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2012年 03月 08日
大分間隔が空いてしまったが、連載「在日朝鮮人言説の変容について」の続きである。未読の方は、前回までの文章をあらかじめ読んでおいていただきたい。
「在日朝鮮人言説の変容について(1)」 「在日朝鮮人言説の変容について(2)」 7. 前回の末尾で書いたように、今回は、87年頃から90年前後、言いかえると91年頃までの姜の在日朝鮮人規定を検討する。この時期の姜の在日朝鮮人規定に関する発言は、姜がメディアに積極的に登場する前(姜のテレビ番組『朝まで生テレビ』(テレビ朝日)への最初の登場は1991年1月25日放映「異議あり!!湾岸戦争・ソ連そして日本」の回)であること、発表媒体のほとんどがマイナーな在日朝鮮人向けのそれであるということから、恐らくほとんど知られていない。だが、この時期の検討を抜きにすると、姜の転向史、または一在日朝鮮人知識人の日本社会への適応史が、極めて平板かつ真実から離れたものになってしまう。この検討を通じて90年代以降における在日朝鮮人の言説変容を考察するのがこの連載の趣旨である。 ありがちな――といっても極めて限られた人々になるであろうが――認識は、姜は、80年代の「本国志向」から90年代に「在日志向」に移行(転向)した、というものである。これまで見てきた梁泰昊との論争における姜の文章は、飯沼二郎編『在日韓国・朝鮮人』に収録されたこともあり、在日朝鮮人言説に関心がある人間にはそれなりに知られているものである。だから、それだけを見て90年代以降の姜の文章と比較すると、それを肯定するにせよ批判するにせよ、上のような認識になることは自然である。 だが、このような図式で姜の80年代から90年代にかけての在日朝鮮人言説を捉えることは、それを肯定するにせよ批判するにせよ、「本国志向」と「在日志向」の対立図式を再生産することになる。これは結局のところ、90年代以降の(姜に代表される)在日朝鮮人言説――「共生」論は、従来の在日朝鮮人の偏狭な本国中心主義的自己規定を脱して、日本社会を「共生」社会に作りかえていくことを志向し、「複合的アイデンティティ」および在日朝鮮人内部の「多様性」を尊重したものであって、最低限、そこに一定の意義は認められなければならない、という結論に落ち着くことになる。 だが、87年頃から91年頃までの姜の在日朝鮮人規定を検討した結果、事態はそのようなものではないどころか、むしろ逆とすら言えるのではないか、と言わざるをえない。以下、この時期に姜が在日朝鮮人について論じた、関連文章を列挙する(一応、文献は可能な限り探索したつもりだが、ミニコミ誌・講演記録等で発見できなかったものもあるかもしれない。その場合はご教示いただければ幸いである)。 ①「「在日」に未来はあるか」(『季刊三千里』50号、1987年5月) ②「「最底辺」で思うこと」(『ウリ生活』1号、1987年11月) ③「「異郷と故郷」で思うこと」(『ウリ生活』2号、1988年5月) ④「われわれにとって日本とはなにか(1)「昭和」の終焉とわれわれ」(『ウリ生活』4号、1989年5月) ⑤「昭和の終焉と現代日本の『心象地理=歴史』」(『思想』1989年12月) ⑥「日の丸・君が代と国歌――「在日」からみえてくるもの」(『ほるもん文化』1号、1990年9月) ⑦「ポスト91年」と在日の将来」(姜尚中・文京洙・鄭章淵『民権協連続講座 90年代と在日』(在日韓国民主人権協議会、1991年11月)所収の講演録。目次に、1991年5月23日の講演との記載あり) 8. まず確認しておきたい点は、この時期の姜が、在日朝鮮人の結集を企図した主張を積極的に展開しており、また、自らもそのために活動していくことを表明しており、実際にそのような活動を行なおうとしていた形跡が認められる点である。 上で姜が寄稿している『ウリ生活』という雑誌は、「在日同胞の生活を考える会」という団体が非定期的に発行しているものである。②の末尾で姜は、「「在日」の個々の微視的な利害と文化運動との緊張を解消しうる民族・民衆の文化世界が切り開かれなければならない」と述べた上で、以下のように述べている。 「「在日」の貧困な現実を見るとき、それは余りにも過大な願望と思われるかもしれない。しかし志は高くあってほしいと願うのは私だけではなかろう。「考える会」はそれを目ざして歩んでほしいと思う。