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2009年 05月 14日
森永卓郎といえば、年収300万円生活を薦める高所得者の天下り官僚、非婚を薦める既婚者であり(大衆をナメきっているわけである)、彼のやっている「貧困ビジネス」に関しては、騙される方が悪いという感想しかないのだが、さすがに以下の発言は酷すぎる。
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/o/25/index2.html 「人口減少時代を迎えて、移民を受け入れよと主張している人がいる。いわゆる、新自由主義の立場にたった人たちだ。 新自由主義というのは、評価の尺度を金に一本化するという単純な発想から成り立っている。 その典型がホリエモンである。ライブドアの社長だったころの彼は、「社員がやめたら、またマーケットからとればいい」とうそぶいていた。 彼らには、一人一人の労働者の顔が思い浮かぶことはない。 彼らにとっては、鈴木さん、佐藤さん、田中さん……といった個人名はどうでもいい。あくまでも、労働力1、労働力2、労働力3……という存在に過ぎないのだ。 彼らの発想の根源となっているが、いわゆる生産関数――つまり、経済の大きさが、労働と資本を投入した量で決まるという理論だ。 ところが、人口が減少してしまうと、投入できる労働は減り、彼らの儲けも減ってしまう。そこで、経済成長を維持させるために、どこからか労働力を供給しなければならないと考えているわけだ。それが手っとり早い方法だからである。それが、外国人労働者を受け入れよという要求につながってくる。 しかし、外国人労働者の受け入れには、私は絶対反対である。 現に、ドイツやフランスをはじめとして、諸外国でも外国人労働者の受け入れは失敗の歴史であるといっていい。 たとえば、ドイツでは1960年代、高度成長のもとでトルコから大量の労働者を受け入れた。 ところが、高度成長が終わり外国人労働者の雇用調整をしようとしたところで、つまずいてしまった。すでにドイツ国内では労働者たちに二世が誕生。彼らはドイツで生まれ育ち、ドイツ語しか話せず、本国に返そうにも返すことができない。 そこでドイツが何をやったかというと、トルコに家を建てるための資金を与え、子どもたちにはトルコ語を教えた。そうした莫大なコストをかけて雇用調整をしたのである。 日本で外国人労働者を受け入れても、まず同じことが起きるだろう。 外国人労働者のメリットというのは、雇った企業のみに現れる。 ところが、そのコストは長期間にわたって全国民にはねかえってくるのだ。たとえば、小学校の教育一つとっても、外国人の生徒がいれば、コストは10倍はかかるだろう。外国人労働者本人も失業を頻繁に繰り返すことが予想され、失業保険のコストがかかる。 公的な住宅費もかかるし、市役所のパンフレットも各国語で書くためにコストがかかる。 そして、そうしたコストは雇った企業ではなくて、何の関係もない国民にかかってくるのだ。(後略)」 そもそも森永のような格差社会批判派は、人間の価値を「コスト」の観点から計算するような価値観をこそ批判しているのではなかったのか? この文章がすごいのは、一目瞭然ではあるが、新自由主義者について労働者を人間ではなく単なる数字として見ていると批判しながら、新自由主義者顔負けの冷徹さで、外国人労働者の生活により「国民」が被るという被害「コスト」(しかも外国人にとっては生活権レベルの)を挙げていく点にある。それはダブルスタンダードだ、と言うことすら馬鹿馬鹿しくなる。 もう一つ重要なのは、森永がここで、外国人労働者の流入が直接、日本人に被害をもたらすとして、自らの意思として反対していることである。 私は「<佐藤優現象>批判」で、「リベラルからは、外国人労働者が流入すると排外主義が強まるから流入は望ましくないという言説をよく聞かされるが、言うまでもなく、この論理は、排外主義と戦わない、戦う気のないリベラル自身の問題のすりかえである」と述べたが、森永の主張は、ここでの「リベラル」のそれを超えている。