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2009年 09月 12日
4-7.挫折と転向(上)
1. これまで、2006年夏前後の姜の転向に先立つ約1年間について、それを姜の「模索期」と見て、主張の特徴を見てきた。これまで述べたように、姜は、恐らく2005年前半の中国の「反日」運動に関する報道を契機として、自らの立場を「国益」論的なものに移行させている。それは、日本の言論状況に即応しようとした姜の立場修正であり、その程度の修正では対応は不可能であるという認識から生じたのが、2006年夏前後の姜の転向であると私は見ている。 姜の転向は、これまでその特徴的な主張に即して検討してきたように、「国益」論との論理の連続性の観点から見れば、論理的帰結とも言えるが、一方で、その挫折の結果とも言える。今回は、この模索期における姜の挫折を見ておこう。 2. まず確認しておくべきなのは、この時期の姜が――転向後の楽観的な姜とは異なり――状況がかなり絶望的である、という認識を表明していることである。 それは、日本国内で「野党」的な役割を果たす存在がほぼ消滅してしまい、日本の右傾化を押しとどめることができるのは中韓の「反日」だけだ、という認識として、まず表明される。 「編集部 歴史認識や靖国問題で、これだけ反感を買っているわけですから、ここで9条に手をつけるということになれば、アジア諸国の反感は決定的な「反日」になってしまいますね。 姜 だから、今の構図で言えば、中国や韓国が日本における最大の野党になっているわけです、外部からのね。そして、日本はそれを「内政干渉」だと切り捨てる。日本の中にちゃんとした野党がなくなってしまったがゆえの構図だと思うんです。」(『みんなの9条』122頁、2005年7月13・20日付インタビュー) 「姜 (中略)現実的な外交戦略、安全戦略というリアル・ポリティクスで考えると、憲法論的な法理解釈をどうやっても改憲の流れには対応できない。」 「姜 (中略)(注・改憲問題は)残念なことだけれど99%がデファクトとして勝負がついているんですよ。ところが残りの1%で逆転できる可能性があるわけです。それなのに、逆転しようとするエネルギーが内発的ではなくて、外側の中韓がオポジションになっている。中韓が過去の歴史問題をめぐる相克という形で押さえつけている状況でしょ。非常にねじれているんだな。だから僕は悲観的ではないけど、楽観的にもなれない。おそらく、ここ10年間、短ければ5年で勝負がつくと思う。」(姜尚中・丸川哲史「改憲阻止の新たな戦術――政教分離の原理原則論に立つ」『季刊軍縮地球市民』2005年冬号、2005年12月1日発行) すでに「4-1.「反日運動」および「反日運動」報道をめぐって」で述べたように、姜が、2005年夏頃に自らのスタンスを移行させたのは、恐らく、中国の「反日」運動への(リベラル・左派も含めた)日本メディアの反発、という事態に由来している。姜自身は恐らく、中韓のそうした日本批判の本質的な正当性を基本的には認めているのである。その上で、中韓の「反日」の主張と連帯して、日本国家・日本社会の右傾化を批判できる勢力は日本社会ではほぼ消滅している、と認識しているのだろう。そして、「4-1」で指摘したように、姜自身も、連帯する立場はとらない(とれない、と姜は言うかもしれない)のだ。 3. 中韓の「反日」の声と連帯しない(できない)のだとすれば、右傾化に対するどのような対抗法がありうるだろうか。 姜は、それを日本国内の平和運動の再編成に求めようとしたように思われる。そのことを示唆していると思われるのが、姜の、「靖国」と「広島」(と「アジア」)の関係に関する記述の変化である。 姜は、2005年8月頃においては、以下のように述べている。 「姜 (中略)ぼくは戦後日本には少なくとも二つの聖地があったと思うんです。広島と靖国ですね。靖国は言ってみればドメスティックな、内側の密教で、本音の部分を感性レベルで集約できる聖地。そのミニ聖地が地方にばら撒かれた。忠魂碑とかいろいろありますよね。もう一つは、顕教的には広島だったんじゃないかと思うんです。