微力ながらこの私もその歩みに連なりたいと願っている。」 また、④の論文は、表題には「連載」と書かれており、結局この1回限りで終わってしまったものの、以下の末尾の文章からすると、それなりに長い連載になる予定だったようである。 「わたしは本誌上をかりて、これから数回にわたりこの問題(注・「われわれにとって日本とはいったい何であるのか」という問題)に挑んでみたい。「在日」の歴史が刻まれている戦後日本とはどのような時代であるのか、それは戦前とどのような関係にあるのか、その断絶と連続の関係はわれわれの「現在」とどうかかわっているのか。さらに七〇年代末から恐ろしい勢いで変容をとげつつある現代日本の社会と文化はいかなる特徴をもっているのか。また、そのことは「在日同胞」の圧倒的多数を形成しつつある若い世代の意識にどういった影響をおよぼしつつあるのか、こういった諸問題を問うてみたいのである。」 これらの引用だけでも、姜がこの雑誌にある程度積極的に関与しようとしていたことは明らかであろう。実際に、当時を知る人によれば、姜は創刊当初、この雑誌にある程度関与しようとのことである(事務所にも姜の単行本が山積みされていたらしい)。では、この雑誌の発行元の団体である「在日同胞の生活を考える会(仮称)」はどのようなものであったのか。 この団体は、現在でも(その後継団体が)「在日同胞の生活を考える会」として存続しているが、ややこしいことに、少なくとも1999年までは「在日同胞の生活を考える会(仮称)」という名称である。姜が『ウリ生活』に連載していた当時も「在日同胞の生活を考える会(仮称)」である。連載時の同誌に掲載されていた「「在日同胞の生活を考える会」(仮称) 結成準備会趣意書(案)」が「(案)」とされていたのは、恐らく「(仮称)」とされているからであって、実質的にはこの雑誌・団体の基本的方針を説明したものと考えてよいであろう。この「趣意書(案)」の末尾には、「一九八四年十一月二十五日 「在日同胞の生活を考える会」(仮称)結成準備会一同」とある。 この「趣意書(案)」によれば、この団体は、「在日同胞相互の交流は希薄になり、同胞の紐帯と信頼を築く機会が喪失され、少なくない同胞がそのために「帰化」・「同化」の選択を迫られています。この憂うべき選択の危機は、私たちみんなの生活にいつもまとわりついています」との認識の下、「民族を愛する主体的な文化創造と生活擁護を図る同胞の同胞による、同胞のためのアイデンティティの確認の場・協同体を作ろうと発意」して作られたとある。また、「私たちは、この間、営々と積み重ねてきた日本での生活の重みを確かめながら、同時に、祖国の統一と民族の将来に思いをいたすのが自分たちの進むべき道であると信じます。」とある。 そうすると、姜の関わりからすれば、姜も上の「趣意書(案)」に基本的には同意・共感していたと見ることができる。すなわち、この時期の姜自身が、「同胞の同胞による、同胞のためのアイデンティティの確認の場・協同体」を作りたいと考えていた、ということである。 9. 以上の姜のこの時期の基本的立場を確認してきたが、この時期の姜の主張を簡単に見た上で、90年代以降の姜の言説への変容の形態に関して、個別論点ごとに検討することにしよう。 まずは、姜のエッセイ「「「在日」に未来はあるか」(①)を見ておこう。これは、『季刊三千里』の最終号に書かれたものであるが、注目すべきは、姜が、前出の「方法としての「在日」――梁泰昊氏の反論に答える」(『季刊三千里』44号、1985年11月)の発表からわずか1年半しか経っていないにもかかわらず、その立場を大きく変えている点である。 ここでの姜の立場の特徴は、「定住外国人」志向を積極的に打ち出した点にある。姜はここで、「「在日」の存在条件に根ざした自律性を確保しつつ「定住外国人」として生きることが一人一人の生の喜びと自己覚醒につながるような豊かな文化と生き方を共に創造すること、このことが、「在日」の未来を切り開くことになるはずである。」と明確に述べている。 第2節で述べたように、梁泰昊との論争における姜は、その時点で流通している「定住外国人」論を批判していたのであって、定住外国人概念そのものを批判したのではなかった。したがって、立場の変化とは言えないという反論があるかもしれない。 だが、以前の立場とは、指紋押捺拒否運動に関する位置づけが変わっている。