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2009年 08月 23日
4.転向前の1年間の模索
前述のように、『愛国の作法』(2006年10月刊)を私は姜の転向宣言書だと捉えており、姜の転向は、2006年夏前後に姜が何らかの決断を行ったことにより、成立したものだと考えている。 だが、転向は、何らの準備過程もなしに生じるものではあるまい。そして、姜の転向も、2006年夏より前の約1年間における模索の挫折によって、または帰結として生じたものだと思う。 この1年間の姜の言動は、それまでの姜のイメージ――在日朝鮮人の左派の代表者、日朝交渉における平和的アプローチの提唱者、日本の「国体」ナショナリズムへの批判者、日本のポストコロニアリズムの中心的人物――とはかなり異質な、「国益」論的な立場からのものである(注10)。私はこれを、日本の言論状況に即応しようとした姜の立場修正だと見る。他方で姜は、この時期、状況が絶望的であることも告白している。 そして、そうした状況認識こそが、2006年夏前後の転向の背景にあると私は考える。転向は、この1年間の模索の挫折の結果でもあり、「国益」論との論理の連続性の観点から見れば、その帰結とも言えるのだ。 4-1.「反日運動」および「反日運動」報道をめぐって この1年間は、興味深いことに、中国の「反日運動」(2005年前半)と、北朝鮮のミサイル実験(2006年7月4日)に、ほぼ挟まれている。この2つは、それ自体の重要性もさることながら、日本のメディア、特にリベラル・左派メディアにおいて、かなり大きな画期をなした出来事である。 今や左派においても一般的となっているが、中国や韓国の民衆からの、歴史認識に関する対日批判の声を「反日ナショナリズム」として否定的に述べる論調が、リベラル・左派において大っぴらになったのは、この、中国の「反日運動」への対応においてである。 これは憶測であるが、姜は、この「反日運動」への日本のメディア、特にリベラル・左派メディアの対応に接して、新しい言説状況に即応するために、「国益」論的立場を打ち出すようになったのではないか、と私は考えている。 姜は、「反日運動」が沸き起こった直近の号の『論座』で、以下のように発言している。 「姜 日本は戦前に、ナショナリズムの勃興から生成―成熟―爛熟、そして没落を経験したわけですね。そのような「枯れた」日本から見ると、周辺諸国は、下品な言葉ですがナショナリズムの「発情期」にあるように見えるわけですね。 いま、自民党が抱え込んでいた歴史修正主義的な歴史観をお持ちの方が政治の中心に出てきて、それが世論にウケている。確かに、小渕政権のような外交はもどかしい。エモーションが感じられないし、自分たちに正当性がないようにしか思えない。それに比べると、例えば安倍晋三さんの発言は非常に歯切れがよくて、二分法的でわかりやすい。そういうところに一部のメディアは共鳴板を持っている。そのことが中国や韓国に過大に増幅されて伝わっている可能性があります。」(姜尚中・田中明彦「対談 「靖国」の土俵から降りなければ展望は開けない」『論座』2005年8月号、2005年7月5日発売) 対談相手の田中が「中国の反日デモ」に言及していることから、この対談は、中国の「反日運動」について報じられた後に行われたと考えてよいだろう。ここでの姜は、「反日デモ」に対しても、それに対する日本の報道についても、まるで他人事のようである。 実は、上の引用文中の、日本の周辺諸国はナショナリズムの「発情期」云々という発言は、この対談より前の文章でも使われている。あっという間に廃刊になった、講談社の『アリエス』の創刊号での文章である(姜尚中「夢想家の「見果てぬ夢」と一蹴されそうですが……」『アリエス』01号 2004.10.25)。 なお、これは、同誌の編集長である、横山建城との往復書簡の形をとって掲載されている。横山について詳しくは知らないが、この往復書簡が収録されたアリエス編集部・編『姜尚中にきいてみた!――東北アジア・ナショナリズム問答』(講談社文庫、2005年5月)を読む限り、朝日新聞と読売新聞を足して二で割ったような教養俗物である。 姜はここで、2004年夏のアジアカップサッカー決勝での中国人の応援などを挙げた、横山の中国ナショナリズム批判を受けて、「下卑た表現をあえて使えば、日本からみると、ナショナリズムの「発情期」にある新興諸国と、その時期をとっくに過ぎ、その点でいわば「枯れた」境地にある経済大国との落差の問題といえるのかもしれません」と述べている。 