広島と靖国という二つの楕円の中心があって、それが国家的にいうと外側の顔と内側の顔、顕教と密教になってうまく作動してきた。この二つの聖地が、戦後日本の中で、アジアとの応答関係を結果として遮断していった部分があるのではないかと思うんですね。」 「姜 よくわからないのは、戦後史の起源の作り方の中にある神話性みたいなものですね。暗がりにあるいろんな有象無象を引き出してくると、意外に戦後という時代のフィクショナルな部分が見えてくる。広島がそうですね。原爆にまつわるさまざまな問題を平和主義に集約していく時に、かなり重要なものを意味転換させる仕組みがあった。「尊い犠牲」を「聖断」に直結させたり、宗教的な意味解釈にメタファーとして使ったり、そういうかたちにすることで、日本こそが犠牲者だとしていった。犠牲の民を通じて平和が創造されるというのは、明らかに神道的な解釈ではないですね。人類史の原罪を自らが背負うことで清める。清めるというかたちでは神道的かもしれないけど。そうすると、ものすごくピューリタン的なものができあがってしまい、その言説構造の中では、かつての植民地支配の構図とか、軍都であった広島の果した歴史的な役割とか、いろんなものがすべてかき消されてしまう。それを一つ一つ指摘するために膨大な時間がかかったわけですね。 帝国のイデオロギー装置としての靖国の変わらない役割と同時に、広島の聖地化が形成される過程で作られた、歴史的な責任を問うとか、国の責任を問うとか、そういった当たり前のロジカルな発想を昇華させるような装置がいろんなかたちで機能した。広島のことはほとんど問題化されていませんが、広島を語るメディアや一般的な言説のあり方をもう少し考え直す必要があるのではないかと思いますね。それは決して被爆者の方がどうのこうのという問題ではない。」(姜尚中・高橋哲哉 『週刊読書人』2005年8月19日号) ここでの姜の主張を要約すると、以下のようになろう。戦後日本においては、「密教」が「靖国」で、「顕教」が「広島」であった。「広島」の記憶は「日本こそが犠牲者だ」という表象を作り出し、「日本こそが被害者だ」という社会意識を定着させることとなり、「その言説構造の中では、かつての植民地支配の構図とか、軍都であった広島の果した歴史的な役割とか、いろんなものがすべてかき消され」ることになった。「広島と靖国という二つの楕円の中心」は、共犯関係にあり、「この二つの聖地が、戦後日本の中で、アジアとの応答関係を結果として遮断していった」。 恐らく同時期に語られたと思われるインタビュー記事の、以下の発言も、同様の文脈にある。 「今、日本は北朝鮮問題によって被害者意識が強くなっています。しかし実は元々、加害者意識を無理やり持っていたとも言えます。しかし戦後、日本が被害者とすると、加害国は米国です。これはできない。そのひずみが今になってでてきたのでしょう。この日本のゆがんだ、被害者、加害者意識は靖国神社と被爆地域である、広島、長崎という「聖地」に表れています。広島と長崎は日本の被害のシンボルですが、加害のシンボルであるはずの靖国神社も、問題を中韓による「外圧」にすり替えることで被害のシンボルになっています。」(姜尚中「最悪の道を防ぐには“健全な保守”に期待」『金曜日』2005年8月12日号) こうした発言を念頭に置いた上で、この少し後の、以下の発言を見てみよう。以下は、中野晃一・上智大学21世紀COEプログラム編『ヤスクニとむきあう』(めこん、2006年8月15日刊)に収録された、姜の「靖国とヒロシマ――二つの聖地」なるタイトルの文章からの抜粋である。同書によれば、これは、2005年12月14日のシンポジウムで語られた「発言内容をベースに大幅な加筆修正」が加えられたものとのことである。大変長い抜粋になるが、この文章の場合、後述するように文章の「雰囲気」も注目点なので、ご寛恕いただきたい。 「(中略)植民地支配にかかわる靖国神社の問題は難しい。 靖国神社には、日中戦争以前にアジアに進出していた人々――台湾出兵、日本と韓国とのさまざまなやり取りの中で亡くなった人たち、植民地出身者も英霊として祀られている。つまり日中戦争、日米戦争だけの戦死者ではない。これは、植民地支配の廷長上に自存自衛の戦争としてあの十五年戦争があったという考えに基づくことになるだろう。