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2010年 06月 22日
明日6月23日13時15分より、東京地裁第708号法廷において、第8回口頭弁論が開かれる。恐らく短時間(10数分)で終わってしまうが、都合がつく方はいらしていだければ幸いである。前回の口頭弁論期日報告で述べたように、今回は、被告による、原告(私)への反論と、人証予定者の陳述書の陳述、裁判所による人証申請の可否の決定が行われる。ただし、送られてきた佐藤優の陳述書(後日ウェブ上に内容を公開する)は無内容なものだったので、今回は佐藤は来ない可能性が高い。とりあえず、安田弁護士は見ることができる。
------------------------------------------------------------------ さて、「『週刊新潮』による佐藤優への取材記録(全文)」については、以前書いた記事「佐藤優および『週刊新潮』、「言ってもいないこと」の当初の具体的根拠を自ら覆す」で、その問題点の一端を指摘した。佐藤の主張は、問題点を指摘することすら馬鹿馬鹿しくなるような低水準のものだが、さらなる注目点を指摘しておこう。 佐藤はこの取材記録の中で、以下のように述べている(強調は引用者、以下同)。 「そもそも、どの出版社にも雑誌にも、論調はあり、それを好む読者はいる。そのコードに合わせて論文を執筆することに何の問題があるのでしょうか。私は問題ないと考えています。例えば、創価学会系の出版社である「潮」に、牧口初代、戸田二代会長について皇帝(金注:ママ)的に評価する論文は書いても、創価学会に批判的な新潮社の「新潮45」ではそれは書かない。それは当たり前のことで、何ら批判されることではないはず。何より金氏も元編集者であるなら、それはわかっているでしょう。それでも敢えて批判するというのは、私を単に攻撃したいからではないでしょうか。」 まず断っておくと、これまで何度も述べてきているように、私の論文の主題は、<佐藤優現象>批判であって、「佐藤優」批判ではない。リベラル・左派メディアで発言せず、また社会的影響力がなければ、佐藤などそもそも取り上げるにすら値しない。論文では確かに佐藤の言説を批判している箇所もあるが、それは、<佐藤優現象>批判という主題からの必要性に応じたものにすぎない。 そして、上の発言において、佐藤が問題のスリカエを行なっていることは明らかである。私が「<佐藤優現象>批判」で指摘したのは、同一のテーマについての「主張の使い分け」である。佐藤が挙げている例に付き合ってやれば、佐藤が「潮」に「牧口初代、戸田二代会長」について肯定的に評価する論文を書く一方で、「新潮45」で、牧口初代、戸田二代会長に対して批判的な論文を書くとすれば、「当たり前」どころか批判されるのが当然の行為ではないか。そして、佐藤がまさにそのような行為を行なっていることを、私は「<佐藤優現象>批判」の「3.佐藤優による主張の使い分け」で、米国下院での「慰安婦」決議に関する左右メディアでの佐藤の主張を例に挙げて指摘したのである。 「慰安婦」決議だけでは足りないというならば、枚挙に暇がないが、これまでこのブログでは挙げてこなかった事例をいくつか示しておこう。 ------------------------------------------------------------------ ① 「前の戦争に引きつけていうならば、日本人は寛容の精神の中で、多元的世界を考え、これを大東亜共栄圏と名づけました。アジアという場所(トポス)においては、アジア人である我々が、アジア人にとって住みやすい世界をつくることにする。日本人と他のアジアの諸民族は兄弟であり、同胞である。その間に優劣や上下関係は基本的にありません。だから、ヨーロッパやアメリカという別の場所(トポス)で生きている欧米人はアジアについて放っておいてくれ、というのが日本の最大限の要求でした。 日本人がアメリカやヨーロッパに攻めていき、世界支配をするという発想はそもそも我々にはありませんでした。なぜなら、日本人の世界観では、普遍的な単一の世界となるものは存在せず、この世には複数の世界が存在し、それが切磋琢磨するのが世界の存在構造だからです。「アメリカ人よ!イギリス人よ!我々日本人はあなたたちに迷惑をかけるつもりはないのだから、あなたたちもアジアを放っておいてくれ」と主張したことに何か問題があるのでしょうか。私は、その考え方はいまも基本的に間違えていないと思うのです。 当時、アメリカが日本に対してつけてきたのは明らかに難癖の類です。ところが、正しい主張をした国家や民族が歴史において敗れてしまうという現象もそれほど珍しいことではありません。外交実務家としてはその辺を現実も踏まえた上で、わが日本国の国益を極大にする外交にあたっていかなくてはならないと思います。」 (佐藤優「大川周明、北畠親房に学び親日保守の基盤を確立せよ(下)」『月刊日本』2007年2月号) ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 「冷戦後のアジアと世界。これは露骨な帝国主義の時代が反復してきたんだと思います。冷戦もろくな時代じゃない。その後の時代も帝国主義の時代でろくな時代じゃない。