さらに姜は、「さすがに、スポーツイベントであけすけに露呈した「反日」ナショナリズムのジェスチャーをみれば、日本国民ならずとも、顔をしかめたくなります」とも述べているのだが、これに続けて、以下のように語っているのである。 「やはり、中国は「遅れている」。オリンピックという世界的なイベントを開催できるほど洗練された国とは到底いえない。何と民度の低い国民か。こんな反発があっても不思議ではありません。 ただ、そうした直感的な反発が、どこかで福沢諭吉が『世界国尽』で展開したような「文明」「半開」「野蛮」の修辞を反復しているように感じられて仕方がないのは、わたしの穿ちすぎでしょうか。」 要するに、ここでの姜は、横山の中国ナショナリズム批判を、わかるよ、わかるよ、と宥めつつ、中国の民衆の対日批判を「反日ナショナリズム」として切り捨てようとする姿勢をも批判しているのである。 上記の『論座』の対談での発言においては、この、「反日ナショナリズム」として切り捨てようとする姿勢への批判が消えている。恐らくそれは、姜が、反日運動への日本の(リベラル・左派を含めた)メディアや言論人の対応を見た結果、そうした批判を打ち出すことはもう無理だ、と判断したことを意味しているのではないか。 「2-2」で示したように、姜は、「反日運動」への日本の報道への違和感を語っているが、これは2005年夏以降の姜の発言において、管見の範囲では唯一のものであり、例外的なものだと思う。 実際に、姜と田原総一朗、西部邁との鼎談本『愛国心』が文庫化された際の補足鼎談(注1)で、反日運動がテーマとなった際に、姜も「反日運動」について論じているが、ここではそうした批判はない。むしろ、「反日運動」を、ナショナリズムの発露としてしか捉えていない田原や西部の議論を、追認する形になっている。 また、恐らくこの時期にウェブ上に掲載されたと思われる、『ニッポン・サバイバル』(注11)での「なぜ今「反日」感情が高まっているの?」なる読者たちからの問いへの姜の回答においても、そうした批判はない。ここで姜は、①中国には日本文化・商品が氾濫しているのだから、「反日運動」は、日本のベトナム戦争反対運動に従事した人々が、アメリカンスタイルにどっぷり漬かりながら「反米」を叫んでいたのと似たようなものだ(注12)、②日中の経済はいまや相互依存関係にあるのだから、敵対するのはお互い間違っている、と述べつつ、以下のように論じている。 「なぜアジアで、いつまでもそうした反日感情がくすぶり続けているのでしょうか。その根っこにあるのは何でしょうか。 かつてアジアで残虐なことをし、そして戦争に負けた日本が、なぜこんなに豊かなのだろう、と。そしてなぜ自分たちが日本より貧しいのだろう、と。これはやっぱりどこかヘンだという気持ちが潜在的にあるのだと思います。 第二次世界大戦で、日本人は「アメリカに負けた」と思っても、「中国に負けた」という意識はないでしょう。でも、抗日戦争を勝ちぬき、人民解放闘争をしてきた中国にとっては、自分たちが勝者だという意識なのです。 ところが現状は違う。今、急ピッチで経済改革が進んでいるとはいえ、中国ブランドは、まだまだ世界では通用しない。たとえば、電化製品の中身は全部自分たちが作っているのに、それはメイド・イン・ジャパンとして世に送り出されるわけです。日本ブランドの下請けじやないかと。そういう被害者意識や僻屈した気持ちが、とくにインテリ層の中にはあるでしょうね。」(姜尚中『ニッポン・サバイバル』154頁) まるで他人事である。姜はこの文章の末尾で、多くの日本人が「過去の歴史」を知らないことをもとり上げるが、それは、「歴史を知ることはエチケット」だから、というものである。要するに、そのように反発する中国人の思いを理解してやるべきだ、ということであって、その対日批判に正当性を認めない立場から行われている。ここでの姜は、対日批判に部分的な正当性すら認めていない。恐らくそれは、部分的にでも正当性を認めてしまえば、左派を含む日本のメディア・言論界への批判もせざるを得なくなるからだと思われる。 それどころか、姜は、以下のようにすら述べている。別の場所での、学生との質疑応答の中の一節である。 「学生2 中国の反日教育についてお聞きしたいんです。