第4節でも引用したが、「方法としての在日」では、 「それぞれの位相における「在日」の生が、「在日」という所与の事実に拝跪せず、その存在の二重性の根拠に目醒め、あるべき祖国との有機的な関連の環を見失わないならば、それは、そうしたベクトルヘと収斂していく方向に向かって自らの位相を克服・昇華していくことができるであろう。日々の生存に必要な活動も、人権・市民権のための闘いも、あるいは「指紋押捺拒否運動」や民族文化活動も、右に述べたようなスペクトルのなかでその全体における意義が評価されていかなければならないのである。」 と、「あるべき祖国との有機的な関連の環」との関連の中で指紋押捺拒否運動の意義は評価されるべきとしていたにもかかわらず、この「「在日」に未来はあるか」では、以下のように述べている。 「「在日」の至るところから澎湃として沸き起こった押捺拒否運動は、そのまわりに幾重にも波紋を投じながら二世・三世の「定住外国人」としての意識を高揚させたはずである。それは、なしくずし的に「日本人」へと溶解していく「自然の流れ」に歯止めをかけ、また同時に日本国家の「国際化」の本質がいかに歪んだものであるかを白日のもとにさらけ出した。そして何よりも、それに呼応する形で日本人の良心的な地域住民が支援の輪を広げてきたことは、注目されるべき事態であると言えよう。」 ここでは、指紋押捺拒否運動により「高揚」された「定住外国人」意識は日本人化を食い止めるものとして積極的に評価されている。だが、前述のように、梁泰昊との論争においては、流通している「定住外国人」論について否定的評価であるがゆえに、指紋押捺拒否運動の意義は「あるべき祖国との有機的な関連の環」との関連の中で評価されなければならない、と言っていたのである。ところが、ここでは指紋押捺拒否運動への評価の基軸が、「定住外国人」の日本社会における地位向上のそれへと根本的に変わっている。 しかも、ここでは、「何よりも」と強調までして、「日本人の良心的な地域住民」の支援を肯定的に評価している。これは、梁との論争期には見られなかった傾向であり、前述したように、「戦後四十年間、そしてこの十年間、たしかに日本社会は変化してきた」などとして、むしろ梁こそが存在すると主張していた「事態」である。こうした転換には、姜が後の自伝『在日』(講談社、2004年3月)で語っているように、姜自身の指紋押捺拒否とそれを支援する日本人市民との出会い、という体験が影響を及ぼしているのかもしれない。 また、この「「在日」に未来はあるか」においては、90年代の姜の在日朝鮮人規定のキーワードとなる「あいだ」なる概念が登場していることも注目に値する。 「「定住外国人」としての「在日朝鮮人」というとき、それはどのような軛のもとで生きているのであろうか。ひとことで言えば、それは、南北に分断された祖国から物理的に疎隔される一方、居住地日本において差別のスティグマを強要され、不断に自己解体の危機に瀕している海外定住同胞の現状の総体を指し示している。このことは、「在日朝鮮人」が南北朝鮮・日本・「在日」という重層的な諸条件のもとに置かれた「間」(あいだ)に生きる、両義的あるいは多義的な存在として、南北朝鮮と日本の磁場から発せられる強力な磁力に引き裂かれかねないマージナル・グループであることを意味している。この相克から脱却する方途として、これまでは祖国への憧憬をともなった帰依があり、またその対極には日本への同化、帰化があったように思われる。」 「これまで民族=国家を中軸とする国家至上主義的な体質からすれば、国境との間にいわば鸚的に存在する「在日朝鮮人」は、得体のしれない存在として常に治安取締りの対象であった。」 従来の、在日朝鮮人は「祖国」を持ち、在日朝鮮人の政治的・社会的営為も「あるべき祖国との有機的な関連の環」からその意義が評価されるべきとしていた立場を放棄して、「定住外国人」規定に移行すると同時に、在日朝鮮人は「あいだ」に生きる存在だ、との言説が浮上しているのである。だが、ここではまだ、後述するように、90年代の「あいだ」論のように単純化・政治概念化されていない。ただし、このような認識が浮上してきていることはこの時期の特徴として指摘できよう。 この文章でもう一つ重要なのは、姜が、在日朝鮮人としての「共通の基盤」の創出するための運動を行うことを強く主張している点である。上で挙げた「在日同胞の生活を考える会」(仮称)の「趣意書(案)」の言葉を借りれば、「民族を愛する主体的な文化創造と生活擁護を図る同胞の同胞による、同胞のためのアイデンティティの確認の場・協同体を作ろう」としているのである。 