日本で排外主義が強まるから反対、という間接的な言い方ではなく、自分たち国民がコストを負担しなければならないから反対、という直接的な反対論になっているのだ。建前はかなぐり捨てて、本音で行きましょうよ、というところであろう。 このことは、以前指摘したように、このところのリベラル・左派において、象徴天皇制が、「「世論」で広く支持されているから、容認せざるを得ない」という論理ではなく、「戦後社会」を肯定するナショナリズムの象徴として、改めて選び直されつつある事態(最近の『金曜日』がその典型)と似ている。 そもそも、現在の日本は、外国人労働者抜きには経済にせよ社会にせよ成り立たなくなっているのだから、受け入れに賛成か反対か、という選択肢自体が虚構である。こうした主張は、森永だけではなく、最近では萱野稔人がその典型例であるが、少なくとも森永や萱野がこうした主張をするならば、現に今、日本にいる外国人労働者はどのような処遇がなされるべきかも同時に明らかにしなければならない。そうでなければ、こうした言説は、外国人労働者への排外主義を後押しする機能しかもたらさないではないか。森永や萱野も自分が提起している選択肢が虚構であることは自覚しているだろうが、まさにこうした排外主義とメンタリティを同じくしているからこそ、「受け入れ反対」とのみ呼号しているのだと思われる。 また、自国の資本が第三世界に進出し搾取していることを放置している、あるいは抑制できない状態でいるにもかかわらず、第三世界の外国人が自国に入ってくるのを拒むのは道理に合わないだろう。第三世界の人間からすれば、現地経済を破壊しておきながら、入国は拒むというのは手前勝手にもほどがあるとならざるを得まい。上の記事中の森永の、「何の関係もない国民」などという規定は馬鹿げている。「何の関係もない」どころか、自国の多国籍企業の海外進出を容認しているという、国民としての政治的責任を負っているではないか。そうした多国籍企業の法人税によって、福祉体制その他の恩恵を被っているという点だけからも、「何の関係もない国民」などとは言えるはずもあるまい。 もう一つ言っておくと、森永や萱野は、外国人労働者を受け入れると日本で排外主義が強まるとも主張しているが(森永は、『日本の論点 2007年版』(文藝春秋、2006年11月)所収の一文でこうした主張を展開している)、「レイシスト的保護主義グループの成立(1)」でも示唆したように、こうした主張は転倒している。 そこで引用したフランスの国民戦線のナンバー2であるブリュノ・ゴルニシュ(Bruno Gollnisch)の「私たちは極右でも何でもない。日本のような移民政策を理想とするだけなのです」という言葉に示されているように、戦後の日本こそが、レイシスト国家としての一つの完成形態なのであって、外国人労働者の流入を可能な限り阻止するか、入国を認めても労働者としては法的にグレーゾーンの状態に置くという形でやってきているわけである。森永や萱野のようなメンタリティの連中がそうした施策を支えてきた(いる)のだ。そして、その結果が、先進国中でも(しかも、この巨大な経済規模で)極端に少ない外国人労働者人口比率であり、人種差別禁止法の不在等に見られる、外国人差別がさして問題とされない社会環境である。国家レベルで排外主義を行なっていた(いる)からこそ、人種主義団体の運動が活発でなかったというだけだ。仮に人種主義団体の活動が盛んであったとしても、多くの外国人の居住と生活が認められている社会の方が、はるかにまともなものであることは言うまでもない。そうでないと言う人間は、日本人以外の人権を考慮しない、世界経済の安定性すら考慮しない、レイシスト的保護主義者であると見なさざるを得ないだろう。 ところで、上の記事は短いものなので、もっと森永が雄弁に語っているものを紹介しておこう。カレル・ヴァン・ウォルフレンとの対談の一節である。 「森永 移民の受け入れは、絶対やめた方がいいと私は思っています。 ウォルフレン そうですか? 