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2009年 11月 26日
4.
「日本国民としての責任」論が消えていったのは、リベラル・左派の全般的な「右」の立場への移行(転向)という要因が大きいと思われるが、後者のポストコロニアリズムからの「国民主義」批判も、同じく大きな役割を果たしていると思う。こうした批判により、「日本国民としての責任」論自体が消されてしまったからである。 一例を挙げよう。西川祐子は、以下のように、大江を「国民主義」者として批判している。 「戦後歴史学を対称軸として、現に復活しつつある皇国神話と大江が構築した民衆神話はポジとネガの関係をもって対抗的に位置づけられる。三者は桔抗するが、どうじに奇妙に安定した構図を形づくる。三者は互いに支えあっている。反体制の作家である大江健三郎は反体制の神話の創作により安定の一翼を担い、戦後文学を代表する国民的作家となる。この安定した構図が戦後という地政学そのものであるとしたら、わたしはそれを読みぬくことによってネーションという枠組みの外へでたいと思う。」(西川祐子「もう一つの神話の構築――大江健三郎『M/Tと森のフシギの物語』論」、ひろたまさき/キャロル・グラック監修、西川祐子編『歴史の描き方2 戦後という地政学』東京大学出版会、2006年11月、241頁) 同書の巻末には、西川と成田龍一、上野千鶴子、ヴィクター・コシュマンといった、カルチュラル・スタディーズ周辺の面々による「座談会」が、解説として附されている。ここでは、上記の西川の論文の認識に則った形で「座談」がなされており、特に上野は大江を「国民作家」と呼びつつ、冷笑的な姿勢をあらわにしている。 上記のような、大江を「国民主義」として批判、嘲笑する立場は、今日ではステロタイプなものである。これが駄目なものであることは見やすいが、より警戒すべきは、一見、大江の「可能性」を救い出しているように見えながら、実際には、大江の「可能性」を、西川らと同じく殺している言説である。成田龍一の大江論がこれである。 成田龍一は、自身の大江論の中で、以下のように述べている。 「 被爆が「日本」の体験であり(むろん、大江は韓国人被爆者にも言及している)、国民運動として原水爆禁止運動が展開されねばならず、「ヒロシマを生き延びつづけているわれわれ日本人の名において」否定的シンボルとしての広島の提示=「新しい日本人のナショナリズムの態度の確立」を訴える。語りの位相として、「日本」「日本人」という共同性のもとに、被爆者の証言=記憶をたばねて回収していくのである。換言すれば、被爆者の記憶を「日本人」の記憶とし、「日本」の経験と総括し、「日本」「日本人」という単一のアイデンティティヘと方向づけてしまう。だが、この瞬間から大江はさらなる動きをみせ、証言の語りの位相をずらしていく。 『ヒロシマ・ノート』連載中の1965年春に、大江健三郎は沖縄本島と石垣島を訪れている。重藤文夫によってひらかれた「眼」によって沖縄をみつめようとするのだが(『原爆後の人間』)、「ぼく自身の内なる日本人」を見つめる目へとただちに「反転」したと述べている。こののち、沖縄も大江にとって意味をもつ場所となり、『万延元年のフットボール』における(兄弟の姓となる)「根所」は伊波普猷『古琉球の政治』に想を得、「小説全体の構想への出発が確保された」という(「未来へ向けて回想する――自己解釈(四)」『大江健三郎同時代論集 4』岩波書店、1981年)。 「沖縄の文化の多様な側面」に触発されたというが、沖縄での大江の体験は、大江にとっての「もうひとつの日本」の発見であったといえよう。大江は、沖縄によって「本土」の「日本人」たる「われわれ」を相対化し、現時の「日本」ではない、「日本」を構想するのである。この試みは、『沖縄ノート』として展開されるが、「このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえる」ことを模索し、「日本」「日本人」が俎上にのせられ問われる著作となっている。 これは、語りの統一体として設定した「日本」「日本人」をこわす作業で、証言=記憶の「日本」への回収の拒絶である。