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2010年 07月 08日
1.
それにしても、喧伝されている、あの「小沢派」対「反小沢派」などという図式は一体なんなのだろうか。民主党は小沢一郎の国会への証人喚問すらしていないのに、いつの間にか小沢をめぐる「政治とカネ」の話はなかったことになっている。証人喚問をしようとすらしない「反小沢派」、そして「小沢派」対「反小沢派」とは一体何なのだろうか。 ところで、私が雑誌編集者というものに接するようになって驚いたのは、この人たちが、とにかくニュースの「真相」を語るのが好きだ、ということである。××新聞の××さんから聞いたけれど、首相を動かしているのは実は××で・・・、小泉は実は××で・・・、××は実はピョンヤンに行こうとしていて・・・、とか、昔の『噂の真相』の一行情報みたいな話ばかりしている。こういう人々は、新聞記者やジャーナリストらとしょっちゅうつるんでいるから、そこで「噂」をいろいろ拾ってくるわけだ。佐藤優がリベラル・左派ジャーナリズムで重宝されているのも、佐藤がもたらしてくれるらしい「情報」が大きく関係していると思う。 昔から思うのだが、そうした政界関係で流れている「噂」や「情報」などは、どこかで政治的な操作が施されているものと見るべきであって、それが「真相」であると信じるのは根本的におかしいのである。われわれ一般市民は、基本的に政治の「真相」など知りようがなく、また大して知る必要もないのであって、「噂」や「情報」や「真相」に渇望する人間は、簡単に情報操作に引っかかる。政治については、別に「情報」など大してなくとも、原則的に考えれば、中長期的に見ればそれほど外れないと私は思う。実際に、日本政治については、日本のメディアよりも、海外メディアの方がおおむね的確に論評している。 いまの「小沢派」対「反小沢派」という図式の報道には、マスコミ界隈の噂話が生の形でそのまま、大衆の政治選択の指標とされているような気持ち悪さを感じる。 2. 別に小沢と菅や枝野との政策の違いなど大してない(同じ党なのだから当たり前であるが)。例えば、菅は松下圭一(あえて言うが、山口二郎と似たような政治学者)の「国会内閣制」という概念を援用して、「政治主導」を主張しているが、これは飯尾潤が言う「権力集中型の議院内閣制」と同じことである。菅の言う「国会内閣制」というのは要するに、「下から」(「市民」)という擬制によって、「上から」の強力な「リーダーシップ」を実現する政治体制なのであって、小沢の目指しているものと別に変わらない。 そもそも、これは前から不思議に思っているのだが、例えば、小沢の金権問題が争点化した後に民主党の「脱小沢」の必要性を主張していた山口二郎や、小沢批判を繰り返している森田実は「反小沢」なのだろうか。よく知られているように、彼らは小沢から多額の講演料を貰っている。この金額の多寡よりも、この小沢との関係性は何なのだろう。 あと、小沢と「新自由主義者」たる「反小沢派」の違いを強調する議論も散見するが、小沢は自由党時代に、以下のように、明確に自分の構想を述べている。 <盧大統領(注・ノムヒョン)は演説で「日韓両国が共に『二十一世紀の北東アジア時代』を開いていくことを提案します」と切り出し、単一通貨まで実現したヨーロッパの例を挙げながら、「両国が意志を共にすれば、北東アジアでもこうした協力の未来を切りひらくことは、いくらでも可能です」と語ったのです。 北東アジアは各国の政治や経済の現状が違いすぎるうえ、北朝鮮などの存在もあって「最も不安定な地域」と見られていますが、私はこれから「最も将来性と可能性が高い地域」だと考えています。 この地域の国々を未来志向で結びつけていくには、最も早く近代化に成功した日本と、経済危機を構造改革で乗り切った韓国が、ほんとうの信頼関係を築いて主導権を取っていくことが肝心です。民主主義と自由経済という価値観を共有する両国が、過去を直視して、未来に向けて絆を深めていかなくてはなりません。 私の夢は、戦前の大東亜共栄圈のような独善的考え方ではなく、北東アジアから東南アジア、最終的には全世界まで広げたフリートレード(自由貿易)を実現することです。その第一歩として、日本が主体的に自由貿易に取り組むことを主張していますが、農林水産省をはじめとして自己の立場を守ることのみに汲々としている連中が反対しています。 