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2011年 07月 16日
このところ、日の丸・君が代訴訟で教員側の敗訴が相次いでいるが、いくつかの論評を見てつくづく思ったのは、強制反対の論理が「思想・良心の自由」論の論理にほぼ席巻されてしまった、ということである。これは、リベラル・左派系のマスコミだけではなくて、ウェブ上でよく見られるような、「思想・良心の自由」論とは一線を画しているつもりであるように見える反対論もそうである。後者は、例えば、「沖縄や在日の人々の歴史を考慮しない日の丸強制はおかしい」とか、「日本には在日をはじめとした多くの外国人が住んでいる」とかそういったものであり、これらは確かに「思想・良心の自由」論に比べればマシではあるが、論理的には同型である。
私は5年以上前の「「思想・良心の自由」による反対論の陥穽」というブログ記事で、「東京都による押し付け以前にも、日の丸・君が代問題は戦後ずっと存在したが(田中伸尚『日の丸・君が代の戦後史』(岩波新書、2000年)参照)、大雑把に言って、大日本帝国との連続性の象徴として問題にされてきたのではなかったのか。90年代のどこかで、日の丸・君が代問題の「問題」としての認識が、大日本帝国との連続性という問題から、「思想・良心の自由」の問題に変容したように思われる。」と書いたが、私の指摘は全く顧みられなかったどころか、「思想・良心の自由」論に反対論は収斂してしまったかのように見える。 リベラル・左派系のマスコミで言えば、2008年10月に、『金曜日』が日の丸を肯定的にポスターで使ったことについてはこのブログで取り上げた。また、岩波書店が同時期の2008年11月に刊行した『食べかた上手だった日本人――よみがえる昭和モダン時代の知恵』なる書籍の表紙も、明らかに日の丸を(別段批判的意識もなく)模したものである。恐らく、2008年秋ごろに、リベラル・左派系マスコミにおいて、日の丸を肯定的に使ってもよい、という<空気>が成立していた、日の丸が解禁されていたのではないか、と思う。逆に言えば、それまでは、確かにタブーではあっても、あくまでも(マイノリティへの)「強制」がよくないのであって、リベラル・左派のマスコミ人個々人にとっても大した問題ではなかったということではないか。そのような前提の下で、リベラル・左派系のマスコミによる「思想・良心の自由」論は発せられているのである。彼ら・彼女らは、自分たちは日の丸強制には賛成しないことで、また、日の丸反対派を異端視する認識を共有することで、「良識派」という立ち位置を日本社会において確保できるのである。「立ち位置」の確保が目的なのであるから、有効な反対論になるはずもない。 ところで、こうした主張については、昔、金伊佐子と徐京植が既に批判している。徐による批判はウェブ上でも読めるので、日の丸・君が代問題について論じるならばせめてこのくらいは前提とされるべきだと思う(強調は引用者)。 「人のふんどし 「日の丸や君が代を『在日外国人もいる』ことを理由に反対されるのは困ったものだ。人をだしにせず、はっきりと自分がいやだから、強要される非民主性がいやだから、その歴史性や社会政治性を拒否するからと自分の立場で反対してほしい。(中略)日の丸や君が代は日本の、日本人の問題である。自分のふんどしで相撲をとってもらいたい。」 金伊佐子(キム・イサジャ)さんという在日朝鮮人女性の言葉である(「在日女性と解放運動」『リブとフェミニズム』岩波書店)。 私はこの言葉に、おおいに同感する。私自身、金さんが指摘している事態を、実感することが多い。一九八九年、昭和の天皇が死去したとき、恐怖とともにそのことを感じた。主要マスコミはまるで事前に相談したように足並みを揃えて、天皇の戦争責任を弁護し、また日本の戦後復興にとって象徴天皇制はよかったと異口同音に述べていた。天皇の戦争責任を追及する声は、韓国、中国、オランダ、イギリス……まるで日本の「外」にしか存在しないかのようだった。マスコミは、そして日本の識者たちは「人のふんどし」で相撲をとったのである。 「『在日』がいるから」と、日の丸・君が代に反対している人たちに問いたいが、もし日本に在日朝鮮人など在日外国人が一人もいなかったら、どうするのか。在日朝鮮人といってもその数は、日本の総人口のわずか〇・五パーセント程度である。もし在日朝鮮人の存在が日の丸・君が代反対の主要な根拠だということになれば、法制化推進派は在日朝鮮人を主要な標的とし、在日朝鮮人を黙らせ、ひいては排除することに力を注ぐだろう。そうした発想が極限に達したのが、ナチス・ドイツのユダヤ人絶滅政策だったではないか。万一そうした悪夢が現実になったとき、つまり「日本社会の和を乱しているのは一部の在日朝鮮人だ(だから、やつらを排除せよ)」という世論が形成され力をもったとき、現在ですら在日朝鮮人を口実に用いている日本人たちが危険を冒してまで朝鮮人を保護してくれるなどと期待できるだろうか。」 http://www1.jca.apc.org/anti-hinokimi/essays/suh.htm 金や徐の言葉に付け足すところはほぼないが、こう考えると、「90年代のどこかで、日の丸・君が代問題の「問題」としての認識が、大日本帝国との連続性という問題から、「思想・良心の自由」の問題に変容した」と昔書いたが、この「変容」自体は実は非常にスムーズだったのではないかと思う。「日の丸は沖縄(や在日)の人々にとっては苦い記憶」といった主張から、「思想・良心の自由」論はほんの一歩であるからである。多分、昔の私には「大日本帝国との連続性」という問題を問うていたように見えていた立場も、煎じつめれば大多数は「日の丸は沖縄(や在日)の人々にとっては苦い記憶」といった程度の、金と徐の言葉を借りれば「人のふんどし」を借りたものでしかなかったのではないか。 靖国問題でもそうだが、日の丸・君が代問題は、大日本帝国との連続性の象徴として認識されない限り、議論としてはほぼ無意味である。そう捉えない限り、日本国民としての政治的責任、という議論は出てきようがない。私は何も新しいことを言っているつもりはなく、上で金が言うところの「その歴史性や社会政治性を拒否するからと自分の立場で反対してほしい」ということであり、また、各地で強制に反対している教員個々人の多くの方々の認識はそのようなものであるだろう。 「沖縄や在日の人々の歴史を考慮しない日の丸強制はおかしい」という主張の人々は一応おくとしても(自らの立場を再検討していただきたいのだが)、「思想・良心の自由」論で強制に違和感を表明しているリベラル・左派は、主観的には「連帯」している「良識派」でありながら、大多数の日本人と同じ「良識派」として、その教員たちが異端者であることを社会に確認させているようなものである。自分たちは絶対に傷つかない構図になっている。 (つづく)
by kollwitz2000
| 2011-07-16 00:00
| 日本社会
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