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ポピュリズム批判とポピュリズム化の同時進行 [2009-05-25 00:00 by kollwitz2000]
「論壇」の未来像――ひとつの仮説 [2009-05-18 00:00 by kollwitz2000] 排外主義としての護憲論――森永卓郎 [2009-05-14 00:00 by kollwitz2000] 論壇・雑誌ジャーナリズムの崩壊は活字文化の勝利 [2009-05-11 00:00 by kollwitz2000] 呼びかけ人・賛同人のみなさん、岩波書店による弾圧は? [2009-05-10 00:00 by kollwitz2000] 1
「マガジン9条」というサイト(ウェブマガジン)がある。発起人や執筆者等からわかるように、佐藤優と結託する護憲派ジャーナリズムそのものと言ってよい。 http://www.magazine9.jp/ 最新号では、柄谷行人の新刊が書評で取り上げられており、以下のように結ばれている。 「「柄谷行人」を一部哲学・文芸ファンの占有物にしておくのはもったいない。これまで柄谷の言説になじみのなかった読者には、本書がガイドブックの役割を果たすはずだ。来たるべき自由で平和な社会にむけて、みんなでカラタニを読もう。」 http://www.magazine9.jp/rev/090520/ 好意的に考えれば、読者を笑わせようとしていると思われるのだが、多分この書評者は本気でこう言っているのではないか。この書評者(北川裕二)は、なんと、あのNAM関係者だったらしいのである。 http://groups.yahoo.co.jp/group/meta21/messages/1205?expand=1 私はNAMの主張それ自体にはあまり関心はなかった(ない)が、NAMを関係者たちがいかに総括したのか、いや、より正確に言うと、いかに総括しなかったかには関心がある。柄谷らに批判的な「重力」グループ周辺が批判的に総括した文章をかつて読んだように思うが、柄谷やその仲間たちによって公的になされた総括の文章は、読んだことがない。 柄谷はNAMの破綻後、「論壇」および出版産業周辺での影響力維持のために、岩波書店や朝日新聞との提携に進み、佐藤優を絶賛して佐藤とつるむなどして(佐藤が柄谷をあちこちでヨイショするのとどちらが先かは不明)、<佐藤優現象>の推進に大きな影響を与えている。NAMの崩壊が柄谷には相当深い傷になっているのだろう。 もちろん、NAMを総括しようがしまいが私には直接は関係ないが、この北川という人物は、NAMを総括せずに自らの影響力保持のために「論壇」でだらしなく延命しようとする柄谷に対して、呆れることに、いまだに太鼓持ちの役割を演じているわけである。しかも、柄谷が、<佐藤優現象>の推進という形で、害毒を撒き散らしていることを黙認(あるいは促進?)しながら。こういう人物がメンバーである団体というのは一体なんなのか。 2 というのは実は単なる前振りで、以下が本論である。その「マガジン9条」最新号の、憲法学者である田村理へのインタビューを読んで驚いた。以下、引用する(強調は引用者。以下同じ)。 「僕が批判する護憲派とは「9条の条文が変わらなければいいから、自衛隊や日米安保などと9条の矛盾をどうするかは当面議論しない」という考えの人たち、「中身はどうでもいいから改正しないために大同団結しましょう」と主張する人たちのことです。こう言いますと、多くの人は「自分は違う」と思われるでしょうね(笑)。でも、地方の9条の会等で、後にふれる2007年5月3日付『朝日新聞』の社説を批判すると、「理想はそうだけど、現実はね」という反応を多くもらいます。そんな方々は常識的な人たちですが、僕が批判する護憲派の可能性が高いんです。」 「世界情勢や国民意識の変化を理由に、かつてはあれほど反対していた自衛隊の海外派遣を朝日が認めてしまったことは、「現実主義」というよりは「なし崩しの論理」でしかない。これがまかりとおってしまえば、「世界情勢や国民の意識が変わった」からと、いずれ集団的自衛権の行使も認められてしまうでしょう。 この種の護憲論には、理想を目指す意志が全く感じられない。憲法は、国家=権力の現実を本来あるべき姿に近づけるためにあるはずなのに。そして、あえて厳しい言葉を使わせてもらえば「卑怯」です。徴兵も行ないません、戦争はしません、だから国民は戦争に巻き込まれません、でも国は僕たちを守ってくれるはずだし、国際貢献は必要だから自衛隊さんは頑張って……。ご都合主義的で、僕たちが負うべきリスクや責任も知らないふりです。この卑怯さには皆が気づいている。だから鼻白む。改憲派の批判に正面からこたえられる護憲派は少ない。これこそ護憲派のアキレス腱です。護憲派がなすべきことは、中身を問わない「大同団結」などではなく、9条が目指す理想とは何か、それを実現するために何が必要かについてのコンセンサスを見解の対立の中で鍛え、リスクも含めて国民に誠実に説くことではないでしょうか。」 http://www.magazine9.jp/interv/tamura/index2.php 田村理という人についてはあまり知らないし、引用元の文章を読んだ限り、私とスタンスも違うのだが、上の護憲派批判は、「<佐藤優現象>批判」以来、私がさんざん言ってきたことである。 