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2018年 11月 29日
ブログ「先天無極派」の兪佩玉氏が、以前、私が書いていた姜尚中論の連載(左の方の「カテゴリ」の「姜尚中」をクリックしていただければ読める)を紹介してくれていた。この連載は、書いている途中で姜への関心を失ってしまい、放置してしまっていたのだが(読者には申し訳なく思う)、最近、姜については改めて見直してみたいと思っていたところでもあるので、これを機会に続きを書いておく。 ⑨ 姜は単行本『在日』(2004年3月23日刊、講談社)で、以下のように述べている(182~188頁。強調は引用者、以下同じ)。 <わたしがあえて――この点を強調しておきたい――「在日」の立場から社会的に発言するということについては、エドワード・W・サイードから触発されたものが大きい。(中略) 彼は『知識人とは何か』の中で知識人とはつねにアマチュアであると言い切っている。アマチュアを悪く言うと、ただの素人。しかし考えてみると、父親や母親はこの日本の社会で生きていくうえで明らかにアマチュアであった。なぜなら、「在日」になったとき、父母は日本のことがわからなかったはずだ。普通の日本人が知っていることがわからない、完全にアマチュアだったのだ。 日本人であるということは、それだけで日本社会についてのエキスパートである。 そう考えると、彼がアマチュアと言ったのには非常に深い意味があることに気づくようになった。つまり、どっぷりとインサイダーの中に浸からずに、どこかでアウトサイダー的な面を保ち続けることは困難がともなう。しかしそれには「亡命」のような境涯を生きるものにしかわからない歓びがあると言う。そう思えば、父母や「おじさん」たちは、ただ辛かった、悲しかっただけではなかった。底なしに明るい笑いと屈託のないたくましさがあった。それはきっと、そうした歓びを知っていたからではないか。(中略) 知識人とはなんなのか。孤立していながら、そこで発言することにどういう意味があるのか。そんな迷いを持つわたしに、アマチュアとして発言するということの中に知識人という一つの役割を見出そうという彼のメッセージは、非常に胸にこたえた。だからこそ積極的に発言したいと思った。 けっきょく、行き着くさきは「他者」という問題かもしれない。「在日」というのは、日本の社会において、「他者」としても承認されていない。近い存在であると同時に遠い存在であり、遠い存在であると同時に近い存在。それは、日本と朝鮮半島の関係そのものではないかと思えるのだ。(引用者注・ここで第6章終わり)> ここが文庫版『在日』(2008年1月25日刊行、集英社文庫)では、以下のようになっている(199~201頁)。 <わたしの思考の一班に大きな影響を与えたエドワード・サイードは、『知識人とは何か』の中で知識人とはつねにアマチュアであると言い切っている。アマチュアは悪く言うと、ただの素人。しかし考えてみると、父や母は明らかに知識人ではなかったが、この日本社会で生きていくうえでアマチュアであった。父や母が「在日」になったとき、彼らはアマチュアとして生きていかなければならなかった。フツーの日本人が知っていることがわからない、完全にアマチュアだった。 日本人であるということは、それだけで日本社会についてのエキスパートである。 そう考えると、アマチュアには深い意味があるように思える。アマチュアとしての「在日」とは、多数者の日本人、言ってみれば「インサイダー」としての日本人の中にどっぷり浸からず、どこかで「アウトサイダー」的な面を保ち続けることを意味している。その極端な例は、「亡命」のような境涯に違いない。しかしそこにも歓びがあるのだ。 そう思えば、父や母、おじさんたちには、ただ悲哀があっただけではない。底なしに明るい笑いと屈託のないたくましさがあった。それはきっと、そうした歓びとどこかで通じ合うものだったに違いない。 そうしたアマチュアとしての「在日」とは、最も近くにあって遠く、最も遠くにあって近くに生きる存在でもある。日本だけにとどまらず、韓国にとっても、ましてや北朝鮮にとって、「在日」はそんな存在なのではないか。 父や母、おじさんたちにとって生まれた祖国は、数十年に及ぶ「異国」暮らしのために、最も遠く、そして最も近く、逆にまた最も近く、最も遠くに感じられたはずだ。その近さと遠さの、決して埋まることのない距離。それは時には紙一重のように思われ、時には千里の距離もあるほどに感じられたに違いない。そして彼らの悲哀も、彼らの歓びも、その埋められない隔たりに発しているように思えてならない。 これまでずっと遠かった父母たちの国が、わたしに近づいてくるようになるにつれて、わたしはやっと彼らの哀歓の一部を実感できるようになった。だが、そう実感できるようになった時、もはや彼らはこの世にはいなくなっていたのだ。ひとり取り残されたような寂寞とした哀愁がこみ上げてくることがある。その度にわたしは、彼らの生きる「作法」にわたしのそれを重ね合わせたいと思うのだ。(引用者注・ここで第6章終わり)> このように、単行本版では「「亡命」のような境涯を生きるものにしかわからない歓びがある」として、「在日」「アマチュア」にポジティブな評価が付されており、そのような認識こそが自分の社会的発言の土台となっている、と書いている。 ところが、文庫版では、「「亡命」のような境涯を生きるものにしかわからない歓びがある」という認識は消えており、「そこにも歓びがある」と記述されている。つまり、「在日」にも「フツーの日本人」と同じような(同じ程度の)「歓び」は得られる、という主張になっているのだ。また、文庫版では、「アマチュア」としての「在日」は、もはや鎮魂の対象である。 単行本版においては、姜は「アマチュア」としての「在日」性について、父や母の世代から姜が受け継ぎ、恐らくそれを未来に引き継いで行こうと、直線的なイメージで捉えている。文庫版では、「アマチュア」としての「在日」性は、父や母の世代にほぼ固有のものとして描かれており、姜自身がそのような性格を持っているのかすら曖昧である。「アマチュア」としての「在日」性を、姜の父や母の世代に封じ込めようとしているのである。その結果として、姜の次の世代の「在日」は、「アマチュア」性を最初から持っていない、「フツーの日本人」と同等である(あり得る)ものとされる。これからは「在日」はそのようなイメージで表象されるべきである、ということである。文庫版でのこの箇所の修正における姜の狙いは、以上のようなものであると私は思う。 兪氏の取り上げている姜の発言は、『在日』の文庫版の上のような立場からの論理的帰結であると見ることができるだろう。ただ、姜のそうした発言や近年の言動を笑うのは簡単だが、兪氏ら数少ない例外は除き、それらの人々が上で見た文庫版の姜の主張の論理を越えられているのか、ということには疑問がある。 (つづく)
by kollwitz2000
| 2018-11-29 00:00
| 姜尚中
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