時代というのは悪い時代とうんと悪い時代が反復して起きるんだ程度に見ておいたほうがいいと思います。その状況の中で、日本の指導部は三つのシナリオを考えてるんですね。(中略) 二番目の考え方はアジア主義です。日本はアジアの国である。だから中国と仲良くしていく、ということ。ただこれには、私は非常に批判的です。なぜかと言うと、それは基本的に大東亜共栄圈の論理と一緒だからです。ただし支配するのは日本じゃなくて中国です。」 (佐藤優「基調講演 沖縄の独立は三年くらいあれば可能だ」「来るべき<自己決定権>のために 沖縄・アジア・憲法」シンポジウム第二部)『情況』2008年7月号) ② 「 右派、国家主義陣営の論客で潮匡人さんという聡明な人がいます。潮さんは、憲法を改正せずに、しかも一円の予算支出もせずに今すぐできる日本の防衛力増強のための三点セットがあると言っています。第一は、集団的自衛権に関する内閣法制局の解釈を変更することです。日本は集団的自衛権をもっているけど行使しないという内閣法制局の解釈を変えて、持っているし行使できるとする。第二に周辺事態法に言う、周辺地域に台湾海峡が含まれることを明言する。第三に、非核三原則のなかの「持ち込ませない」という縛りについて、朝鮮半島有事の際には「持ち込み可」とする。これで日本の抑止力は数倍になると潮さんは言います。潮さんは早稲田大学卒業後、航空自衛隊に勤務し、広報を担当した経験がありますが、実務に裏付けられた議論には説得力があります。 ここから二つの方向で議論を組み立てることができると思います。一つは、現行の憲法でもこれだけのことができ、本格的戦争に巻き込まれるから憲法九条はザルだからという議論です。逆に憲法九条を改正しなくても抑止力を向上させることは政府の政治決断でできるので、改憲を急ぐ根拠がないという議論です。国家が自衛権をもつのは当然のことで、政府の判断で、潮さんが言うようにこれだけ抑止力を向上させることができるのですから、潜在力を十分に使っていない状況で憲法九条改正に踏み込む必要はないと私は考えています。」 (佐藤優『国家と神とマルクス』2007年4月、太陽企画出版、194~195頁。初出は『情況』2006年5・6月号) ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 「佐藤 作家の辺見庸さんが、ノーム・チョムスキーと対談したときのエピソードが代表的なものですね。辺見さんが、いま憲法九条が危機的な状況にあるとチョムスキーに言ったら、日米安保のもとで九条を謳歌しているのはちゃんちゃらおかしいと言われた。それを聞いて辺見さんは大変なショックを受けたと。それはそれでわかります。でも、欺瞞でいいじゃないですか。国際政治とは所詮その程度のものです。日本は安保条約とセットの平和を選択しました。それによって経済発展ができました。なにか問題があるんですか? あとは、いまこのフレームが無効になっているのか否か検討する、ということだと思うんです。リアルポリティクスの世界において、自衛隊の海外派兵に一定の歯止めがかかっていることと合わせて考えてみると、無効ではないと思うんです。微調整ですむと思う。私は、憲法九条の護憲論をこのように組み立てています。」(魚住昭・佐藤優「ラスプーチンかく語りき」『一冊の本』朝日新聞社、2007年3月号) ③ 「本日(2007年5月15日)は、1932(昭和7)年の五・一五事件から75年の節目に当る日です。今日、世間ではこの事件のことを振り返ることもなく、私が承知する限り、特別な集会も予定されていないようです。 そこで、本日、村上正邦先生、南丘喜八郎さんの御協力を得て、五・一五事件75周年を記念し、「一滴の会」を開催していただくことになりました。 21世紀に生きる私たちは、命を懸けて国家を良くしようとした先達のことを忘れてはいけませんし、彼らの思いを何らかの形で我々は引き継ぐべきだと思います。まず、五・一五事件で決起した三上卓先生の「昭和維新の歌(青年日本の歌)」を記しておきます。(注・以下、「昭和維新の歌」の歌詞が10番まで記される)」 (佐藤優「五・一五事件から学ぶべきこと」『月刊日本』2007年7月号) 「私は、日本の右派に必要なのは、社会科学を左派の手から取り戻すことだと考えています。右派というのは文学や哲学、歴史には優れているのですが、どうしても経済学、社会学といった分野はおろそかになりがちです。これは右派は根底において、そのような近代合理主義で物事がうまくいくか、という軽視があるからでしょう。しかしそもそも社会学、社会科学を日本で定式化したのは、国家社会主義者である高畠素之でした。彼は唯物史観というものが宗教に過ぎないということを明らかにすべく、社会科学という手法を取り入れたのです。我々も社会科学という手法で、詰めることができるところは詰めておく必要があります。 そして、我が国体、という一種の論理の超越は、最後の最後まで、ぎりぎりのところまで控えるべきです。ですから私は天皇とか皇統といった言葉を連発するのは慎むべきだと思うのです。それは非常に不誠実なことです。皇室を認めない人、皇統の伝統を尊重しない人とも、きちんと話し合えるような論理を組み上げておかなければいけません。そして、国体や皇室という超越的概念が出てくるのは最後の最後でよいのです。 