この「マガジン9条」やこの辺の人たちは、私の批判には一切沈黙しておいて、今さらこういう田村の批判を載せて何がしたいのだろうか?この人たちは、憲法問題について、「中身を問わない「大同団結」」を主張する以外のことをほとんどやってきていないというのに。 その証拠を示せって?いや、以下の文章だけでも十分じゃないでしょうか。「マガジン9条」のスタッフの日記からの引用である。 「(注・2009年)1月10日(土)~13日(月) 夢を見た 内閣改造の 夢を見た 国会の予算委員会での審議が始まりました。 なんとも見ているのが辛い政治の惨状です。まともな言葉のぶつかり合いがない。(中略) そこで、もう少しまともな内閣って造れないものかなあ…と考えたのです。ま、あんまりいいことの思いつかない新年だから、個人的な夢の世界に遊ぶのもいいんじゃないですか。 というわけで、以下、私の勝手な組閣案です。 みなさんも、自分なりの内閣を考えてみたらいかがですか? これ、意外に面白い遊びでしたよ。 (中略) では、組閣開始―っ! ◎防衛大臣 伊勢崎賢治さん (東京外国語大学教授) (中略) ◎厚生労働大臣 落合恵子さん (作家、クレヨンハウス主宰)(中略) ◎財務大臣 金子勝さん (慶応大学教授)(中略) ◎金融・財政政策担当大臣 森永卓郎さん (獨協大学教授)(中略) ◎経済産業大臣 佐藤雅美さん (作家、主に時代小説)(中略) ◎外務大臣 坂本龍一さん (ミュージシャン)(中略) ◎文部科学大臣 重松清さん (作家)(中略) ◎総務大臣 上原公子さん (前国立市長)(中略) ◎法務大臣 伊藤真さん (伊藤塾塾長)(中略) ◎国土交通大臣 田中優子さん (法政大学教授、日本近世文化)(中略) ◎環境大臣 竹田津実さん (北海道在住の獣医、写真家)(中略) ◎国家公安委員長 鈴木邦男さん (作家、一水会顧問)(中略) ◎沖縄及び北方対策担当大臣 目取真俊さん (作家)(中略) ◎内閣官房長官 佐藤優さん (起訴休職外務事務官、作家) この凄まじい閣僚たちをまとめ上げるには、豪腕の持ち主でなくては務まらない。というわけで、佐藤優さんにケッテーイッ! あの鋭い目で睨まれたら、閣内不一致などといういまの内閣のような不様を晒すことはないだろう。 (以下略)」 http://www.magazine9.jp/tubuyaki/090114/ ・・・「マガジン9条」が実現を希望する内閣は、解釈改憲論者でかつ排外主義者(「<佐藤優現象>批判」その他過去記事参照)が官房長官を務める内閣である。この内閣は、麻生内閣よりもはるかに、イスラエルの軍事行動を積極的に支援していくことだろう。 3 こうした「中身を問わない「大同団結」」を支えているのは、大衆は、メディアによるプロパガンダの量によってどうにでも動く、という愚民観であるように思われる。典型的には、以下のような言説である。 「二〇〇四年の一月から三月にかけて、官舎や集合住宅にビラまきを行った人たちが、様々な理由付けのもとに逮捕されるという事件が起きています。(中略) これは、国家権力による言論や表現、思想の自由への弾圧以外の何ものでもありません。私たちの社会は今日、こうした弾圧が公然と行われるような社会になってしまっています。 しかし、こうした事実は実際にはあまり広く知られていません。メディアが大きく報道しないからですが、必然的に、世論においても批判する論調は非常に弱いと言えます。」(田島泰彦『この国に言論の自由はあるのか』岩波ブックレット、2004年8月、18~20頁) 「東京都における日の丸・君が代の強制の事例から、私が最も恐れているのは、思想・信条の自由への侵害行為が行われているにもかかわらず、メディアによって広く伝えられるに至らず、それを批判する世論が盛り上がることもなく、全体としては許されてしまっている、そういう現下の社会のあり方です。」(同上、22頁) ここでは、特定の社会問題への関心が広がらないのは、それ固有の理由(上の例で言えば、ビラが批判対象としたイラクへの自衛隊派遣への大衆の容認(黙認)、「日の丸・君が代」の国旗・国家としての大衆への「定着」)よりも、メディアがそれを報道しないからだと考えられている。<社会問題>→<メディア>→<世論>という図式が、何の疑問もなく前提とされている。 こうした思考様式から、「<佐藤優現象>批判」でも指摘したように、2005年の衆議院選挙における小泉自民党の圧勝を「メディアの影響」で説明しようとするような思考様式が生まれる。これは「愚民観」である。 こうした、大衆への「メディアの影響」を憂える言説は、左右問わず、当のメディアが最も好むものである。こうした言説は、自分たちは大衆への強い影響力を持っている、という自己肯定の言説だからだ。佐藤優や山口二郎や中島岳志のようなポピュリズム批判が、リベラル・左派のジャーナリズムに受けがいいのも、こうした陳腐な自惚れに依拠している。 こうした(憂い顔の)自惚れが、護憲派ジャーナリズムにおける、ポピュリズム批判とポピュリズム化の同時進行という、喜劇的な現象を支えている。メディアに簡単に大衆が流されるのが問題だというならば、大衆が政治的に自律的な判断力を持てるように促すことが考えられなければおかしいであろう。ところが、現実には、180度逆のことが起こっているのである。