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2011年 08月 08日
1.
昔から思っていることであるが、アカデミズムやマスコミ、(ネット)論壇周辺の在日朝鮮人(亜)インテリ、特に日本社会に対して批判的(「反日」的)な在日朝鮮人は、個別の日本人に対しては驚くほど無防備である。彼ら・彼女らの話を聞いたり言動を見たりしていると、日本人は、「差別的な一般の悪い日本人」と、「差別意識を持っているはずのない良心的日本人」の二つに截然と分かれているようである。彼ら・彼女らには、そのような場とは無関係な、取り立てて「反日」的でない普通の在日朝鮮人が往々にして持っている「所詮日本人だから・・・」という感覚・認識がない。 90年代以降に在日朝鮮人(亜)インテリがアカデミズムや(ネット)論壇周辺で消費されてきたのはなぜかというと、上のような認識を持っている在日朝鮮人(亜)インテリと付き合うことによって、「良心的日本人」は日本国民としての政治的責任、という問題系を回避できるからだと思われる。上野千鶴子が典型であるが、彼ら・彼女らは、口先では国民としての政治的責任云々を認めるが、これは、こちらが言うことについて何でも「うんうん、わかるよ」と答えながら、その実何も考えが変わらない人間と同じである。彼ら・彼女らにおいては、「日本人」というよりも、自らはむしろ「市民」(地球市民)なのである。 彼ら・彼女らによる日本政府批判というのは、社会を変えるためというよりもむしろ、「自分はこのような醜悪な日本国家に代表されるところの日本国民ではない」ということをアピールする(誰にだ)ため、と見た方が実態に適合している。国民としての政治的責任という認識があれば、そもそもそのような逃げが成立すると考えるはずもないのであるが。典型的には朝鮮学校無償化排除問題であって、あれだけ数多くの署名が集まるにもかかわらず、大多数の行動には結び付かない。しかも、リベラル・左派が挙って支持した民主党政権であるのに。 もともと「戦後民主主義」やそれへの批判者である旧左翼や新左翼自体が、このような日本「市民」そのものであったと思うが、現代的なものとしてはそれほど古くなくて、基本的には90年代以降であると私は考えている。90年代初頭、日本政府が周辺諸国の民衆から戦後補償問題を突きたてられた際、一部では国民としての政治的責任、という議論も出たけれど、結局歴史認識問題は「ナショナリズム批判」といった下らない議論に収斂していった(最近の高橋哲哉も、この種の「ナショナリズム批判」に回帰してしまっている)。この頃以降に論壇で流行った、「思想・良心の自由」論にしても、「公共性」論にしても、「国民としての政治的責任」論に基づく政治的行動、という主張の否定として機能したと見ることができる。 戦後補償問題に直面した日本「市民」たちは、本来引き受けるべき歴史があまりにも重すぎることに気付いたから、「国民」として引き受けることをやめて、「市民」性を純化したのだと私は思う。原発危機後の日本の光景のようなものだ。現状の危機を強調する情報を信じると、自分たちが取り返しのつかない体験をしてしまったことになるから、大多数の日本人はそれらを気にとめないか、「危険厨」的に消費することにしたのである。かくして、パニックにも陥らず今日も日本社会は平和である。 当然であるが、私は政治的行動の主体としての「市民」という概念を承認しているし、日本には「論壇」に影響されないまともな「市民」がいることも知っている。だが、ここで論じるような類型の人々を論じるにあたって、彼ら・彼女らのよく使う「市民」という言葉以外になかなかよいものがないのである。ここでは、「市民」は、「国民」の(潜在的な)否定形としての「市民」という言葉を自己規定として使用している人々であり、かつ、アカデミズムやジャーナリズム、論壇で活躍する人々や、そこでの言論に影響を受けている人々を指している。 ただ、そのような意味での日本の「市民」の問題性は、日本でなぜ市民運動が韓国程度にも強くならないか、という点とも絡んでいると思う。少なくとも一部の例からすれば、日本の「市民」運動の一部には、リーダーが簡単にマスコミに取り込まれて、運動それ自体が消費されてしまい、恋愛問題などが絡んだ人間関係のトラブルで自滅する、という一つのパターンがあるように見受けられる。弾圧すらいらない。 2. 現在の日本「市民」の特徴を3点に要約すると、①日本政府批判、②ナショナリズム批判、③社交性、が挙げられる。 過去の日本政府の(対外的)行動の醜悪さが明白であるから、それへの防衛機制として日本「市民」は成立したと見ることができる。繰り返すが、その醜悪さを変えようするよりもむしろ、その醜悪さから自分たちは無関係だ、と主張するためのものとして「市民」概念は機能している。 これと②の「ナショナリズム批判」の関係については、現在の朝日新聞主筆である若宮啓文の発言が興味深い。その本を捨ててしまったので正確な引用ではないが、若宮は著書『闘う社説――朝日新聞論説委員室2000日の記録』(講談社、2008年10月の中で、「自分たち朝日新聞は、日本政府に対して一貫して批判的立場を堅持してきたから、中国・韓国に対しても批判する資格が他のメディアよりもある」というようなことを書いていた(注)。もちろん批判は勝手にすればよいが、「日本政府に対して一貫して批判的立場を堅持してきたから」批判する資格が増すという思考法は絶対的におかしい。ここには、日本国家を批判する(といっても大したものではないが)ことによって、いかに日本「市民」が「国民」としての歴史的被拘束性から離脱でき、自由な「判定者」として振る舞えるようになる(と認識されている)かが端的に表れている。世界に冠たる日本「市民」は、日本「国民」としての責任を回避することで、第三者的立場から、世界の諸問題を消費する「資格」を得ることができる。 