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2010年 11月 29日
3.「戦後社会」の正当化とレイシズム
だが、今回の一連の言説に関して、公正性の消失を指摘するだけでは十分とは言えない。矛盾した話ではあるが、他方で、「正義は我にあり」として、普遍的な次元において自分たちの正しさは担保されているのである。そのような姿勢を可能にしているものが、私が論文「日本は右傾化しているのか、しているとすれば誰が進めているのか」で指摘した、「戦後社会」の擁護と「平和国家」日本という認識である。 「戦後社会」の擁護とは、戦後日本が過去清算を概ねまともに行なっていた、という認識と表裏一体である。さすがにこのような主張を大真面目に語る人間は少ないが、以下のような薬師寺克行・朝日新聞論説委員(元『論座』編集長)の主張がその一例である。 「戦争によって完全に崩壊したアジア諸国との外交関係を回復するため、戦後、日本政府は腰を低くして自らの行いの非を認めて謝罪するとともに、各国の経済発展に最大限の貢献をする外交を展開してきた。その結果、なんとかアジア諸国との友好関係を再構築するとともに、安定的な外交環境を自らの国の発展につなげてきた。/ところが、最近の首相や主要閣僚らの発言をみると、少なからぬ政治指導者がこうした戦後日本外交の積み上げを否定的にとらえているようである。」(薬師寺克行「序――いまこそ論壇の「構造改革」を」(『論座』編集部編『リベラルからの反撃――アジア・靖国・9条』朝日新聞社、2006年4月、3頁。強調は引用者、以下同じ))。 「(注・1986年の教科書問題からの)15年ほどの間のこの変化を「右傾化」といっていいだろう。かつては多くの国民も、植民地支配や侵略の歴史を踏まえて、中国や韓国の要求を冷静に受け止めていた。ところがいまは、首相の靖国神社参拝や歴史教科書検定問題について、隣国から文句が出ると、それに謙虚に耳を貸すのではなく、頭から「余計なお世話である」「他国にいわれる筋合いではない」と拒否する狭量な反応が増えた。」(同書、12頁) 薬師寺においては、「最近の首相や主要閣僚ら」や最近の「多くの国民」との対比によって、戦後日本があたかも歴史認識・過去清算問題についてまともな認識を持っていたかのように描かれている。だが、これこそ言葉の正しい意味での歴史修正主義と呼ばれるべきものである。近年の日本の「右傾化」は、まさに薬師寺的な、「戦後日本はちゃんと謝罪も賠償も済ませてきた」なる認識または<気分>が、日本国民(特にメディア上の人間)にいつの間にか確立してしまったがゆえに、中国や韓国の「反日」的な主張を、単なる非理性的なナショナリズムの現われとして斥ける回路が成立したがゆえに生じている。論文「日本は右傾化しているのか、しているとすれば誰が進めているのか」で指摘したように、戦後日本国家が「平和国家」という顔と、過去清算抜きの大日本帝国の継承者たる顔という二つの矛盾した顔を持っているがゆえに、このような回路が成立しているのである。 私が何度も指摘してきているように、2005・6年以後に日本のリベラル・左派内部で、「戦後社会」を肯定・擁護する声が圧倒的になるのとほぼ並行して、韓国や中国の「ナショナリズム」の過剰を批判・問題視する論調が支配的になっている。「戦後社会」の容認とは、そのまま、形式的な謝罪(細川・村山談話、日中共同声明)と、ほぼ皆無の戦後補償といった日本政府の施策を、そのまま追認することだからである。 このことを考える上では、『マンガ嫌韓流』シリーズが好例となろう。今回の日本のメディア・「世論」の反応は、まさしく『マンガ嫌韓流』そのものである。『マンガ嫌韓流』の表紙には、「韓国にはもう謝罪も補償も必要ないんだ!!」という言葉が絵入りで記されているが、この認識自体は、薬師寺ら、朝日新聞社やリベラル・左派の大多数にも共有されているものである。