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2012年 03月 13日
15.
姜が放棄した日本社会認識についてもう少し述べておこう。在日朝鮮人の批評家であり、かつて『日本のなかの朝鮮問題――文化のファシズムと在日朝鮮人』(現代書館、1986年)という示唆に富む本を刊行した、元省鎮は、1995年の文章で以下のように述べている(「私たちの民族性にとって「同化」とは何か」『ウリ生活』第12号、1995年8月)。 「民族的誇りは文化的優越感なしには生まれえないとは言えないにせよ、初期の在日同胞(すなわち一世)は歴史的事実をありのままに受け止めるという形で、そのような意識を持ち、その反面で日本人に対する蔑視感情も内に秘めていたと言ってよいであろう。/ところが、そのような一世でさえ、今日では在日同胞の「帰化」がかつてほどの抵抗感を覚えないようになってきたと言える。これは要するに、一世を含めた在日同胞の全体がそれぐらいに日本に同化してしまっているということであろう。/もちろん、このような変化は、日本人側の在日同胞への対応の仕方と密接につながっている。いま、それについて簡単に整理すれば、次のように二段階に分けることが出来るであろう。すなわち日本人側は、在日同胞一世がまだ多数を占め、その「移民性」が色濃い時期には排除の傾向を強く見せたがゆえに「帰化」も容易に認められなかったが(第一段階)、在日同胞が実質的に日本に同化した段階では、その同化の完了としての「帰化」を積極的に支持するようになる(第二段階)ということである。/現在はまさに、この第二段階に来ていると言えるが、注意すべきなのは、この二つの段階に日本人側の思考様式の変化があったわけではないということだ。すなわち、日本人の側では上記の第二段階がただい一つの「落ち着き先」として想定されてきたのであり、第一段階から第二段階への移り行きはすでに当初から見通されていたのものである。これを分かりやすく言うと、在日同胞の日本人化という実体がなければ「帰化」の意味がないということなのである。日本において、異民族の同化とは、終局的にはそれら異民族の民族的徴表を残さない形での同化を意味するものであると言える。つまり、日本という「場」では異民族が「少数民族」として残ることさえ阻害する、ある特別な力が働くのである。/「同化」の問題を考える時、私たちは何よりも、多くの在日同胞が当初から日本ふうの姓を日常的に用い、自己の民族的出自を分かりにくくさせた形で日本に在住してきたという事実を想起しなければならない。このような在日同胞の姿はほかでもなく、日本という国、日本人という民族の「本質的な暗さ」を反映している。それはちょうど、学校を中心とした子供の世界での「いじめ」の問題が本質的に日本人の暗さを反映しているのと同じである。それらの問題は、いわゆる先進国病の所産でも何でもない。/しかし、ここでより重要なことは、在日同胞が結果的にその日本の「暗さ」に飲み込まれているということ、言い換えればその「暗さ」を追い払うことがまったく出来ないでいるという事実の方なのである。」 かつての姜が、「天皇制」その他のさまざまな表現を用いて言おうとしていたのは、恐らく、ここで言われている、「異民族が「少数民族」として残ることさえ阻害する、ある特別な力」、「日本という国、日本人という民族の「本質的な暗さ」」のことである。その特殊性は、日本の主として左派――そして92年以後の姜――がしばしば「絶対主義」や「血統主義」や「単一民族神話」などと比較可能な形で表現してきた「特殊性」とはまた別のものであり、言うなれば、むしろそれらの比較可能な「特殊性」の背景にある「特殊性」である。 元はまた、この文章の中で、以下のように述べている。 「私の考えでは、日本人が真正の「他者」を理解し、日本にいわば「融け合うことのない意識の複数性」(バフチン)を花開かせる唯一の機会は、私たち在日同胞の中で一世が多数を占めていた時代をおいてなかった。もちろん、それはあくまで一つの「機会」に過ぎなかったのであり、そのような種類の「他者」理解を実現する条件を日本人は持っていなかったのである。ところが、そのような絶好の機会がはるか彼方に遠ざかった現在になって、日本人化した異民族との相互理解を「他者」同士の理解と見立て、そこにあたかも「多様性」があると思いなす気分が急速に拡散している。これは(少なくとも私においては)実に戦慄すべき事態と言うほかはない。」 そして、元が言うところの「戦慄すべき事態」を、在日朝鮮人側から牽引したのが、「日本という国、日本人という民族の「本質的な暗さ」」という認識を完全に放棄した上での、姜に代表される在日朝鮮人知識人たちであり、それらの在日朝鮮人言説である。そこで、姜の日本社会認識の変容と同時期に生じた、在日朝鮮人言説の変化の検討に移る。 (つづく)
by kollwitz2000
| 2012-03-13 00:00
| 姜尚中
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