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2009年 11月 08日
前回(第1回)からかなり間隔が空いてしまったが、「レイシズム的保護主義グループの成立」の第2回である。
1. このところ、日本のリベラル・左派の間で、「ナショナリズム」の復興論(「リベラル・ナショナリズム」)があちこちで唱えられている。そして、私見によれば、ここで唱えられている「ナショナリズム」は、非常に奇妙な特徴を持っている。この奇妙な「ナショナリズム」は、レイシスト的保護主義グループの存立基盤の根本を支えるものであると思われる。 この「ナショナリズム」を検討するに際しては、「ナショナリズム」肯定論者の一人である萱野稔人と、高橋哲哉の対談(高橋哲哉・萱野稔人対談「ナショナリズムが答えなのか」『POSSE』vol.2、2008年12月)が大変興味深い。 萱野はここで、 ①グローバリゼーションそれ自体は、先進国と第三世界の経済格差を縮小させているのであるから、日本国内の経済格差を問題にするならば、「ナショナリズム」を肯定しなければならない ②下層労働者は、外国人労働者と競争することが多く、「排外的ナショナリズム」を支持する人が多い。そうした人々に社会的承認を担保する上でも、「ナショナリズム」を肯定しなければならない と、二通りの仕方で、「格差問題に関して、ナショナリズムを肯定しなくてはならない」理由を説明している。①で示されている現状認識には相違があるかもしれないが、①を<日本国内の経済格差を問題にする上では、「ナショナリズム」を動員することが、仮にそれが保護主義の傾向を帯びるとしても、有効であり、かつ必要である>という命題に言い換えれば、このところの「格差問題」に関連した「ナショナリズム」肯定論の大半も、大雑把に言って、萱野のこうした主張に帰結すると思われる。 無論、萱野の主張に対して、①を先進国の国民の醜悪な居直り、②を排外主義の容認(および下層労働者の政治的判断力への蔑視)として片付けてもよいのだが、私が今回検討したいのは、むしろ、萱野の言う「ナショナリズム」とはどのような性質のナショナリズムなのか、それは一体何なのか、ということである。 私がなぜわざわざ、萱野の多くの媒体での「ナショナリズム」肯定論のうち、この対談での発言をとり上げたかといえば、それは、この対談において、萱野の以下の発言があるからである。 「萱野 「慰安婦」問題に関して日本政府の責任を問うという議論のなかで、高橋さんは、「主権者である日本人の応答責任」ということを問題にしましたよね。これは、まさにナショナリズムの中心的なテーマをなすものだと思います。というのも、ナショナリズムの最も核となる主張とは、「国家はネーション(国民・民族)によって、ネーションのために運営されなくてはならない」というものですから、つまり国民こそ国家の主体であるという意識がナショナリズムの一番の核をなすという以上、国民としての責任を問う高橋さんの議論もナショナリズムと親和性をもつのではないでしょうか。格差の問題においても同じです。国民経済のもとである程度平等な分配政策なり雇用政策なりをめざすかぎり、それはナショナリズムを前提とした議論にならざるをえない。で、僕はそれでいいと思うんです。ナショナリズムだということを素直に認めれば。僕自身はだから、自分の立場は高橋さんと同じだと思っていますし、高橋さんの議論もナショナリズムだと認めてしまったらどうかと思うんです。」(強調は引用者、以下同じ) 高橋は、萱野のこの問いかけに対しては、「日本国民である限り、日本政府のすることへの政治的な責任というのは、多かれ少なかれみんな共有している」が、「自分が帰属している政治的共同体に対して、帰属意識が成り立つためにはナショナリズムが必要である、とまではたして言えるだろうか」と否定的である。 ところで、萱野はこの対談の冒頭で、「今日は高橋哲哉さんとお話をするということで、個人的な気持ちとしては、最近僕が言っていることを批判してもらおうというつもりでここに来ました(笑)」と述べている。 高橋の上記の発言も、一応は萱野への「批判」ではある。もちろんこの批判でもよいのだが、高橋の「批判」は、萱野の「ナショナリズム」肯定論の奇妙さの核心には届いていない。僭越ながら、私が高橋に代わって「批判」してあげよう。以下の私による「批判」は、高橋の『戦後責任論』の論理から帰結するはずのものであり、こうした「批判」ができないところに、誰も言わないが、ここ3年ほどの高橋の迷走振りが示されている(そもそも、萱野ごときと好意的に対談すること自体が迷走の最たるものだが)。高橋は、萱野に、こう聞けばよかったのである。 