如く忌み嫌うかと思われた人々が実際に先生に会ってみると、なぜか先生のことを人として好きになってしまうのです。村上正邦という磁場に取り込まれてしまうのです。/その結果、左翼の理論誌とも言うべき『世界』に「聞書き 村上正邦」が連載され、『週刊金曜日』に村上先生が主催される「司法を考える会」の記事が連載されることになるわけです。これは従来の惰性にとらわれている左右両翼の人にとって困惑すべき状態です。(中略)/右、左の対立を乗り越える、と言うのは言葉では簡単ですが、それが理念的概念的レベルで留まっているだけでは駄目なのです。思想を生きている左右それぞれの具体的個人が人間として、誠実に語り合うことが大事なのです。そのためには、それぞれがほんの少し勇気を出して、リスクを冒すことが必要です。魚住昭さんや岩波書店の皆さんは、リスクを冒して一歩踏み出して、その結果、彼らの側にも大きな化学変化が起きつつあります。我々右翼の側も、左翼の人々との対話に踏み出す、そのリスクを冒すことで、真の意味で左右対立を乗り越えた日本思想というものの構築が可能になるのではないでしょうか。私はその可能性に期待しています。」(注3) 「左翼が弱体化したことには、それなりの理由があると思います。もちろん、東西冷戦構造の終結もありますが、左翼ビジネス、という安易な商売がそれ以上に左翼を蝕んでいます。例えば、誰とは名指ししませんが、憲法九条ビジネス、というのがあります。「憲法というのは不磨の大典ですよ。皆さん戦争はイヤですよね。憲法九条を守れば日本は永遠に平和です。ですから九条を守りましょうね」という、面と向かって反論しにくい単純な話を講演して回るビジネスです。(中略)/こうした志のない左翼が蔓延する中で、スジの通った左翼である魚住昭さんや宮崎学さんが、やはりスジの通った右翼である村上先生に出会うと、同じスジを通している人間同士、不思議に共鳴してしまうのでしょう。なにしろ、村上先生は国家に裏切られ、検察から無実の罪で訴えられても、検察の横暴を告発しはするものの、反国家、という立場にはならないのです。相変わらず愛国者であり続けるのです。このように、自分の信念にブレがない村上正邦とは何なのか、そこに私も、魚住さんや宮崎さんも惹かれてゆくのだと思います。」 「左翼であるはずの『週刊金曜日』が司法制度の問題点を追求している、という奇妙なねじれが生じています。『週刊金曜日』は、左翼的立場を徹底的に突き詰め、理性によって村上裁判を含む最近の特捜事案を見ると「どうもおかしいぞ」という疑念が出てきて、日本の司法を根本的に考え直すという点で村上さんや『月刊日本』が共闘を組むような状況が生まれたのです。ここに現代日本の思想的混迷ぶりが象徴されているのですが、これはとてもよい捻れだと思います。」 ここで佐藤は「『世界』や『週刊金曜日』のような良心的雑誌」が村上正邦に好意的な記事を掲載することについて、「商業媒体」だから問題ない、と言っているか?そうではないのだ。「スジの通った」左翼雑誌や左翼の人間が、「左翼的立場を徹底的に突き詰め」たからこそ、村上正邦や『月刊日本』のような右翼雑誌と共闘するようになっているのだ、と言っているのである。この論理でいけば、当然、リベラル・左派が佐藤を重用するのも、リベラル・左派が「左翼的立場」を徹底的に突き詰め」たから、ということになる。これでは『世界』や『金曜日』は、佐藤が否定したはずの、「党派の機関紙・誌」ではないか。「商業媒体」云々の主張が入り込む余地はどこにもない。佐藤のこの矛盾は、私の論文の注(48)で指摘した、『金曜日』が、「「左」であることの自己否定と、「左」であるとの自己規定が並存している」ことと正確に対応している。 また、佐藤は、上記の『WiLL』での文章で、以下のようにも述べている。「実は、左翼対右翼という批判の応酬はそれほど深刻な対立を生み出さない。距離がありすぎるので、人間的憎悪があまり湧かないのである。これに対して、左翼内部、右翼内部での対立は、思想対立が人間的な憎悪に転化しやすい。内ゲバにつながっている。」 これも、私の論文を念頭に置いた一節のように思われる。佐藤を重用するリベラル・左派を批判するのは「内ゲバ」だ、と。 「内ゲバ」などとんでもない。論文でも書いたが、私は、<佐藤優現象>を成立させているリベラル・左派は、「国益」を軸とした、「対テロ戦争」等の侵略ができる国、すなわち「普通の国」に向けて突っ走っていると認識している。