今の日本の朝鮮・中国(「特定アジア」)に対するメディア・「世論」の主張・心性を正確に代弁していると言ってよいだろう。日本側はそのような認識であるからこそ、いまだに過去の歴史や日本の責任について批判的に語る朝鮮人や中国人は、「反日ナショナリズム」に感染した、頭のおかしい人間、ということになるのである。「もう謝罪も補償も必要ないんだ!!」という認識と、レイシズム表現は一体化されているものであって、分離することはできない。「主張は正しいけれども差別表現はちょっと・・・・・・」という立場はあり得ない。「それならば、現在の日本政府の立場を肯定している限り、差別意識を持たざるを得ないとでも言うのか」と反論されるかもしれないが、その通りである。 要するに、日本の海外派兵の禁止、脱軍事化や、民族教育の保障、戦後補償の実現、歴史認識の是正など(これらも「補償」および「謝罪」である)が必要であるという認識か、本来日本が賠償すべきだったにもかかわらず中国政府が賠償放棄してくれた事実に感謝し、本来、日本政府や日本国民が、侵略の歴史を誠実に反省する義務を負っている(中国の民衆の認識は、これである)という認識に立たない限り、一個人だけではなく民族の多くが「反日」的に見えているのであるから、レイシズムを身につけざるを得ないだろう。現に、薬師寺も、上掲書では、「中国や韓国」の要求に対し、「包容力や寛容さ」(同書、11頁)を持って、「冷静」に対処するのが必要だといっている。「大人」(日本)が、聞きわけのない「子供」(中国・韓国)をあやすような視線だ。 また、レイシズムを単なる民族的・人種的偏見とのみ解釈すると、単なるプチブル風の「マナー」の問題になりかねないのであって、ハンナ・アレントが言うところの、マイノリティの「諸権利(を持つ)権利」の問題、マイノリティの主体性を否定する行為として解釈されるべきである。だからこそ朝鮮学校の無償化排除の問題はレイシズムなのである。2005・6年以降に蔓延した<佐藤優現象>もまさにそうであって、「<佐藤優現象>批判」でも指摘したように、2005年の中国の「反日」運動に対するリベラル・左派の衝撃と困惑がなければ、この現象は拡大しなかったと思われる。<佐藤優現象>とは、在日朝鮮人の権利性の端的な否定である。事実、これ以後の、在日朝鮮人の研究者、ライター、編集者の多くは、憐れみを乞う困窮者のように(こいつらもどうしようもないのだが)、「民族主義」や「北朝鮮」を批判する芸をリベラル・左派の日本人たちに見せ付けるようになっている。 現在のこのレイシズムの垂れ流された状態こそが、まさに「戦後社会」や、それを肯定・擁護する立場の帰結であり、そのようなものとして認識しなければならない。 4.軍事的「平和国家」路線の挙国一致状態 今回の尖閣問題においては、左派の多くが自発的に中国批判を展開していることを指摘したが、これと並んで重要な点は、この時期に、日本の政府レベルでも、「平和国家」という理念を謳った上での安全保障論が打ち出されていることである。まさしく、挙国一致での「東アジア唯一の平和国家」という自己認識が確立されたと言える。 2010年8月27日に首相の私的諮問機関「新たな時代の安全保障と防衛力に関する懇談会」が、「防衛計画の大綱」改定に関して答申した報告書は、「新たな時代における日本の安全保障と防衛力の将来構想――『平和創造国家』を目指して」と題されており、そこでは、「基盤的防衛力」概念(専守防衛、必要最小限の防衛力)の撤回、集団的自衛権の行使を禁じる憲法解釈の変更(弾道ミサイル迎撃など)、非核三原則の見直し、武器輸出の一部緩和、PKO参加5原則の見直し、他国部隊の後方支援等を提唱している。 菅直人も、9月の党首選の公約で、「(6)「平和創造国家」を標榜する外交」を掲げており、上の報告書の理念・提言を基本的に認めていると思われる。 この報告書では、以下のように謳われている。 