こうした護憲派ジャーナリズムは、大衆が「メディアの影響」で動かされるのは所与の条件だとばかりに、護憲派のポピュリズム化に向かっているのだから。 この人たちは恐らく、以下のように考えているのだろう。大衆は、小泉のプロパガンダに騙されるほど馬鹿だ。大衆の意見はメディア次第だ。メディアから「護憲」のシャワーを流すためには、メディア上で発言力のある改憲反対の人すべてと「大同団結」しなければならない。自分たちに尻尾を振ってくれるなら、集団的自衛権の行使容認のような解釈改憲論者すらも仲間にすべきだ。とにかく、「日本国憲法」は良いものだ、変えなくてよいというイメージを、シャワーのように、メディアから大衆に注ぐ必要があるのだから・・・・・・。 大衆が、護憲派ジャーナリズムに鼻白んでいるのは、田村が指摘する「卑怯さ」というよりも、その「卑怯さ」の下に見える、上記のような愚民観だと思う。当の護憲派ジャーナリズム(やその支持者)以外は、皆気づいているのだ。 ただ、こうした批判自体が、実は、ないものねだりだと思われる。田村は多分気づいていないが、護憲派ジャーナリズムの大多数の人々は、計算を間違えているから「現実主義的護憲論」の下での「大同団結」を図っているのではなく、彼ら・彼女ら自身が、田村や旧来の護憲派のような憲法の平和主義の「理想を目指す意志」や、日本の侵略責任・戦争責任の観点から憲法を捉えるという視点を、もはや全く持っていないからこそ、「現実主義的護憲論」で行かざるを得ないのである。それは、前から何度も言っているように、民主党の安全保障基本法ラインであって、大衆は別にそれが「護憲」であると騙されないし、出版不況でそれで商売になるわけでもないんだから、もうこの人たちは「民主党の安全保障基本法ラインで行こうよ!」と言ってしまった方が(保守系の読者層の開拓という観点からも)いいんじゃないかと、これは皮肉ではなく老婆心から思う。 なお、「メディアから「護憲」のシャワーを流すためには、メディア上で発言力のある改憲反対の人すべてと「大同団結」しなければならない」という認識と同様のものは、格差問題や沖縄問題でも似たようなものである。 「反貧困」論は、マスコミ内での支持を獲得するために、中産階級没落危機論(これはレイシスト的保護主義に親和的である)にほぼ回収されてしまったわけだが、これではいくらマスコミが煽ったところで、下層階級はなかなかなびかないどころか、かなりの部分が「(中産階級の)既得権へのメス」を訴える新自由主義に回収されるだろう。 また、沖縄の左派やマスコミは、保守派と共闘するために、教科書への集団自決の強制性の記述とひきかえに、基地の県内移転を黙認することになると思われる。これは、沖縄の特に若い世代における、小林よしのりの主張――基地の県外移転の支持と日本の核武装化の推進、沖縄の人々(小林にとっては、琉球処分は廃藩置県と同じことであって、「琉球人」は「信州人」や「越後人」と同じ意味でしかない)の日本人としての「大東亜戦争」への献身の称揚等――の支持者の拡大に帰結するだろう。 日本に数年後、大衆的な極右運動が現われるとすれば、それは在特会のような人種主義集団の形態ではなく、多分沖縄から、小林の支持グループを中心として登場すると思う。そこには、朝鮮系日本人も多数加わっているはずである。それは、在特会などよりも、はるかに厄介かつ強力な集団だと思われる。 論壇・雑誌ジャーナリズムの崩壊について前に書いたが、ところで、今後、こうした状況に物書きたちはどう対処していくのだろうか。大手紙の「論壇時評」のようなものは終わってくれるのだろうか。下手をすると2年後くらいには、『文藝春秋』と『WILL』とどうでもいい左翼同人誌くらいしか残っていない可能性すらあるのだから。
実は、物書きたちは、状況への対処法を編み出しつつあるのではないか、というのが私の推測である。それは、群れる、ということである。 佐藤優が責任編集の『現代プレミア』(講談社)や、フォーラム神保町の魚住昭編集のウェブマガジンのように、このところ、佐藤優(やその周辺)が物書きを組織化するという試みが立て続けに起こった。これが興味深いのは、これらが、紙媒体の出版活動がメインであることを標榜しつつも、ウェブでの展開に重点を置こうとしていることである。 多分、この辺の人びとは、出版・書籍・活字メディアの復興を口では唱えながらも、恐らくもう見切りをつけていて、ウェブでの活動に移行しようとしているのではないか、と思われる。自分たちが人気のあるうちに、ウェブで地歩を確保し、雑誌ジャーナリズムの終末に備えようとしているように、私には思える。 講談社は、『月刊現代』の後継誌を秋頃に出すらしいが、それの前哨である『現代プレミア』を見る限り、『月刊現代』の書き手と面子はほとんど変わらないのだから、どうせ長くは持つまい。多分この後継誌は、佐藤らが、珍妙な使命感か雑誌を潰したコンプレックスかを持っている編集者(この雑誌は、『月刊現代』の休刊時の高橋明男編集長が中心となって作られるようだが、雑誌を潰した責任者が、責任を問われず似たような趣旨の雑誌を作るというのだ。こんな企業からは、つまらない雑誌しか生まれないのも当たり前である)を焚きつけて企画させたように思う。佐藤らにとっては、この雑誌は、ウェブでの地歩の確保のための乗り捨て用の車みたいなものだろう。 私の推測では、この辺の物書きたちは、とにかく群れることによって、自分たちが「売れている」という表象を作り出したいのである。