もちろん、国策として一定の農業生産者は確保して、市場価格と生産価格の差は保障すべきだし、自由党はその新しい仕組みについて、すでに「食糧生産確保基本法案」を国会に提出しています。食糧自給のために国民が負担するコストは、自由貿易に踏みきった場合に日本にもたらされるメリットを考えれば、ほんとうに微々たるものです。まさに、このような思いきった政策を断行することこそ「構造改革」といえるでしょう。 盧大統領は先の演説で「日本の青少年が東京で列車に乗り、釜山とソウルを経て北京まで修学旅行に行くのは、けっして、連い未来の夢ではないはずです」とも述べていました。私も、これほど楽しい夢はないと思います。>(小沢一郎・菅直人『政権交代のシナリオ――「新しい日本」をつくるために』PHP研究所、2003年11月、60~61頁。強調は引用者、以下同じ) ちなみに、菅も、同書で以下のように述べている。 <アジアの安定を図るためには、経済と安全保障の両面からのアプローチが不可欠です。中国も台湾も世界貿易機関(WTO)に加盟したいま、韓国、中国、台湾などと日本のあいだで自由貿易協定(FTA)の締結を検討すべきでしょう。 そのためにも、私はアジア諸国と日本のあいだにいまだ刺さったままの「歴史問題のトゲ」をわれわれの責任で取り除かなければならないと思います。>(同書、63ページ) 「北東アジア」に自由貿易地帯(「東アジア共同体」の一側面である)を構築するという大構想に関して、「小沢派」も「反小沢派」も違いはない。その構想に関しては、恐らく民主党と自民党にも違いはない。時々、私は、私たち愚民を誘導するために、政治家たちが壮大な八百長プロレスを(半ば無意識で)展開しているように思うことがある。 #
by kollwitz2000
| 2010-07-08 00:00
| 日本社会
2010年 07月 07日
菅直人首相が消費税に言及した本当の理由は不明であるが、以前指摘したように、『世界』等のリベラル・左派「論壇」において消費税容認論が支配的になっていたことも一因かもしれない。実際、私の指摘どおり、神野直彦を委員長とする政府税調専門家委員会も、中間報告で消費税増税を提言したわけだし、これなら「世論」的にいけると思ったんじゃないかな。菅は、現在のリベラル・左派「論壇」が、「世論」なぞ全く反映していないことを見落としていたのではないか。もしそうならば、寺島実郎の「駐留なき安保」論を真に受けた鳩山前首相と同じ轍を踏んだことになる。
参院選後に「消費税増税」を目的とした大連立が来る、ということが散々言われているが、むしろ警戒されるべきは、1年近く前に「よい大連立か、わるい大連立か」で書いたように、「新自由主義」的大連立への対抗として(といっても消費財増税という基本方針は変わらないが、増税時期や増税幅を変えるなどして)、実質的には大連立と同じ形での政権が成立することであろう。例えば、何らかの政界再編ののちに、宮本太郎あたりが担ぎ出されて「安心社会の実現」といった名目で(宮本の主張は抽象的なものが多いから、こういう役回りにはうってつけである)、実質的には大連立と同じような形態での強力政権が樹立される、といった次第である。宮本は、周知のように山口二郎の盟友で、代表的な「岩波知識人」であるから、民主党や社民党に親和的なのは言うまでもないが、麻生内閣下で設置された「安心社会実現会議」の委員でもある。また、与謝野馨が少し前に出した本『民主党が日本経済を破壊する』で、宮本および宮本の主張を持ち上げていた。ついでに、これも有名ではあるが、かの宮本顕治日本共産党名誉役員の実子であるから、共産党も「閣外協力」的な姿勢で臨むだろう(注)。「新自由主義」的大連立よりも、そのような「よい大連立」の形態の方が、集団的自衛権の行使容認等の抜本的な政策の実現に踏み込みやすいだろう。 ところで、世論調査によれば、連立離脱後、社民党が若干党勢を回復しているようである。これは、福島瑞穂の沖縄基地問題に関する民主党への反対姿勢の影響だろうが(これについては、以前既に述べた)、考えるべきは、これで増加した「支持」層というのはどういった人々か、ということである。 周知のように、社民党は、内閣法制局長官の答弁禁止や臨検特措法案について、反対から一転して賛成の側にまわっており、もはや「護憲」政党ではない。