「本報告書において、「新たな時代の安全保障と防衛力に関する懇談会」は、日本がその平和と安全を守り、繁栄を維持するという基本目標を実現しつつ、地域と世界の平和と安全に貢献する国であることを目指すべきであること、別言すれば、日本が受動的な平和国家から能動的な「平和創造国家」へと成長することを提唱する。」 「こうした安全保障環境下、日本の地理的特性、その経済力・防衛力の特性および歴史的制約要因の特性を考えれば、外交・安全保障の領域において日本がめざすべき国の「かたち」あるいはアイデンティティは「平和創造国家」と言える。これは、世界の平和と安定に貢献することが日本の安全を達成する道であるとの考えを基礎とし、国際平和協力、非伝統的安全保障、人間の安全保障といった分野で積極的に活動することを基本姿勢とする。」 「日本は、第二次世界大戦における敗戦の経験から、戦後一貫して、抑制的防衛政策をとってきた。日本は平和憲法に基づき、他国の脅威にならない専守防衛政策をとり、国民もこれを基本的に支持してきた。また、日米安保体制の下、主として自衛隊が対外的な拒否的抑止力の機能を担い、懲罰的な抑止力については基本的に米軍に依存するという役割分担を維持してきた。さらに日本は、他の先進国には例を見ない事実上の武器禁輸政策を維持し、憲法解釈上、集団的自衛権は行使できないものとして、その安全保障政策、防衛政策を立案、実施してきた。ただし、こうした政策は、日本自身の選択によって変えることができる。」 このように、報告書においては、戦後日本の「平和国家」路線を基本的に肯定した上で、その上で、能動的な「平和創造国家」への「成長」が目指されている。この報告書に対して、日経・読売・産経は肯定的で、毎日はやや批判的な立場に留まるが、朝日新聞やその他の地方紙、前田哲男(『世界』2010年11月号)などは批判している。だが、報告書の主張は、前田がかねてから提唱している「平和基本法」や朝日新聞の主張と、方向性を同じくしているものであり、基本的な対立点はない。朝日新聞社説の「提言 日本の新戦略―地球貢献国家を目指そう」(2007年5月3日)の一節を挙げてこう。 「在日米軍や基地施設は、中東までにらんだ米国のアジア太平洋戦略にとって要石の重要性を持つ。地理的な条件や社会の安定度などを考えれば、日本以外の国でこれだけ貢献できるところはない。米国のメリットは計り知れないものがある。/日本経済には米国市場へのアクセスは欠かせない。さらに、世界第1位と2位の経済大国が連携していることで、経済だけでなく、政治や外交面でも世界の安定感を高めているのは間違いない。/・・・・・・政治、外交の面で日米協力が持つ意味は極めて大きい。アジアの平和と安定のため、あるいは核不拡散やテロ対策などで米国の政策と共同歩調をとることは、国際社会を望ましい方向に導くことになるし、日本の影響力を高めもする。/国際公益を高めるような米国の政策には、積極的に応じるべきだし、日本側から協力を求めることももっとあっていい。そうした意味で日米戦略対話は現在より緊密にしていきたい。」 「「平和構築」には行政官やNGOの人たちを含む文民の活動がふさわしい仕事が多い。だが中には、武器を持った実力部隊でないと危険な時期や場所もある。そこに自衛隊の出番がある。/自衛隊の派遣は、日本にふさわしいものでなくてはならない。現地で歓迎され、実際に「平和構築」に役に立つ。あくまで憲法前文のような普遍的な理念に基づく派遣であって、「米国とのおつき合い」だけで海外に自衛隊を送るべきではない。」 このように、朝日新聞の掲げる「地球貢献国家」は、「平和創造国家」と本質的には全く同じである。 ちなみに、報告書の第5回(2010年4月8日)議事要旨には、「平和創造国家」の同義語として「平和構築国家」という言葉が用いられており、ここからも、「平和構築」を謳っている朝日新聞との共通性が読み取れる。そもそも戦後日本を「平和国家」として位置づけるという前提自体が虚偽なのであるから、その発展形として適用されたものが報告書のようなものになることは何ら不思議ではない。