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2012年 06月 30日
18.
「在日朝鮮人は「日本と朝鮮半島の「あいだ」に生きる存在であり、そうであるがゆえに独自の可能性を持つ」といった言説は、今日あまりにもありふれている。90年代以降においては、姜こそがこうした言説の代表的な提唱者であった。 それでは、姜において、こうした言説はいかにして形成されていったのであろうか。ここでは、姜が在日朝鮮人を規定するに際して、「あいだ」という概念をどのように用いてきたかを見ていくことで、その点を検討したい。 姜が在日朝鮮人に関して「あいだ」という概念を用いて規定したのは、管見の範囲では、「「在日」に未来はあるか」(『季刊三千里』50号、1987年5月。①)が最初である。この連載の第3回でも引用したが、改めて引用しておく。 「「定住外国人」としての「在日朝鮮人」というとき、それはどのような軛のもとで生きているのであろうか。ひとことで言えば、それは、南北に分断された祖国から 物理的に疎隔される一方、居住地日本において差別のスティグマを強要され、不断に自己解体の危機に瀕している海外定住同胞の現状の総体を指し示している。 このことは、「在日朝鮮人」が南北朝鮮・日本・「在日」という重層的な諸条件のもとに置かれた「間」(あいだ)に生きる、両義的あるいは多義的な存在として、南北朝鮮と日本の磁場から発せられる強力な磁力に引き裂かれかねないマージナル・グループであることを意味している。こ の相克から脱却する方途として、これまでは祖国への憧憬をともなった帰依があり、またその対極には日本への同化、帰化があったように思われる。」 「これまで民族=国家を中軸とする国家至上主義的な体質からすれば、国境との間にいわば鸚的に存在する「在日朝鮮人」は、得体のしれない存在として常に治安取締りの対象であった。」 前掲時に記したことを再び述べておくと、この①において、在日朝鮮人は「祖国」を持ち、その政治的・社会的営為も「あるべき祖国との有機的な関連の環」からその意義が評価されるべきとしていた立場を放棄して「定住外国人」規定に移行すると同時に、在日朝鮮人は「あいだ」に生きる存在だ、との言説が浮上しているのである。 次に、「「最底辺」で思うこと」(『ウリ生活』1号、1987年11月。②)を見てみよう。これは、『最底辺――トルコ人に変身して見た祖国・西ドイツ――』(G・ヴァルラフ著、マサコ・シェーンエック訳、岩波書店、1987年6月)という本の感想をもとにした短いエッセイである。同書の刊行月から見て、これが、①の後に書かれたものであることは明らかである。 ここで注目されるのは、①で出てきた「あいだ」という概念について、姜がより詳しい説明をしている点である。姜は、以下のように述べている。 「今日、日本経済の「国際化」、「多国籍化」の圧力のもと、アジアからの数多くの「ジャパゆきさん」「ジャパゆきくん」達が日本社会の隠された「最底辺」を形成しつつあることは周知のとおりである。彼らの置かれた人権無視の境遇、劣悪な労働条件、差別と蔑みの数々が、かつて玄界灘を越えて渡航してきた一世たちの境遇を思い起こさせることは、私だけの感想ではあるまい。その彼らが、今度は「定住外国人」としての在日朝鮮人よりもより劣位の「在日外国人」として苛酷な条件を強いられているのである。喩えて言えば、ちょうど現在の韓国が、NICS(新興工業国家群)の雄として、先進国と「低開発国」との中間にあるように、われわれ在日朝鮮人も日本人と新たな「在日外国人」の間に立たされた「宙ぶらりん」な存在と化しつつあるのである。それが、日本を頂点としてNICS、ASEANなどの開発途上国、さらにその底辺に位置づけられる「最貧国」といった、アジア世界の序列意識とどこかで通底していることは疑いえない。こうした意味で、「在日」はまさしく多重的に「間(あいだ)」に生きる周辺領域を形づくっていると言えよう。