『ヒロシマ・ノート』での「日本」への回収がただちに解体されている。たしかに、大江のこうした試みも、多様化されたより高次の「日本」に証言を回収する点では差異がないという批判もあろう。証言=記憶を、異化をつうじてより強固に「日本」に回収するという異論があろう。しかし、これは「identity」(『万延元年のフットボール』)を追求するという1960 年代の「枠」ともいうべきものであり、内実をくみかえることによる語りの統一性の解体は、こののち、語りそのものの考察へと関心を移すことにより、この点からの解決が図られる。 「谷間の村」を描く、『同時代ゲーム』『M/Tと森のフシギの物語』『懐かしい年への手紙』から近年の『燃えあがる緑の本』三部作にいたるまで、「語り」に焦点をあてている。記憶=証言のたばね方に、記憶の問題はいきつく。これは、単一の統一された主体=アイデンティティではなく、複合的な多面体としての主体=アイデンティティの模索ともいえよう。」(成田龍一「方法としての記憶」――1965年前後の大江健三郎」(初出は1995年)、成田龍一『歴史学のスタイル』校倉書房、2001年、174~176頁) 成田はここで、「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」という問いについて、大江は沖縄に触れることで、日本国内の(文化的)多様性を認識し、単一的な主体としての「日本人」という概念に対して批判的であるように呼びかけている、と解釈している。大江のこの問いは、「国民主義」批判なのだそうだ。 私は成田のこの一節を読んで爆笑してしまった。『沖縄ノート』を読めば、この解釈がいかに珍妙であるかは明らかなのだが、ここでは大江自身に語ってもらおう。 「『沖縄ノート』は、本土の戦後世代である私が、明治の日本近代化の始まりに重なる「琉球処分」によって、沖縄の人間が日本国の体制のなかに組み込まれてゆく、そして皇民化教育の徹底によってどのような民衆意識が作りあげられ、一九四五年の沖縄戦における悲劇にいたったか、を学んでゆく過程を報告した。それが第一の柱です。 私は戦後日本の復興、発展が、講和条約の発効、独立の出発点から、沖縄を本土から切り離しアメリカ軍政のもとにおいて巨大基地とすることを根本の条件としたこと、それが沖縄にもたらした新しい受難について書くことを第二の柱としました。その実状を具体的な人間の経験をつうじて示すために、とくに私が「沖縄の戦後世代」と呼ぶ、自分と同世代の人々へのインタヴィユーを中心にすえています。私の見る限り、それを伝えている刊本はまだありませんでした。 そのようにして長い新しい苦難のなかで、沖縄の施政権返還が(巨大基地はそこにおいたままで)達成するまでを、私は報告したのですが、その過程で私のうちにかたまってきた主題がありました。私は太平洋戦争以前の近代・現代史において、本土の日本人が沖縄に対して取ってきた差別的な態度、意識について資料を読みとく、ということをしてきたのでしたが、戦後においても、日本の独立と新しい憲法下において、その憲法から切り離されている沖縄の犠牲のもとに、本土の平和と繁栄が築きあげられてきたことに、本土の日本人は、それをよく認識していないのではないか、そしてそれは近代化以来、現代に続くこのような日本人としての特性を示していることなのではないか、と考え始めたのでした。 そして、私がこのような日本人としての、もとより自分をふくむ現在と将来の日本人について、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか、と問いかけ、答えてゆこうとする努力が、この『沖縄ノート』の第三の柱をなすことになりました。」 http://www.okinawatimes.co.jp/spe/syudanjiketsu/ooe_chinjutsu03.html 明らかなように、大江は、「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」という問いは、日本国民としての歴史的責任の問題として考えているのである。ところが成田は、『沖縄ノート』を読めば自明である、こうした歴史的責任という問題には一切触れず、大江の主張について、「国民主義」を解体し、複合的なアイデンティティを志向しているもの、などとしているのである。