そして、多くの大衆はそれに気づいていると思う。 私は、この新たに増加している「支持」層の多くは、かつての「護憲」的な人々ではなく、現在の社民党がかつての「護憲」的でないがゆえに、支持するようになった人々ではないかと思う。いわば、「愛国主義」左派(右派)である。社民党が、「普通の国」的な安全保障政策を支持することに至ったことを認識した上で、例えば、民主党から支持政党を変えた人々や、従来は支持政党がなかった人々である。これは恐らく、今の『金曜日』や「マガジン9条」が読者対象として狙っている、<右と左を超えた>「愛国主義」的な層である。 「戦後日本」の「平和」を誇りに思い、「対米自立」を目指し、「新自由主義」に反対し、積極的な「国際貢献」を進める、といった政治理念に強く惹かれる層が、政治的に実体化しつつあるのではないか。社民党の、「護憲」政党から「愛国主義」左派(右派)政党への変質は、今後、急速に進んでいくと思う。 そして、突飛に聞こえるかも知れないが(社民党に個人的な恨みもないが)、社民党は今後、ヨーロッパの「国民戦線」や「北部同盟」のような排外主義政党の、日本における機能的等価物となると思う。例えば、アフガンへの「国際貢献」(また、党関係の媒体には伊勢崎賢治がしょっちゅう登場する)、外国人労働者「流入」への反対、「対米自立」の主張などに関して、社民党は既存政党の中で最も熱心に主張している政党である。今後、この傾向はより進み、もはや実態は欠いている「護憲」の主張も、「憲法愛国主義」および「戦後日本の平和への誇り」に翻訳されて、「愛国主義」の材料に使われていくだろう。対朝鮮民主主義人民共和国政策等の対外問題ではより「右」に、消費税増税等の国内問題ではより「左」に進むと思う(また、在日朝鮮人への「権利としての日本国籍取得」論も、最も熱心に提唱するようになっていくような気がする)。社民党が、<佐藤優現象>に最も関与している政党であることは、決して偶然ではない。旧来の支持者の反発もあるだろうが、離反または転向していくはずである。 日本で一定数の支持者を持つ排外主義政党が登場すれば、国際的に大騒ぎになるだろうが、その役割を社民党が果たすならば、現実にはそのように機能しても大して問題にならないだろう。むしろ、「日本は右傾化していない。平和主義を標榜する社民党もこんなに伸びている」と、希望的観測を持って紹介されるかもしれない。社民党の変質は、在特会に反対しつつ、韓国の左派の一部を同調者としながら進むと思われる。在特会には大騒ぎしながら<佐藤優現象>には沈黙する左派知識人も、この流れに組み込まれていくだろう。 仮に、上で述べたような、「安心社会の実現」といった名目の下での「よい大連立」が形成される場合、社民党は、当然それに参画するはずである。その下で、社民党は、政権を右から――メディア的には「左」から――規制することになるだろう。 (注)なお、これは、菅政権下では宮本は出番がないだろう、ということではない。導入には「支出のあり方、負担の構造」への「信頼醸成」などを条件としつつも、消費税増税自体は否定していない(一部で誤解があるが、これは神野直彦の所論も同じである)。宮本は、自身が委員である「安心社会実現会議」の議論からすれば、「2015年までに消費税換算にして5~6%程度の財源が必要ということになりそうである」としている(宮本太郎『生活保障』岩波新書、2009年11月、212頁)。菅が出した「10%」という数字には、宮本の見解も関係しているかもしれない。 #
by kollwitz2000
| 2010-07-07 00:00
| 日本社会
2010年 06月 27日
既報であるが、6月1日付で、岡本厚『世界』編集長が、岩波書店取締役に就任した。おめでたいことである。なお、私が「<佐藤優現象>批判」で発言を何度か引用した、馬場公彦氏も、4月1日付で編集局副部長に昇進しており、こうした人事は、岩波書店が今後も<佐藤優現象>を推進していくという意志の表れと見ることもできる。
なお、メインバンクのみずほ銀行から出向中の、臼井幸夫取締役も、このたび常務取締役に昇任された。これまたおめでたいことである。 #
by kollwitz2000
| 2010-06-27 00:00
2010年 06月 25日