植民地出身者にとっては耐えられないことだ。この問題をどう捉えるか。 その時考えたのは、これをヒロシマとの関係で見ていくという問題設定がありうるのではないかということである。 西のアウシュビッツ、東のヒロシマ、この二つは戦争における人類の罪ということを考える時のいわば聖地である。原爆の犠牲において世界平和を指し示すという、ある種の人間の贖いとして、ヒロシマが存在する。日本の国民にとっては、ヒロシマはもちろんあの戦争の非人道性と残酷さの最大の証になっているが、戦争の歴史の中で語られる時のヒロシマは、国内的な意味だけではなく、インターナショナルな意味を持っていると言えよう。 一方、靖国は日本人にとってのきわめてドメスティックな聖地である。それは、日本のあるいは日本人だけの理解できる、いねば戦争の記憶の場所である。それは同時に顕彰の施設として、天皇特に明治天皇と直結した場所として特別な意味を持つ。すべての戦争――それがたとえ敗北という結果に終わったとしても――は天皇の戦争、つまり聖戦であるという考え方の上に、靖国神社は今もその時間を生きている。明らかに、靖国は人類の罪の贖いの場所、世界平和の場所などではない。どう考えても靖国はヒロシマとつながらないのだ。 ところが、戦後、日本政府および日本人はこの二つを、聖地として、並列して、矛盾しているという意識すらなく、受け入れてきた。 この二つの聖地の発するメッセージの対象はまったく違う。おそらくヒロシマというのはアジアだけではなく、それ以外の国へもメッセージを発している。しかし、ヒロシマのメッセージをどこまで中国や韓国やアジアの国々が深刻に受け止めているか。どこまでヒロシマの願いと思想がアジアに定着したか。 (中略) わかりやすい表現をすれば、平和の問題を考える時、靖国というのは多くの日本国民にとって「密教」であり、ヒロシマは「顕教」である。世界に発信される平和の顕教としてヒロシマはある。しかしこの両者がどういうかかわりを持つかということが、戦争と平和の問題を考えるときにきちっと整理されていない。 広島が原爆投下の地として選ばれたのは軍港としての歴史があったからだ。広島は日本のアジア進出の大きな拠点の一つだった。当時、かなりの数に半島出身者が広島で造船にかかわっていたのである。だから、在外被爆者の圧倒的多数は在韓被爆者である。北朝鮮にもおそらく数千人の被爆者がいる。しかし。朝鮮半島にいる被爆者の問題は未解決のままで残されている。 このことと朝鮮半島出身者が靖国に英霊として祀られていることは、やはりつながっている。両者に共通しているのは、植民地という問題である。靖国は、日本の聖戦、もっと言えば天皇制国家の無謬性、至高性が人間の生死にかかわる部分を担保する聖地である。それと対応する形でヒロシマにおける植民地や朝鮮半島の在外被爆者の問題がこれまで無視されてきたのだ。 多くの日本国民にとって、広島、長崎における被爆という現実と靖国の英霊に人々が参拝するということが矛盾なく結びついている。ヒロシマと靖国の関係から戦後日本の歴史認識や平和の問題を考えるという研究も見たことがない。両者は分断されている。しかし、この二つは明らかに日本の戦後60年という楕円の二つの中心なのである。 (中略) 冷戦崩壊後の今になって吹き出てきたこの問題を解くには、もう一度振り出しに戻って考えるしかないのかもしれない。いろんな複雑な問題が出てくるだろうが。 例えば内閣総理大臣が一方では広島、長崎の戦没者慰霊に加わり、一方では靖国に参拝する。それはそれぞれ犠牲者を弔うという形である。しかし、ヒロシマのメッセージはただ単に日本の国民が犠牲者になった、それを弔うというだけではなく、核戦争は世界というものを破壊する人類史的な危機なのだというメッセージにつながっていったと思う。そうでなければ、ヒロシマを合言葉にしてそこを平和の聖地にしようという運動や認識は成り立たなかったと思う。 しかし、靖国神社は世界の聖地にするということはできない。靖国は日本に住んでいる人々のしかも天皇とのかかわりを持った聖地である。 この二つの場所に日本の最高権力者が出席するということにどういう意味があるのか。 実は、これまで日本の平和運動が靖国をどう位置づけてきたのか、ほとんど見えてこなかった。