/そこから私達にはふたつの選択肢が残されている。そのひとつは、NICSから先進国へと昇りつめようとする「先進祖国創造」の道と同じように、限りなく日本人の地位へと近づこうとする立場である。その上限に帰化、同化が位置づけられることは言うまでもないだろう。またそれとは質的に異なっているとしても、市民権や生活権――それらの諸権利の獲得が緊要な課題であるとしても――の擁護だけに傾いた「在日」の運動が、そうした立場と連続しかねないことは度々指摘されている通りである。第二の選択としてあげられるのは、「在日」を国際的な資本と国家によって半ば植民地化されつつある第三世界の「在日外国人」に連なる存在として見定め、そこから資本と国家によってもたらされた民衆・民族世界の荒廃に抗う拠点を創造する道である。」 このように、この時期における姜の「あいだ」概念は、単に「朝鮮半島と日本の「あいだ」」といった、単純化・政治概念化されたものではなく、在日朝鮮人が日本人と新しく来日する外国人との「あいだ」に生きるという性格を持っていることを示し、在日朝鮮人が「限りなく日本人の地位へと近づこうとする立場」に陥ることを戒め、第三世界との連帯を志向するための概念として用いられている。 また、姜はこの文章の中で、①で展開された「民族文化」論の注釈とも言える主張を行っている。 「弱小の零細な第二次産業人口の多くを占める在日朝鮮人が、今後その経済的なチャンスをめぐって「在日外国人労働者」と競合しかねないことは当然予想される事態である。その時、「定住外国人」としての「在日」と「在日外国人」との間に数々の亀裂や反目が生じかねないことは単なる杞憂ではあるまい。「在日」の民族・民衆文化の真価が問われるのは、まさにその時であろう。民族運動が、荒廃にさらされた第三世界の民衆文化へと開かれていくとき、「在日」の文化はその独自の存在理由を獲得することになるであろう。そのためには、「在日」の個々の微視的な利害と文化運動との緊張を解消しうる民族・民衆の文化世界が切り開かれなければならない。」 このように、この時期の姜においては、自身の権益と地位向上のみを目指すマイノリティ集団ではなく、第三世界および第三世界出身の「在日外国人」との連帯への志向が企図されていたと言える。 こうした志向性は、「「異郷と故郷」で思うこと」(『ウリ生活』2号、1988年5月。③)でも見ることができる。これは、『異郷と故郷――ドイツ帝国主義とルール・ポーランド人』(伊藤定良、東京大学出版会、1987年)の感想をもとにしたエッセイだが、ここで姜は、「異郷と故郷の間で生きた「ルール・ポーランド人」こそ、われわれ「在日韓国・朝鮮人」の「さきがけ」」だとした上で、以下のように述べている。 「この日本にも荒廃した「故郷」から中枢の「異郷」へと移動していかざるをえない「外国人労働者」の数は増加の一途をたどって行くだろう。極論すれば、第三世界の民衆の多くが、「ルール・ポーランド人」あるいは「在日韓国・朝鮮人」と同じような歴史を歩むことになるのである。われわれが、マズール人やユダヤ人を排斥した、あのポーランド民族運動の「負の遺産」に盲目であるとしたら、それは、われわれ自身が一九世紀的ナショナリズムの「自閉症」に陥っていることの証左であろう。/それぞれの民族的なアイデンティティに根差しつつ、民衆世界の荒廃という共通の時代史的体験を分かち合いながら、同時にその歴史に独自の民族・民衆運動を創り出すのはどうしたらいいいのか、「在日韓国・朝鮮人」もこの課題のまえに立たされているのではなかろうか。」 ここでも姜は、「外国人労働者」を「在日韓国・朝鮮人」と同列視した上で、在日朝鮮人が「一九世紀的ナショナリズムの「自閉症」」(後年の姜のように、ナショナリズム一般ではない)に陥って「外国人労働者」を否定的にみることを戒めている。ただ気になるのは、ここでの論理が、②の論理とは異なっている点である。②では、「限りなく日本人の地位へと近づこうとする立場」に立とうとするがゆえに外国人労働者との連帯を拒否する、という論理だったが、それが「一九世紀的ナショナリズムの「自閉症」」のせい、ということになっている。