萱野は、日本の周辺アジア諸国に対して、侵略と植民地支配それ自体およびそこから派生するもろもろの「大日本帝国の加害行為」(『戦後責任論』講談社学術文庫版、40頁)が存在したと認識しているのか? もしそれが存在したと認識しているとすれば、萱野は「自分の立場は高橋さんと同じ」だと言っているのであるから、以下の高橋の主張にも同意しなければならない。 「この責任(注・「日本人としての責任」)は、戦後責任をきちんと果たしてこなかった日本国家の政治的なあり方に対する責任として、日本国家が戦後責任をきちんと果たすように日本国家のあり方を変えていく責任であり、日本政府に戦後責任を果たさせることを通じて、旧帝国の負の遺産を引きずった既成の「国民化」や「皇民化」を可能にし、またそれらによって可能となった「日本人」や「日本国民」を解体し、日本社会をよりラディカルな意味で「民主的」な社会に、すなわち、異質な他者同士が相互の他者性を尊重しあうための装置といえるような社会に変えていく責任なのです。」 「「日本人として」戦後責任を果たすとは、侵略戦争や植民地支配を可能にしたこの社会のあり方を根本から克服し、日本を「日本とは別のもの」に開かれた「別の日本」に変革していくことにほかならないと私は思っています。」(『戦後責任論』文庫版、60頁) とすれば、萱野は、まさにナショナリストとして、「日本を「日本とは別のもの」に開かれた「別の日本」に変革していく」ために、萱野自身の①や②のような主張に対してこそ、徹底的に戦わなければならない。 このジレンマを避けるためには、萱野は、「大日本帝国の加害行為」は基本的に存在しなかったし、大日本帝国の「負の遺産」など存在しない、としなければならない。その上でならば、ナショナリストとしての萱野の一貫性は保たれるのである。もちろんこれでは小林よしのりその他の極右と同じになるから、その立場は萱野は採らないだろう。かといって、「自分の立場は高橋さんと同じ」などと言っているにもかかわらず、高橋の言うような形での「日本人としての責任」を果たそうとしているわけでもなさそうである。 だから、高橋は萱野に対して、本来、上記の問いを行なった上で、以下のような結論を下すべきだった、と私は考える。萱野の主張は、そもそも本当にナショナリズムなのか、むしろレイシスト的な保護主義と言うべきなのではないか、と(注1)。 (注1)ナショナリズムという概念は周知のように多義的であるから、ここで私は、萱野の主張が「ナショナリズム」ではない、と言っているのではない。ここで検討しているのは萱野の言う「ナショナリズム」の性質である。萱野は別のところで、「ナショナリズムというのは、ゲルナーが述べているように、民族的な単位と政治的な単位が一致しなくてはならないと主張する政治的原理のことです」(『思想地図』第1号、2008年4月、37頁)と自らの定義を述べているが、ここでは、この定義の下で萱野が肯定する「ナショナリズム」を、萱野の諸発言から鑑みて、レイシスト的な「ナショナリズム」として捉えている。 2. 萱野の語る「ナショナリズム」肯定論には、萱野自身が、「大日本帝国の加害行為」について、「ナショナリスト」としてどのように政治的責任を果たそうとしているのか、また、大日本帝国との現在の日本国との連続性を擁護しているのか、大日本帝国の一時期について否定するというのならば、どの時期までは肯定しているのか、といった、「ナショナリスト」としての肝心要の、自らの歴史的な位置づけという点が、欠落しているのである。 これは、萱野だけではなく、このところのリベラル・左派の「ナショナリズム」復興論全般に見られる傾向である。彼ら・彼女らは、大衆の政治参加を促す等の、政治学の入門書にあるようなナショナリズムの肯定的側面を、得意げに一般論として語るわけであるが、他ならぬこの日本で、大日本帝国の歴史をどのようにナショナリストとして位置づけるのか、という、ナショナリストならば真っ先に来るべき論点についてはほとんど語らない。 もちろんこれは、こうした「ナショナリズム」復興論者たちが、日本の近現代史について饒舌に語ることを妨げない。実際に、中島岳志などは、教養俗物層向けの歴史雑学の文章を大量に書いているが、中島自身の大日本帝国やその加害行為に対する認識はほとんど分からない。だから、中島は、天皇制について誰々という思想家はこう語った、といったことは散々述べる一方で、自分自身については、「僕は、天皇制についての議論をまだ詰め切れていません」(姜尚中・中島岳志 『日本 根拠地からの問い』毎日新聞社、2008年2月、69頁)などと告白するのである。呆れた「保守主義者」「ナショナリスト」である。 「ナショナリズム」復興論者たちは、リベラル・左派が「ナショナリズム」を擁護しなかったことを批判するが、それは、萱野や北田暁大らが言うように、「ネイションやナショナリズムは幻想」といった社会構築主義が蔓延していたからではない。そもそも、そんな話はアカデミズムやジャーナリズムのごく一部でのみ流行したにすぎないのであって大衆的な影響力はほとんど持っていない(彼らが「社会構築主義」をあえて持ち出す理由については、「「楽しくない」思想から「楽しい」思想へ」で推測した)。