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2012年 08月 07日
最近読んで、全くその通り、と思ったチョムスキーの発言を引用しておこう。『チョムスキーとの対話 政治・思想・言語』(ミツ・ロナ編、三宅・今井・矢野訳、大修館書店、1980年。原著は1977年刊)からのものである。
「イデオロギーの分析の場合、視野の広さと知力とがいささかあり、それに健全なシニシズムがあればたくさんだ。たとえば、ぼくたちの社会と同じような社会におけるインテリの役割といった問題をとってみよう。この社会階級は、大学教授、歴史家、ジャーナリスト、政治評論家などをふくむもので、社会の現実を分析し、提示することを任務としている。かれらは、その分析と解釈とによって、社会的な諸事象と大衆とのあいだの仲介者の役目を果たす。すなわちかれらがつくりだすのは、社会生活のイデオロギー的な正当化だ。(中略)イデオロギーの宣伝機構から自分を引き離すだけの用意さえあれば、問題にされている諸現象が透けて見えることやインテリがでっちあげた典型的なねじまげかたに気のつかない者はないだろう。こうしたことはだれにでもわかることだ。なのにこれがおおかたうまく行っていないとすれば、そのわけは一般に、イデオロギーを対象とする考察が行なわれても、それはある階級の利益を擁護するためであって、出来事を説明するためではないからだ。/こういうわけだからこそ、専門の訓練を積んだ知識人だけが分析的な仕事をできるといった印象を与えてはいけないわけだ。それがまさしく、インテリが信じ込ませようとしていることなのだから。インテリは、門外漢にはわからない、ふつうの人のうかがい知ることもできない企てに自分が参加していると称する。これはまったくのナンセンスだ。社会科学一般、とりわけ現代の事件の分析は、これに十分関心をもとうとする者ならだれにでも完全に手が届く。こうした問題の「深奥」とか「抽象性」とかいったことは、イデオロギーの取締り機構が撒き散らす幻想に属するもので、そのねらいは、こうしたテーマから人々を遠ざけることにある。人々に、自分たち自身の問題を組織したり、後見人の仲介なしに社会の現実を理解したりする力がない、と思いこませることによって、だ。(中略)イデオロギーの分析の場合には諸事象をしっかりと見つめ、議論を深めていく意志があれば十分だ。デカルトの良識、「もっとも公平に配分されているこの世のもの」、これだけが必要なのだ…。デカルトの科学的なアプローチとはこのことだ――つまり開かれた精神でもって事実をみつめ、仮説を検証し、そして結論に到達するまで議論を深めていく意志のことだ。これ以上には、門外漢にわからないような特殊な知など、これっぽっちも必要ではない。たとえ「深奥」を究めるためでもだ。だいいちそんなものは存在しないのだし。」(42~44頁) 「社会情勢とかアメリカの対外政策――ヴェトナムや中近東など――とかについての政治討論では、きまってこんな反対を受ける。一体あなたはどんな資格があって、こうした事柄に口を出すのか、と。政治学の博士たちにすれば、ぼくのような連中など、専門家の観点からはアウトサイダーであり、こういうことを語る資格がない、というわけだ。数学と政治学とをくらべてみたまえ、ビックリするほどだ。数学や物理学で注目されるのは、語られる内容であって資格ではない。他方、社会の現実について話すためには資格が必要だ。語られる内容は留意されない。もちろんこのわけは、数学や物理学は知的に見て内容に意義がある学問であるのに対して、政治学の場合はそうではないからだ。イデオロギーの学問では、その内容や機能について強調するのは危険だ。というのも、学問は主にあるがままの諸事実を取扱うものではなく、むしろ、なんらかのイデオロギー上の要請に応じるようなやりかたで、諸事実を提出し解釈することに専念するものだからだ。」(46頁) こうした認識(特に前者)は、漠然とは多くの人に前提とされているものだと思うのだが、なかなか言語化されない。ネット上で(主に匿名で)発言する人間には自分に確信のないタイプの人が多いから、ネット上では逆に、大学教員や弁護士などの「専門家」を無批判に崇めるケースがよく見られる。「論壇」好きの(左派を含めた)教養俗物層の「専門家」崇拝については今さら語るまでもない。上のチョムスキーの発言くらいは、最低限の共通の前提として、各人が持つべきものだと考える。
by kollwitz2000
| 2012-08-07 00:00
| 日本社会
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