この群れは、一定の著名性や話題性があれば、どんどん拡張しようとするだろう。以下、「論壇」の未来像について、一つの思い付きを記しておきたい。 多分、『現代プレミア』やフォーラム神保町に示されている「群れ」は、『論座』的な面々と野合する(一部の書き手は重なっている)。これは、(最近知って中身のなさに笑ったのだが)「シノドス」とかいう「知の交流スペース」周辺の人びとが典型で、ここが開催したセミナーの講師陣というのが、また見事なまでにつまらない「論壇」的な書き手のオンパレードなのであるが、この辺のほとんどがまとめて佐藤らの群れに合流していく可能性が高いと思う。 http://kazuyaserizawa.com/seminar/index.htm あとは、上の「シノドス」とも人脈的には重なるが、『思想地図』や『ロスジェネ』も、それほど遠くない日に廃刊するだろうから、この群れに合流していくだろう。 要するに、「群れ」が「群れ」を呼んで、現在の「論壇」を構成している面々が、ほぼそのままウェブ上に巨大な「群れ」を構成する形になるのではないか、と私は推測している。それが「ブログ村」という形態になるのか、巨大なウェブマガジンになるのか、また別の形態になるのかはわからないが。この「群れ」の中に、「人気ブロガー」を取り込んでいくなどして、「論壇」は延命を図ると思われる。 そして、「群れ」の形成過程の途中から、朝日新聞あたりが音頭をとって「群れ」の形成を進め、「論壇」を囲い込むようになるのではないか、と私は思う。実際、『論座』が潰れて以降、『論座』の書き手や編集者が朝日新聞本体(「耕論」とか)や『週刊朝日』に移行しており、朝日系メディア全体が薄められた形で『論座』化しているように見える。東浩紀も『週刊朝日』で連載を始めたし、内容自体は可哀想なくらい何一つ話題にならなかった『朝日ジャーナル』の復刊号(『週刊朝日』編集長が編集長を兼任)も、『論座』そのものであった。 朝日一社でやるか、朝日・読売・日経の「あらたにす」でやるか、毎日新聞がまだ存続していれば毎日と組むか、などいろいろなバリエーションが考えられるが、出版社にはそんな余力を持っているところは残っておらず、新聞社が、文化欄・書評欄とのタイアップ方式でそうした新しい「論壇」を囲い込み、組織する、という方式になるのではないかと思う。大手紙の幹部たちは、言説の調達先の育成と確保という目先のメリットだけではなく、ジャーナリズムという「社交界」を自分たちが楽しむためにも、経営合理性を度外視して、「言論の公共空間の維持」やら「活字文化の擁護」やら適当な理屈をつけて「論壇」を救ってくれると思われる。 かくして「論壇時評」は、『文藝春秋』ほかの存続している数誌よりも、こうしたウェブ上に囲い込まれた「論壇」での言説を材料に書かれることになる、と私は思う。 私は「<佐藤優現象>批判」で、<佐藤優現象>を大政翼賛会に準えたが、この「群れ」は、戦前の翼賛団体のほぼ忠実な再現である。イデオロギー的には、現在の「論壇」がそうであるように、本質的な対立など別にない。インターネットは、すぐ「ムラ社会」化するから、これら「論壇」の面々の主張は、より平準化していくだろう。 前にも書いたように、論壇・雑誌ジャーナリズムの崩壊は望ましいことであり、じきに崩壊するとは思うが、私の思いつきのような形をとらないとしても、「論壇的なるもの」はしぶとく生き続けるだろう。読者が必要としているからというよりも、適正人数を大幅に超えて膨れ上がったメディアや物書き(予備軍)たちがそれを必要としているからである。 それにしても、戦前の翼賛体制と言論人の関係については、言論人の積極的な戦争扇動・協力という観点からしばしば取り上げられる。だが、<佐藤優現象>の動きを見ていると、両方の観点はそれぞれ正しいにしても、当時の言論人というのはそこまで「理念」なるものを持っていなかったのではないか、とも思えてくる。彼らは多分、今の<佐藤優現象>と同じように、自分たちの将来がどうなるかわからないから、とりあえず群れてみたのではないか、と私は思う。当時のメディア関係者は、排外主義的な感情を併せもちながらも、自己保身の本能のおもむくまま、ただただ犯罪的な道を進んでいただけだったのかもしれない。現在の<佐藤優現象>に群れる面々のほとんどがそうであろうように。 森永卓郎といえば、年収300万円生活を薦める高所得者の天下り官僚、非婚を薦める既婚者であり(大衆をナメきっているわけである)、彼のやっている「貧困ビジネス」に関しては、騙される方が悪いという感想しかないのだが、さすがに以下の発言は酷すぎる。
