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2012年 03月 08日
10.
相違点の一つ目として、日本社会認識の変容が挙げられる 前述の①~③のそれぞれでも厳しい日本社会批判は見られるが、ここでは④と⑤におけるそれを紹介しておこう。昭和天皇の死去のすぐ後(1989年5月)に発表された④の「われわれにとって日本とはなにか(1)「昭和」の終焉とわれわれ」では、以下のように記されている。 「日本人が忘却の淵に沈めておきたい「歴史の汚点」、その最たるもののひとつは、言うまでもなくわれわれ(注・在日朝鮮人)の存在であろう。だが、老醜をさらけ出して生ける屍となった「象徴」がただ無意味に延命し続けていた間、この国の津々浦々で演じられた「狂態」は、「歴史の汚点」にさらに新しい「汚点」をつけ加えるものであった。その「巨大な寺院」と化した社会の片すみでじっと息をひそめていたわれわれに沈黙の強制だけでなく、死に瀕した「象徴」への忠誠が強要されたのである。日本人の仮面をかぶって生きる多くの同胞に課されたこれらの「踏絵」ほどに、われわれの「現在」を象徴するものはないといえる。われわれは今度も、「殺された」のである。それは四度目の「死」であった。植民地時代、日本敗戦時、「日韓条約」締結時に続いてわれわれを襲った第四番目の「死」である。われわれは生きながら「死」を宣告されたにひとしかったと言えるのではないか。」 「このような事態の推移に多くの同胞たちがほぞを噛む思いがしていたのではないだろうか。天皇の葬儀の日、首都圏はさながら戒厳令の制圧のもとにおかれ、「自粛」という名の有無を言わさぬ抑圧移譲と動員の体制が敷かれることになったのである。それはいわば「国家総動員体制」のシミュレーションともいうべき一大イベントであり、国家の絶対力を遺憾なく顕現させる絶好の機会だった筈である。・・・・・・大正デモクラシーから昭和の軍国主義への暗転を考えれば、けっして安穏としていられるわけではない筈である。今は「戦後民主主義」の惰性で「総動員体制」にいろいろなほころびがあるとしても、一〇年後、あるいは二〇年後、その網の目は高度な管理テクノロジーと相俟って鉄壁の包囲網となるのではないか、こんなうそ寒い予感がよぎるのである。しかも、進歩派の知識人と言われる連中が、「昭和」の天皇は「平和主義者」であり、天皇の心を「拝察」するに、彼は不本意ながら戦争を行ったのであり、内心は平和を望んでいた、と臆面もなく強弁してはばからない「醜態」をみるにつけ、すでにこの国には歴史に逆行する濁流はほとんどなくなりつつあるのではないか、と思わざるをえないのである。/このようにみてくれば、われわれ「在日韓国・朝鮮人」のおかれた「在日」という情況がこれまでとは違った意味でいかに苛酷な様相を呈しつつあるのか、がわかる筈である。時あたかも指紋押捺拒否者の闘いが「天皇恩赦」による「免訴」とともに宙づりのまま、その正当性に封印が捺されようとしている。「昭和」天皇の最後の勅令であった「外国人登録令」を前身とする外国人登録法の不当性は不問にされたまま、事態は四〇年前の地点に一巡して舞い戻ったかのようである。日本一流の「みそぎ」を終え、晴れて「平和」と「民主主義」の新しい天皇の誕生ということになるのであろうか。「手品師」は新しいトリックでもって息を吹き返したのである。それはまた、変容する現代日本の新しいシステムにマッチしたソフトな天皇制のはじまりなのであろうか。われわれが直面しつつある、これまでとは違った意味での苛酷な情況とは、そのような新たな段階の社会編成に向けたしわよせなのかもしれない。われわれはあらためて、今日の地点から問わなければならない。われわれにとって日本とはいったい何であるのか、と。」 まるで今日の状況を予見したかのような文章である。