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2009年 12月 11日
1.
『世界』2010年1月号(特集・韓国併合100年――現代への問い)が発売された。単に掲載記事に異論があるというだけならば、雑誌それ自体まで取り上げる気も起きないのだが、今号はそのレベルにとどまらない特徴を持っていると思うので、いくつかの特徴を簡単に指摘しておく。 これは、言い換えれば、今号の『世界』は<佐藤優現象>との関連から論じるべき特徴が、如実に表れている、ということでもある。とはいえ、今号では佐藤優は登場していないので、よく事情がわからない読者は、「『世界』も佐藤優と手を切って、朝鮮植民地支配や戦後補償を扱うなど、真っ当なジャーナリズムに戻ろうとしているようだ」などと勘違いするだろう。以下、<佐藤優現象>との関連で論じるべき諸特徴を指摘する。 2. まず指摘しておきたいのは、今号の『世界』は、佐藤優起用についての編集部の状況認識と佐藤との共犯関係が、よく表れている号であろう、という点である。 2009年1月号から、「沖縄は未来をどう生きるか」と題して、大田昌秀と佐藤優の対談を連載している。これまで、2009年1月号・2月号・3月号・5月号・6月号・7月号・9月号と、計7回掲載している。 ところが、この連載が、2009年9月号(8月8日発売)を最後に、中断しているのである。 これまでの掲載間隔からして、1号だけの休載ならば、特におかしくもないだろう。だが、既に4号にわたって掲載されていないのである。 しかも、9月号の対談は、佐藤の以下の発言で終わっている。 「現下日本では、沖縄戦を材料にして、国内に敵をつくりだし、憎しみを煽ろうとしている言論人がいます。その点で、政治漫画家の小林よしのりさんの言説を軽視してはならないと思います。このことについて、次回は踏み込んだ意見交換をしたいと思います。」(強調は引用者、以下同じ) 『世界』は、以前述べた佐高信の事例のように、「小林は悪だが佐藤は善という図式」を作り出すために、『世界』で佐藤に小林批判をさせようというのだろう。見え透いた話である。だが、ここまで次回予告をしておきながら、4号の間何もないというのはおかしいではないか。この間、佐藤は相変わらずメディアに登場し続けており、大田も、ネット上で確認する限り、各種のインタビューや講演をこなしている。両者のどちらかが病気で対談できなかった、ということではなさそうである。 では一体、4号にもわたって中断している理由は何なのか。もちろんこれは推測の域を出ないが、私は、「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」(以下、共同声明)が10月1日に出されたことの影響があるのではないか、と見ている。『世界』編集部は、共同声明に危機感を覚えた結果、連載を中断している、ということではないか。大田も佐藤も、岡本厚編集長とは関係が深いから、編集長の意向ならば受け入れるだろう。 これは、連載がなくなった、ということを全く意味しない。今号(2010年1月号)には、「読者談話室」のお知らせ欄に、「連載「沖縄は未来をどう生きるか」「民意偽装」「アジア女性交流史・昭和期篇」は今月休載いたします。」とある。したがって、連載自体は生きているのである。 したがって、この中断は、仮に共同声明を意識した結果であるとしても、共同声明が求めているような、「佐藤氏の起用が一体どのような思考からもたらされ、いかなる政治的効果を持ち得るかについて、当該メディアの関係者が見直し」た結果ではない。仮に、「見直し」の結果であれば、少なくとも、上記のような告知はなされていないはずである。したがって、仮に共同声明の影響で中断しているとしても、ほとぼりが冷めたと『世界』編集部が判断すれば、すぐにでも連載を再開するであろう。 なお、4号の休載期間のうち、前号(2009年12月号。11月8日発売)においてのみ、どういうわけか休載のお知らせが告知されていない。前号では、この連載をどのようにするか、スタンスが定まっていなかったのかもしれない。いずれにせよ、今号において、今後も佐藤を使い続ける、という意志を『世界』は改めて表明したわけである。 また、佐藤が一時的に誌面から消えていることは、『世界』(編集部)への佐藤の影響力が減退していることを意味しない。