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/o/25/index2.html 「人口減少時代を迎えて、移民を受け入れよと主張している人がいる。いわゆる、新自由主義の立場にたった人たちだ。 新自由主義というのは、評価の尺度を金に一本化するという単純な発想から成り立っている。 その典型がホリエモンである。ライブドアの社長だったころの彼は、「社員がやめたら、またマーケットからとればいい」とうそぶいていた。 彼らには、一人一人の労働者の顔が思い浮かぶことはない。 彼らにとっては、鈴木さん、佐藤さん、田中さん……といった個人名はどうでもいい。あくまでも、労働力1、労働力2、労働力3……という存在に過ぎないのだ。 彼らの発想の根源となっているが、いわゆる生産関数――つまり、経済の大きさが、労働と資本を投入した量で決まるという理論だ。 ところが、人口が減少してしまうと、投入できる労働は減り、彼らの儲けも減ってしまう。そこで、経済成長を維持させるために、どこからか労働力を供給しなければならないと考えているわけだ。それが手っとり早い方法だからである。それが、外国人労働者を受け入れよという要求につながってくる。 しかし、外国人労働者の受け入れには、私は絶対反対である。 現に、ドイツやフランスをはじめとして、諸外国でも外国人労働者の受け入れは失敗の歴史であるといっていい。 たとえば、ドイツでは1960年代、高度成長のもとでトルコから大量の労働者を受け入れた。 ところが、高度成長が終わり外国人労働者の雇用調整をしようとしたところで、つまずいてしまった。すでにドイツ国内では労働者たちに二世が誕生。彼らはドイツで生まれ育ち、ドイツ語しか話せず、本国に返そうにも返すことができない。 そこでドイツが何をやったかというと、トルコに家を建てるための資金を与え、子どもたちにはトルコ語を教えた。そうした莫大なコストをかけて雇用調整をしたのである。 日本で外国人労働者を受け入れても、まず同じことが起きるだろう。 外国人労働者のメリットというのは、雇った企業のみに現れる。 ところが、そのコストは長期間にわたって全国民にはねかえってくるのだ。たとえば、小学校の教育一つとっても、外国人の生徒がいれば、コストは10倍はかかるだろう。外国人労働者本人も失業を頻繁に繰り返すことが予想され、失業保険のコストがかかる。 公的な住宅費もかかるし、市役所のパンフレットも各国語で書くためにコストがかかる。 そして、そうしたコストは雇った企業ではなくて、何の関係もない国民にかかってくるのだ。(後略)」 そもそも森永のような格差社会批判派は、人間の価値を「コスト」の観点から計算するような価値観をこそ批判しているのではなかったのか? この文章がすごいのは、一目瞭然ではあるが、新自由主義者について労働者を人間ではなく単なる数字として見ていると批判しながら、新自由主義者顔負けの冷徹さで、外国人労働者の生活により「国民」が被るという被害「コスト」(しかも外国人にとっては生活権レベルの)を挙げていく点にある。それはダブルスタンダードだ、と言うことすら馬鹿馬鹿しくなる。 もう一つ重要なのは、森永がここで、外国人労働者の流入が直接、日本人に被害をもたらすとして、自らの意思として反対していることである。 私は「<佐藤優現象>批判」で、「リベラルからは、外国人労働者が流入すると排外主義が強まるから流入は望ましくないという言説をよく聞かされるが、言うまでもなく、この論理は、排外主義と戦わない、戦う気のないリベラル自身の問題のすりかえである」と述べたが、森永の主張は、ここでの「リベラル」のそれを超えている。日本で排外主義が強まるから反対、という間接的な言い方ではなく、自分たち国民がコストを負担しなければならないから反対、という直接的な反対論になっているのだ。建前はかなぐり捨てて、本音で行きましょうよ、というところであろう。 このことは、以前指摘したように、このところのリベラル・左派において、象徴天皇制が、「「世論」で広く支持されているから、容認せざるを得ない」という論理ではなく、「戦後社会」を肯定するナショナリズムの象徴として、改めて選び直されつつある事態(最近の『金曜日』がその典型)と似ている。 そもそも、現在の日本は、外国人労働者抜きには経済にせよ社会にせよ成り立たなくなっているのだから、受け入れに賛成か反対か、という選択肢自体が虚構である。こうした主張は、森永だけではなく、最近では萱野稔人がその典型例であるが、少なくとも森永や萱野がこうした主張をするならば、現に今、日本にいる外国人労働者はどのような処遇がなされるべきかも同時に明らかにしなければならない。そうでなければ、こうした言説は、外国人労働者への排外主義を後押しする機能しかもたらさないではないか。森永や萱野も自分が提起している選択肢が虚構であることは自覚しているだろうが、まさにこうした排外主義とメンタリティを同じくしているからこそ、「受け入れ反対」とのみ呼号しているのだと思われる。 また、自国の資本が第三世界に進出し搾取していることを放置している、あるいは抑制できない状態でいるにもかかわらず、第三世界の外国人が自国に入ってくるのを拒むのは道理に合わないだろう。第三世界の人間からすれば、現地経済を破壊しておきながら、入国は拒むというのは手前勝手にもほどがあるとならざるを得まい。上の記事中の森永の、「何の関係もない国民」などという規定は馬鹿げている。「何の関係もない」どころか、自国の多国籍企業の海外進出を容認しているという、国民としての政治的責任を負っているではないか。そうした多国籍企業の法人税によって、福祉体制その他の恩恵を被っているという点だけからも、「何の関係もない国民」などとは言えるはずもあるまい。 もう一つ言っておくと、森永や萱野は、外国人労働者を受け入れると日本で排外主義が強まるとも主張しているが(森永は、『日本の論点 2007年版』(文藝春秋、2006年11月)所収の一文でこうした主張を展開している)、「レイシスト的保護主義グループの成立(1)」でも示唆したように、こうした主張は転倒している。 