むろん、「二〇年後」、姜自身が昭和天皇と現在の天皇、天皇制を賛美するようになるに至ること(「姜尚中はどこへ向かっているのか――在日朝鮮人の集団転向現象 2」参照) は、当時は知る由もない。 また、「昭和の終焉と現代日本の『心象地理=歴史』」(⑤)は、昭和天皇の死直後の日本社会のマスコミ論調に「戦後民主主義そのものが空白の彼方に消えてしまうような眩暈をおぼえるほど」の衝撃を受けたという姜が、高校日本史教科書における「近代の始まりのなかの朝鮮像」を検証したものであり、全体が日本(人)の朝鮮(人)観批判となっている。この文章の末尾には、「昭和の日本が、目も眩むような高みに登りつめ、その幕をおろそうとしているそのとき、退嬰的な自民族中心主義に蝕まれた日本の姿が、よりはっきりと浮かび上がってくることになったのである。」とある。 また、1990年9月に発表された⑥の「日の丸・君が代と国歌――「在日」からみえてくるもの」でも、姜は以下のように述べている。 「(注・1990年)四月以降の、「日の丸」掲揚、「君が代」斉唱の実施状況をみる限り、一部での根強い抵抗があるにもかかわらず「特に大きなトラブルや混乱はなく、数値の上では義務化が『効果』を上げた格好」になっている。おそらく義務化が制度的・日常的に定着していけば、早晩義務化に対する違和感も薄らいでいくことであろう。なしくずしのままにすべてが「国家」にかかわる領域へと囲い込まれていきつつあることにほとんどの日本国民が抵抗感を感じなくなっていること、この不気味としか言いようのない勢いは一体何を意味しているのだろうか。この面妖な印象は、あの天皇の死去にともなう天皇賛美一色で塗りつぶされたマスコミのフィーバーぶりに感じたものとほぼ同じである。」 「世界に例を見ない「平和憲法」に支えられた「民主国家日本」というとき、その実態は冷戦のもとでの対米従属によって叶えられた「一国内平和」の別名に他ならなかった。このことは「旧植民地出身」の「在日外国人」に対する処遇をみれば明らかであろう。その根っこにあるものは基本的にさほど変化してはいないし、また朝鮮戦争、ベトナム戦争と日本の関係をみても「一国内平和」の内実がどんなものであるか、ほぼ理解できるはずである(もちろんこれらに対して反戦平和の運動がもりあがったのは事実であるが、それは国民全体の運動とはなりえなかったし、またその「成果」が次の世代にまで継承されてきたとは言いがたい)。」 また、姜が1991年5月23日に、在日朝鮮人の運動団体で行なった講演の記録「ポスト91年」と在日の将来」(⑦)では、以下のように発言している。 「在日朝鮮人を、アメリカやソビエトや中国といった日本以外の国々におけるマイノリティーのようにとらえることはできない。日本ほど、極めて特殊な、おそらく世界の中でこれほど特殊としか言いようのない歴史と国の仕組みを持っている社会はないわけです。」 「(注・戸籍制度の)血統原理の集約点に、私はやはり天皇制があると思うんです。そのような基本的な日本型の動員体制は明治以降に作られましたが、その骨格は、1945年の敗戦によっても根本的には変わっていない。ですから、憲法第1条に「天皇は日本国の象徴である」とあるのは、まさしく、戦前と戦後を媒介する戦後の平和憲法に明文化されている1つの極めて象徴的な規定ではないかと思います。/それゆえ、今まで在日朝鮮人が日本の人々にとってこれほどにも無視され、軽視され、ほとんど問題にされてこなかったのです。日本の比較的進歩的と言われている憲法学者も、在日の問題もついては議論さえまともにしてこなかった。戦後補償の問題においてもそうです。これは、戸籍制度や血統主義によって成り立つ日本型の動員体制について疑いの目を持たずに、戦前も戦後もそのまま継承してきたからではないでしょうか。」 「私たち在日の問題を国際人権やあるいは国際的なレベルまで引き上げて考えていこうとすれば、日本の社会を根本的に作りあげている核心部分の修正を迫られます。