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2016年 03月 06日
[毎日新聞2015年9月17日 東京夕刊]
<この国はどこへ行こうとしているのか 「平和」の名の下に 憲法学者・樋口陽一さん (前略)「闘う憲法学者」の看板的存在だが、長年、新聞やテレビで時事問題についてコメントするのは極力控えてきた。2012年暮れの総選挙で、安倍首相が再登板するまでは――。(中略) 再び権力の座に就いた安倍首相は、憲法改正規定である96条のハードルを下げると言い始めた。「これは放っておけない」。若手学者らに推され「96条の会」代表に就いた。政権の政治手法に批判的な学者グループ「立憲デモクラシーの会」の共同代表を務め、元内閣法制局長官や元外交官らと「国民安保法制懇」も設立。節目には政権批判の声明を出し、憲法集会に積極的に参加する。「学者としての方針転換。私はきちんと『憲法改正』したんですよ」と笑う。 自宅の部屋には、作家の井上ひさしさん、俳優の菅原文太さんと樋口さんが納まった写真が飾られている。共に鬼籍に入ってしまったが、井上さんは仙台一高の同級生、菅原さんは1級上の先輩だった。 井上さんは改憲を阻止する「九条の会」の呼びかけ人の一人で、時折、樋口さんと憲法集会に参加し、共著も出版した。 菅原さんが昨年1月に東京都知事選で細川護熙元首相の応援演説をしたときは、樋口さんがそばで見守った。「菅原さんがよく言っていました。『政治の最も大事な役割は、絶対に戦争をしないことだ』と」(中略) そして話を、幕末の志士から初代首相に上り詰めた伊藤博文へと転じた。伊藤は、大日本帝国憲法制定の議論の際、立憲主義の本質をこう述べている。 「そもそも憲法を創設するの精神は、第一君権を制限し、第二臣民の権利を保護するにあり」(枢密院会議議事録) 「国家権力である天皇の権限も縛る、という立憲主義の基本を伊藤は理解していた。立憲主義への理解という点では、明治時代の政治家の方が深かったと思います」。痛烈な批判だ。 戦後日本は新憲法の下、国民主権を実現した。「民主主義に関する議論が盛んになる一方、立憲主義はあまりに当然すぎて意識されなくなりました」。最近は「数は力」「多数決がルール」などの極端な民主主義論がまかり通るようになってきた。安倍首相も国会で多数を占める与党を背景に「決めるときには決める。それが民主主義の王道」と言う。民意は6割以上が法案反対にもかかわらず、だ。 立憲主義や民主主義を踏みにじるかのような首相の軽い言説を「不真面目だ」と断じる。そして、デモで何度か耳にしたフレーズを口にした。 「国民の心情は一言、『なめんなよ』ですよ」(後略) 【江畑佳明】> http://mainichi.jp/articles/20150917/dde/012/010/005000c [週刊金曜日公式サイト2016年2月8日10:45AM] <日本社会に「真っ当さ」を取り戻す――民間「立憲」臨調が発足 「違憲戦争法」とも言われる安保関連法が強行成立して4カ月となる1月19日、同法に反対する学者・文化人らが「憲政の常道(立憲政治)を取り戻す国民運動委員会」(通称=民間「立憲」臨調)を発足させた。憲法学者の小林節慶應義塾大学名誉教授が事務局幹事を務め、約30人の世話人が名を連ねる。他に約200人の発起人もいる。(中略) 【「戦前に戻る」では足りない】 代表世話人の一人の樋口陽一東京大学名誉教授(憲法学)は、「大日本帝国憲法を作った権力者らの掲げたキーワードが立憲政治だった。安倍政治はそれを正面から攻撃している。『戦前に戻る』といった生易しいことではなく、『戦前の遺産』さえ無視しようとしているのだ。だから私たちは、『憲政の常道』とも言える立憲主義を取り戻す必要がある」と語った。(後略)> http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/?p=5765 [樋口陽一『自由と国家――いま「憲法」のもつ意味』岩波新書、1989年11月] <「「人類普遍の原理」と近代立憲主義の「古典的概念」の価値を相対化してしまおうという動きと呼応するように、もうひとつの場面で、「立憲主義」ということばが多用される出来事がおきた。1988年9月―89年1月の経過のなかで、「立憲君主だった昭和天皇に責任を問うことはできない」という議論が、かなりの範囲でひろくうけいれられる、という傾向が見られたからである。 一方が、「いまさら立憲主義の古典的概念でもあるまい」という議論だったとすれば、こちらの方は、「戦前の日本だって立憲主義だったのだ」という議論であり、これら二つにはさみうちされる形で、戦後解放の意味が、あいまいにされている。