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2012年 03月 10日
13.
この講演記録⑦の1991年5月から約1年の間に、姜の日本社会認識において、どのような変化が生じたのだろうか。この点を考える上で、姜がこの時期頻繁に言及している、「戸籍」に関する発言を検討することが示唆的であると思う。 姜は、講演記録⑦では、以下のように述べている。 「私は最終的に異民族と日本人とを分けるものは何かというと、戸籍しかないと思います。最終的にはそこにいきつきます。戸籍がない人間は、ある意味で日本の社会の中で人外の人だと思うんですね。」 「戸籍制度というものはやはり日本という社会を成りたたしめている根幹だと思います。それが日本の場合、ナショナリティを形成している。ですから、よく日本が単一民族的な非常に同質的な社会だと言われているのは、その根幹には実は戸籍制度があるからなんですね。世界の中でも戸籍制度というものを、これほどまでに徹底して完成したというのは、私は日本しかないと思うのです。」 「戸籍制度こそ日本型の動員体制の根幹をなしている。ですから日本の人々が、自分は日本人であり、そして自分たちの社会は非常に同質的な社会であって異民族とは違う、そういう違いを確認できる最終的な根拠はそこにあるわけです。」 「言うまでもなく、戸籍制度は血統主義になっています。つまり血の原理によって成り立っています。そうすると日本に異民族が60年、70年いたとしても、血統が違う限りは日本人には成り得ない。ところが中国残留孤児の場合には、彼らが日本には実体として生活の根拠が今までなかったにもかかわらず、中国残留孤児は日本人であると認定され、戸籍が証拠だてられれば、その日からすぐ日本人になり得るわけです。」 「これが戸籍制度を貫く血統原理です。そしてその血統原理の集約点に、私はやはり天皇制があると思うんです。そのような基本的な日本型の動員体制は明治以降に作られましたが、その骨格は、1945年の敗戦によっても根本的には変わっていない。ですから、憲法第1条に「天皇は日本国の象徴である」とあるのは、まさしく、戦前と戦後を媒介する戦後の平和憲法に明文化されている1つの極めて象徴的な規定ではないかと思います。/それゆえ、今まで在日朝鮮人が日本の人々にとってこれほどにも無視され、軽視され、ほとんど問題にされてこなかったのです。」 このように、ここで姜は、戸籍制度を「日本という社会を成りたたしめている根幹」と位置づけた上で、その血統原理の集約点として「天皇制」があるとしている。一応、それまでの日本社会の本質的閉鎖性、という認識の延長上にあると言えるが、これは実は危うい議論である。この講演では、そのような疑問が出るまでもなく強固であるという前提になっているようであるが、問題が戸籍制度に特化されるのであれば、戸籍制度が変われば問題ないのか、ということになりかねないからである。 その意味では、⑦の時点で問題は含まれていたともいえる。この問題が顕在化するのが約1年後の『アジアから読む日本国憲法』の講演であり、そこでは、戸籍制度および日本社会への認識自体が変質していることが読み取れるのである。 姜は、ここで以下のように発言している。 「日本民族から日本人に変わったという時に一体何が変わったのか、実は今申し上げたおうな、日本国民及び国民主権という考え方の中に、その国民の範囲というものが結局は戸籍法を土台にして、日本国内に定住している旧植民地出身者に関しては国民の埒外に置いていたことは、私はまちがいないと思うんです。/それを一体どのように考えていったらいいのか。もしその国民という範疇の中に、旧植民地出身者をも加えて、自分達の社会への共同の参加権というものを認めていたとしたならば、私はすでに日本の社会は戦後の出発的において「国際化」されていたと思います。悲しいことですけれど戦前の日本は帝国主義という形で「国際化」しました。敗戦の直前、形の上では当時の植民地にいた人々には国政参加権が与えられました。これは一度も行使されずに八月一五日を迎えたわけですけれども、国家総動員のために旧植民地出身者にも参政権を与える、これは帝国主義がやったいわば戦争に参加させるための代償でした。ゆがんだ形で「国際化」されていったわけです。/このゆがんだ形で「国際化」された状況が戦後においてはすべて忘却され、そして日本民族という言葉は、日本人という言葉に素早く変えられてきました。そこにおいて日本はすでに帝国主義という形で「国際化」されていたという現実をすべて、忘却してきた、ないしはそれに対して目をふさいできた。