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2007年 06月 04日
佐藤優をリベラル・左派が使うことの奇妙さが、ようやく話題に(問題に)なりつつある。
この点については、小谷野敦のブログや、片山貴夫のブログを読まれたい。 私がこのことを指摘したのは昨年12月だ。その際に、佐藤優を好んで使っている以上、一連の「総連弾圧についても、左派系メディアは、沈黙か、形だけの日本政府批判でお茶を濁すだけだと思われる」と書いたが、残念ながらその予測は的中してしまった。 私は、佐藤優個人は取るにたらない「思想家」だと思うが、佐藤優現象は重要だと考えている。佐藤優現象とは、「佐藤優のような、右翼であり、右派メディアに頻繁に登場して国家主義を喧伝している人物が、全く同時期に、リベラル・左派と一般的に目されているメディアにも登場している現象」と私は考えている。この規定の中で、「右」と「左」を逆にすることはできない。佐藤のリベラル・左派メディアでの発言内容は、「保守的護憲論」など毒にも薬にもならないものばかりであり、右派にとっては基本的にどうでもよいことだからである(『諸君』2007年5月号の柏原竜一による佐藤批判は、佐藤への右派メディアによる「牽制」と私は考える。7月号には佐藤はちゃんと登場し、丸山真男批判という仕事をこなしている)。 これが、「現象」と呼ぶべき事態であり、「変」である、ということの確認からまずはじめよう。論者によってそれはさまざまな表現がされているが(「いささか異様と言わざるを得ない」、「言論キム・イルソン状態」(小谷野敦)、「いまや「正論」から「世界」まで、いまや「週刊東洋経済」から「週刊アサヒ芸能」まで、右も左も、硬派も軟派も、佐藤になびく」(『AERA』2007年4月23日号)、「この現象は変だ」という感覚の有無が、実は重要なポイントの一つだと思われる。 この現象が「変」なのは自明ではないか、と言う人がいるかもしれないが、注目すべき点は、リベラル・左派が佐藤を使う際の論理が、「この現象は変だ」という感覚の抹消によって成り立っている、という点である。言い換えれば、小谷野のような改憲派や、片山のような左翼には自明な、そして恐らくリベラル・左派に思い入れのない多くの一般大衆にとっても自明な、「この現象は変だ」という感覚が、佐藤を擁護するリベラル・左派にはない、もしくはない振りをしている、ということだ。 具体的に見てみよう。「週刊金曜日」北村肇編集長の片山への返信の中に、以下の一節がある。 「本誌は「論争する雑誌」としてスタートしました。必ずしも考え方の一致しない著者の登場は、多くの読者から支持されてもいます。」(2007年3月27日) では、佐藤のように、全く同時期に、右派メディアで国家主義的主張を喧伝する書き手を、これまでの「週刊金曜日」が積極的に使っていたのか?鈴木邦男や野中広務を使うのとはわけが違うのだ。誰にでもわかることである。 私が佐藤ファンの護憲派ブログを見た際に感じた気もち悪さは、この「変だ」という感覚が何一つないことだった。「佐藤優は反新自由主義」などと持ち上げているが、反新自由主義の右翼など掃いて捨てるほどいるではないか。 佐藤からの「大鹿靖明『AERA』記者への公開質問状」に関する、金曜日編集部の佐藤への過剰な肩入れと便宜供与(ここでも指摘されている)は、その意味で、単なる居直りではなく、「佐藤優現象は変ではない」ということを、金曜日編集部が必死で読者にアピールするための(無意識の?)パフォーマンスである、ように、私には思われる。「これだけ金曜日が佐藤へ肩入れするのだから、佐藤が金曜日に書くのは当たり前だ」という論理だ。金曜日編集部が必死で守ろうとしているのは、「「取材と表現、マスコミのありよう」などについて」の「重要な問題提起」」(ここでの週刊金曜日編集部の言い草。しかし、こんな「公開質問状」が「重要な問題提起」とは、失笑するほかない)ではなく、佐藤を金曜日編集部が使うことの「自然さ」(と装いたいもの)である。 佐藤が、『AERA』の佐藤への馬鹿げた提灯記事に対して、あれだけ執拗に攻撃するのも、この辺のことが原因であると思われる。要するに、単なる提灯記事では駄目なのだ。佐藤が求めているのは、リベラル・左派メディアで佐藤が書くことは「変」ではない、「自然」なことであるという見解であり、その意味で、「左右の枠をこえて」佐藤を支持している現象、佐藤優現象を言語化し、佐藤を使う左翼に批判的な小谷野の見解を紹介した大鹿は、異端審問官としての佐藤の目から見れば「異端」なのである。 佐藤の抗議に対し、大鹿は、哀れにも、「“佐藤さんによかれと思って書いたことが、全然そうなっていなかった。申し訳ない”といきなり謝って」いたとのことであり(『週刊新潮』2007年5月17日号)、同記事によれば、佐藤は、大鹿が簡単に謝ったこと自体にも怒っているとのことである。大鹿も、何が佐藤をこれほど怒らせているか理解できなかっただろう(事実誤認については、この程度の内容であれば訂正を後で出せば済む話ではないか)。佐藤自身にも怒りの所在が理解できていないのかもしれない。いずれにせよ確実なことは、金曜日編集部は佐藤による洗礼、いや、洗脳が完了している、ということである。 吉野作造は、満州事変に対して、「諸新聞の論調が一律に出兵謳歌に傾いて居ること」と、「無産党側からいっこう予期したような自由豁達の批判を聞かぬこと」を、満州事変直後の情勢で「最も××[遺憾]とし、同時にまた最も意外としたこと」とした上で、無産党が「変態」した、諸新聞の態度は「変だ」と述べている(「民族と階級と戦争」『中央公論』1932年1月号)。かつて吉野のこの晩年の文章を読んだとき、この「変だ」という吉野の言葉の生々しさが、妙に印象深かったのだが、佐藤優現象を考える上で、この「変だ」という感覚は不可欠である。 リベラル・左派の子供騙しの弁明を排し、われわれは、この現象が何の徴候であるかを見極める必要がある。満州事変への「諸新聞」「無産党」の反応が、その後の事態の徴候であったように。
by kollwitz2000
| 2007-06-04 00:58
| 佐藤優・<佐藤優現象>
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