対『週刊新潮』・佐藤優裁判の第8回口頭弁論期日が終わった。東京地裁第708号法廷にて、6月23日13時15分から、約10分間開かれた。
今回は、被告により、原告への反論の準備書面および陳述書(佐藤優・『週刊新潮』荻原信也記者)の陳述が行われた。陳述書については、近日中に公開する。特に、荻原記者の陳述書においては、新しく明らかにされた興味深い事実が含まれているので、後日、詳しく論じる。 また、被告による証人申請について、裁判所が了承した。証人は、荻原記者である。前回期日報告で書いたように、前回、佐藤についても証人申請すると聞いたのだが、結局佐藤は現れなかったわけである。また、実際に記事を執筆者した、塩見洋デスクも現れず、下っ端(失礼!1979年生まれ)の荻原氏のみ現れるということになる。 また、原告(私)も今回、証人申請を希望する旨を述べた。その結果、7月21日11時50分より、東京地裁第708号法廷にて、原告の証人申請の可否を裁判官が決定することになった。もちろんこちらは、佐藤の証人としての出廷を認めてもらいたいと考えている。 また、被告の準備書面への再反論を提出する旨も述べた。これらの文書については、近日中に、「対『週刊新潮』・佐藤優裁判まとめ」サイトで公開する。アップした際にはこのブログで告知するので、是非ご覧いただきたく思う。 #
by kollwitz2000
| 2010-06-25 00:00
2010年 06月 22日
明日6月23日13時15分より、東京地裁第708号法廷において、第8回口頭弁論が開かれる。恐らく短時間(10数分)で終わってしまうが、都合がつく方はいらしていだければ幸いである。前回の口頭弁論期日報告で述べたように、今回は、被告による、原告(私)への反論と、人証予定者の陳述書の陳述、裁判所による人証申請の可否の決定が行われる。ただし、送られてきた佐藤優の陳述書(後日ウェブ上に内容を公開する)は無内容なものだったので、今回は佐藤は来ない可能性が高い。とりあえず、安田弁護士は見ることができる。
------------------------------------------------------------------ さて、「『週刊新潮』による佐藤優への取材記録(全文)」については、以前書いた記事「佐藤優および『週刊新潮』、「言ってもいないこと」の当初の具体的根拠を自ら覆す」で、その問題点の一端を指摘した。佐藤の主張は、問題点を指摘することすら馬鹿馬鹿しくなるような低水準のものだが、さらなる注目点を指摘しておこう。 佐藤はこの取材記録の中で、以下のように述べている(強調は引用者、以下同)。 「そもそも、どの出版社にも雑誌にも、論調はあり、それを好む読者はいる。そのコードに合わせて論文を執筆することに何の問題があるのでしょうか。私は問題ないと考えています。例えば、創価学会系の出版社である「潮」に、牧口初代、戸田二代会長について皇帝(金注:ママ)的に評価する論文は書いても、創価学会に批判的な新潮社の「新潮45」ではそれは書かない。それは当たり前のことで、何ら批判されることではないはず。何より金氏も元編集者であるなら、それはわかっているでしょう。それでも敢えて批判するというのは、私を単に攻撃したいからではないでしょうか。」 まず断っておくと、これまで何度も述べてきているように、私の論文の主題は、<佐藤優現象>批判であって、「佐藤優」批判ではない。リベラル・左派メディアで発言せず、また社会的影響力がなければ、佐藤などそもそも取り上げるにすら値しない。論文では確かに佐藤の言説を批判している箇所もあるが、それは、<佐藤優現象>批判という主題からの必要性に応じたものにすぎない。 そして、上の発言において、佐藤が問題のスリカエを行なっていることは明らかである。私が「<佐藤優現象>批判」で指摘したのは、同一のテーマについての「主張の使い分け」である。佐藤が挙げている例に付き合ってやれば、佐藤が「潮」に「牧口初代、戸田二代会長」について肯定的に評価する論文を書く一方で、「新潮45」で、牧口初代、戸田二代会長に対して批判的な論文を書くとすれば、「当たり前」どころか批判されるのが当然の行為ではないか。そして、佐藤がまさにそのような行為を行なっていることを、私は「<佐藤優現象>批判」の「3.