なぜ在日朝鮮人をこれほどまでに日本国家が敵視してきたのか、それは私たちの存在自体が日本という国の近代国家の成り立ちの核心部分に触れるような存在だからです。そういうふうに考えざるを得ないんじゃないかと私は考えます。」 以上見てきたように、1991年頃までの姜においては、地域の可能性は確かに着目はされてはいても、日本社会の本質的閉鎖性、天皇制(的なもの)による日本社会への規定性が強く意識されていると見ることができる。 さて、姜は、1992年8月に刊行された『季刊青丘』13号に、「「在日」の新たな基軸を求めて――抵抗と参加のはざまで」(⑧)という文章を発表する。これは、90年代に、姜が在日朝鮮人規定について一般流通誌で本格的に語った最初の文章である。それではこの文章が何故に「新たな」ものとして打ち出されているのかを見ていこう。 姜はここで、「地域」を在日朝鮮人の「新たな基軸」として打ち出している。 「「地域」を拠点に日本人との市民的ネット・ワークを濃密にし、その裾野を広げつつ、それと「在日」全体との接点を探っていくこと、ここに異民族として日本社会のなかで居住しつつ、住民として地域社会に積極的にコミットしていく展望が開かれていくことになるのではないか。そのためにはすでにその動きが顕在化しつつあるように、地方参加権を獲得し、それを「地域」の場で具体化していく方途を模索していくべきである。・・・・・・もちろん「地域」は、他方では草の根のナショナリズムの温床となる側面ももっており、かならずしも「在日」に開かれた場であるとは限らない。しかし民族として、そして住民として「地域」に抵抗しつつ参加し、参加しつつ抵抗するところに、「在日」の等身大の将来を思い描くことができるのではないか。」 「もし住民として地域社会に参加しつつ、しかも文化的自決権の主体としてその民族性を涵養していく可能性が開かれていくとすれば、「在日」の積極的な参加は結果として日本の国家を内側に向けて開いていくことになるはずであり、そのことは間接的に日本の民主化に貢献し、ささやかではあっても、その国家主義的な拡大に対する抑割となるのではないか。」 姜は、第3節で取り上げた梁泰昊と同じく、「日本の民主化」への貢献という主張をするようになっている。既に見たように、1987年から姜は既に「地域」に着目しているが、ここで打ち出されているイメージは何やら「新たな」ものに見える。だが、その新規性は、文言よりも、むしろ姜の日本社会認識の変化に濃厚に表れていると思われる。 姜はここで以下のように述べている。 「戦後日本の社会は、近代日本の国家形成の原型に本質的な変容を迫るような決定的転換を経て出発したわけではない。それはむしろ逆に三〇年代から四〇年代初期の戦時動員体制を冷戦の環境のなかで温存しつつ、戦後的な新たな装いのもとに復活させることで成り立ちえたものである。戦時動員体制の日本的形態は、近代日本国家の原型を「世界戦争」の危機をバネに超国家主義にまでエスカレートさせることにより、国民を「国策」としての戦争に完璧なほどに動員することに成功した。敗戦によって大きな打撃をこうむったとはいえ、この制度は戦後には「国策」としての成長主義に国民を動員し、経済大国への道をひた走ることになった。/こうした特異な超国家主義の戦後的形態が、そのなかの異分子である「在日」に対して敵―味方の論理を押しつけようとしたことはある意味では必然であった。なぜなら上からの動員体制は常に国家へのローヤリティなくしては片時も存続しえないからである。「在日」が同化と排外の脅威にさらされ続けて来たのもこのためである。しかし冷戦の終焉という「世界戦争」の時代の終わりは、同時に戦時体制をコアにした日本社会の成り立ちにその大きな変化をつきつけつつある。「国際化」とはそのような趨勢のひとつのあらわれであり、「虚妄の国際化」という面があるにせよ、いわゆる「日本的システム」といわれているものにも変化の兆しが表われつつあることは間違いない。