中国は資本主義経済を導入して、そのために貧富の格差ができてしまった。中国政府は、それに対する不安、不満を発散させるために、反日教育を進めているといわれています。それについてはどうお考えですか? 姜 いつだったか、「朝まで生テレビ!」の番組の中で、田原さんが中国の歴史教科書をひもときながら、「意外と反日的ではないな」という印象を述べられていた記憶があります。けれど、みなさんも読まれるとわかると思うのですけれども、確かに反日的な面がないわけではない。 ただ、間違ってならないことは、中国という国の建国理念は「抗日」によって成り立っているわけです。侵略してきた日本を打ち負かすという「抗日」。いわばこれがレーゾンデートル(存在理由)で、それによってはじめて中華人民共和国は成り立っているわけです。だから「抗日」をなくしてしまうと、結局、国の成り立ちの正統性というものがなくなってしまうことになっているわけです。したがって、過去の戦争の問題が、いわば国家の基礎、それ自体になっている。まず、そこを理解しなければいけないと思います。 しかしながら、戦後の日本は違う。戦後の日本は戦前の日本とは違う。なにせ六十年間戦争をしていませんし、一度も実力組織を海外に出して、戦闘行為もしていないわけですから、戦前と戦後は違うんだということを、中国にいる人々も理解しなければいけないと思います。日本もそれをもっとアピールしなければならないと思います。」(姜尚中「「日米同盟」と「東アジア共生」は両立できるか 講義 2006年5月8日」、田原総一朗・早稲田大学21世紀日本構想研究所『田原総一朗 誇りの持てる国 誇りの持てる生き方――早稲田大学「大隈塾」講義録1 2006-2007』ダイヤモンド社、2006年10月) 中国の民衆の方が悪いというのだ。ここには2004年に、日本のメディアの中国ナショナリズム批判を、福沢諭吉の反復だと批判したような姿勢は、欠片すら見出せない。それにしても、日本社会の「国体」ナショナリズムおよび排外主義の、戦前と戦後の連続性を厳しく批判していたのは、かつての姜ではなかったのか?ここで姜は、対日批判を行う中国や韓国の民衆から自らを切断し、「平和国家」日本の日本人「同胞」たることを選択し(たいと表明し)ている。この立場は、「2」で示した、転向後の姜の諸発言と同質のものである。 上述のように、姜は、2005年前半の中国の「反日運動」への報道に接して、中国や韓国の民衆の対日批判に連帯する道を放棄したと言える。そしてその選択は、論理上は、転向後の姜の諸発言にまで結びついていると言ってよいだろう。その意味では、ここでの立場選択は、姜にとってかなり根本的なものだったのである。姜の1年間の模索は、「反日運動」報道で露呈した日本の言論状況の変質への即応として始まった、と私は考える。 (注10)「国益」論的立場は、『東北アジア共同の家をめざして』(平凡社、2001年11月)で既に打ち出されているが、姜は、同書刊行の後、「国益」論的主張をこの2005年夏までほぼ封印する。この点については後日述べる。 (注11)同書は、「2005年9月から06年9月にかけて集英社女性誌ポータルサイト<s-woman.net>に掲載した「another door~もうひとつの世界へ」を、章立ても変えながら全面的に加筆修正し」(同書、238頁)て、2007年2月に集英社新書として刊行された。 (注12)この連載の「2-2」で挙げた、吉田司の「いまテレビ・新聞は反日デモ、反日デモって大騒ぎするけど、その程度、なんなのって。」という発言を受けての、「ぼくもそう思う(笑)」という姜の発言(『そして、憲法九条は。』)でも、この日本のベトナム反戦運動とのアナロジーが用いられている。ところが、『そして、憲法九条は。』においては、「2-2」で引用した金嬉老事件や中国や朝鮮半島系の「在日」との共通性の指摘のように、『ニッポン・サバイバル』とは異なり、「反日運動」の主張の一定の正当性を(この時期の姜の発言としては例外的に)認めているようである。逆に言うとこれは、「反日運動」とベトナム反戦運動とのアナロジーが、後退戦という位置づけの中で出されたものであることを示唆していると思う。 (つづく)
by kollwitz2000
| 2009-08-23 00:00
| 姜尚中
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