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2010年 02月 21日
5.
経済体制に関しても、消費税増税と格差是正のセットという形で、既に落としどころは成立している。構造改革を推進する側からしても、社会不安の回避から低所得者層への一定の手当てを必要としているのであって、今後、民主党政権であろうが自民党政権であろうが、このセット以外にはあり得ない。そして、どのような状態を指して「福祉国家」と呼ぶかは主観に委ねられているから、一定の手当てがなされているこの状態を指して、リベラル・左派は「新福祉国家」または「福祉国家への過渡的形態」と呼ぶだろう。これは、少し前まで渡辺治らが主張していた、多国籍企業・大企業の社会的規制による「新福祉国家」とは全く別のはずなのであるが、そのようなものだとして、左派は強弁するだろう。保守派は、そのように左派が理解(誤解)してくれていれば、体制批判がなくなるどころか擁護者になってくれるわけだから、そのような理解(誤解)を歓迎するだろう。 もはや『世界』がかなり前からそういう論調なのであるが、消費税増税と格差是正のセットを容認するリベラル・左派の一例を挙げておく。このたび、政府税調・専門家委員会委員長に就任した、神野直彦は、質問に答えて以下のように発言している。 「--消費税は、どう位置づけるべきでしょう? ◆福祉や子育てなど公共サービス充実のため、国民全体で等しく負担を分かち合うという理念であれば、消費税も有力な選択肢になる。友愛型の社会を目指すなら、消費税と所得税を税収の両輪とし、環境税などで補完する仕組みが望ましいのではないか。一方、日本が米国型の「小さな政府」を標ぼうし、公共サービスを最小限に抑えるというなら、高所得者の課税に重点を置いた所得税中心の税制を築き、消費税自体を廃止する選択肢もあり得る。どういう社会を目指すのか、将来ビジョンをまず明確にすることが必要だ。」 http://mainichi.jp/select/biz/news/20100204ddm008020022000c.html この発言は、消費税増税容認論(推奨論)である。神野が、リベラル・左派系のメディアで消費税増税慎重論を唱えていようが、そうである。この発言の主眼は、「どういう社会を目指すのか、将来ビジョンをまず明確にすることが必要だ」などという主張ではなく、神野が擬似的な二者択一の形で問題を設定し(この選択肢で「米国型の社会」を選ぶ人間はほぼ皆無だろう)、消費税増税による「友愛型の社会」に読者を誘導している点である。この専門家委員会が、消費税増税論を打ち出してくることはほぼ間違いないだろう(神野自身は「自分は積極的賛成ではないが、他の委員に押し切られた」というポーズを打ち出すかもしれないが)。 この種の擬似的な二者択一論は、消費税増税論では紋切り型である。著名な消費税増税論者の、石弘光の著書から引用しよう。冒頭の部分である。 「本書では、増税が絶対に必要だと一方的に主張しているわけでない。むしろ、政府から公共サービスの受益を要求するなら、それに応じ必要な費用をわれわれ国民は負担せねばならないと訴えているのだ。これからの日本経済あるいは国民生活との関連で税制のあるべき姿を考えると、いたずらに増税阻止を主張するだけでは得策でないと思う。それより財政赤字累積の重圧の中で少子高齢社会を迎え、国民の安心と安全を確保するためにセーフティーネットたる社会保障制度を持続可能な形にせねばならない。そのためには、国民皆が「広く」「公平に」税負担するのが最善の政策選択であると考えている。(中略) もちろん税負担増を避ける選択肢もある。それはアメリカ社会のように政府介入を極力避け、個人の自助努力を全面的に押し出す低福祉・低負担の仕組みを志向することである。たとえば、自分や家族の老後も病気、介護もすべて公的な制度に依存せず自己責任でやるなら、現状程度の税負担で収まるかもしれない(もっともこれまでの財政赤字累増に伴う元利払いの費用は、別途負担せねばならないが)。そのかわりに老後の生活の備え、健康管理、介護などすべて自己負担になる。公平な税や社会保険料を支払う形で負担するか、それとも個人的な自己負担でするのか、どちらが良いのかの選択となろう。日本人の多数がこの自己負担型を好むというなら、それも一つの目指すべき方向となる。しかし日本の伝統や経済的、社会的、文化的背景を考えると、私はこの方向を選択するのに必ずしも賛成ではない。 最近、若い世代を中心に負担が増えてもよいから、自分たちの将来の夢と安心のためにしっかりした公的な制度を構築して欲しいという声を聞く。「いま、何故増税論議が必要なのか」を解説した書物を執筆してくれといった出版社からの依頼も、これまで私のところに数多く寄せられている。本書は、これに答えるといった意味合いもある。」(石弘光『税制改革の渦中にあって』岩波書店、2008年1月、ⅴ~ⅵ頁) 同書はまさに、消費税の「増税が絶対に必要だ」と主張している本だが、上の神野の発言と何と似通っていることか。「米国型の社会」を持ち出して、二者択一という形で、高い公共サービスと消費税増税のセットを呑ませるという手法である。繰り返すが、こうした擬似的な二者択一を設定すること自体が、消費税増税論を主張するのと同義である。 