佐藤優による主張の使い分け」で、米国下院での「慰安婦」決議に関する左右メディアでの佐藤の主張を例に挙げて指摘したのである。 「慰安婦」決議だけでは足りないというならば、枚挙に暇がないが、これまでこのブログでは挙げてこなかった事例をいくつか示しておこう。 ------------------------------------------------------------------ ① 「前の戦争に引きつけていうならば、日本人は寛容の精神の中で、多元的世界を考え、これを大東亜共栄圏と名づけました。アジアという場所(トポス)においては、アジア人である我々が、アジア人にとって住みやすい世界をつくることにする。日本人と他のアジアの諸民族は兄弟であり、同胞である。その間に優劣や上下関係は基本的にありません。だから、ヨーロッパやアメリカという別の場所(トポス)で生きている欧米人はアジアについて放っておいてくれ、というのが日本の最大限の要求でした。 日本人がアメリカやヨーロッパに攻めていき、世界支配をするという発想はそもそも我々にはありませんでした。なぜなら、日本人の世界観では、普遍的な単一の世界となるものは存在せず、この世には複数の世界が存在し、それが切磋琢磨するのが世界の存在構造だからです。「アメリカ人よ!イギリス人よ!我々日本人はあなたたちに迷惑をかけるつもりはないのだから、あなたたちもアジアを放っておいてくれ」と主張したことに何か問題があるのでしょうか。私は、その考え方はいまも基本的に間違えていないと思うのです。 当時、アメリカが日本に対してつけてきたのは明らかに難癖の類です。ところが、正しい主張をした国家や民族が歴史において敗れてしまうという現象もそれほど珍しいことではありません。外交実務家としてはその辺を現実も踏まえた上で、わが日本国の国益を極大にする外交にあたっていかなくてはならないと思います。」 (佐藤優「大川周明、北畠親房に学び親日保守の基盤を確立せよ(下)」『月刊日本』2007年2月号) ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 「冷戦後のアジアと世界。これは露骨な帝国主義の時代が反復してきたんだと思います。冷戦もろくな時代じゃない。その後の時代も帝国主義の時代でろくな時代じゃない。時代というのは悪い時代とうんと悪い時代が反復して起きるんだ程度に見ておいたほうがいいと思います。その状況の中で、日本の指導部は三つのシナリオを考えてるんですね。(中略) 二番目の考え方はアジア主義です。日本はアジアの国である。だから中国と仲良くしていく、ということ。ただこれには、私は非常に批判的です。なぜかと言うと、それは基本的に大東亜共栄圈の論理と一緒だからです。ただし支配するのは日本じゃなくて中国です。」 (佐藤優「基調講演 沖縄の独立は三年くらいあれば可能だ」「来るべき<自己決定権>のために 沖縄・アジア・憲法」シンポジウム第二部)『情況』2008年7月号) ② 「 右派、国家主義陣営の論客で潮匡人さんという聡明な人がいます。潮さんは、憲法を改正せずに、しかも一円の予算支出もせずに今すぐできる日本の防衛力増強のための三点セットがあると言っています。第一は、集団的自衛権に関する内閣法制局の解釈を変更することです。日本は集団的自衛権をもっているけど行使しないという内閣法制局の解釈を変えて、持っているし行使できるとする。第二に周辺事態法に言う、周辺地域に台湾海峡が含まれることを明言する。第三に、非核三原則のなかの「持ち込ませない」という縛りについて、朝鮮半島有事の際には「持ち込み可」とする。これで日本の抑止力は数倍になると潮さんは言います。潮さんは早稲田大学卒業後、航空自衛隊に勤務し、広報を担当した経験がありますが、実務に裏付けられた議論には説得力があります。 ここから二つの方向で議論を組み立てることができると思います。一つは、現行の憲法でもこれだけのことができ、本格的戦争に巻き込まれるから憲法九条はザルだからという議論です。逆に憲法九条を改正しなくても抑止力を向上させることは政府の政治決断でできるので、改憲を急ぐ根拠がないという議論です。国家が自衛権をもつのは当然のことで、政府の判断で、潮さんが言うようにこれだけ抑止力を向上させることができるのですから、潜在力を十分に使っていない状況で憲法九条改正に踏み込む必要はないと私は考えています。」 (佐藤優『国家と神とマルクス』2007年4月、太陽企画出版、194~195頁。初出は『情況』2006年5・6月号) ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 「佐藤 作家の辺見庸さんが、ノーム・チョムスキーと対談したときのエピソードが代表的なものですね。辺見さんが、いま憲法九条が危機的な状況にあるとチョムスキーに言ったら、日米安保のもとで九条を謳歌しているのはちゃんちゃらおかしいと言われた。それを聞いて辺見さんは大変なショックを受けたと。それはそれでわかります。でも、欺瞞でいいじゃないですか。国際政治とは所詮その程度のものです。日本は安保条約とセットの平和を選択しました。それによって経済発展ができました。なにか問題があるんですか? あとは、いまこのフレームが無効になっているのか否か検討する、ということだと思うんです。リアルポリティクスの世界において、自衛隊の海外派兵に一定の歯止めがかかっていることと合わせて考えてみると、無効ではないと思うんです。微調整ですむと思う。私は、憲法九条の護憲論をこのように組み立てています。」(魚住昭・佐藤優「ラスプーチンかく語りき」『一冊の本』朝日新聞社、2007年3月号) ③ 「本日(2007年5月15日)は、1932(昭和7)年の五・一五事件から75年の節目に当る日です。今日、世間ではこの事件のことを振り返ることもなく、私が承知する限り、特別な集会も予定されていないようです。 そこで、本日、村上正邦先生、南丘喜八郎さんの御協力を得て、五・一五事件75周年を記念し、「一滴の会」を開催していただくことになりました。 21世紀に生きる私たちは、命を懸けて国家を良くしようとした先達のことを忘れてはいけませんし、彼らの思いを何らかの形で我々は引き継ぐべきだと思います。まず、五・一五事件で決起した三上卓先生の「昭和維新の歌(青年日本の歌)」を記しておきます。(注・以下、「昭和維新の歌」の歌詞が10番まで記される)」 (佐藤優「五・一五事件から学ぶべきこと」『月刊日本』2007年7月号) 「私は、日本の右派に必要なのは、社会科学を左派の手から取り戻すことだと考えています。右派というのは文学や哲学、歴史には優れているのですが、どうしても経済学、社会学といった分野はおろそかになりがちです。これは右派は根底において、そのような近代合理主義で物事がうまくいくか、という軽視があるからでしょう。しかしそもそも社会学、社会科学を日本で定式化したのは、国家社会主義者である高畠素之でした。彼は唯物史観というものが宗教に過ぎないということを明らかにすべく、社会科学という手法を取り入れたのです。我々も社会科学という手法で、詰めることができるところは詰めておく必要があります。 そして、我が国体、という一種の論理の超越は、最後の最後まで、ぎりぎりのところまで控えるべきです。ですから私は天皇とか皇統といった言葉を連発するのは慎むべきだと思うのです。それは非常に不誠実なことです。皇室を認めない人、皇統の伝統を尊重しない人とも、きちんと話し合えるような論理を組み上げておかなければいけません。そして、国体や皇室という超越的概念が出てくるのは最後の最後でよいのです。 日本において右派と左派とを隔てる究極の違いは、皇統の伝統という超越的概念を認めるかという、感覚の問題です。」 (佐藤優「社稷と国家」『月刊日本』2007年9月号) ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 「そもそも左翼、右翼というのは、どこから始まってきたかということを正確に押さえておく必要があると思うんですね、これは1789年のフランス革命です。フランス革命で議長席から見て左側に座っている人たちを左翼といいました。左翼の人だちというのは特徴があるんです。一言で言うと理性を信用します。人間にはみんな理性があります。その理性によって同じ情報を持っていて、きちんとした話をすれば結論は一つになります。だから世の中の真理は一つなんです。その真理が発見できないのは情報が少ないか、あるいは理性的に話をしてないか、そのどっちかか、両方が複合したことになるわけです。