姜はまず、在日朝鮮人の階層化を鋭く批判する。 「資本の国際化の要請によって、「在日」の中から、生産あるいは不生産を問わず、経済セクターの中心部への吸収されてゆく部分は、これまで以上に増えつづけていくことであろう。それは一面では、「在日朝鮮人」の一部が、経済的なパフォーマンスにおいてその能力を実証することであり、在日朝鮮人の地位向上につながっていることは言うまでもない。しかし、日本社会のなかで地域的にも階層的にも「脱落」していく部分がふえつつあるように、「在日」にもそれと同じような現象が起こりつつあるように思われる。「在日」の大多数が経済セクターの中心から排除され、周辺的な部分に追いやられてゆく一方、ごく一部の二世・三世が中心ないしは亜中心へとリクルートされていく動きは、今日の「定住化」の問題とも絡んで、「在日」のなかに不協和音をもたらしつつある。それは多様化というよりもむしろ、幾層にもコマ切れ的に分断された「分極化」現象とも言うべきものである。/ここにおいてはっきり言えることは、「在日」を「在日」たらしめている、あるいは自らを「在日朝鮮人」として自覚することのできる共通の基盤が見失われつつあることである。/このことは、南北間のイデオロギー的な対立の意識よりも、もっと深刻な意味をもっていると言わなければならない。」 姜の指摘は的中し、このような階層化は、今日、もはや修復不可能なまでに進んでしまっている。もちろん「中心ないしは亜中心へとリクルート」された在日朝鮮人の象徴が姜なのだが。 その上で姜は、在日朝鮮人による民族文化の育成、そのための文化運動の必要性を熱弁する。 「点的な存在である「在日朝鮮人」が、その民族性を公然化しながら地域に「定住する外国人として生きていくことができるためには、それを可能にする民族文化の創造的な育成がともなっていなければならない。先にも述べたように、地域的、階層的、また経済的な分断線によって疎隔されている「在日朝鮮人」が、それらの障壁を乗り越えて、共通の運命とアイデンティティを確かめ合い、その人間性=民族性を肯定的に伸張させていくためにも、民族文化の創造に「在日」のすべてが参加できる機会と共通の機会と共通の広場が確保されていなければならない。/その場合、この民族文化は同時に民衆的な文化運動の形態をとる必要があろう。・・・・・・それは、現在進行形で続いている民衆世界の荒廃、資本や国家によるその「植民地化」に抗う拠点の創造という、きわめて今日的なテーマに応えうる文化でなければならない。それは、質的な違いはあっても、祖国と「在日」がともに経験しつつある苦渋であり、その自覚を民族=民衆文化の日常的な蓄積のなかから深めていく必要がある。」 「民族文化の創造とは言っても、それは、祖国での現代的な展開をそのまま模倣するだけでは不十分である。「在日」が祖国とは位相を異にしている以上、「在日」の独自性に根ざした民族=民衆文化の地平を目ざしていくことが重要である。・・・・・・この方向で「在日」の文化的アイデンティティの基軸を模索していくことで、二世・三世の意識はその独自性を確保しながら、自ずから「分断時代」に喘ぐ南北朝鮮の現在にむけられていくはずである。そしてそのなかから、祖国と自分たちとの絆を再発見する糸口がつかめるのではなかろうか。」 このように、ここでの姜の論理構成は、在日朝鮮人は「定住外国人」として生きていくがゆえに「民族文化」の育成が必要であり、それを媒介として祖国との絆を再発見しうる、というものになっている。梁との論争期の「祖国定位論」とは明らかに異なっており、このような論理構成になっているからこそ、ここでは以前よりも、在日朝鮮人の結集と文化運動の必要性をより強調する、という形になっているのである。 このように、姜は1987年の時点で既に「祖国定位論」を放棄しており、在日朝鮮人の結集を企図した運動を志向するようになっている。これだけならば、姜の「在日志向」は90年代よりも前から始まっていた、ということを意味するに過ぎない。問題は、この時期の姜の「在日志向」と、おおよそ92年頃以降の姜の「在日志向」――こちらこそ姜の主張として一般的に知られているもの――の質的な相違である。以下、個別論点ごとに検討する。 (つづく)
by kollwitz2000
| 2012-03-08 00:00
| 姜尚中
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