「ナショナリティの脱構築」だ。成田が大江の発言を恣意的に拾ってきて、自分の図式を作り上げているだけであることは明らかであろう(注5)。成田がやっていることは、「日本国民の責任」論の解体であり、大江の主張の脱政治化である。 なお、成田は、ある座談会で、北田暁大の「愛国左翼」擁護論について、「興味深い指摘」、「ナショナリズムと左翼の両者は結びついていましたが、50年代後半以降は批判的運動を展開するときにナショナリズムの部分は直接に表面には出さず、民主主義を強調しました。戦後思想による戦略ですが、あたかも民主主義とナショナリズムが分離していたかのように映るのでしょう」などと、好意的な態度を表明している。北田はこの座談会で、特に90年代の左派がナショナリズムの脱構築やマイノリティ問題や戦争責任問題にばかり目を向けていたことが、丸山真男のような愛国左翼の立場を忘却させ、「朴訥とした愛国心を持つ「大衆」との乖離が出てしま」い、小林よしのりのような右翼が大衆的人気を勝ち取ることを招く一要因となった、などと発言しているのである。 もともと北田(どうでもいいが、上野の忠実な弟子である)はどこにでもいるブロガー以下の、本来論じるにすら値しない人物であるから、大江らの「日本国民としての責任」論を理解していないことは仕方ないとして、成田のここでの姿勢は、「国民主義」批判の「ナショナリズム」擁護論との共犯関係を、大変鮮明に表している。合わせ鏡のようだ。「論壇」が「ナショナリズム」批判から「ナショナリズム」擁護に行きつつあるようだから、それに寄り添って動いているだけかもしれないが、そのように動けてしまう(これは成田のパーソナリティの問題かもしれないが)ところに、「国民主義」批判の問題性があると言えよう。 (注5)もう少し言うと、実は、成田の上記の引用箇所、「「沖縄の文化の多様な側面」に触発されたというが、沖縄での大江の体験は、大江にとっての「もうひとつの日本」の発見であったといえよう。大江は、沖縄によって「本土」の「日本人」たる「われわれ」を相対化し、現時の「日本」ではない、「日本」を構想するのである。この試みは、『沖縄ノート』として展開される」という箇所自体が、恣意的な資料解釈または誤読から成り立っているように思われる。 ここで挙げられている「沖縄の文化の多様な側面」という文言は、成田が言及しているように、「未来へ向けて回想する――自己解釈(四)」にある(『大江健三郎同時代論集 4』327頁)。この一文は、『沖縄ノート』を含む、大江が1965~1971年に「沖縄問題」に関して書いた文章を収録した本(『大江健三郎同時代論集』第4巻)に附された、大江自らによる解説であるが、この「沖縄の文化の多様な側面」なる文言が出てくる前後の部分を見てみよう。 「僕が沖縄について書いた文章は、政治的な状況につねに関わっていた。しかし沖縄へ行き、滞在する間、僕の関心が政治的なところにのみ向っていたかといえばそうではなかった。沖縄の文化の多様な側面が、僕に激しく触発的であったこと、そこから質の高い喜びをつねにあたえられてきたこと、それはあきらかである。しかも僕は、政治的なものに由来する翳りのなかでのみ報告を書き、文化的な輝やきのなかの経験については、それをよく書くことがなかったと思われるのである。文化的な側面をもまた自分の文章に配分しえていたとするなら、繰りかえしになるが、政治的な憂鬱のつみかさなったこれらの文章に、決して憂鬱なだけではない方向性をも導入できていたかもしれぬのだが。 しかしあらためてその可能性をはかって見る時、やはりそれは、あの年齢の僕になしとげえぬことだったのだろうというところにおちつく。なぜなら僕は、しだいに時をへだてつつ、沖縄の文化的な輝やきについて、よく納得するようになっていったのだから。それでも納得の原点をなす経験は沖縄でしたのである。自分の仕事としての小説についてみても、僕が沖縄に旅することで受けとめたものが、政治的な主題にそくしては表層に出てこぬのに、文化的な深いレレヴェルでは力を発揮していたと、いまふりかえってあきらかになる例はいくつもある。」