「平和」や「人権」に関心のある市民が、概ね、ナショナリズムについて積極的に語らなかったのは、戦前の歴史から、ナショナリズムの復興は自分たち庶民がつけを払わせられることになる、と考えていたからだと思う。アカデミズムやジャーナリズム周辺の教養俗物層たち(大学院生なども含めて)は、ほぼ全てが富裕層かプチブル出身だから、「庶民が割を食う」という発想がないのだろう。 ここ数年間のリベラル・左派の論調は、「大東亜戦争」を肯定する人々はニセモノのナショナリストで、保阪正康や半藤一利のような真っ当なナショナリストは日本の過去の加害行為も一定反省する(注2)、といったものである。だが、これは転倒しているのである。彼ら・彼女ら真っ当らしい「ナショナリスト」は、例えばアジア太平洋戦争における日本の加害行為を「恥」として「道義的責任」があるとするが、「道義的責任」の強調は、国家責任の否定とセットで提出されるのである。もし真っ当なナショナリストならば、ナショナリストとして、大日本帝国および日本国の「法的・政治的責任」を追求する、ということになるはずなのだが、彼ら・彼女らにはそうした認識はないらしい。実際に、加害行為を認めてしまえば、それは、「道義的責任」などといった手前勝手なレベルだけではなく、必ず、国家責任の問題にいたることは、「慰安婦」問題一つとっても明らかであろう。 したがって、大日本帝国が、庶民にとっても抑圧者以外の何者でもなかった、という史観(昔の共産党のような史観だ)に立たずに、ある時期までの大日本帝国はよかった、一時的に逸脱して酷いことをやった、という史観は、総じて、自らの日本人性を、歴史的なものとは別のところに置いているのである。それが、自分は日本人だ、という素朴な血統主義的な原理だ。言い換えると、血統主義的な同質性を暗黙の前提として、「ここまでは悪かった、ということを認めようよ」とお互いで肯いているのがこの史観である。 念のために言っておくが、私は、日本人はナショナリストたるべきだ、と言っているわけではない。高橋が言うように、政治的責任を果たすこととナショナリストであることは別だからである。だが、自らを「ナショナリスト」として規定するならば、より一層、歴史問題に関する政治的責任を果たすことに能動的であるべきだろう。現在の「ナショナリズム」復興論は、驚異的な手前勝手さで、歴史問題を回避している。別にこれは萱野や中島らに限らず、福祉国家の建設のためにナショナリズムの意義を積極的に評価すべきとする宮本太郎(佐藤優らの「フォーラム神保町」にも登場している)や、その周辺の論者たちもそうである。また、『現代思想』系の書き手もこれは概ね同じで、民社党の歴史も知らずに「日本には社会民主主義を実現させようという試みはなかった」などと語る市野川容孝や、誰が読んでいるのか分からないヌルい文章を大量生産する立岩真也あたりもこれに含まれるだろう。影響力はほとんどなさそうだが、レジス・ドゥブレの劣化版コピーの「共和国」論者(ただし、天皇制の問題は回避している)もこれに該当する。 血統主義と市民主義という、ナショナリズムの2つの原理から考えれば、現在のリベラル・左派の「ナショナリズム」復興論は総じて、自らの主張を市民主義的なものとして打ち出している。だが、歴史問題を本質的に回避した「ナショナリズム」復興論は、血統主義的な原理を暗黙の前提とすることになるのであって、市民主義的なものを掲げながら、実態としては血統主義的なものとして機能するのである。周知のように共産党の「日本人」理解は、血統主義的な性格が非常に強いものであるから、渡辺治ら共産党系の学者も、「福祉国家」の建設という飴玉がちらつけば、何の躊躇もなくこうしたレイシズム的保護主義グループに参加していくことになる。 (注2)「国益」の観点から考えて、大日本帝国の一時的な逸脱を認めて「謝罪」した方が得だ、といった同種の議論は、大衆的には説得力を持たないだろう。極右であり歴史修正主義者の中川八洋は、福田和也が、「民族の誇り」を取り戻すために「慰安婦」に償わなければならないという大沼保昭の主張に共感していることを指弾し、以下のように主張している。 「「そもそも和也の造語「加害者の誇り」という言葉は、「南京虐殺」という歴史の偽造を日本人に受容させ定着させるため“ハイパー・スキゾ文藝”の魔語として発明された。だから、このスキゾ語「加害者の誇り」が書かれている、次の引用文は、南京虐殺はあったと和也が主張する歴史偽造のエセーの結論となっている。和也の“ハイパー・スキゾ文藝”の正体があらわである。 「加害者の誇り、というこなれない言葉を、この頃私は作り、用いている。私たちが自らの優れた資質、過去を誇るためには、被害者として免責される事を求めず、加害者としてふるまうべきではないか。