ここに「在日」にとって微かではあれ、その将来を展望していくのに必要な新たな条件の醸成を見て取ることができる。」 ここでの姜の記述によれば、「超国家主義の戦後的形態」こそが、在日朝鮮人を「同化と排外の脅威」にさらし続けてきたのであり、戦時動員体制により形成された「日本的システム」が崩壊すれば、在日朝鮮人は脅威から解放される、ということになる。これは、当時、山之内靖らが展開していた戦時動員体制論を安易に適用しただけの、馬鹿馬鹿しい主張である。少なくともここから導き出せるのは、日本社会の本質的閉鎖性という、それまでの姜が保持していた認識を、既に失っている、ということである。 これは、単なる揚げ足取りではないのである。前述の講演記録⑦でも、姜は「戦時動員体制」という概念を用いているが、そこでは以下のように発言されている。 「単純に言うと、日本の戦前・戦後を貫く基本的に変わらないものは「戦時動員体制」だと考えています。/どういうことかというと、第1次世界大戦によって、戦争というものをてことして社会の総動員体制のあり方というものは、1945年に完全に敗北したと私たちは考えてきたわけですが、私はかたちを変えて戦後も動員体制は、むしろ極めて経済主義的な形で現れてきていると見ています。軍事的な目標ではなく経済的な目標に大きな価値がシフトしたわけですが、社会の動員体制のあり方は基本的には変わっていない。/例えば天皇制の問題、日の丸・君が代の問題、国家を中心とする教育の問題、企業にまるがかえにされるような日本の社会のシステムのあり方、民主主義をめぐる問題、人権をめぐる問題、さらには「戸籍」というものを基本的な単位とする単一民族国家的なあり方。そういう国家あるいは強力な集団というものが、国民を常にある一定の総体的な目標に向けて動員できるようなシステムを、戦争を通じて日本は作ってきたと思うのです。それが第1次世界大戦でしたし、第2次世界大戦でした。/それは軍事的な敗北によって一応は後退を余儀なくされましたが、45年から50年までの日本の戦後革命というものを見ると、それは朝鮮戦争によって完全に逆コースというか、非常に不徹底に終わり、むしろ戦前型の動員体制がそのまま無傷の状態で残ってきた側面がある。そのことがやはり戦前と戦後の1つの日本のある種の連続性というか、日本の中で昭和というある時間の単位の中で、戦前と戦後が比較的そんなに断絶せずに続いているということを指しているのではないでしょうか。/このことは日本というきわめて特殊な社会の中で、異民族として在日朝鮮人が生きていくことが極めて困難であるということを一方で示していると思うんですね。これは在日朝鮮人を、アメリカやソビエトや中国といった日本以外の国々におけるマイノリティーのようにとらえることはできない。日本ほど、極めて特殊な、おそらく世界の中でこれほど特殊としか言いようのない歴史と国の仕組みを持っている社会はないわけです。/その中で一体在日朝鮮人が、自らのアイデンティティーを保ちながら生きていくのはどうしたら可能かという問題を考えていく時、日本社会の戦前戦後を貫く動員体制というものを、やはり私たちはしっかりと押さえておくべきだと思います。/なるほど確かに今、国際化というかたちで日本の社会のあり方や、一般の若い世代の文化のあり方の許容範囲が、非常に大きくなっています。しかしながら、一方において、今言ったような戦時動員体制型の、つまり、すべての市民や国民を全体の目標に向けていつでも動員できるようなシステムができあがっています。そこに、日本の民主主義の脆弱さがあります。それから異民族を許容できないような構造というものができあがっているのではないでしょうか。」 このように同じ「戦時動員体制」という言葉でも、⑦においては、「三〇年代から四〇年代初期」に限らず、日本近代史を貫く一貫したものとして捉えられており、安易に「変化」するものとはされていない。また、より比喩的な意味で用いられている。