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2014年 03月 25日
20(承前)
⑤ 単<新幹線のトンネルの壁が剥落するような、そういう事態が社会のいろいろな分野でめずらしくもない現象となりはじめたのだ。もちろん、金融不安もあるし、大企業の倒産や失業の問題もある。/こうして社会の光景がこの十年あまり、かなり変わってしまったような印象を受ける。それはひと言で言うと、戦後日本の安定した豊かさを支えていると思われてきた社会の仕組みや人々の生活意識の変容である。企業や組合、地域や各種団体などを中核とする共同体意識がくずれ、同時に社会的なセーフティーネットが、いろいろなところでほころびはじめるようになったのである。/それは、誤解を招きやすいが、日本国民の「在日化」と言えるような現象である。/「在日」は、長い間、日本人ならば形式上は平等にその恩恵に浴することができた社会的なセーフティーネットの張られていない状況の下で生きてきた。わたしの父母や「おじさん」などの一世はそうした危険の多い状況を否応なしに受け入れざるをえなかったのである。それは、つねに「明日をも知れない我が身」の境遇だった。それと似通った境遇が大方の日本人によりかかろうとしているのである。/前に述べた七〇年代初期の疾風怒濤の時代、「在日」は日本から取り残された「落伍者」のような存在だった。/八〇年代のバブル経済の一時期、「在日」は、その富の均霑にあずかり、バブリーなにわか成金が輩出した。しかし多くの「在日」は社会的なセーフティーネットをさほどあてにはできなかった。/この十年あまりの間に、一般の国民が、こうした在日的な状況に向かいつつあるのではないか。その趨勢を極論すれば、日本国民の「在日化」と言えるかもしれない。「在日」が、セーフティーネットなき時代を生きながら、やがて日本社会の中に埋め込まれ、「市民」や「住民」として生きていけるような可能性がみえてきたとき、逆に日本の平均的な国民が、あたかも「在日」的な境遇に近づきつつあるのだ。/うがって言えば、そうだからこそ、「在日」と「日本人」の境界を新たに目にみえる形で作り直す力が働くようになったのかもしれない。それは、多分にナショナリズムの気分を代表しており、「北朝鮮問題」に触発された「在日」バッシングの動きもそれと関連していると思える。/そして九〇年代の十年、八〇年代とはかなり様相が異なり、国家というものがもろに人々の拠り所として急浮上してくるようになった。明らかに国家というタブーが解かれ、それへの求心力が高まるようになったのである。>(178~180頁) 文<新幹線のトンネルの壁が剥落するような、そういう事態が社会のいろいろな分野でめずらしくもない現象となりはじめたのだ。もちろん、金融不安もあるし、大企業の倒産や失業、格差や地域の疲弊など、数々の問題が社会に重苦しい空気をもたらしている。そして何よりも北朝鮮をめぐる問題が社会の気象を大きく変えることになった。/こうして戦後日本の安定した豊かさを支えていると思われてきた社会の仕組みや人々の生活意識が変容し、企業や組合、地域や各種団体などを中核とする共同体意識がくずれ、社会的なセーフティーネットが、いろいろなところでほころび出したのである。それは、日本国民のなかに「在日」と同じような境遇を強いられる人々が増えていくことを意味していた。/「在日」は、長い間、日本人ならば形式上は平等にその恩恵に浴することができた社会的なセーフティーネットのない状況の下で生きてきた。父や母、おじさんなどの一世はそうした剥き出しのリスクを強いられながら、明日をも知れない今を生きざるをえなかったのである。「明日をも知れない我が身」。それが彼らの境遇だった。/「テツオ、カネは天下の回りもんたい。今日生きられればそれでよかとよ。いろいろ心配ばしてもはじまらんけんね」/母の言い草には、日本国民の「欄外」に置かれ続けてきた一世たちの諦念と、同時にしたたかな生命力が溢れていた。/だが、学校の時間を生き、学歴を身に着け、人並に中流の生活がかなえられるようになった「在日」の二世のわたしには、一世たちの激しいばかりの生命力はなくなっていた。しかも、理屈を知ることができるようになったおかげで、将来を「計算」できるようになり、その分、「欄外」に置かれ続けることに堪えられなくなりつつあった。しかし、どこかでそっと諦念を忍ばせておかなければ、もっと失望してしまう。わたしはどこかで先回りした諦念の「作法」を身につけてしまっていたのかもしれない。/だが皮肉にもわたしは大学に「定職」を得、人並の中流の生活を構える「ゆとり」を持てるようになった。他方で周りを見渡すと、「落伍者」のような扱いを受けた「在日」の境遇が、大方の日本人にふりかかろうとしているのである。それは、大げさに言えば、日本国民の「在日化」と言えるかもしれない。/「在日」が、セーフティーネットなき時代を生きながら、やがて社会の中に埋め込まれ、中流のフツーの「住民」として生きていけるようになった時、逆に日本の平均的な国民が、あたかも「在日」的な境遇に近づきつつあるとは・・・・・・。そのすれ違い、ねじれは、新たな問題を作り出しつつあるように思えてならない。