彼ら・彼女らにとって、ナショナリズムや民族主義というものは、宗教や病気のようなものであって、(教養ある)自分たち日本「市民」は決して感染しないもの、ということになっている。佐藤優がナショナリズムを宗教論の観点から説明しているのも、このような「市民」の好みに媚びたものであろう。だが、それは日本の圧倒的大多数が単一民族であるという、欧州極右の理想郷たるような国家であるがゆえに、民族問題について自己の問題として考える機会がないことの反映でしかない。90年代以降のナショナリズム批判の「論壇」での流行は、そのような日本の現状に規定されたものでしかないし、最近の萱野稔人らの「ナショナリズム」復興論も、この種の「市民」的な気分を継続させたまま、それを裏返したものでしかなく、前に私が批判した以上のことを改めて論じるまでもないだろう。 3. 在日朝鮮人が韓国国籍または朝鮮籍を維持していることに関しても、彼ら・彼女らからすれば、民族主義に洗脳されている可哀想な人か、日本政府が日本国籍取得の選択権を与えなかったためにそうせざるをえない人、ということになっているはずである。だから、彼ら・彼女らは、なんとかして在日朝鮮人に日本国籍を取得させて民族主義という洗脳から離脱させてあげたいとの善意の下、「権利としての日本国籍取得」を可能にするだのといった主張を行う。国民としての歴史的責任という認識が欠落しているから、在日朝鮮人が歴史的権利に基づいて、韓国国籍または朝鮮籍を未来永劫維持する、というのは民族主義に基づいた我儘な主張、ということになる。 日本「市民」を含めた日本国民全般においては、歴史認識問題と安全保障問題に関して、日本が周辺諸国から未来永劫にわたって制約を受けることはあってはならない、と考えているようである。だから、過去清算は基本的に終わったという認識を持っている日本「市民」からすれば、それ以上の日本批判は「反日ナショナリズム」だということになる。 だが、これは、日本「市民」においては、国民としての歴史的・政治的責任という概念が本質的に欠落していることを意味している。国民としての政治的責任という概念の一つの核心は、歴史認識問題と安全保障問題に関しては、未来永劫、日本国家が日本国家である限り、周辺諸国から制約を受ける、という点である。ドイツとイスラエルの関係のようなものだ。対中国に至っては、1000万人以上の中国人を殺しておいて賠償を免除してもらったのだから、制約を受けるのは当然という発想が全く出てこないのが日本「市民」を含めた日本国民のすごいところである(もちろん南北朝鮮に関してもそうである)。 日本「市民」は、「戦争の惨禍の結果として、私たちは日本国憲法を獲得しました」といった類の言説を好むが、前から書いているように、それは対外諸国への誓約という形に翻訳されてのみ意味がある。ところが、日本「市民」は、「憲法9条は第二次世界大戦への人類の反省に基づく、カントの平和理念の具現化」などといった与太話を延々とやっている。 4. ③の社交性というのは、結局、彼ら・彼女らの目的というのは社会変革ではなく社交であり、そのためのツールとして種々の社会問題が使われている、ということである。彼ら・彼女らはあらゆる制約から逃れているから、あらゆる話題を「自由」に論じることができる。18世紀ヨーロッパのコーヒーハウスが市民的公共性の起源という紋切り型をもじれば、コーヒーだけ飲んで駄弁っているような光景だ。冷戦崩壊後の世界規模の諸問題の浮上という歴史的時期に臨んだ、教養俗物層の知的態度として、このような「市民」的あり方は極めて適合的であったと言える。今日のアカデミズムや論壇、ジャーナリズムのそれぞれの相互乗り入れや馴れ合い、ツイッターのような場を見ても、この種の「市民」的あり方がいかに必要かは自明であろう。日本で多少でも本を読んで、世界の諸問題を消費したいという階層に属していれば、日本「市民」にならない方がおかしい。 こう考えると、彼ら・彼女らが依拠する立場というのは、何も無い、ということになる。だが、この無思想かつ無節操なこの日本「市民」の立場が、在日朝鮮人の(亜)インテリたち(なかには在日朝鮮人の「ナショナリズム」を批判するような馬鹿もいるが。そのような言説は端的に甘えに他ならない)と連動して、一つの大きな層のように、アカデミズム・ジャーナリズム・(ネット)論壇をおおっているのもこれまた事実である。その異常さを指摘するのは難しくないが、これは、(戦後)日本の歴史的風土に基づいたものであり、かつ90年代以降に強化されたものであるから、極めて強固なものである。まともな「市民」の言論を展開したいと考える人々は、こうした立場を「人民戦線」的に「仲間」として扱わず、徹底的に批判しなければならない。 (注)「過去に悲惨な被害を与えた歴史があればこそ、我が身をたださない限り相手にしっかり物申すことはできない。そう朝日新聞は考えがちだ。しかし、それが余計な遠慮になっていないだろうか。歴史の発展段階も考えれば、先進国として先行した日本が余裕をもって相手を見ることが必要なことは言うまでもないが、自国に厳しく物申せばこそ、むしろ中国や韓国にも物を言う資格があるのではないか。いや、過去に誤ったナショナリズムで失敗した歴史を持てばこそ、その教訓を他の国には生かしてもらう必要がある。それは私自身が考えていたことだった。後述するように、朝日新聞はのちに中国各地で激しい反日デモが起きたり、韓国の廬武鉉大統領が感情的な対日発言を繰り返したりしたとき、これに強く物申す社説を載せたのだった。」(同書、第二章より)(2016年8月4日追記)
by kollwitz2000
| 2011-08-08 00:00
| 日本社会
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