こうした対比は、次の論文でより鮮明になる。「「在日」の新たな基軸を求めて――抵抗と参加のはざまで」(⑧)の発表から約半年後に、同じ『季刊青丘』に発表された論文「「在日」のアイデンティティーを求めて」(『季刊青丘』15号、1993年2月)(⑨)がそれである。 姜はここで、近代の日本国家が、一見同質性が高く見えるがゆえに、「その地理や政治、言語や文化的な単位の点で外部から判然と隔絶した「特殊性」をそなえているはずである、という、「純粋な想像の共同体」意識にとらわれ続けてきた」と指摘した上で、以下のように述べている。 「今日いわゆる「日本的システム」と呼ばれるものも、日本文化論のイデオロギーが喧伝するように日本固有の文化システムに根差したものではなく、三〇年代から四〇年代にかけての戦時動員体制のなかで原型が形づくられたものである。それはソ連邦やそれに倣ったナチス・ドイツの計画経済のシステムを導入することで実現されたものであった。/国家は「統制会」を通じて企業レベルに分散している情報を効果的に計画経済=戦時統制経済に反映させ、戦争遂行に必要な資源と人員の有効的かつ長期的な配分をしようとしたのである。・・・・・・このシステムは未完の戦後改革をくぐり抜けて延命し、戦後日本の経済システムに比較的スムーズに組み込まれていったのである。/国民の文化的な価値や意識の面からみるならば、この歴史のある局面において人為的に形成されたシステムは、常に日本文化の古くからの伝統的な特殊性のあらわれとみなされてきた。ここに同質的なナショナリズムとその単一のアイデンティティーの「虚構」が、戦後の国策としての成長主義に対して潜在的な仕方で十分作動し続けてきた根拠がある。「同質性」と「特殊性」の神話が「国際化」の時代においても依然として根強く生き続けているのも、日本型国民国家の甲羅から脱却しえていないからである。/このような日本社会の特異なナショナリズムと文化的な「モーレス(心の習慣)」は、常に単一のナショナル・アイデンティティーしか許容してこなかったし、それが一元的な国家管理を可能にしてきたのである。この限りで複合的なアイデンティティーの条件はきわめて困難にならざるをえない。「在日韓国・朝鮮人」をはじめとする少数者に対するハードな抑圧・管理と同化の強要もここに起因している。/それでは朝鮮半島の場合はどうか。こと韓国に関する限り、民族、言語および文化的な複合性を許容する条件は日本と同じようにきわめて困難であると言わなければならない。」 このように、ここでは、国民国家論へのより一層の依拠によって、日本社会の本質的閉鎖性という認識がより一層希薄になっている。姜は、前節で引用したように、かつて「われわれにとって日本とはなにか(1)「昭和」の終焉とわれわれ」(④)で、昭和天皇死去の際の日本社会の異様な光景に接して、「われわれは今度も、「殺された」」とまで言っていたのである。興味深いことに、姜は④の中では、「戦時動員体制」とほぼ同義の「総動員体制」という言葉を用いつつ、「今は「戦後民主主義」の惰性で「総動員体制」にいろいろなほころびがあるとしても、一〇年後、あるいは二〇年後、その網の目は高度な管理テクノロジーと相俟って鉄壁の包囲網となるのではないか、こんなうそ寒い予感がよぎるのである。」と述べていた。ところが、「「在日」の新たな基軸を求めて――抵抗と参加のはざまで」以降の姜においては、「戦時動員体制」または「総動員体制」は「日本的システム」と同義と見なされ、それが制度疲労を起こしていて崩壊しうるという認識に変化している。すなわち、日本社会の本質的閉鎖性・特殊性=天皇制という認識が、国民国家論の全面的導入により消失したと言える。 (つづく)
by kollwitz2000
| 2012-03-08 00:01
| 姜尚中
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