/なぜなら、そうだからこそ、「在日」と「日本人」の境界を新たに目にみえる形で作り直す力が働くようになったからだ。それは、多分にナショナリズムの気分を代表しており、「北朝鮮問題」に触発された「在日」バッシングの動きもそれと関連していると思える。/そして湾岸戦争以後、それ以前の時代とは異なり、国家というものがもろに人々の拠り所として急浮上してくるようになった。明らかに国家というタブーが解かれ、それへの求心力が高まるようになったのである。>(194~197頁) この箇所は、以前、記事「プチ・李忠成ブームと姜尚中」でも取り上げた。そこでの叙述と一部重複するが、改めて見ておく。 まず指摘しておきたいのは、単行本版では一応遠慮がちに言及されていた「日本国民の「在日化」」なる表現について、文庫版ではそのような遠慮が大幅に薄れている点である。これは後述するが、姜が、在日朝鮮人の特殊性、という認識を弱めたがっていることを意味している。 また、文庫版においては、「そして何よりも北朝鮮をめぐる問題が社会の気象を大きく変えることになった。」なる一文が付加されている。これは、姜が、文庫刊行時の2008年においては、単行本刊行時の2004年よりも、「北朝鮮をめぐる問題が社会の気象を大きく変えることになった」度合いが強まっていると感じていることを示している。 単行本版でも文庫版でも、「「北朝鮮問題」に触発された「在日」バッシングの動き」に言及しているから、上の事実は、姜が、2008年時点の方が、2004年時点よりも「「北朝鮮問題」に触発された「在日」バッシングの動き」はより強いと認識していることを示している。とすれば、日本社会で在日朝鮮人が置かれている状況に関する記述は、2008年刊行の文庫版の方がより厳しい認識になるはずであろう。 ところが、単行本版での「「在日」が、セーフティーネットなき時代を生きながら、やがて日本社会の中に埋め込まれ、「市民」や「住民」として生きていけるような可能性がみえてきたとき、逆に日本の平均的な国民が、あたかも「在日」的な境遇に近づきつつあるのだ。」という記述は、文庫版においては、以下のようになっている。 「「在日」が、セーフティーネットなき時代を生きながら、やがて社会の中に埋め込まれ、中流のフツーの「住民」として生きていけるようになった時、逆に日本の平均的な国民が、あたかも「在日」的な境遇に近づきつつあるとは・・・・・・。そのすれ違い、ねじれは、新たな問題を作り出しつつあるように思えてならない。」 単行本版では「「市民」や「住民」として生きていけるような可能性がみえてきたとき」と、可能性としてのみ記述されていたものが、文庫版では、「中流のフツーの「住民」として生きていけるようになった時」と既定の事実として記述されたものに変わっている。 これは文庫版で「そして何よりも北朝鮮をめぐる問題が社会の気象を大きく変えることになった。」なる一文が付け加わっている事実と矛盾しているように見える。確かに文言だけ見れば矛盾している。しかしこれは矛盾ではない。姜は、2008年の方が2004年に比べて、日本社会での在日朝鮮人をめぐる状況はより厳しくなったと認識しているからこそ、行為遂行的に、自分たち「在日」は日本社会が差別的だ、などと「反日」的なことはもはや考えてもいませんよ、「在日」は日本社会の「フツーの「住民」」として完全に適応していますよ、日本人化していますよ、とアピールしているのである。 また、文庫版では、「「在日」の二世のわたしには、一世たちの激しいばかりの生命力はなくなっていた」という記述が新たに加えられている。これは、④で指摘した、単行本版の「在日二世を生きるわたしの中に彼らの身体化されたような記憶が息づいている」という記述が文庫版では消えている事実と連動している。 また、単行本版と文庫版に共有されている、終わりの方の、「国家というものがもろに人々の拠り所として急浮上してくるようになった」との記述に関して、単行本版では「八〇年代とはかなり様相が異なり」とされていた箇所が、文庫版では「それ以前の時代とは異なり」となっている。これは、④で指摘した、単行本版「わたしたちの前に現れた日本は、まるで隔世遺伝のような光景を呈していた」との記述から、文庫本版「わたしたちの前に現れた日本は、それまでわたしの知らない日本だった。まるで何か不気味なものが過去の世界からにょきにょきと手を伸ばしてわたしの足をつかんでしまいそうな錯覚に襲われるほどだった。」への記述の変更と同質の性格を持つものである。 単行本の記述ならば、1980年代より前の日本社会に関しては、「国家というものがもろに人々の拠り所」となっている状態であることは一応否定されていないのである。ところが文庫版においては、そのような状態は、戦後の日本社会では見られない、新しい現象であるとされている。ここでも、④で指摘した、文庫版刊行時の、姜の戦後日本社会の全面的肯定、という政治的姿勢が貫かれていることを確認できるのである。 (つづく)
by kollwitz2000
| 2014-03-25 04:17
| 姜尚中
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