朝日新聞が、個別の論点に限ってどれほど反対しようが、海外から見れば同じであって、本質的な対立点は何もない。これは、前田が掲げている「平和基本法」の場合も同じである(「平和基本法」については「<佐藤優現象>批判」参照)。この路線をまとめて、軍事的「平和国家」路線と呼ぶことができよう。 このように、「戦後社会」を擁護した上での「平和国家」日本の自己肯定という自己意識が、2010年秋の時点で、政府レベルから保守派、左派まで取り込んだ「挙国一致」状態で確立していたのであって、その前提の下で、一連の尖閣問題が発生し、この自己意識をますます強固なものにしている、と言える。 この傾向は、「中国脅威論」でもより強化されている。もちろん中国政府にも国権主義的拡張の意志は強くあろうが、軍事力のバランスからして、中国の軍事力よりも日本と米国を合わせた軍事力の方があらゆる点で上であることは周知の事実である。台湾有事という可能性が厳に存在している以上、浅井氏が紹介しているように、「中国の軍事力はまだ日本に対抗するのに不十分であり、特に海軍力の配置からいって、日本の軍事力は大陸及び台湾より強いこと、しかも、日米同盟によって米軍が手出しする可能性も考えれば、状況は中国にとってきわめて不利だと判断」するという見解が、中国国民に支持されるのは当然である。私が全く理解不能なのは、このような構造があるにもかかわらず、「平和国家」日本が脅かされているとばかりに、中国の軍事大国化の脅威を主張する人々(特に最近は左派に多い)である。日米安保の下で、しかも米国基地が沖縄に集中して存在し、しかも日本では今回の尖閣問題の件に見られるように、中国への侵略に対する贖罪感のようなものも全く存在しないのだから、中国側が警戒するのは当然であって、そのような状態を不問に付したままでの「中国脅威論」は、国際的には全く説得力を欠くであろう。ちょうど、米国の核の傘の下にある日本が、「唯一の被爆国」として、他国の核政策を批判することに説得力がないことと同じである。 5.若干の展望 2010年秋において、論文「日本は右傾化しているのか、しているとすれば誰が進めているのか」で指摘したように、挙国一致での「平和国家」日本と周辺諸国の「反日」の主張との対立という構図が、極めて明確な形で成立したと言える。上の論文への反省点があるとすれば、それは、その構図の成立に基づいて、レイシズムが全面化することを明確に予期していなかったこと(福田和也や山口二郎の「ウヨク」または「サヨク」のレイシズムの問題としては取り上げているが)と、このような構図がこれほど早い段階で来ることを予想していなかったことである。 その大きな要因として、論文後に生じた、日本のリベラル・左派の民主党政権への支持という状況によって、左派や市民運動が実質的に崩壊したことが挙げられる。予想外に早く崩壊してしまったため、「平和国家」という理念を基軸に置いた形での軍事国家化、という路線への言論レベルでの歯止めが存在しなくなったのである。 ただ、幸いなことに、リベラル・左派の驚くべき脆弱さのお陰で、「東アジア共同体」路線という欺瞞もどうやら終了しつつあるようである(これについては後日述べる)。そもそも、中国だけを例にとっても、億単位で戦争被害者遺族が存在するのであるから、「東アジア共同体」路線が打ち出しているような「和解」論が成立するはずもなかろう。そのためには中国政府による民衆の「反日」の主張への徹底的な弾圧が前提となるが、そのようなことが大々的に生じない段階で「東アジア共同体」路線が崩壊しそうなのは、大変慶賀すべきことではある。 日本においては、軍事的「平和国家」路線でもはや国論は統一されており、それを急進的にやるか漸進的にやるか、といった程度の違いでしかない。しかも、往々にして、「憲法9条を輸出せよ」などといった主張をする「護憲派」が前者だったりするわけである。