これは後退であり、後の転向を予告するものであるとも言える。 次に、「ポスト91年」と在日の将来」(『民権協連続講座 90年代と在日』(在日韓国民主人権協議会、1991年11月)所収の講演録。目次に、1991年5月23日の講演との記載あり。⑦)を見てみよう。 ここで姜は以下のように述べている。 「私は在日朝鮮人を住民としての在日と、そして国境をまたぎその間に生きる存在としての在日朝鮮人という二重性においてとらえていかなければならないと思います。一方においては住民として生きていると同時に、同時に私たちはやはり国をまたいで生きているという、日本社会の中では極めて特殊な存在なのです。」 これは、在日朝鮮人を国と国との「あいだ」に生きる存在として規定するものであるが、在日朝鮮人は日本と朝鮮半島との「あいだ」の架け橋になるべき、というような主張はここでは見られない。この一節のあと語られているのは、「民族的なアイデンティティーを保障できるような学校教育」を作っていくために、より多くの在日朝鮮人が日本の学校の義務教育・高等教育の教員となるべきであり、そのために地方自治体の国籍条項を一つ一つ撤廃していく必要があること、「北と南とを問わず、民族学校をもう少し開いて、そして在日朝鮮人という共通性の中でなんらかの形で共に学べるような場を創りつつ、民族学校を1条校ぶ引き上げていくこと」、民族学校と地域の日本学校との交流関係を深めるためにも、地域住民運動に在日朝鮮人が積極的にコミットすること、地方自治体の選挙権および被選挙権を獲得すること、自治体の地方公務員への就職の機会を増やすこと、全国レベルでの在日朝鮮人の就職に関するオンライン上での情報交換の場を創ること、在日朝鮮人の経済的基盤創出のために南北を問わない「在日の金融機関の合併」を今後10年間で進めること、「在日同胞が密集している6大都市に、文化センターをこの10年間で作っていくこと」、「在日同胞と海外同胞との交流を文化センターをキーステーションとして作ってい」くこと、といったものである。最後に挙げた点については、より詳しく、以下のように述べている。 「世界中に海外同胞は約500万もいます。延辺自治区に約200万、ソ連国内に40~50万、それから、ドイツにも相当数がいる。東南アジアにも相当いる。在日同胞も含めて約500万いることになります。その国際的なネットワーキングを作りながら、日本に対する国際的な圧力を、例えば国連の場や人権委員会の場を通じて広げていくことが必要になってきます。これは少しずつ可能性が出てきました。そういう組織作り、あるいはネットワーキング作りというものを進めていくべきではないでしょうか。」 また、この連載の第9回でも引用したように、この⑦において、姜は以下のように述べている。 「今のような現状が続く限り、在日同胞の帰化を食い止め、朝鮮人としてのアイデンティティーを保ちつつ、そして統一された祖国との関係を持ちながら、そして南北朝鮮をまたぐ、ユニークな存在として生きることのできる可能性を開いていくのは、個別としては可能かもしれませんが、マジョリティ―としてはなかなか難しいだろうと思います。そのための具体的なことを考えなければならない。そういう時期に来てると思います。そういうことを今まであまりにも考えてこなかったということですね。」 このように見てくると、⑦における「国境をまたぎその間に生きる存在」との規定は、朝鮮半島と日本の架け橋になるべきといった主張というよりも、むしろ、「朝鮮人としてのアイデンティティーを保ちつつ、そして統一された祖国との関係を持ちながら」、在日朝鮮人が日本社会で「定住外国人」として生きていくためには、朝鮮半島だけでなく日本の社会への進出が必要であること、また、国境を越えた朝鮮人ネットワークによる日本への国際的圧力も活用できるということを主張するために、利用されるべき条件として置かれていると解釈するのが妥当であると思われる。 