そうすると理性で説明できないような迷信、あるいは神様、あるいは理性で考えれば人間はみんな同じはずだから、そこのところでは王様、貴族、こういうものはいらないという話になります。 それから、自分たちの国は自分たちで守らなければならないという考えですから、国民皆兵です。左翼というのは基本的に国民皆兵で、軍事力を信頼する立場です。これがフランス革命のときの左翼の原点です。 それに対して、議長席から見て右側にいる右翼というのは誰なのか。右翼というのは左翼があってはじめて生まれるんです。理性というものを右翼は最終的に信頼していないんです。人間には偏見がある、いくら理性的に話していると思っていても人間は偏見から逃れることはできないと考えます。そうすると偏見があるから誠実に議論をしても結論はいくつも出てくるんです。真理は複数あるということになります。それから王様であるとか、教会であるとか、そういうものは今まで続いてきているんだから、理性で割り切らなくても何か続いてきているものには意味があるだろうということで、それを認めます。 それから軍事というのは人殺しで面倒くさいことだ、一般国民は人殺しをしたくない、だから専門軍に任せればいいと、こういう考え方ですよね。職業軍という発想です。これが右翼です。 私自身は右翼であるという意識を持っています。それはフランス革命のところの座標軸でつくったところの考え方からすると、私は明らかに右翼側にいると思うからです。ですから理性というものには限界があると思うし、伝統には意味があると思います。 最近、私は『うちなー評論』で仲里効さんの天皇論について論評しましたが、その観点からに見ますと、仲里さんの考え方というのは徹底的に沖縄の土地に結びついたところから出ているので、非常に保守的であり、右翼的だと私は思います。仲里さんから怒られちゃうかもしれませんけれども。大田さん(注・大田昌秀)の考え方というのは左翼的な理性ということを学者としてぎりぎりまで詰めたところで最後は何か動かしているかというと、郷土愛です。同胞愛です。これは非常に広義においては私は右翼的だと思うんです。」 (大田昌秀・佐藤優『徹底討論 沖縄の未来』芙蓉書房出版、2010年1月、17~18頁。2009年6月6日、沖縄大学での講演) ------------------------------------------------------------------ 「大東亜共栄圏」や「憲法九条」への評価の180度の違い。右派メディアでの発言と異なり、左派の集まりでは恐ろしく恣意的な「右翼」定義により自己の立場を弁明する姿勢。こういうのを指して「二枚舌」と言うのである。これが、「当たり前のことで、何ら批判されることではない」わけがない。その他、対北朝鮮外交や朝鮮総連、朝鮮学校に関しても、佐藤が「二枚舌」を用いていることはこれまでさんざん指摘してきた。 繰り返すが、問題は佐藤よりも、佐藤を使うリベラル・左派メディアにある。佐藤は「何より金氏も元編集者であるなら、それはわかっているでしょう。」と言っているが、まともな編集者ならば、こんな書き手を使うはずがないではないか。 ブログ「横板に雨垂れ」のyokoita氏は、読者として、以下のように述べている。 「岩波書店は、佐藤氏が書いている文章の内容、また雑誌によって主張を微妙にあるいは露骨に操作し、使い分けている姿勢などを恐るべきことだとは思っていないらしいが、佐藤氏自身だけではなく、これを許容する出版社の姿勢も読者を欺く恐るべきことだと考える人間もいるのだ。金さんが編集部で問題を提起したとき、編集部の人たちにそういう読者の存在(私もその一人なのだが)は頭になかったのだろうか。読者からもし質問や強硬な批判が出てきたらどう対処するつもりだったのだろうか。これは、編集長だけではなく、編集者一人一人も問われることになる問題だろうと思うのだが、完全に無視・黙殺するつもりだったのだろうか。読者から自発的にそういう声が起こるとは考えなかったのかも知れないが、これは今も大きな疑問である。」 少なくとも、岩波書店、「世界」編集長、個々の編集者は、このような一読者の声に誠実に応えるべきではないのか。 #
by kollwitz2000
| 2010-06-22 00:00
| 佐藤優・<佐藤優現象>
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