森永 そりゃもう、どれだけドイツが苦労して、どれだけフランスが苦労しているか、わかったもんじゃないです。 ウォルフレン どうなんでしょうね、もし「公式に入れましょう」ということになったら。 森永 外国人労働者なり移民の問題というのは、「コストの負担」と「メリットの発生」がずれるんですよ。 まず受ける主体がずれるのは、低賃金の外国人労働者あるいは移民の受け入れでメリットを受けるのは、受け入れた企業です。コストが削減されますからね。一方で、その負担というのは、ほかの人たちに来るんです。 例えば一番大きいのは、外国人労働者というのは給料が低いため、ほとんど税金を納めないわけです。その半面、家族の入国を止めるのは人道上できないですから、家族を連れてきたりすると教育費がかかるし、公的住宅費もかかるし、失業対策費もかかるし、ありとあらゆるところにコストがかかるんですね。 細かい話ですけれど、国勢調査一枚書くにしても、日本人に書いてもらうのと、いろいろな国籍の人に書いてもらうのとでは、手間の数が十倍も二十倍も違うわけです。企業としてはプラスになるけど、社会的コストはほかの人に転嫁される。だから企業の主張というのを聞いてしまうと、ほかの人が損するというのが一つの理由。 もう一つは、外国人労働者のメリットは先に出てくるんだけど、デメリットが後になって出てくるんです。デメリットというのは何かというと、一つは日本に住んでバリバリ現役で働いているうちはいいんですが、結婚して子供が生まれると、子供のための教育費というのは日本人よりもはるかに多くかかるんですね。ものすごい少人数のクラスでやらないといけないので。それから最初は失業しないんですけれど、しばらくすると失業者が出てくる。何十年かたつと年金も払わなきゃいけない。だから年金を払うまでというのは掛け金がどんどん入ってくるんだけど、払うというか、保険料を負担している世代や時代はいいんですが、いざ払う段になったら大変になる。年金を払っていない人も多いですしね。払っていない人については生活保護を出さなきゃいけなくなるので、もっと大変になる。 それから一般的な移民なんかが持っているイメージの移民というのでやると、当然、低賃金労働者層が入ってくるので、国民の雇用を奪うというだけじゃなく、単純労働の賃金水準が低下するんです。あと省力化投資も進まなくなるし。実際に私も何度か計算したことがあるんですが、もう本当に、十年もしたら圧倒的に大赤字ですよ。国全体として損益をはじいたらね。だからやめたほうがいいと思うし、ドイツの人だって、フランスの人だって「何で間違いの轍を踏むんだ」と言うと思いますね。 そもそも労働力を国内で確保しなきゃいけない、というような理屈はないんです。一つは海外に工場をつくってやれば、工場長一人行けばいいわけですからね。いや、現にそうしてきているわけです。移民を受け入れて、彼らの送金資金をあげようということではなく、そもそも彼らが働きたい場所に工場を建ててやれば、彼らも幸せなんです。」 (カレル・ヴァン・ウォルフレン、森永卓郎『年収300万円時代 日本人のための幸福論』ダイヤモンド社、2005年5月、132~134頁。強調は引用者) 森永の饒舌をご堪能いただけただろうか。上でも指摘したが、森永(および萱野)の外国労働者流入反対論の特徴は、「外国人労働者が流入すると排外主義が強まるから流入は望ましくない」というような言説にはある、「疚しさ」という感覚が全く存在しないところである。むしろ、そうした「疚しさ」という感覚を払拭させることこそが、こうした饒舌の狙いであるようにすら思われる。 ここでは、合理的な思考過程を経て「外国人労働者受け入れ反対」という命題が導き出されたというよりも、「外国人労働者受け入れ反対」という目標のために、さまざまな論拠が持ち出されているように見える。一つ一つの「コスト」の挙げ方もそうだが、そもそも、「国全体として損益をはじ」く観点からすれば、改憲し、対テロ戦争に積極的に従事しない理由はない。また、「彼らが働きたい場所に工場を建ててやれば、彼らも幸せなんです」などと言うが、「彼らも幸せなんです」などという(外国)人をナメた口ぶりはさておき、多国籍企業の海外進出による産業空洞化こそが、森永ら反新自由主義者の批判する点ではなかったのか?