また、この⑦においては、在日朝鮮人の特殊性は、上述のような「あいだ」の観点よりも、以下のような日本社会の本質的閉鎖性との関連で強調されている。 「私たち在日の問題を国際人権やあるいは国際的なレベルまで引き上げて考えていこうとすれば、日本の社会を根本的に作りあげている核心部分の修正を迫られます。なぜ在日朝鮮人をこれほどまでに日本国家が敵視してきたのか、それは私たちの存在自体が日本という国の近代国家の成り立ちの核心部分に触れるような存在だからです。そういうふうに考えざるを得ないんじゃないかと私は考えています。」 以上のように、この1991年の時点では「あいだ」論は単純化・政治概念化していない。それがほぼ確立した形で見られるのは、管見の範囲では「「在日」の新たな基軸を求めて――抵抗と参加のはざまで」(『季刊青丘』13号、1992年8月。⑧)が最初である。以下、引用しよう。 「「在日」の定住化が不可逆的な傾向であるとしても、「在日」は依然として朝鮮半島と日本、あるいは三つの国家の「あいだ」に生きる存在であることは否めない。」 「冷戦の氷解とともに国家の論理ではなく、民族の立場から和解と統一への模索がはじまり、国家主導のナショナリズムではなく、民族主導のナショナリズムが現実の力を獲得するようになれば、在日にとってもそれは大きな転機となるはずである。「在日」が日本と朝鮮半島の「あいだ」に生きる特異な存在として、独自の意味と役割を果たしうる可能性は完全に摘み取られているわけではない。」 前述のように、かつての「あいだ」論は、在日朝鮮人の生の条件を規定する概念であり、また「日本人と新たな「在日外国人」の間」のような形の用法で用いられていたものであったが、ここでは、日本と朝鮮半島の「あいだ」の存在として、限定的に用いられた上で、そこにこそ在日朝鮮人の「特異」性と「独自の意味と役割」があると規定されている。 在日朝鮮人の特異性と独自の意味と役割が、「あいだ」にあるとする規定は、以下のような形でも同時期に展開されている。 「複合的なアイデンティティというものが、実は人間にとって実体に則した、ノーマルな生き方なんだということ、そういう生き方ってないのだろうかと考えてみると、在日の人が、民族的なエスニシティをもちつつ、しかもこれが本国にあるような、自分たちの祖国なら祖国と呼ばれているようなそこに何かアイデンティファイすることによってじゃなく、在日は在日という一つの中で、いわば三つの国家の狭間の中で生きていて、国家というものを対象化できるような存在として生きられないかと考えるわけです。そう考えていくと、在日のおかれている立場というのは、在日として自覚を持って生きようとすると好むと好まざるとにかかわらず、ある国家の臨界点にいかざるを得ない。なぜかというと、国家が仕切ろうとしているものとは無理があるところにおかれていおるわけ。」 (姜尚中・斎藤純一(司会・田崎英明)「複合アイデンティティの実験――アムネジアを越えて」『インパクション』79号、1993年3月刊、対談の日付は1993年1月18日) ここでは「三つの国家の狭間」=「あいだ」にあることにこそ、「国家の臨界点にいかざるを得ない」、「「在日」の人」の独自性があるとされている。同時期の以下の主張も、国家の「あいだ」にあることにこそ、在日朝鮮人の意義と独自性があるとする主張である。 「キム弁護士(注・金敬得)ともよく話すことですが、歴史的な過去を背負っているため、日本人が朝鮮半島の批判をしても受け付けられない。しかし在日が祖国にある問題点を指摘すれば、日本人が言う以上に聞いてくれるかもしれない。あるいは、日本の社会の持っているさまざま良い点を本国に伝えることも、在日を通じてならできるかもしれない。このような、言葉の真の意味でのブリッジの役割を在日は果たせると思います。/そのためには、一億二千万と比べて、たかだか六十数万の在日を同化する、一億二千万の色に合わせてしまうのではなく、在日としてのアイデンティティを積極的にサポートする、そして在日はそれに応えていく。