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2011年 08月 02日
少し前に書いたブログ記事「日の丸論議について(1)」に対して、読者から、「あなたは裁判上の「戦略」と反対論の論拠を取り違えている。日の丸・君が代強制に対して「思想・良心の自由」を論拠にして対抗するのは、あくまでも裁判上の「戦略」である。だから、あなたの批判は意味をなさない」という趣旨の批判をいただいた。
だが、事態はむしろ逆だと思う。私も対週刊新潮・佐藤優裁判で「思想・良心の自由」論を用いているように、訴訟上では「思想・良心の自由」論で闘うのは当然である。問題は、日の丸・君が代強制に対抗する上での、あくまでも訴訟上の論理として出されていたはずの「思想・良心の自由」論が、いつの間にか、訴訟とは基本的には無関係のはずの言論領域でも反対論の主要な論理になってしまった点にある。時期的には1990年代か2000年代あたりであろう。だから、今や、新聞・出版メディアはもちろん、ネット上でも「思想・良心の自由」論以外の反対論にはほとんど遭遇できない。 私には、戦後補償訴訟も結局似たような経路をたどってしまったように映っている。1990年代に多くの戦後補償訴訟が運動の方向性として提起された時は、もちろん裁判で勝訴することも重要な課題ではあったろうが、もともと勝ち目が低いことは前提で、訴訟自体は戦後補償問題、歴史認識問題への社会的な関心を高めることに重きが置かれていたはずである。ところが、月日が経つにつれて、大日本帝国(日本国)の国家責任、歴史認識問題といった議論はほとんど後景に行ってしまって、被害者個人の人道的補償はどうなされるべきか、といった方向に論点が収斂していってしまったような印象を持っている。だが、そうなると問題は、日本の侵略責任・加害責任を根底から問うというよりも、問題は大日本帝国の機構の一部の悪辣分子が犯した例外的な事象ということになる。戦後補償問題は、(半)植民地関係に由来する歴史的・構造的問題に規定される形での人道的問題であるが単なる人道的問題(というものが可能であるとしてだが)ということになってしまう。 かつて上野千鶴子が「慰安婦」問題に対して例によって(「流行」だったから)いっちょがみしようとした際に、大勢いるはずの日本人元「慰安婦」が表れないのは、韓国の運動団体がナショナリストで、それに同調する日本人も含めてあたかも非侵略国出身者でないと名乗り出られないという雰囲気を作っているからだ、といった趣旨の批判を展開していたが、本来そのような議論は出る余地すらなかったはずなのである。だが、こうした上野の主張は、リベラル・左派の「気分」をうまく捉えていると思う(本当にこの人物は佐藤優と似ている)。 要約すると、戦後補償問題に関する現在のリベラル・左派の「気分」は、「被害者個人への補償は当然なされてしかるべきだが、それを支持する周辺諸国(民)の主張はいきすぎたナショナリズムであるから賛成できない。むしろ批判されるべき対象」といったものである。ではどこからどこまでが「健全で」どこ以上であれば「いきすぎた」ナショナリズムであるかとか、被害者個人の要求自体が「ナショナリスト」としての自覚に基づいてなされていた場合それは悪いのかとか、そもそも「ナショナリズム」ではなぜ悪いのかとか、そうした疑問にはこの種のリベラル・左派は何も答えてくれない。線引きをする主導権は日本人リベラル・左派にある、というギャグ漫画のような構図になっている。これは「気分」であって「論理」ではない。 私見では、戦後補償運動に携わっている人のかなりの人間も多かれ少なかれこうした「気分」を共有しているのであって、結局その種の戦後補償運動は、今の朝日新聞や文芸春秋やらの「昔の左翼のように(そんなまともな左翼がどのくらいいたかは知らぬが)戦前の歴史を悪一色で描こうとするのはおかしい、ただし、一時期の逸脱と愚かまたは悪辣な軍人たちの犯した犯罪は問題なので、「国益」の観点からも適切に処理すべき」いった史観と共存可能、というよりもむしろ相互補完的なものである(その点でも「国民基金」に似てきている)。 要するに、主張や主張者(の主観的善意)は1990年代から大して変わっていないように見えながら(実は主張自体も微妙に変わっているのだが)、言説の機能は根本的に変容している。かつては、周辺諸国(民)の声に呼応し、大日本帝国の負の遺産を持つ日本の過去清算を実現すること、派兵国家化を阻止することが国民としての政治的責任である、という論理であったはずだが、既述のような変容の下では、もはや「国民としての政治的責任」は存在しないか、例外的な事例にのみ適用されるものとなる。派兵国家化云々などといった論点はもはや存在せず、「国民基金」のように、日本の「政治大国」化にあたっての不可欠なツールとして利用されることも普通に起こるだろう。少し前に話題になっていた「慰安婦」立法案などはその典型である。 裁判を契機にして、反君が代・日の丸の主張(教員の当人たちは別として)も、戦後補償の主張も、現存の日本国家を根底的に批判するという視座を失って、包摂される道を進んだように思われる。そもそも裁判とは、定義上、現存の日本国家を所与の前提として展開されるものであるから、反対論の主要な論拠が訴訟上のそれと同一化してしまえば、包摂されるのはごく自然である。そして、裁判を契機にして、リベラル・左派は、自分たちに都合のよい「立ち位置」を発見してしまったのだ、と私は思う。日本国内(の言論界)では、「良心派」として振る舞いつつ、絶対に傷つかないという絶妙の場所である。そして、日本国内ではネット右翼だの在特会だのといった連中が野放しにされているから、彼ら・彼女ら「良心派」はいつまでたっても「良心派」の立場を確保し、主観的にも「良心的」のつもりのままでいられる。 私は、何か特定の人物や団体がこのような「立ち位置」に誘導した、と言っているのではない。このような大規模な変容――転向現象は、日本のリベラル・左派の大多数の政治的な無意識という形でしか説明できないものである。
by kollwitz2000
| 2011-08-02 00:00
| 日本社会
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