「外国人労働者受け入れ反対」論に使えるならば、なんでもいいようである。 「年金を払うまでというのは掛け金がどんどん入ってくるんだけど、払うというか、保険料を負担している世代や時代はいいんですが、いざ払う段になったら大変になる。年金を払っていない人も多いですしね」という発言は、掛け金をまともに負担している外国人にも、本当は年金を支給したくないという口ぶりである。「年金を払っていない人も多い」という発言は、今後、外国人労働者の雇用状態、生活環境を改善させるべきだ、という発想を、森永が全く持ち合わせていないことを示している。 森永の口調や視線は、冷徹な新自由主義者が、恐らく日本の貧困層に対して抱いているものそのものだ。違うのは、さすがにここまで大っぴらには新自由主義者も言えないが、外国人労働者には言ってよいことになっているらしい、という点である。 また、森永は「護憲派」であるが、森永の語る平和主義の前提になっているものは、「何の関係もない国民」などという、国民を<無垢>なものとして描く表象、「一人一人がやさしい心を持っていて、相手を傷つけないように気づかい、みんなが幸せになれるような思いやりを持った文化というのが、一つ一つのものに込められている。それが日本なんだというんです」(『年収300万円時代 日本人のための幸福論』186頁、強調は引用者。なお、これは小泉八雲の発言を紹介する文脈で用いられているが、森永と小泉八雲の見解はここでは一体化している)という表象である。森永において、外国人(恐らく<新自由主義者>も)は、こうした<平和>で温かい日本社会を崩す輩として認識されている、と思われる。森永の掲げる<平和>は、金玟煥(キム ミンファン)氏が言うところの「脱文脈化された平和」である。 森永を、私たちは、レイシスト的保護主義者の典型として位置づけることができるだろう。レイシスト的保護主義グループは、<平和>な日本社会を「新自由主義」または「外国人」から守らなければならない、という衝動を基底に置いている。その「<平和>な日本社会」なる表象が、ある者には「日本国憲法が守ってくれた平和」であり、ある者には「日本伝統の淳風美俗」と映っているのだ。確かに、「右」も「左」も関係ないのである。 森永のような立場の人物を護憲派というのは、したがって、ある意味ではミスリーディングである。森永の護憲論を根底から規定するのは、平和主義それ自体よりも、先進国家の国民としての生活水準を「保守」したいという情念であるのだから(ついでに言っておけば、先進国の国民としての生活水準を「保守」するためには、対テロ戦争へ継続的に参加する必要があるのだから、森永流の、現状維持のための「護憲」論は、大衆的には何の説得力もない)。 だが、むしろ、以下のように問うた方が有益であろう。そもそも戦後の護憲派の主流というのは、森永のようなものだったのではないか、森永は、その調子のいい性格とあいまって、時勢に乗って護憲派の本音をあけすけに喋っているだけなのではないか、と。私がほとんど文献上でしか知らない、日本社会党の人々というのもこういう感じだったのではないか(この辺については、「戦後社会」の再浮上であるとして以前指摘したこととも重なる)。土井たか子をはじめとした旧社会党系の人びとが、簡単に<佐藤優現象>に飛びついたことや、社民党のホームページのトップに森永の顔写真があることは、なかなか示唆的である。 現在の論壇・雑誌ジャーナリズムの崩壊過程は、佐藤優と結託する護憲派ジャーナリズムをも清算しつつあるが、こうした流れを肯定的に受け止めるべきだろう。逆に言えば、今日のそうした護憲派ジャーナリズムで、「護憲」論を語ろうとしても、もはやレイシスト的保護主義に回収されるだけだ、ということである。
by kollwitz2000
| 2009-05-14 00:00
| 日本社会
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