そこで引用したフランスの国民戦線のナンバー2であるブリュノ・ゴルニシュ(Bruno Gollnisch)の「私たちは極右でも何でもない。日本のような移民政策を理想とするだけなのです」という言葉に示されているように、戦後の日本こそが、レイシスト国家としての一つの完成形態なのであって、外国人労働者の流入を可能な限り阻止するか、入国を認めても労働者としては法的にグレーゾーンの状態に置くという形でやってきているわけである。森永や萱野のようなメンタリティの連中がそうした施策を支えてきた(いる)のだ。そして、その結果が、先進国中でも(しかも、この巨大な経済規模で)極端に少ない外国人労働者人口比率であり、人種差別禁止法の不在等に見られる、外国人差別がさして問題とされない社会環境である。国家レベルで排外主義を行なっていた(いる)からこそ、人種主義団体の運動が活発でなかったというだけだ。仮に人種主義団体の活動が盛んであったとしても、多くの外国人の居住と生活が認められている社会の方が、はるかにまともなものであることは言うまでもない。そうでないと言う人間は、日本人以外の人権を考慮しない、世界経済の安定性すら考慮しない、レイシスト的保護主義者であると見なさざるを得ないだろう。 ところで、上の記事は短いものなので、もっと森永が雄弁に語っているものを紹介しておこう。カレル・ヴァン・ウォルフレンとの対談の一節である。 「森永 移民の受け入れは、絶対やめた方がいいと私は思っています。 ウォルフレン そうですか? 森永 そりゃもう、どれだけドイツが苦労して、どれだけフランスが苦労しているか、わかったもんじゃないです。 ウォルフレン どうなんでしょうね、もし「公式に入れましょう」ということになったら。 森永 外国人労働者なり移民の問題というのは、「コストの負担」と「メリットの発生」がずれるんですよ。 まず受ける主体がずれるのは、低賃金の外国人労働者あるいは移民の受け入れでメリットを受けるのは、受け入れた企業です。コストが削減されますからね。一方で、その負担というのは、ほかの人たちに来るんです。 例えば一番大きいのは、外国人労働者というのは給料が低いため、ほとんど税金を納めないわけです。その半面、家族の入国を止めるのは人道上できないですから、家族を連れてきたりすると教育費がかかるし、公的住宅費もかかるし、失業対策費もかかるし、ありとあらゆるところにコストがかかるんですね。 細かい話ですけれど、国勢調査一枚書くにしても、日本人に書いてもらうのと、いろいろな国籍の人に書いてもらうのとでは、手間の数が十倍も二十倍も違うわけです。企業としてはプラスになるけど、社会的コストはほかの人に転嫁される。だから企業の主張というのを聞いてしまうと、ほかの人が損するというのが一つの理由。 もう一つは、外国人労働者のメリットは先に出てくるんだけど、デメリットが後になって出てくるんです。デメリットというのは何かというと、一つは日本に住んでバリバリ現役で働いているうちはいいんですが、結婚して子供が生まれると、子供のための教育費というのは日本人よりもはるかに多くかかるんですね。ものすごい少人数のクラスでやらないといけないので。それから最初は失業しないんですけれど、しばらくすると失業者が出てくる。何十年かたつと年金も払わなきゃいけない。だから年金を払うまでというのは掛け金がどんどん入ってくるんだけど、払うというか、保険料を負担している世代や時代はいいんですが、いざ払う段になったら大変になる。年金を払っていない人も多いですしね。払っていない人については生活保護を出さなきゃいけなくなるので、もっと大変になる。 それから一般的な移民なんかが持っているイメージの移民というのでやると、当然、低賃金労働者層が入ってくるので、国民の雇用を奪うというだけじゃなく、単純労働の賃金水準が低下するんです。あと省力化投資も進まなくなるし。実際に私も何度か計算したことがあるんですが、もう本当に、十年もしたら圧倒的に大赤字ですよ。国全体として損益をはじいたらね。だからやめたほうがいいと思うし、ドイツの人だって、フランスの人だって「何で間違いの轍を踏むんだ」と言うと思いますね。 そもそも労働力を国内で確保しなきゃいけない、というような理屈はないんです。一つは海外に工場をつくってやれば、工場長一人行けばいいわけですからね。いや、現にそうしてきているわけです。移民を受け入れて、彼らの送金資金をあげようということではなく、そもそも彼らが働きたい場所に工場を建ててやれば、彼らも幸せなんです。」 (カレル・ヴァン・ウォルフレン、森永卓郎『年収300万円時代 日本人のための幸福論』ダイヤモンド社、2005年5月、132~134頁。強調は引用者) 森永の饒舌をご堪能いただけただろうか。上でも指摘したが、森永(および萱野)の外国労働者流入反対論の特徴は、「外国人労働者が流入すると排外主義が強まるから流入は望ましくない」というような言説にはある、「疚しさ」という感覚が全く存在しないところである。むしろ、そうした「疚しさ」という感覚を払拭させることこそが、こうした饒舌の狙いであるようにすら思われる。 ここでは、合理的な思考過程を経て「外国人労働者受け入れ反対」という命題が導き出されたというよりも、「外国人労働者受け入れ反対」という目標のために、さまざまな論拠が持ち出されているように見える。一つ一つの「コスト」の挙げ方もそうだが、そもそも、「国全体として損益をはじ」く観点からすれば、改憲し、対テロ戦争に積極的に従事しない理由はない。