平和の問題、戦争の問題を考える時によく整理されてなかった。だからこそ、靖国問題がこれほど大きな問題に拡大していったのだ。 ヒロシマの平和運動をやってこられた方が靖国参拝をどう整理してとらえているか、一度お聞きしてみたいと思う。ヒロシマをよりどころにする人々と靖国をよりどころにする人々は対話がなりたつのか。過去にそういう対話の場があったのか寡聞にして知らないが・・・。 東京裁判で昭和天皇が免責され、植民地支配の問題はうやむやになってしまったということで、日本の中で聖戦という考え方は完全に克服されず、靖国に生きていた。そのことがヒロシマ以上によりどころになっているということなのか。 普通の日本人の中ではそれがどう整理されているのか、あるいは整理されていないのか。 (中略) なぜ8月6日と8月15日が結びつくのか。 それは非常に矛盾した戦争の記憶の作られ方だ。それがなぜ同じ国民の中に矛盾なく受け止められているのか。私にはそれが異様でしかたがない。どう考えても整合性がないではないか。 ヒロシマは世界の聖地になれるかもしれないが、靖国は到底なりえない。二つの聖地は、しかも国と非常に濃厚な関係にある、それをどうとらえ返していったらいいのか。」 この文章(執筆時期は便宜上、2005年末から2006年半ば頃、としておこう)においては、「広島」を「ヒロシマ」と書き換えてその「インターナショナルな意味」を強調しつつ、「顕教」と「密教」、「楕円の二つの中心」など、前述の2005年8月頃の文章と全く同じ比喩が使われているにもかかわらず、2005年8月頃の文章とは全くスタンスが変わっている。 繰り返すが、2005年8月頃における姜の主張は、戦後日本における「広島」の記憶は、「靖国」と共犯関係にあり、この「靖国」と「広島」の戦後日本の二つの聖地が、周辺アジア諸国から問われざるを得ない加害者としての意識を遮断してきた、というものだった。だが、この文章では、「植民地(=アジア)支配にかかわる靖国」を考えるためにこそ、「ヒロシマ」を持ち出してきているのである。 既に「4-1.「反日運動」および「反日運動」報道をめぐって」で見たように、模索期の姜は、中国や韓国からの対日批判からは距離を置くことを選択している。したがって、その姿勢を徹底させれば、「靖国」と「広島」の記憶を共犯関係と見なして批判する、という「アジア」からの視線も、放棄せざるを得ないのだ。そして、既に「4-5.「平和国家」としての戦後日本の積極的肯定」で見たように、模索期の姜は、右傾化に対して戦後日本の「平和」を対置するスタンスなのだから、「靖国」に象徴される右傾化には、「アジア」ではなく、日本国内の「平和」(主義)によって対抗する、という図式にならざるを得ないのである。 そして、この文章において見るべきもう一つの点は、その驚くべき無内容さである。姜はここで、「ヒロシマ」と「靖国」は全く異質だ、これが同じ日本人の中で共存しているのは不思議だ、といったことをひたすら繰り返し言っているだけだ。何の具体策も示されていない。 ここにあるのは、「ヒロシマ」を媒介に何らかの形で「靖国」に対抗する論理を作り出さなければならない、と考えつつも、それの手がかりすら掴めずに立ち往生している姿である。姜はただぼやいているだけだ。 「靖国」に対置すべきは、まずは「南京」であり、「堤岩里」であり、その他無数の日本の侵略を受けた土地であろう。金玟煥氏が指摘するように、「ヒロシマ」の表象は、「加害者と被害者の間に存在する差異を無化させる」ものとして機能してきたのであり、その限りにおいて大多数の日本国民に好意的に受容されてきたのであって、2005年8月頃の姜が指摘しているように、その表象は、戦後日本社会においては、「靖国」とある意味で補完関係、共犯関係にあったとすら言える。姜はここでそのことをほとんど問題にしていないのだから、姜の試みには、はじめから可能性はないし、だからこそ姜はここで立ち往生しているのだ。 (つづく)
by kollwitz2000
| 2009-09-12 00:00
| 姜尚中
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