朝日新聞の民主党化は既に完了したが、護憲派ジャーナリズムの民主党化もまた、最終段階に達している、ということだ。私から見れば、自民党も民主党も「普通の国」路線であることには変わりないので、民主党化を終えつつある護憲派ジャーナリズムが、自分と同じ陣営だとは考えていない、ということである。 この点は、私の論文に好意的な人々にもよく誤解されているようであるが、私の論文は、佐藤優を重用するリベラル・左派に反省させるために書かれたわけでは全くない。無論、私の批判をまともに受けとめる動きが出てくることは歓迎するが、<佐藤優現象>に乗っかるリベラル・左派内で、そうした動きが層として出てくることはないであろうというのが、私の一貫した認識である。そのことは論文でも、「もっと言えば、佐藤優自体はどうでもいい。仮に佐藤優が没落して、「論壇」から消えたとしても、<佐藤優現象>の下で進行する改編を経た後のリベラル陣営は、佐藤優的な右翼を構成要素として必要とするだろうからだ」と書いたとおりである(現に、『世界』2008年4月号・5月号には、松本健一が登場している)。 私は、リベラル・左派論壇において、2005・2006年頃、日本の経済的地位に見合った政治大国化を志向する勢力、同じことであるが、日本の経済的地位に見合った政治大国化を支持する国民に受け容れられるような「護憲」論ではないと駄目だと考える勢力――ここでは、大国主義的護憲派(護憲派系解釈改憲派としてもよいが)としよう――が、従来の小国主義的護憲派に対して、ヘゲモニーを確立したと考えている。9・11テロの2001年でもなく、小泉訪朝の2002年でもなく、イラク戦争の2003年でもなく、2005・2006年頃が変動期・再編期だった、というのが私の認識である。そして、<佐藤優現象>は、そうしたリベラル・左派論壇における大きな変動――恐らく、1990年代初頭の、大国主義的護憲派がリベラル・左派論壇に台頭してきた時以来の――の重要な一コマだと考えている。 大国主義的護憲論とは、論文でも述べた山口二郎らの「平和基本法」のラインであり、簡単に言えば、自民党政権下での改憲は、米軍主導のイラク戦争のような戦争に巻き込まれるから反対だが、国連が関与する対テロ戦争や国連の軍事活動には積極的に参加すべきだから、民主党の安定政権下の改憲には(積極的に)賛成する、というものだ。「普通の国」路線である。もちろん、この背景には、日本の過去清算は既に終っている(注4)、という認識が背景にある。こうした論理は、今の朝日新聞が典型であるが、他の護憲派ジャーナリズムの論調も、現在の基本はこれである。従来の、小国主義的護憲論が支配的となる可能性はない。それは不可逆なものである。 日本のような「先進国」でファシズム体制など到来しないことは論文で指摘したが、安倍政権が崩壊し、ある種のファッショ的な空気が弛緩した現在、護憲派ジャーナリズムは、右派・保守派との大同団結を解除して、護憲派の従来の主張に帰ったか?そうはなっていない。それどころかむしろ、民主党政権の実現の展望が開けてきたとして、護憲派ジャーナリズムの民主党化がより進んでいるように私には思われる。安倍政権崩壊後、右派・保守派が明文改憲への絶望振りを表明しているにもかかわらず、護憲派ジャーナリズムは二大政党制の実現を待望する方向へと進んでいるのである(注5)。 仮に佐藤バブルがはじけるとしても、リベラル・左派は最後まで佐藤を使い続けるだろう。右派メディアにとっては、佐藤は代替可能な書き手の一人に過ぎないが、リベラル・左派メディアが佐藤を使うことは、ある種のイデオロギー、本質的な衝動に根ざしているからである(注6)。今や佐藤は、「軍法会議をきちんと作ること」まで提言するように至っているが、これも、「普通の国」路線のリベラル・左派からすれば、それほど奇異なものではない。そのことは佐藤も了解済みであろう。 だから、改憲と「普通の国」が孕まざるを得ない戦争国家体制を拒否したい人間は、読売も産経も朝日も護憲派ジャーナリズムに対しても、同じように、批判的に捉えていく必要がある段階に至ったのであり、そのことを示しているのが<佐藤優現象>だ、というのが私の論文の論旨である。 今後、佐藤が私に関して何らかのリアクションを起こしてきた場合、 再び取り上げる。
by kollwitz2000
| 2008-04-28 00:02
| 佐藤優・<佐藤優現象>
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