今号では、佐藤優の腰巾着と言うべき青木理の連載が始まっており、前号(2008年12月号)や前々号(2008年11月号)にも、佐藤優と昵懇の東郷和彦が登場している。『世界』編集部の、佐藤の人脈への癒着は、ますます進んでいるように見える。 私は、以前書いた「佐藤優の危機感?」で、佐藤及び『金曜日』編集部が共同声明への危機感から行なったと思われる対応策について触れた上で、以下のように述べた。 「佐藤及び佐藤と結託するリベラル・左派系のメディアが、この共同声明に言及したり反論したりすることは、恐らくないだろう。そんなことをして、この共同声明の存在が読者に直接知られるようになっては困るからである。そして、以前にも説明したように、リベラル・左派系の編集者たちが佐藤の起用を反省し、起用を一切止めるという可能性は極めて低いと見ておいた方がよいだろう。だが、今回の、和田の唐突な登場のように、この共同声明への(一時的な)対応策として、佐藤がリベラル・左派メディアに登場することへの新しい正当化、より狡猾な方策を打ち出してくる可能性は大いにありうる。そうした方策に惑わされないことが重要である。」 今号でも確認された、大田と佐藤の連載対談の不自然な中断は、こうした「方策」の一種なのではないか。 3. 次に、<佐藤優現象>と同義であるリベラル・左派の「国益」論的再編が、今号においては、ほぼ完成の姿を見せていることを指摘しておこう。詳論は省かざるを得ないが、今号では、「朝鮮植民地支配」や「戦後補償」問題が扱われているが、全体的に言えば、民主党を、幹部を中心として過去清算問題に理解のある政治家の多い政党と捉え、民主党政権のうちに過去清算と「和解」を実現させ、「東アジア共同体」建設につなげていこう、といった論調である。無論、当事者相互の個別具体的な「和解」の事例は尊重されるべきであるが、雑誌全体の論調として、朝鮮植民地支配(に基因する件)を含めた歴史認識・戦後補償問題について、大日本帝国との連続性を濃厚に有する日本国家や日本社会を変える契機となるべきものと捉える認識は、ほぼなくなっていると思う。 最も重要なのは、以前に「ここ3年ほどの高橋の迷走振り」と言及したように、高橋哲哉の朝日新聞-民主党ラインの政治的立場への移行が、今号に掲載された「2010年の戦後責任論」でほぼ完了していることである。『戦後責任論』『靖国問題』の高橋とは別人のようだ。高橋は、「東アジア共同体構想」に期待しており、民主党政権に対しても大きな期待を抱いているようだが、例えば、高橋が期待するところの「和解」策が、アフガン派兵と併行して進められた場合(そうなると思うが)、どのような態度をとるのだろうか。 4. また、「佐藤優の言論封殺行為について(原告「準備書面(1)」より)」で詳しく論じたような、佐藤の原論封殺行為を『世界』が容認していることは、『世界』がジャーナリズムとして内的に崩壊していることを示していると思うのだが、同じ傾向の側面として、『世界』が権力批判の立場と公正性を消失してしまっていると思われる点が挙げられる。そのことは、今号において非常に鮮明に示されている。 以前にも引用したが、岡本編集長は、民主党政権について、以下のように手放しに礼賛している。 「自民党政治からの「大転換」である。こうした転換は、政権交代の意味と意義を一か月足らずで誰の目にも明らかにした。これまでの政治から利権と特権に与ってきた人々からは怨嗟の声と抵抗が起き、発想を変えられないメディアは戸惑い、苛立っている。しかし、国民は全体として、この大転換について好感を持ってみているようだ。「予想以上」というのが大方の評価なのではないか。」(『世界』臨時増刊号「大転換 新政権で何が変わるか、何を変えるか」巻頭言より。2009年11月8日売) 私はこの一文を読んで、政権への批判意識の欠如に唖然としてしまったのだが(そもそも、メディアが全般的に民主党政権擁護であることは改めて言うまでもない)、今号においても、その姿勢は貫徹されている。今号の岡本編集長による「編集後記」を見てみよう。 「新政権発足三ヶ月。政権内の軋みや混乱も目に付くようになった。しかし、政権交代とは、政策の転換のことであり、そこには予算配分の転換が伴う。それまでの秩序は崩れ、既得権益者からは反発や抵抗が起こる。国民の意見も割れる。軋みや混乱が生じなければ嘘である。」 政治・社会問題を扱う雑誌が、現政権に対して、ここまで批判性を喪失していてよいのだろうか。