こういう関係がなければならないと思います。/同じことが本国に対しても言えます。北も南も在日に積極的に手を差し伸べ、在日として積極的に生きていける状況をつくる必要があります。これまでは、海外同胞ということで、同胞としての一体感もあったでしょうが、本国に住んでいる人よりも事実上一ランク下と見做され、また本国からの現実的な差別もありました。/在日の果たす役割は、その役割を育てる環境があれば、非常に大きい。同時に、その環境を作るように在日が働きかけなければならない。働きかけることによって、在日は、日本・朝鮮半島・中国の将来のゆるやかな結びつきを作る重要な先駆者となり得る。日本での数は少なくとも、そういう存在になり得ると思います。/皆さん御存じのように、ヨーロッパ資本主義にとり、ユダヤ資本が果たした役割は非常に大きいものでした。しかし、彼らが国境を越えて動いたことが、その大きな役割に繋がっていきました。在日の役割もそこにあるのではないかと思います。在日がハザマに生きていること、日本と朝鮮半島の間、住民と民族との間など、つねにそのハザマに生きていることに、在日の持っているポジィティブな役割があると思います。」 (金敬得・姜尚中・鈴木二郎『国家・民族・人権――在日の立場から』「朝鮮問題」懇話会、1994年4月刊、54~55頁。「まえがき」によれば、同書は「1993年11月20日に明治大学大学院棟でおこなわれた公開講座における金敬得、姜尚中両氏の報告に加筆したもの」) ここでは在日朝鮮人が国家の「あいだ」にあることの意義と独自性が、「日本・朝鮮半島・中国の将来のゆるやかな結びつきを作る重要な先駆者となり得る」という観点から強調されている。 以上のように、92年頃を境目に、在日朝鮮人が日本人と、新たに来日する外国人との「あいだ」の性格を持つものという認識は消え、また、「朝鮮人としてのアイデンティティーを保ちつつ、そして統一された祖国との関係を持ちながら」在日朝鮮人が日本社会で「定住外国人」として生きていくために利用されるべき社会的条件として「あいだ」を規定する解釈も消える。在日朝鮮人を「あいだ」の観点から規定する主張は、日本と朝鮮半島との「あいだ」に在日朝鮮人が存在するがゆえに「日本・朝鮮半島・中国の将来のゆるやかな結びつき」を作るために「重要な先駆者」となり得るという政治的主張、また、在日朝鮮人が「国家」「民族」にアイデンティファイされないことを示すものとして展開されることになる。こうした主張は、論文「内的国境とラディカル・デモクラシー――「在日」の視点から」(『思想』1996年9月号)にまで発展することになる。 「在日韓国・朝鮮人に即して言うと、自己否定や自己憎悪の反動が、民族的本質の発見、発掘とその分節化へと極限化され、日本におけるサバルタン的な地位からの脱却が対抗的な「国籍文化」への同一化となってあらわれてきた。それはおそらく、黒人におけるネグリチュードの発見とその復活と平仄を同じくしていると言えよう。」 この一節については後でも詳しく触れるが、ここで注目されるべきは、姜が、「黒人におけるネグリチュードの発見とその復活」をも「自己否定や自己憎悪の反動」だと捉えて否定し去っている点である。つまり、国家や民族にアイデンティファイすることを否定的に捉える92年頃以降の「あいだ」論は、かつて主張していた、第三世界への連帯の否定も含意していたのである。 なお、私はこの連載の第9回で、1992年頃の姜の転向が、1991年に最初に表明されたと思われる東アジア共同体論の構想の結果として生じている可能性を指摘したが、この「あいだ」論の性格の変容に関しても同様の点が指摘できる。上で挙げた、「日本・朝鮮半島・中国の将来のゆるやかな結びつきを作る重要な先駆者となり得る」との発言はそれを端的に示している。後年の、姜の自伝『在日』(講談社、2004年)の「エピローグ」には、こうした言説の発展型が述べられている。同書より引用しよう。 