日本において右派と左派とを隔てる究極の違いは、皇統の伝統という超越的概念を認めるかという、感覚の問題です。」 (佐藤優「社稷と国家」『月刊日本』2007年9月号) ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 「そもそも左翼、右翼というのは、どこから始まってきたかということを正確に押さえておく必要があると思うんですね、これは1789年のフランス革命です。フランス革命で議長席から見て左側に座っている人たちを左翼といいました。左翼の人だちというのは特徴があるんです。一言で言うと理性を信用します。人間にはみんな理性があります。その理性によって同じ情報を持っていて、きちんとした話をすれば結論は一つになります。だから世の中の真理は一つなんです。その真理が発見できないのは情報が少ないか、あるいは理性的に話をしてないか、そのどっちかか、両方が複合したことになるわけです。そうすると理性で説明できないような迷信、あるいは神様、あるいは理性で考えれば人間はみんな同じはずだから、そこのところでは王様、貴族、こういうものはいらないという話になります。 それから、自分たちの国は自分たちで守らなければならないという考えですから、国民皆兵です。左翼というのは基本的に国民皆兵で、軍事力を信頼する立場です。これがフランス革命のときの左翼の原点です。 それに対して、議長席から見て右側にいる右翼というのは誰なのか。右翼というのは左翼があってはじめて生まれるんです。理性というものを右翼は最終的に信頼していないんです。人間には偏見がある、いくら理性的に話していると思っていても人間は偏見から逃れることはできないと考えます。そうすると偏見があるから誠実に議論をしても結論はいくつも出てくるんです。真理は複数あるということになります。それから王様であるとか、教会であるとか、そういうものは今まで続いてきているんだから、理性で割り切らなくても何か続いてきているものには意味があるだろうということで、それを認めます。 それから軍事というのは人殺しで面倒くさいことだ、一般国民は人殺しをしたくない、だから専門軍に任せればいいと、こういう考え方ですよね。職業軍という発想です。これが右翼です。 私自身は右翼であるという意識を持っています。それはフランス革命のところの座標軸でつくったところの考え方からすると、私は明らかに右翼側にいると思うからです。ですから理性というものには限界があると思うし、伝統には意味があると思います。 最近、私は『うちなー評論』で仲里効さんの天皇論について論評しましたが、その観点からに見ますと、仲里さんの考え方というのは徹底的に沖縄の土地に結びついたところから出ているので、非常に保守的であり、右翼的だと私は思います。仲里さんから怒られちゃうかもしれませんけれども。大田さん(注・大田昌秀)の考え方というのは左翼的な理性ということを学者としてぎりぎりまで詰めたところで最後は何か動かしているかというと、郷土愛です。同胞愛です。これは非常に広義においては私は右翼的だと思うんです。」 (大田昌秀・佐藤優『徹底討論 沖縄の未来』芙蓉書房出版、2010年1月、17~18頁。2009年6月6日、沖縄大学での講演) ------------------------------------------------------------------ 「大東亜共栄圏」や「憲法九条」への評価の180度の違い。右派メディアでの発言と異なり、左派の集まりでは恐ろしく恣意的な「右翼」定義により自己の立場を弁明する姿勢。こういうのを指して「二枚舌」と言うのである。これが、「当たり前のことで、何ら批判されることではない」わけがない。その他、対北朝鮮外交や朝鮮総連、朝鮮学校に関しても、佐藤が「二枚舌」を用いていることはこれまでさんざん指摘してきた。 繰り返すが、問題は佐藤よりも、佐藤を使うリベラル・左派メディアにある。佐藤は「何より金氏も元編集者であるなら、それはわかっているでしょう。」と言っているが、まともな編集者ならば、こんな書き手を使うはずがないではないか。 ブログ「横板に雨垂れ」のyokoita氏は、読者として、以下のように述べている。 「岩波書店は、佐藤氏が書いている文章の内容、また雑誌によって主張を微妙にあるいは露骨に操作し、使い分けている姿勢などを恐るべきことだとは思っていないらしいが、佐藤氏自身だけではなく、これを許容する出版社の姿勢も読者を欺く恐るべきことだと考える人間もいるのだ。金さんが編集部で問題を提起したとき、編集部の人たちにそういう読者の存在(私もその一人なのだが)は頭になかったのだろうか。読者からもし質問や強硬な批判が出てきたらどう対処するつもりだったのだろうか。これは、編集長だけではなく、編集者一人一人も問われることになる問題だろうと思うのだが、完全に無視・黙殺するつもりだったのだろうか。読者から自発的にそういう声が起こるとは考えなかったのかも知れないが、これは今も大きな疑問である。」 少なくとも、岩波書店、「世界」編集長、個々の編集者は、このような一読者の声に誠実に応えるべきではないのか。
by kollwitz2000
| 2010-06-22 00:00
| 佐藤優・<佐藤優現象>
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