ましてや、『世界』は自ら「日本唯一のクオリティマガジン」と称する雑誌である。「既得権益者からは反発や抵抗が起こる」という一節は、小泉構造改革を礼賛したマスコミを想起させるが、かつて、反対者を「抵抗勢力」とレッテル貼りする傾向を批判したのはどこの雑誌だっただろうか。 今号を誰もが気づくと思われる点は、これだけ鳩山政権の問題が噴出しているにもかかわらず、鳩山政権や民主党への批判どころか、日本政治の問題を直接扱った記事が非常に少ない点である。論壇誌としては極めて異色であろう。扱っているのは、「世界の潮」欄の一記事「内閣法制局長官の答弁排除の問題性」(青井未帆執筆、全4頁)と、町田透「亀井「郵政改革」の舞台裏」(全6頁)、「片山善博の「日本を診る」 連載第25回 「事業仕分け」から見えてくるもの」(全3頁)、神保太郎「メディア批評 連載第25回」(8頁)、「編集後記」(全1頁)くらいだ。もちろん、文中で日本政治に言及している記事ならば他にもあるが、主題的に扱っているのは上記5つであり、うち3つは連載であるから、独立の記事としては2つしかない。5つの記事の頁数を合わせても全22頁であり、今号全体の336頁からすれば、約15分の1である。 扱う頁数が少ないこと自体は大した問題ではないかもしれない。むしろ私が驚愕したのは、その論調である。片山善博が、上記の記事で、事業仕分けを「画期的」「政権交代がもたらした最大の成果」と手放しに絶賛しているのはまだ序の口である。町田透に至っては、斎藤次郎の日本郵政社長就任と、坂篤朗(財務省出身、前内閣官房副長官補)・足立盛二郎(旧郵政省出身、元郵政事業庁長官)の副社長就任について、以下のように述べている。 「メディアは三人の元官僚に焦点を当て、容赦なく、天下り容認人事と批判した。 確かに、元官僚の登用は事実で、その批判は一面の真理と言えよう。しかし、筆者にはもっと業の深い人事に見えてならない。というのは、斎藤氏は、反自民政権に与し、自民党が政権復帰後に異例の早期退任を迫られた人物である。坂氏は、竹中氏との対立が進退の理由とされた人物だ。足立氏も、当時の小泉首相に、特定郵便局の後押しで出馬しながら選挙違反事件を起こした組織の監督責任を問われた過去がある。(中略) その一方で、ちゃっかり留任した社外取締役は、会長の西岡喬三菱重工相談役と、社外取締役の奥田碩トヨタ自動車相談役だ。二人は早くから、新政権との関係改善が伝えられたり、西川氏との不仲が囁かれたりしていた。逆に、西川続投を支持した前指名委員長の牛尾治朗・ウシオ電機会長や、丹羽宇一郎・伊藤忠商事会長は、西川氏や副社長だった高木祥吉氏らとともに辞任に追い込まれた。 つまり、徹底して親自民、親小泉、親竹中の人材を排除し、反自民、反小泉、反竹中の人材で固めたのが今回の人事の真の姿なのだ。」 いや、さすがにこれはないのではないか。そもそも、その三人の人物がこれだけで「反自民、反小泉、反竹中」だと言えるかも疑問だが、仮にそうであったとしても、それならば天下り(渡り)も許されるとでもいうのだろうか。ここまで来ると、単なる党派性とでも言うしかないだろう。 だが、さらにこの上があるのである。神保太郎(匿名であろう)は、今号で、以下のように述べている。 「11月3日、東京大学本郷の福武ホールで行われた「筑紫哲也との対話 没後1周年」(東大・朝日新聞社主催)をのぞいてみた。評論家の立花隆氏、朝日新聞編集委員の外岡秀俊氏、東大情報学環教授の姜尚中氏、TBSニュース23元デスクで現アメリカ総局長の金平茂紀氏(スカイプ参加)らが、「揺れ動く世界と日本の『いま』を、筑紫さんなら、どう語るだろう」という趣旨でシンポジウムを行った。 (中略)姜尚中氏は、筑紫さんが徹底した観察者でありながらシニシズムと無縁だったのは、沖縄の現場に触れていたからだろうと言った。 ようやく議論の入り口が見えてきたと思った。だが、その通路は立花隆氏によって閉ざされてしまった。いわく、「ジャーナリズムの使命は権力を監視することと、大衆の妄動に抗うことだ」と。これにはまったく異論はない。が、その先がいけない。権力というのは、「時の権力」、すなわち独裁者小沢一郎だと断言したのだ。そうかもしれない。だが、この言明は畢竟、歴史軸の脱臼(同時性への逃避)によるシニシズムの同類とみえた。あろうことか、話題はガンと闘った筑紫哲也氏の「残日録」に移り、ガンの宣告を受けてなお厳しい仕事を続けた「ジャーナリスト魂」の称賛に流れていった。