(同書、327~328頁) 大江はこの後、沖縄での文化的な経験が、『万延元年のフットボール』執筆や山口昌男の周縁性理論の受容に影響を与えた、と書いているが、上の引用から明らかなように、文化的な経験自体は、同書収録の沖縄論にはほとんど書かれていないとはっきり述べている。 実際に、『沖縄ノート』を見ると、「多様性にむかって」という章があるが、そこで述べられている「多様性」は、沖縄の人々の「天皇制にたいする態度の、生きた多様性」(同書、122頁)や、沖縄独立論に象徴される「沖縄の人々のものの考え方の多様性」(同書、139頁)であって、文化的な「多様性」ではない。 もちろん、『沖縄ノート』について、大江自身が『沖縄ノート』をも念頭において「文化的な輝やきのなかの経験については、それをよく書くことがなかった」と述べているにもかかわらず、大江が「沖縄の文化の多様な側面」に触発され」た結果として書かれたものだと成田自身は解釈する、と言うことは可能である。だが、成田は、そう解釈するにあたっての論拠を何一つ提出していない。 5. 周知のように、名護市長選は、民主党系候補と共産党系候補との間で、(1)「辺野古、大浦湾の美しい海に新たな基地は造らせない」「名護市に新たな基地はいらない」という信念を最後まで貫くことを市民に約束する(2)名護市の「閉塞(へいそく)的現状」を打破し、現在の利権にまみれた市政を刷新するため「市民の目線でまちづくり」を行い、公平、公正で透明性の高い行政運営を行う――の2点で合意し、民主党系候補に一本化することになった。こうした条件での一本化が成立したことには拍手を送りたい。 ただ、これは地元の人には自明のことであろうから何かを提言するつもりはないが、共産党系候補に象徴されるような「安保廃棄」の立場はとりあえず引っ込めて、「県外移設」という民主党系の候補の主張に統一し、保守層にも支持を増やしていこう、というあり方が、選挙戦術のみならず、選挙以外の運動レベルにまで貫徹されてしまうと、民主党系候補は、当選しようが、何らかの形で妥協するだろう。民主党系候補が「県外移設」を言い続けるのは、「安保廃棄」といった、「非現実的」に見える声が力を持っているからである。この力が弱体化すれば、割と簡単に妥協すると思う。 候補者一本化が成立していなかった時期に、『金曜日』が、民主党系候補の支持の立場から、共産党系候補を攻撃するデマ記事を垂れ流したことが話題になっていたが、これもこの文脈で考えた方がいいように思う。『金曜日』や『世界』は、今や、実質的には民主党の機関誌のようなものだから、民主党がコントロールできる形で、民主党系候補を勝利させたいのであって、その立場からすれば、「安保廃棄」の声が一つの力として顕在化していることは邪魔なのだろう。あの記事は、単に『金曜日』編集部や記者のミスという一過性のものというよりも、構造的なものとして捉えた方がいいと思う。 そして、現在のリベラル・左派は、「安保容認・県外移設」と「安保廃棄」のどちらかと言えば、ほぼ全てが前者の立場である。共産党は、沖縄問題については比較的原則的であるようだが、どこまでもつかは疑問である。以前にも指摘したように、共産党系の衆議院選候補者の半数近くは朝鮮民主主義人民共和国に「より圧力を」かけることを要求しているのであるが、「より圧力を」かけることが安保なしには不可能であることは明らかである。 したがって、沖縄の基地問題に関しても、その是正のためには、「国民主義」批判ではなく、大江のような「日本国民としての責任」論の立場からの沖縄問題への取り組みが不可欠だと思う。そうした立場に立ってはじめて、集団自決の強制性の件だけではなく、「慰安婦」制度等の東アジアでの日本の加害の問題の教科書への記述の要求への動きも生じてくるだろうし、日本の右傾化に 対して、日本国民と(在日朝鮮人を含む)周辺諸国の人間が連帯して対抗する、ということも可能になるだろう。逆に言えば、この立場にしか可能性はない。それを別に「ナショナリズム」と呼ぶ必要はないが、それは「国民主義」または「ナショナリズム」として否定すべきでないものである。
by kollwitz2000
| 2009-11-26 00:01
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