>(22頁) <昭和天皇の戦争責任という問題が念頭におかれる文脈で、「立憲君主としての行動だったのだから責任はない」という議論があり、それを一般化すると、「戦前の日本だって立憲主義だったのだ。いっとき軍部が暴走しただけで、そんなに悪くはなかったのだ」という歴史観につながることは、前に問題とした。 ここではもう少し立ち入って、帝国憲法とその運用について「立憲」的性格を強調して戦後との連続性をいうとらえ方にどんな問題があるのか、まず、制度論の場面で吟味してみることとしよう。 そうした連続史観は、ここ近年来、「昭和天皇は立憲君主としてふるまったのだから責任がない」という議論のかたちで、ひろく一般に流布されている。それゆえ、ここでは、その議論に沿ったかたちで、問題をとりあげてみよう。(中略) 帝国憲法の立憲的解釈に特有の問題というのは、帝国憲法を最大限に立憲主義的・自由主義的に解釈しようとした美濃部〔注・達吉〕にあってすら、最終的には「国務大臣の進言を嘉納せらるるや否やは聖断に存する」ということを、留保せざるをえなかったからである。そうであるとしたなら、大臣助言・責任制によって全面的に拘束される立憲的元首についての一般論としてならいえることも、ここではあてはまらないことになる。 大臣助言・責任制によって「権能なければ責任なし」の論理がつらぬかれているところでは、立憲的・君主無答責原則は、とられた決定の内容がどうであれ、あてはまると考えてよいであろう。しかし、最後の言葉が「聖断」に留保されているところで、そのような説明をすることはむずかしい。そこではむしろ、神権的・君主無答責原則の復活としてしか、事態を説明できないのではないだろうか。(中略) 帝国憲法とその運用について「立憲的」という言葉が使われているときにも、それを、日本国憲法の想定する立憲主義と簡単に連続的にとらえることの誤りは、明らかであろう。(中略) 制度論としての憲法論にかぎっていえば、1910―1935年のあいだの責任内閣制にむけての立憲主義の上昇期の意味を強調し、1945年以後との連続性をそこから読みとることも、あながち不可能ではない。むしろ、現象的に見るならば、1955年保守合同から1989年7月までの、責任政治の作動しない状況とくらべて、まがりなりにも選挙結果にもとづく政権交代があった戦前の「立憲政治」を再評価したい気にもなる。だが、近代立憲主義の核そのものを形づくる「個人」という価値への態度決定を問題とするならば、見方はちがってくるだろう。まさしくこの点で、《1889年》と、《1789年―1689年〔注・フランスの人権宣言とイギリスとの権利章典〕》とのあいだには、とび越えなければならない深い溝があったといわなければならない。>(96~108頁) ------------------------------------------------------------------------- 大日本帝国憲法について、伊藤博文は1889年2月15日の府県会議長への演説で、「第一条に君主の大権すなわち主権を明記するものは、他国の憲法にその例あるを見ざるところなり。しかして、その然るゆえんは、一考直ちに了解するを得べし。そもそも、わが日本国は、開闢のはじめより、天皇みずから開きたまい、天皇みずから治しめすをもって、これを憲法の首条にのするは、実にわが国体に適応するものというべし」と述べている(横田喜三郎『新版 天皇制』ミュージアム図書、1997年(初版は労働文化社、1949年)、15頁より孫引き) 。 また、美濃部達吉は、大日本帝国憲法の規定する「主権」について、「主権は本来国民に属し、国民から君主に委託せられているとなす思想に反して、主権は本来君主に属するもので、君主は何人から委託せられたものでもなく、自分に固有なものとして、主権を保有せられるものである。その根拠は一に建国以来の歴史にあって、国民からの委託にあるのではない。」と『日本憲法の基本主義』(1935年)で解説している(前掲書、17頁より孫引き) 大日本帝国憲法すら「立憲主義」の「遺産」として評価されるならば、自民党の改憲案がなぜ「立憲主義」に反しているということになるのか私にはよくわからないのだが、上のいくつかの引用と比較は、今日の「立憲主義」の政治的主張が、「戦後解放の意味」をあいまいにし、天皇制、「昭和天皇の戦争責任という問題」を捨象した上で成り立っているものであることを示唆していると言えよう。
by kollwitz2000
| 2016-03-06 00:00
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