また、「彼らが働きたい場所に工場を建ててやれば、彼らも幸せなんです」などと言うが、「彼らも幸せなんです」などという(外国)人をナメた口ぶりはさておき、多国籍企業の海外進出による産業空洞化こそが、森永ら反新自由主義者の批判する点ではなかったのか?「外国人労働者受け入れ反対」論に使えるならば、なんでもいいようである。 「年金を払うまでというのは掛け金がどんどん入ってくるんだけど、払うというか、保険料を負担している世代や時代はいいんですが、いざ払う段になったら大変になる。年金を払っていない人も多いですしね」という発言は、掛け金をまともに負担している外国人にも、本当は年金を支給したくないという口ぶりである。「年金を払っていない人も多い」という発言は、今後、外国人労働者の雇用状態、生活環境を改善させるべきだ、という発想を、森永が全く持ち合わせていないことを示している。 森永の口調や視線は、冷徹な新自由主義者が、恐らく日本の貧困層に対して抱いているものそのものだ。違うのは、さすがにここまで大っぴらには新自由主義者も言えないが、外国人労働者には言ってよいことになっているらしい、という点である。 また、森永は「護憲派」であるが、森永の語る平和主義の前提になっているものは、「何の関係もない国民」などという、国民を<無垢>なものとして描く表象、「一人一人がやさしい心を持っていて、相手を傷つけないように気づかい、みんなが幸せになれるような思いやりを持った文化というのが、一つ一つのものに込められている。それが日本なんだというんです」(『年収300万円時代 日本人のための幸福論』186頁、強調は引用者。なお、これは小泉八雲の発言を紹介する文脈で用いられているが、森永と小泉八雲の見解はここでは一体化している)という表象である。森永において、外国人(恐らく<新自由主義者>も)は、こうした<平和>で温かい日本社会を崩す輩として認識されている、と思われる。森永の掲げる<平和>は、金玟煥(キム ミンファン)氏が言うところの「脱文脈化された平和」である。 森永を、私たちは、レイシスト的保護主義者の典型として位置づけることができるだろう。レイシスト的保護主義グループは、<平和>な日本社会を「新自由主義」または「外国人」から守らなければならない、という衝動を基底に置いている。その「<平和>な日本社会」なる表象が、ある者には「日本国憲法が守ってくれた平和」であり、ある者には「日本伝統の淳風美俗」と映っているのだ。確かに、「右」も「左」も関係ないのである。 森永のような立場の人物を護憲派というのは、したがって、ある意味ではミスリーディングである。森永の護憲論を根底から規定するのは、平和主義それ自体よりも、先進国家の国民としての生活水準を「保守」したいという情念であるのだから(ついでに言っておけば、先進国の国民としての生活水準を「保守」するためには、対テロ戦争へ継続的に参加する必要があるのだから、森永流の、現状維持のための「護憲」論は、大衆的には何の説得力もない)。 だが、むしろ、以下のように問うた方が有益であろう。そもそも戦後の護憲派の主流というのは、森永のようなものだったのではないか、森永は、その調子のいい性格とあいまって、時勢に乗って護憲派の本音をあけすけに喋っているだけなのではないか、と。私がほとんど文献上でしか知らない、日本社会党の人々というのもこういう感じだったのではないか(この辺については、「戦後社会」の再浮上であるとして以前指摘したこととも重なる)。土井たか子をはじめとした旧社会党系の人びとが、簡単に<佐藤優現象>に飛びついたことや、社民党のホームページのトップに森永の顔写真があることは、なかなか示唆的である。 現在の論壇・雑誌ジャーナリズムの崩壊過程は、佐藤優と結託する護憲派ジャーナリズムをも清算しつつあるが、こうした流れを肯定的に受け止めるべきだろう。逆に言えば、今日のそうした護憲派ジャーナリズムで、「護憲」論を語ろうとしても、もはやレイシスト的保護主義に回収されるだけだ、ということである。 最終号ということで久しぶりに『諸君!』の最新号をざっと眺めたが、右派雑誌というよりも「教養俗物」向けの雑誌になっていて驚いた。これでは売れるはずもないだろう。
次に潰れるのは『中央公論』と『創』あたりであろうが、『金曜日』も苦しいようであるし、岩波書店も経営状態の悪化で、経営者が現在、「非常事態」宣言を発している状況である(このままいけば、大量の在庫を抱えている本屋はどうなるのかな)。「論壇」の最後の希望の星であった『思想地図』も『ロスジェネ』も、第2号は全然売れていないようであるから、もう「論壇」の復興は無理だろう。 ところで、去年からの雑誌の廃刊ラッシュに関して、「活字文化の危機」といった言説が、出版業界を中心として垂れ流されているが、これは噴飯物の主張である。雑誌の廃刊ラッシュの大きな要因としてインターネットの普及が挙げられようが、ウェブ上の文章は「活字文化」ではないとでも言うのだろうか。一般大衆は、ネットの普及以前よりもはるかに、ネットを通じて大量に活字文化に接してきているのである。以下、あまりにも当たり前すぎてわざわざ言うのは気が引けるが、一応書いておこう。 もちろん現実の「ネット社会」をことさら持ち上げる気は全然ないが、現在の論壇や雑誌ジャーナリズムは、「ネット社会」ほどにも内容がないのだから、読者がわざわざカネを出すはずもないだろう。