6. このような、「国家的重大懸案」に関するイデオロギー論争の終焉という事態は、既に、半世紀前に欧米では成立していたものだと思われる(欧米の大多数の左派は、日本と異なり、冷戦構造における西側の一角を担う軍事的役割を承認していた)。ダニエル・ベルは以下のように指摘している。 「こうしたすべての歴史のなかから、ひとつの単純な事実が浮かびあがってくる。すなわち、急進的インテリゲンチャにとって、ふるいイデオロギーはその「真理」と説得力を喪失したということだ。「青写真」を作成できるなら、あとは「社会工学」によって、社会的調和のとれたあたらしいユートピアをもたらすことができる、と真面目に信じる人はもはやほとんどいない。同時に、ふるい「対抗信念」もまた、思想としての力を喪失してしまった。国家が経済においていかなる役割もはたすべきではない、と主張するような「古典的」自由主義者はほとんどいないし、少なくともイギリスやヨーロッパ大陸において、福祉国家が「隷従への道」である、と本気で言じている保守主義者はほとんどいない。それゆえ、欧米の世界では今日、政治的争点をめぐって、おおまかな合意が知識人のあいだに存在する。すなわち、福祉国家の容認、権力の分権化の望ましさ、混合経済体判ならびに多元的政治体制への合意にほかならない。この意味においてもまた、イデオロギーの時代は終わったのである。」(ダニエル・ベル『イデオロギーの終焉――1950年代における政治思想の枯渇について』岡田直之訳、東京創元社、1969年、262頁。原著は1960年刊) 弱肉強食の新自由主義路線、社会主義的な「新福祉国家」路線、侵略と植民地支配の責任追及と清算を志向する「反日」路線、憲法9条を実現しようとする非武装平和主義路線、「東京裁判史観」の打破を目指す復古主義的路線など、さまざまなイデオロギーは終焉し、「福祉国家」を時に標榜する、リベラル・デモクラシー体制を落としどころとして、政治論議は収斂している。 現在の言説状況は、ベルが半世紀前に成立を指摘した「イデオロギーの終焉」状態に、日本がようやく到達したことを示しているのであって、あとの主な政治的議論は、一般大衆には関心が持てないテクニカルな話か、年金負担率などの生活に密着した話か、欧米での中絶問題のようなシングル・イシューか(日本では死刑廃止問題が、中絶問題の代替物になるだろう)、といった形になろう。「イデオロギーの終焉」後、アメリカやイスラエルのように、左右の政治的議論はむしろ活発になるかもしれないが、これまでのそれとはもはや意味が変質している。 7. 恐らく、こうした事態は、一般的には既にある程度気づかれていると思う。日経や読売が民主党政権にそれほど批判的でない(日経はむしろ好意的)なのは、自治労や日教組、それに連なる護憲派団体や市民運動、リベラル・左派ジャーナリズムが、もはやイデオロギーを喪失し、「国益」論的なものに変質していることを正しく認識しているからだと思われる。首相の靖国神社参拝や「大東亜戦争」の大義、金正日体制打倒による拉致問題解決に固執する、まさにイデオロギー的な草の根の保守の方が、「国益」上の観点から見れば、極めて有害であることを、日本の支配層はこの数年間で学習したのであって、そうした支持層に左右されやすい自民党よりも、脱イデオロギー的な民主党の方が、「普通の国」としての大国主義的な諸施策の展開や、企業のアジア進出、中韓(企業)と日本(企業)の提携等、今の経済界が必要としている諸方策の展開を進める上で、都合がよいのである。そうした、イデオロギー的な右派に左右される政党に対抗するために、必要悪として、既に脱イデオロギー化した左派を利用している、という構図だと思う。 また、言説レベルにおけるイデオロギーの終焉という事態は、雑誌ジャーナリズムの終焉の大きな要因にもなっていると思う。もともと論壇関係の雑誌を買うような人間は、イデオロギー的な志向を持った人が多い一方、雑誌を作る編集者や書き手は、左右を問わず、脱イデオロギー化してしまっているからである。論壇誌の中でも、『月刊現代』や『論座』が早期につぶれ、「リベホシュ」化を狙った『諸君!』が廃刊に追い込まれたことが、そのことを示唆している。 また、<佐藤優現象>も、「イデオロギーの終焉」を促進するとともに、その結果でもある。 だが、こうした「イデオロギーの終焉」という事態は、マスコミやアカデミズム、そこでの言説を再生産するだけの大半のブロガーといった、主としてプチブル層にのみ生じているものであって、大衆的な支持を得ているわけではない。<佐藤優現象>や、民主党政権翼賛といった、近年のリベラル・左派の急速な変質は、村山政権誕生時の社会党の大転向にも比すべきものであるが、当時の社会党の転向が、何ら大衆的支持を得ていなかったのと同じである。これらは、同質的な<空気>の下で、<空気>を読みあった上で形成されているものにすぎない。 「イデオロギーの終焉」の下での「左」「右」対立というものは、現在の論壇がそうであるように、八百長プロレスの枠を出ない。これは、客観的に(外部から)見れば、「総保守」である。だが、言説レベルでは、「左」「右」は基本的な認識を共有するに至っているので、「政策論争」はむしろ活発化するだろう。こうした擬似的な「左」「右」対立に絡め取られることなく、全体を批判していく必要がある。
by kollwitz2000
| 2010-02-21 00:00
| 日本社会
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