聴衆は手元のパンフレットを見て、「揺れ動く世界と目本の『いま』を、筑紫さんなら、どう語るだろう」という部分の答えを待ちながらおとなしく座っていた。 姜尚中氏がこんなことを発言した、「民主党に四年問やらせてみたらどうですか。これで失敗したら、そのあとにくるのはポピュリズムであり、どこかの府知事や県知事が出番を待っているかもしれない。ひょっとすると田母神さんかもしれませんよ」と。会場から笑いが上がった。ところが、立花隆氏はまたしても小沢の独裁を四年もやられたらたまらないと言った。姜氏は、穏やかに、しかし厳しくこう返した、「韓国はせっかく手にした民主化を浪費してしまった。いま韓国で起こっている反動について日本の人々はもう少し知る必要があるのではないか」と。」 ここまで来ると、凄すぎてもう何を言っているのかすらうまく理解できない。神保は、立花の指摘を否定すらしていないのである。神保によれば、立花のようにわざわざ指摘すること自体が「シニシズム」らしいのだ。民主党政権を無条件に支持しないものは、「シニシズム」に侵されたものである、と。文化大革命か。どうしてこんな文章が掲載されているんですか? ついでに言っておくと、幼稚な神保は後段で、<正義の味方>である姜が立花をやり込めたつもりになっているようであるが、これにも笑ってしまった。姜は、「いま韓国で起こっている反動」などと言っているが、姜はそもそも李明博政権の誕生には好意的である(注)。私のブログ上での連載「姜尚中はどこへ向かっているのか――在日朝鮮人の集団転向現象」で検証しているように、現在の姜のほぼ全ての発言は政治的な文脈から出てきているものだから、こんな矛盾は当たり前だ。「ポピュリズム」を云々するならば、そもそも民主党政権自体が「ポピュリズム」に基づいたものであることは自明である。 5. あとは、これはややこじつけかもしれないが(笑)、今号から定価が780円から840円に値上げしたことも<佐藤優現象>の影響かもしれない。誌面が変容して、固定読者が離れて部数が減退しているから、定価を上げざるを得ないのだろう。 いずれにせよ、『世界』の最新号は、佐藤優は登場していないにもかかわらず、『世界』が<佐藤優現象>と依然として骨絡みになっていること、<佐藤優現象>の下で進行するジャーナリズムとしての変質過程がより一層進行していることをよく示している。この傾向は、今後、さらに強まっていくだろう。 (注)日本の民主党政権やリベラル・左派だけではなく、韓国右派政権こそが、日韓の「和解」を進めたがっているわけだから、姜が李明博大統領に好意的であるのは当然と言えば当然である。姜は、李明博の大統領選勝利に際して、『AERA』の連載(「姜尚中 愛の作法 第21回 ドラマなき大統領選 国民は成果を求め 皇帝の時代は終わった」『AERA』2008年1月14日号)で「やや現実離れした公約の数字」は気になるとしつつも、以下のように述べている。 「李明博とはどのような政治家か。まだ多分に未知数でもありますが、おそらく、イデオロギーや政治的スローガンといった目に見えないものを信頼せず、盧武鉉のように精神論を絶叫するような手法には違和感を持ち、成果や効率性を重視する経営者感覚の政治家だと思われます。大運河構想を打ち出すあたり、「日本列島改造論」の田中角栄のようでもあり、彼が市長自体のソウルの変容を思えば、ニューヨークを安全で清潔な街へと立て直したジュリアーニ前NY市長とも瓜二つ、とも言えそうです。」 「いずれにしてもこの政治家の真骨頂は可視化された成果物を出していくところにあり、まさしくそれこそがいま韓国国民が望んでいるものなのです。もはやイデオロギーやナショナリズムの時代は去り、国民は、経済に代表されるような実質的な政策に強い関心を寄せています。」 「とにもかくにも、かくして韓国社会は「皇帝型権力」といわれた圧倒的な大統領権力の時代が終わり、ドライな「CEO型」の実務型権力の時代へと突入しました。熱気を帯びた社会からやや「クール」な社会へと変遷しつつある。僕はこれをある種の「成熟」と見ています。」 神保が引用している姜の発言とのスタンスの違いは明らかであろう。姜は多分、李明博政権に自分を売り込んでいるのだと思う。
by kollwitz2000
| 2009-12-11 00:00
| 佐藤優・<佐藤優現象>
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