雑誌の廃刊ラッシュというのは、要するに、学者や言論人と呼ばれる人びとの展開している主張や「論争」とやらが、ウェブ上でその辺のブロガーや匿名掲示板の書き込みと大して変わらない、もしくはそれ以下の内容しか持っていないことに、読者が気づいたからこそ、カネを出さなくなったということに過ぎない。これは、インターネットという活字文化による読者への教育的効果とでも言うべきであって、あえて言えば、活字文化の勝利である。 採算がとれるならば雑誌や本として流通させ、採算がとれないのであればウェブで発表すればいい、それだけの話であろう。雑誌の廃刊や出版社の倒産で「書く場所」が減ってきているという声をたまに耳にするが、意味がわからない。現在、一定の知的好奇心がある人間は、かなりの年配の層でもネットを見るのだから、ブログでも開設するか、ホームページでも開いて論文をアップすれば済む話である。 現在の、出版業界(編集者やら物書きやら)を中心とした「活字文化の危機」といった言説は、要するに、「このままでは自分たちが出版で飯を食えなくなる」というだけの話であって、そんなもの、異業種に転職すべきだ、としか言いようがないだろう。人文社会系のアカデミストやその予備軍にも、雑誌の廃刊ラッシュを慨嘆する声が上がっているようだが、こうした人びとの論壇遊戯を続けさせてあげなければならない理由もないわけである。 ところで、<佐藤優現象>は、こうした「出版不況」と密接な関連があると私は考える(注1)。 出版不況の下でいつ会社を放り出されるか分からない編集者たちは、転職時に役に立つように、「売れっ子」とお近づきになり、人脈を形成し、「売れっ子」の本を出したという「実績」を作ろうとする。そうすれば、転職時に有利に働く、と考えるからである。事情は、フリー編集者の場合も変わらない。むしろ、フリーの方が、人脈を作るために、こうした「売れっ子」の互助会的なものに積極的に参加していくだろう。 「売れっ子」たちが、一つのグループを形成すれば、より多くの編集者を引きつけられるようになるだろうし、自分の実力に不安のある書き手は、「売れっ子」という表象を不断に作らなければならず、書きまくらなければならないのである。例えば、佐藤が中心的な役割を果たしている「フォーラム神保町」(会員を「メディア関係者」に限定)は、こうした「売れっ子」の互助会のようなものだが、出版不況下の編集者たちにとって、就職互助会という意味を持っていると思われる。 出版社としても、出版不況の下では、一定数の売上げ部数は見込める知名度を持つ書き手を優先する傾向を持つ。こうして、「売れっ子」の書き手、編集者、出版社の利害が一致して、どこの出版社からも佐藤優やら香山リカやら森達也やらの本が出版されることになる。 また、書く場所を出版社に依存する人びとも、佐藤に積極的に取り入り、こうした互助会の一員に参加させてもらおうとするだろう。佐藤と結託するリベラル・左派系の言論人にフリージャーナリストが多いこと(注2)や、20年間メディアに出ずっぱりで多くの著作を出版しているのにまとまった形で固定ファン層を一向に確保できない山口二郎のような人物が、佐藤と密接な関係を持っていることは、そのことを示唆している。 そして、こうした形で出版業界で<佐藤優現象>が持続することは、ますます、論壇・雑誌ジャーナリズムの崩壊を加速させることになるだろう。小谷野敦が指摘するように(ブログ「猫を償うに猫をもってせよ」2009年5月5日付)、佐藤こそが「論壇の衰退」の元凶の一人であり、<佐藤優現象>こそが、論壇・雑誌ジャーナリズムの無内容化の象徴だからである。多くの読者はそのことに気づいている。こうして、<佐藤優現象>と「出版不況」は、相互に規定しつつ、相互の現象をより強めることになるだろう。 したがって、論壇・雑誌ジャーナリズムが崩壊し、その社会的影響力を弱めることは、日本の言論にとって大変良いことであって(注3)、こうしたプロセスが徹底されることこそ望ましいと言える。とりあえず、佐藤を重用する論壇・雑誌ジャーナリズムの各誌が、同じく佐藤を重用する『情況』のような存在になることを期待しよう。『情況』であれば、社会的影響力は皆無であって、放置しておいてもよいからである。 (注1)<佐藤優現象>と出版社・書店との関係については、こことは別の視点から「辺見庸の警告と<佐藤優現象>の2つの側面」の「2」でも書いているので、ご参照いただきたい。 (注2)下の記事で、天木直人氏は、田原総一朗や佐藤優がフリージャーナリストを囲い込もうとしていることを紹介している。佐藤からすれば、出版業界での発言力の向上だけではなく、自分への「左」からの批判へのアリバイとして使えるから、両者は相互依存の関係にある。それにしても、田原や佐藤と結託することで食わせてもらおうという、志の低い連中に、何の「ジャーナリズム」を期待できるだろうか。 http://www.amakiblog.com/archives/2009/02/06/#001354 (注3)そもそも佐藤は「言論の自由」を原理的に否定しているのだから 、そうした佐藤を重用する論壇・雑誌ジャーナリズムが崩壊することが、日本の言論にとって大変有意義であることは言うまでもない。
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