「彼ら(注・在日朝鮮人の若い世代)にネガティブだと考えられている条件が、じつは必ずしもそうではなく、逆にポジティブなものに変化できるのだと、言ってあげたいのだ。/それは、「在日」の役割が今ほど大きい時代はないということ、そして、自分たちの生きる場を東北アジアに広げられれば、「在日」こそ、その先端的な役割を果たせるのだということである。/学生たちにはそう何度も話した。個人史的に見ても、自分の示そうとしている方向は誤っていないと思う。わたしは、次の世代がそこに活路を見出すことを願っている。」(217~219頁) 「自分が「在日」で生まれ、「在日」という未完のプロジェクトを生きて、今どこに向かおうとしているかを考えると、この五年、あるいは十年、わたしはずっと東北アジアに目を注いできた。/その東北アジアを拓いていく重要なネットワークのひとつが、「在日」である。これまで「在日」は、日本の境界の中でしか生きられないという閉塞した状況にあった。「在日」であって、「東北アジアに生きる」ということは、決して断絶ではない。国や地域を超えて、輪のようにつながっている、そういう生き方ができるのではないか。残された人生を、この東北アジアにつながって生きるということのために、それを阻んでいる要因をひとつひとつ克服していく作業に費やしていきたいと願っている。」(225頁) 以上のように、在日朝鮮人を諸国家の「あいだ」に生きるとする規定は、「定住外国人」規定と連動して生じているもの(①)である。また、そのような規定は、必ずしも「脱国家」や「反(脱)ナショナリズム」や「複合的アイデンティティ」といった概念を導くものではなく、そこにその種の概念の条件を見ようとする視線は、別種のイデオロギーの産物であり、恐らくそれは東アジア共同体構想のような政治的構想と連動している。そして、「あいだ」に関する規定の変容により、日本人と新しく来日する外国人との「あいだ」にあるとの指摘・自己認識が消え、在日朝鮮人が「限りなく日本人の地位へと近づこうとする立場」への戒め、第三世界との連帯への志向も基本的に消滅することになる。 92年以降の姜の主張は、「共生」社会の実現、という主張を展開する在日朝鮮人(表向きは「共生」批判をしながらも、実質的には同じような「反(脱)ナショナリズム」といった主張を行なっている人物も多い)によく見られるものであるが、上の姜の軌跡は、「共生」論者たちの主張に関して重要な示唆を与えてくれる。つまり、在日朝鮮人を「反(脱)ナショナリズム」の存在で「東アジア共同体」づくりの架け橋となり得るなどとの規定は、在日朝鮮人の日本人と新来外国人との「あいだ」という性格から来る「限りなく日本人の地位へと近づこうとする」傾向を隠蔽し、第三世界との連帯への志向、という当為を捨象する、ということである。そうすると、「外国人労働者問題」は、先進国と第三世界という構造的な性格は捨象された上で、単に日本国内の「人権」一般の問題ということになる。本来、在日朝鮮人が新来外国人について言及する場合、80年代後半の姜のように、自身がどちらにつくかを選択しなければならない。ところが、「反(脱)ナショナリズム」の立場ならば、先進国と第三世界という構造的な観点からではなく、日本社会の構成員としての、外国人への適切な処遇を求める、という主張になる。これは「国益」論とも整合しうる主張である。 日本社会の構成員(住民)である外国人一般の処遇改善を求めるという主張は、在日朝鮮人がどちらにつくか、という問いを隠蔽している。そのような主張をすればするほど、先進国による歴史的・構造的開発・搾取の結果としての外国人労働者問題という性格は捨象され、在日朝鮮人も立場を問われずに済み、在日朝鮮人が「限りなく日本人の地位へと近づこうとする」ことによる問題性も隠蔽されることになる。
by kollwitz2000
| 2012-06-30 00:00
| 姜尚中
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