だが、そうした路線の前提となる「国際貢献」というのは、基本的には欧米帝国主義国や中国のような強大国のプロパガンダなのであって、日本が行なうべき「国際貢献」とは、例えば米国に追従して国連での発展途上国の票を買い叩くことをやめるとか、日本軍(自衛隊)の軍縮と在日米軍基地の縮小により東アジアの軍事的緊張を弱めるとか、戦前との連続性を有する社会意識・歴史認識の是正に取り組み、政府レベルで過去清算にまともに取り組めるような状態にするとか、要するに、現在の日本政府が行なっているさまざまな行為を縮小またはやめさせることである。そのためには、前から言っているように、中国や韓国の「反日」の声との連帯が必要である。 これは、大多数の日本国民自身のためでもある。例えば、安倍首相以降、首相の靖国神社公式参拝が止まったのは、明らかに中国の「反日」運動の影響である。リベラル・左派による、政教分離の観点からの反対など、大衆にはほとんど影響力を持たないのであって、安倍らが対東アジア外交への影響への懸念からのみ公式参拝を止めているのは明らかである。仮に、首相の公的な靖国参拝がある種の制度として確立してしまえば、それは海外派兵の際に兵員が安んじて戦死するための追悼施設が確立することを意味し、近現代日本の侵略と植民地支配の歴史が公的に容認されることを意味するから、日本社会の全面的軍事化はより早期に起こっていただろう。派兵国家化に不可欠なこの追悼施設の問題は、現在、膠着状態に陥っている。この一例だけをとってみても、これは逆説でもなんでもなく、平和に生きることを願う日本の民衆の大多数は、中国の「反日」運動に感謝すべきなのである。 そもそも、近代以降の日本の民衆運動・左翼運動は、支配層の徹底的な弾圧と運動指導層の簡単な転向によって、大した成果を挙げずに崩壊するのが一般的なパターンである。少なくとも現在のリベラル・左派の現状では、これまでの傾向を乗り越える可能性はない。現在の日本は、全面的転向直前の姜尚中が、あたかも遺言のごとく述べたように、「今の構図で言えば、中国や韓国が日本における最大の野党になっているわけです、外部からのね。そして、日本はそれを「内政干渉」だと切り捨てる。日本の中にちゃんとした野党がなくなってしまったがゆえの構図だと思うんです。」(『みんなの9条』122頁、2005年7月13・20日付インタビュー)、「(注・改憲問題は)残念なことだけれど99%がデファクトとして勝負がついているんですよ。ところが残りの1%で逆転できる可能性があるわけです。それなのに、逆転しようとするエネルギーが内発的ではなくて、外側の中韓がオポジションになっている。中韓が過去の歴史問題をめぐる相克という形で押さえつけている状況でしょ。」(姜尚中・丸川哲史「改憲阻止の新たな戦術――政教分離の原理原則論に立つ」『季刊軍縮地球市民』2005年冬号、2005年12月1日発行)という状況なのである。 したがって、論文「日本は右傾化しているのか、しているとすれば誰が進めているのか」と同じ結論ではあるのだが、「過去清算をろくに行なわず、また、当面は行なう見込みのない日本が、「普通の国」として軍事活動を行なうことへの、周辺アジア諸国の民衆からの抗議と警戒」という「外部」とどう連帯するかこそが、本質的な政治課題である。もちろんそうした「反日」の声の中には、「沖縄奪還」のような明らかな暴論もあろう。だがそのような極論・暴論が、日本批判の全体を否定する理由にはならない(そんなことを言い出せば、「朝鮮人絶滅」論すら主張する日本のネット右翼の発言を捉えて、拉致問題を取り上げることを否定することも可能になる)。既存のリベラル・左派が自滅して、大衆的な影響力はおろか、道義的に力のある発言すらほぼ不可能になっている現在こそ、好機であると思う。
by kollwitz2000
| 2010-11-29 00:03
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