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2009年 10月 11日
ブックオフで105円で売っていたので、遅ればせながら『思想地図』創刊号(2008年4月刊)を買ってきたのだが、突っ込んでくれと言わんばかりの発言のオンパレードで笑ってしまった。刊行時に少し立ち読みして馬鹿馬鹿しさに放置していたが、こんなに面白かったとは。気が向いたときに、「一日一言」方式で取り上げることにしよう。
まずは第1回目である。「共同討議「国家・暴力・ナショナリズム」」(参加者は東浩紀・萱野稔人・北田暁大・白井聡・中島岳志。討議の日付は2008年1月22日)の白井聡の発言より(強調は引用者)。 「僕が思想について勉強を始めたのは、90年代後半です。で、いろいろと知識の摂取を始めると、入ってくるものの多くが左旋回したポストモダニズム思想だということになる。そんななかで、僕は漠たる不満を感じるようになってくるんですね。僕は当時、遅れてきたニューアカ少年的なところがあって、いわゆるニューアカのスターと呼ばれた人びとが80年代に書いていたものなんかを読む。そうすると、ポストモダニズムという、よくわからないけど、すごいものがあるんだ、と刺激を受けるわけです。 ところが、そうした80年代的なポストモダンの思想と90年代的な思想――社会構成主義がメインストリームにあるような思想――とでは明らかに温度差があって、ごく単純に言えば、80年代の思想には明朗さがあって、楽しそうなんですね。それはニューアカがバブル経済の産物だからだとか、軽佻浮薄だとか、いろいろと批判的に言われもしますが、そうは言ってもそこに高揚感のようなものがあるということは否定できない事実ではないでしょうか。 それに対して、90年代の構成主義的なポストモダニズムというのは、基本的に人をダウナー系にするものなんですね。楽しくない。読めば読むほど世の中や人生から楽しいことが減っていく。たとえば、筋肉をつけて筋骨隆々になろう、そうするときっと女の子にもモテて楽しく生きられるんじゃないかと思うと、それはマチズモ (マッチョイズム)で、さらに排他的異性愛主義を前提にしている、なんて本に書いてあったりする。あるいは、もっと卑近な例では、サッカーのワールドカップとか野球のWBCで日本代表を応援すると、それはナショナリズムの現われだからけしからんということになる。おちおちスポーツも観られません。あまりにも乱暴な感想ですが、とにかく、どんどん楽しさがなくなっていく雰囲気を、90年代の思想は必然的に生んでしまうのではないだろうか。僕はそんなことをずっと感じていました。ですから、思想が人びとをエンパワーする可能性というものを肯定的に捉えるならば、やっぱり社会構成主義的な語り口には何か大きく欠けている部分があるんじゃないだろうか。僕のもってきた直感と照らし合わせると、そう思うんです。」(12~13頁) フェミニズムについては私はあまり知らないが、90年代以降(という括りもどうかと思うが)のポストコロニアリズムの諸言説が、本橋哲也や成田龍一のような何の問題意識のなさそうなものが多かったとはいえ、少なくとも、侵略と植民地支配の過去に関する日本国民の政治的責任が問題にされている<空気>はあったとは言えよう。ところが、ここで白井は、フェミニズムやポストコロニアリズム全般を、単なる社会構成主義として扱おうとしている。 白井はこうしたポストコロニアリズムを「ダウナー系にするもの」「楽しくない」としているが、多分、白井は、日本国民としての政治的責任が問われていたことに実は気づいていて、だからこそ「楽しくな」かったのであり、そうは言えないから、ポストコロニアリズムを「社会構成主義」だとレッテル貼りして一括して否定しているのではないか。そもそも「社会構成主義」だけならば、今日では、右派や保守派ですら援用しているわけであるから、「ダウナー系に」などなるはずもないのである。 白井の上の発言は、驚くべき天真爛漫さで、現在のリベラル・左派における、(侵略と植民地支配の国民としての政治的責任を解除した上での)「ナショナリズム」復興論の背景にある<気分>を示唆している(これについては、「佐高ファンさんの疑問に答える1 朝鮮総連を支持するかしないかは関係ない」 でも少し述べた)。「ナショナリズム」復興論は、「ポストコロニアリズム」の一部が日本人マジョリティたる自分たちにとって、「楽しくない」ことに苛立っていた層(編集者に特に多い)から強い支持を受けており、それへのカウンターとして現れてきているのだと思われる。白井は、佐藤優とも『情況』で対談しており、対談ではほとんど佐藤先生に学ぶ学生のような姿を晒しているが、<佐藤優現象>も、このような「楽しくない」思想へのカウンターとして、編集者を中心に支持されているのではないか。 また、白井の発言が興味深いのは、その発話の相手が、暗黙のうちに日本人(男性)マジョリティだと想定されていることである。外国人をはじめから除外した上で、マジョリティの左派への弁明だけを行う、という手法だ。これは、「村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチについて」の末尾でも触れたように、最近のリベラル・左派の言説において顕著に見られる傾向である。再度引用しておこう。 「村上が、受賞式出席について、日本の自分への受賞拒否への呼びかけへの対抗から(論理的にはそうなる)正当化していること、パレスチナ人からどう映るかという認識が存在しないことは、興味深い。これは、萱野稔人の最近の主張に似ている。萱野はこのところ、外国人労働者の流入への反対やネット右翼容認論を展開しているが、その際には、従来の左派との違いの強調や、左派への説得はされながらも、萱野の言説によって被害を被ることになる外国人労働者や在日朝鮮人の人権は、はじめから考慮の対象に入っていない。これは、佐藤優が排撃する在日朝鮮人その他の対象の人権を考えず、佐藤優を自分たちの味方として宣伝しようとするリベラル・左派とも同じ構図である。」 「高学歴」で「良心的」だと自認する人々(主として男性)が、自分たちの「良心」を満足させるレベルを超える批判は「楽しくない」し「ダウナー系」にさせるので、それはやめてこれからは「楽し」く行こうと、同質的な(擬似)空間の中でお互いに肯きあっている光景。結構なご身分である。 それと、白井は、80年代のように、ニューアカのような知識人が「スター」扱いされた時代に憧れていて、そうしたものが復興すること(そして自分も「スター」扱いされること)を待ち望んでいるのかもしれない。『思想地図』そのものがそうした試みとも言えるし、そうなれば、出版産業も万々歳だろう。もちろん、そんなものが解体して二度と復興しようもなくなっていることが、大変望ましい<歴史の進歩>であったことは言うまでもない。 あと、白井自身が「楽しくない」と言っているのに、「思想が人びとをエンパワーする可能性というものを肯定的に捉えるならば」と、結局は第三者的な立場に立とうとしているのも恥ずかしいな。他人のせいにしちゃだめだよ。白井は早稲田大学卒だが、かの早稲田大学の現総長も新入生に説いているように、「自立」と「自律」を「実現」しなければならないのではないか。
by kollwitz2000
| 2009-10-11 00:00
| 日本社会
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