たとえいかに私たちが、貧しく、悲しい存在であるとしても」(福田和也「ジョン・ラーベの日記『南京大虐殺』をどう読むか」『諸君!』、1997年12月号、46頁) まず和也は、加害していない無実の人間が加害者としてふるまうことはできないのに、日本人を狂人にしたいのか、自分が狂人のためにか、そうしろとアッピールする。次に、「日本人は貧しい存在」「日本人は悲しい存在」だと断じているのに、それを反転させて「日本人は自分の優れた資質を誇れ」「日本人は自分の過去を誇れ」とアッピールする。「貧しい存在」がなぜ「優れた資質」なのか。「悲しい存在」をどうやって「誇る」のか。 これらの言辞は、明らかに精神医学上の分裂症からのもので、この故に、この手法を用いる文学者の、その作品を“スキゾ(分裂症性)文藝”という。和也のは、その度合いが極端に激しいので、“ハイパー・スキゾ(超分裂症性)文藝”と称される。 「加害者の反省」「加害者の悔恨」ならば正常な人間であろう。殺人を犯した加害者が、もし「誇り」をもってその被害者や遺族に対峙すべきとの和也の転倒(スキゾ)ロジックがまかり通れば、そんな人間は倫理を破壊するしかないし、社会の倫理規範も崩壊する。和也は、ポスト・モダンの論法で、日本から倫理・道徳の破壊と一掃を図っている。」(中川八洋『福田和也と<魔の思想>』清流出版、2005年9月、277~278頁) 加害者としての(謝罪も含めた)振る舞いが「誇り」であるとする認識が馬鹿げている、という主張は大変正しい。中川のような歴史修正主義者は、加害者であると認めた場合に発生する倫理的・道徳的な重みを理解しており、それを認めると「ナショナリスト」としての「誇り」が消滅すると考えているのであろう。文春系の保守派からリベラル・左派までよく見られる、「国益」のために一定謝罪した方がよい、という立場は、「良識」でもなんでもない。それは、加害行為の重みを認識しない、富裕層やプチブルの、倫理的・道徳的退廃と言うべきである。 3. いずれにせよ、レイシズム的保護主義グループにおいては、それが大衆的な支持を得て政治的な力を持とうとするならば、いずれは大日本帝国をどう位置づけるか、現在の日本国および日本国民をどのように歴史的に位置づけるか、という点を議論とせざるを得ないだろう。例えば、ナショナリズムの復興を主張している山口二郎(例えばこれ参照)は、例によって鉄砲玉の役割を買って出て、以下のように述べている。 「(注・講演では)戦前と戦後の断絶のみを重視するのではなく、自由や民主主義の追求という理念の連続性を重視する必要もあるということを強調したかった。戦前の日本には悪いことばかりではなかったというのは保守派の主義だが、逆に権威や権力を恐れず自由を貫くという伝統も存在したという主張をぶつけることも必要である。こうした視点については、政治史学者の坂野潤治氏の著作から多くを学んだ。講演で、永井荷風や石橋湛山を重視したのも、この理由による。こうした意味での連続性を強調することによって、ナショナリズムと戦後民主主義との接合を図りたいというのが、私の意図であった。」(「序章 瀬戸際の日本」山口二郎編著『政治を語る言葉』七つ森書館、2008年7月、33~34頁) 山口は、戦前と戦後の連続性ということを何らかの形で担保したいのである。レイシズム的保護主義グループにおいては、自らを天皇制国家の被害者として位置づけ、過去清算を追及していくという路線はあらかじめ排除されているから、連続性をどのような形で正統化するか、という主張にならざるを得ない。その点では山口は、他の「ナショナリズム」復興論者に比べて、問題の所在は理解しているのである。だが、ここでの山口の試みは、悲惨なまでに成功していない。問われているのは大日本帝国という国家の位置づけであって、個々の論者がどうであるかは無関係であるからである(注3)。 山口の試みは失敗しているが、同種の試みは、今後もこのグループから表れ続けるだろう。 (注3)興味深いことに、同書で山口は、以下のように語っている。 「近未来の日本は、このまま進むと、労働力として切り捨てられ、下に滞留し、どんどん希望を失っていく。そのなかではけ口を求めていくという悪いシナリオはあると思います。日本の経済的なエリートは、労働力人口はどんどん減っていくから移民を入れろ、というような議論を内部でしています。教育も、下にはスカスカのメニューでやり上の方へ来る可能性をハナから排除していく気配はあります。新自由主義を進めるエリートたちは、同胞などというものはいないと思っているし、ましてや共感や連帯などももっていません。」(同書、148頁) 移民の流入という文脈で、「同胞」なる血統主義的な言葉が使われている。
by kollwitz2000
| 2009-11-08 00:00
| 日本社会
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