あるいは少なくともそれを過小評価してきたと思うんです。」 姜はここで、竹内好のようなことを言っているが、これは、竹内の主張がそうであるように馬鹿げた議論であって、1945年4月の衆議院議員選挙法改正(次回選挙からの朝鮮への適用。実際には、朝鮮の独立により施行されず)は、それこそ戦時動員の手段以外の何者でもなく、肯定的に評価されるべき「国際化」とは何の関係もない。ここで興味深いのは、姜がここで、戦後直後の日本で旧植民地出身者が「日本国民」に統合されること(これは言葉の正しい意味での「同化主義」である)を「国際化」として肯定的に語っている点と、「戸籍法」を土台にして構成されている「日本国民」の枠組みが、旧植民地出身者を含み得たかのような可塑性を持っているかのごとき発言を行なっている点である。 戸籍制度の可塑性という見解は、「在日韓国・朝鮮人に日本人は外国人として接するべきか」という聴衆からの質問への姜の回答に、より顕著に表れている。姜は以下のように答えている。 「「在日」の人達を外国人というべきかどうか、さらに日本国籍を取得して公務員の一般職に就きたいという人がいるかと思えば、「在日」のアイデンティティを考えている人がいる。どのように日本の方々は考えたらいいのか。非常に難しい問いです。それは、「在日」自体が今、これまでのようにはっきりとした、枠組の中でとらえられなくなったからです。」 「その中で日本の人々が「在日」に対してどういう対応をしていったらいいのか。これは逆にいうと、自分達がよっかかっている日本人という共同幻想というか、想像の共同体というものを自分達がどうとらえているかにかかってくる、と私は思います。そこには日本人というものはアイデンティティがはっきりしているはずだという暗黙の前提があるんではないでしょうか。はたしてそうでしょうか。日本人とは一体何か。何をもって日本人というのか。戸籍の中に日本人があるから日本人というんでしょうか。ある人類学者もいう通り、ナショナリズムというのは想像の共同体だとすれば、これはフィクションです。自分達はまちがいなく日本人であるという一つの確証はどこに持てるのか。結局これは戸籍以外にない。このようにして戸籍の由来というものを考えていくと、これは日本の徴兵制度を整理させるために大きなテコになった制度です。そのように考えていくと、自分達のアイデンティティは暗黙のうちに、ソリッドではっきりしているという前提で、「在日」のアイデンティティはよくわからないという問いをする前に、では一体、日本人とは何なのか、それをもう一回問い直す必要があるんじゃないでしょうか。社会主義の終焉の中で、お互いがゆらいでいる中で、本当にあるべき自分達のアイデンティティというのは何なのか。それを模索していかなきゃならない。」 この回答はそもそも奇妙である。「在日韓国・朝鮮人に日本人は外国人として接するべきか」という問いはそもそも「非常に難しい問い」でも何でもないのであって、「外国人として接するべき。ただし、日本の植民地支配に由来する歴史的経緯があるため、日本国民と同等の市民権を持つ「外国人」として」とでも答えればよい。それはさておき、ここで注目されるべきは、⑦の講演記録では、戸籍に登録されることが日本人であることを証立てるという事実に関して、「最終的に異民族と日本人とを分ける」ものとして、また、血統主義と天皇制に基づいた堅固なものとされていたにもかかわらず、ここでは、その事実は、日本人という規定の恣意性・虚構性を示すものとして提示されていることである。つまり、戸籍に登録されることが日本人であることを証立てるという事実に関する評価が逆転しているのである。 もちろん姜は、『アジアから読む日本国憲法』でも、「日本国民とはまさしく日本人として血を共有し日本国籍法及びその土台となる戸籍法に基づいて、日本国民のナショナリティが与えられる」(21頁)と述べており、戸籍制度が血統主義に基づくものである、という認識は変化していないと思われる。だが、戸籍や血統主義の問題は、天皇制や、それが象徴する日本社会の本質的閉鎖性という問題とは切り離されてしまっている。 このように見てくると、前述の「「在日」のアイデンティティーを求めて」(⑨)における論理が、戸籍登録=日本人という事実の恣意性・虚構性を強調する姜の新しい評価と同一であることが見て取れよう。既に見たように、姜は⑨において、「日本的システム」という日本社会の否定的な側面の恣意性・虚構性を強調している。恣意的・虚構的であるがゆえに、天皇制および日本社会の本質的改変なしに、「日本的システム」の除去が可能であるかのように書かれている。そうすると、日本社会の特殊性・特異性とは一体何なのか、そもそも存在するのか、ということにもなろう。 上で見たように、⑨では、「国民の文化的な価値や意識の面からみるならば、この歴史のある局面において人為的に形成されたシステムは、常に日本文化の古くからの伝統的な特殊性のあらわれとみなされてきた。ここに同質的なナショナリズムとその単一のアイデンティティーの「虚構」が、戦後の国策としての成長主義に対して潜在的な仕方で十分作動し続けてきた根拠がある。「同質性」と「特殊性」の神話が「国際化」の時代においても依然として根強く生き続けているのも、日本型国民国家の甲羅から脱却しえていないからである。/このような日本社会の特異なナショナリズムと文化的な「モーレス(心の習慣)」は、常に単一のナショナル・アイデンティティーしか許容してこなかったし、それが一元的な国家管理を可能にしてきたのである。」と述べられている。だとすれば、姜は日本社会の「特異」性を、「日本文化の古くからの伝統的な特殊性のあらわれ」という「虚構」に基づいて形成された、「同質的なナショナリズムとその単一のアイデンティティー」なる概念が支配的である点に見ているようである。そうすると、その側面を指して「血統主義」と呼ぶとしても、それは比較可能な「特殊性」、神話に過ぎない「特殊性」ということになる。⑨から約1年後に発表された「転形期の「在日」と参政権――複合的アイデンティティの可能性」(『季刊青丘』20号、1994年5月)(⑩)において、そのことは明瞭に見て取れよう。ここでは以下のような記述がある。 「国家的秩序のゆらぎが進みつつあるのは、そうした「単純性のパラダイム」によっては、複合的な諸要素の変化が仕掛けてくる挑戦に耐えられなくなっているからである。/具体的に日本の場合についていうと、欧米諸国と較べて、「外国人」が占める人口比率は極端に少なく、国内の先住民族の割合も相対的に低いため、単一民族=国家の神話がしぶとく生き続けていることは知ってのとおりである。しかもこの神話は、大戦中の二〇年代から四〇年代にかけて作られた国家統制の総力戦体制のもとで社会の底辺にまで浸透するようになった。この国民総動員体制は、戦後改革の変型と挫折のなかで形を変えて蘇生し、戦後復興の日本型モデルに貢献することになったのである。」 日本社会で「単一民族=国家の神話」が根強いのは、単に人口比率と総動員体制のためであるようだ。天皇制、日本社会の本質的閉鎖性という問題は完全に消えている。 この文章は以下のように続く。 「しかし冷戦の崩壊以後、そうしたモデルは明らかに耐用年数を終えようとしている。政治や経済、社会や文化にいたるまで「改革」が叫ばれているのも、そうした現代日本の転換期を示している。このことは逆にいえば、国民総動員型のハードな国家秩序に対して、複合性と多様性を尊重する市民型社会が確実に根を下ろしつつあることを意味している。」 当時の「政治改革」や規制緩和の動きと、「複合性と多様性を尊重する市民型社会が確実に根を下ろしつつあること」が結びつくはずがない。姜は恐らく地域社会を希望の根拠にしたいのだろうが、地方議会こそがむしろ右翼的な各種の決議を採択する場であることは周知のことである。こうした、ほぼ根拠のない希望的観測は、「いずれにしても、「在日」の側からの参政権の要求に共鳴する内外の条件がある程度成熟しつつあることだけは確認しておかなければならないだろう」という、今日から見れば信じがたい楽観的な発言につながる。 このように、姜において、国民国家論やポストコロニアリズムの導入と、天皇制や日本社会の本質的閉鎖性という認識の消滅はほぼ同時に生じている。むしろ、天皇制や日本社会の本質的閉鎖性という認識が消滅したがゆえに、国民国家論やポストコロニアリズムの旗手としての姜が出現した、と言った方がよいだろう。ついでに指摘しておくと、これは、日本における国民国家論やポストコロニアリズムそれ自体が、天皇制や日本社会の本質的閉鎖性・排外性といった問題との対決を回避した、左派の転向イデオロギーの一形態であることを強く示唆するものである。 (つづく) ■
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by kollwitz2000
| 2012-03-10 00:00
| 姜尚中
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