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2007年 06月 05日
佐藤優現象はなぜ起こっているか、また、その問題の政治的意味は何か、が問われなければならない。これに関連した問いだが、斎藤貴男のような、リベラル左派の中で最も戦闘的な人間も、佐藤を擁護しているのはなぜか。このことも問われなければなければならない。
もちろん、「リベラルの右傾化」の一環であることは間違いないが、佐藤優現象には、これまでのリベラル・左派の論調・言論のあり方からの明らかな切断がある。だからこそ、これは「変」なのである。単なる「右傾化」としただけでは、この現象は説明できない。 また、佐藤が「一流の思想家」だと(無教養または教養俗物の)リベラル・左派から思われているから、と説明することも十分な説明ではあるまい。単純な話だが、『世界』にしても『週刊金曜日』にしても、「思想」を扱う雑誌ではないのであり、肝心の政治・社会に関する佐藤の「分析」から、佐藤が「一流の思想家」であることを読み取ることは、金曜日編集部の人間ですら無理だろう。これでは、リベラル・左派の論調と敵対する言説を言い散らかしている人物を、あえて使う理由にはなっていない。 私は、佐藤優現象は、リベラル・左派に支配的な、ある認識と衝動に対して、佐藤が適合的であったために生じた現象であると考える。 説明すると、 ①ファシズム政権の樹立に抗するために、人民戦線的な観点から佐藤を擁護する (魚住昭は「いまの佐藤さんの言論活動の目的は、迫りくるファシズムを阻止するために新たなインターアクションを起こすことだ」と、佐藤との共著『ナショナリズムの迷宮』(朝日新聞社)で言っているらしい(斎藤貴男「佐藤優という“迷宮”」『週刊読書人』2007年6月1日号)。実際、佐藤も、『世界』で連載していた「民族という罠」のどこかでそうしたことを書いていたはずである。また、斎藤も、上記の記事の中で、後に「魚住の理解に明確な共感を覚えた」と述べている) ②改憲の流れを止めることはできないから、これまでのリベラル・左派の主張を改編して「現実的」な勢力となっておく必要があるために、すなわちリベラル・左派の改憲後の「生き残り」のために、佐藤を擁護する この2点が、佐藤を擁護する人間の中に、多かれ少なかれ並存しているように思われる。大雑把に説明すると、現在のリベラル陣営において、斎藤貴男を一番「左」、朝日新聞の学芸部あたりを一番「右」とし、斎藤が佐藤を擁護する理由は①100%②0%(甘いかな)、朝日は①0%②100%とすれば、あとの『世界』やら『週刊金曜日』やらのリベラル・左派の諸メディアが佐藤を使う理由は、それぞれの政治的スタンスに応じて比率配分されている、といった具合である。①を自分自身や編集部内部での弁明として使いながら、暗黙の了解として②の理由のために佐藤を使っている、というのが、だいたいのリベラル・左派メディアの現状ではないかと思う。 私は、佐藤を使う理由として、①は首肯できるが、②はいただけない、と言っているのではない。②も問題だが、より重要な、それゆえ徹底的に批判されるべきなのは、①だ。 まず押えておく必要があるのは、日本において、佐藤らが言っているような「ファシズム体制」なるものは絶対に到来しないことだ。だいたい、「国民」全体を監視・抑圧するような全体主義的体制は、端的に不効率でしかなく、支配層にとって経済的にペイしない。治安や管理や統制は、要所要所さえできていれば支配層にとって問題ないだろう。よくある「監視社会論」は、ほとんど陰謀論に近い(斎藤の『安心のファシズム』(岩波新書)はその典型であろう。佐藤優現象における斎藤の役割は重要な位置を占めている。「週刊金曜日」北村肇編集長も、佐藤が評価されている一例として、斎藤の名前を挙げているように(ここでの、2007年3月5日の片山貴夫への返信メール参照)。 もちろん政党が解散したり、国会が停止したりすることもありえない。「強制的画一化」も起こらない。現代の戦争においては、「自発的な参加」と形式的な正当性があった方が、合理的に戦争を完遂できるからである。端的に言って、最悪の侵略国家であるアメリカ合州国、イスラエルを見ればよい。それらの国の議会における論戦や市民運動が、現在の日本よりもはるかに活発であることは周知の事実であろう。 ここで重要なのは、佐藤の、イスラエル国家への賞賛である。 佐藤は、片山もブログで指摘しているように、イスラエルによるレバノン侵略戦争を「拉致問題の解決」として支持している。片山の指摘どおり、当然、佐藤にとっては「北朝鮮の拉致問題の解決」においても戦争が視野に入っているということである。 佐藤ファンの護憲派のブログの一つの管理人は、ここの「コメント欄」で、この片山の解釈に対して、「確かに佐藤さんはイスラエル、イラン、北朝鮮などに関する記述では冷徹な国際政治のスタンダードで発言していますが、もちろん戦争を煽っている訳ではありませんね」などと述べている。言うまでもないが、初歩的な現代文の読解として、片山の解釈以外の答えはありえない。佐藤も、お人好しの護憲派佐藤ファン以外の人間には、片山の解釈が正しいことを認めると思われる。 佐藤は、『獄中記』(岩波書店)でも、「中東地域におけるイスラエルの発展・強化は、イスラエルにとってのみでなく、日本にとっても死活的に重要です。なぜなら、私たちは、人間としての基本的価値観を共有しているからです」「外務省でも私、東郷さん、そして私たちと志を共にする若い外交官たちは、日本とイスラエルの関係を強化する業務にも真剣に取り組みました。彼ら、彼女らは、「私たちはイスラエルの人々の愛国心から実に多くのものを学ぶ」ということを異口同音に述べていました」(397頁)と書いている。佐藤は、日本をイスラエル型の国家にしたいのだろう、と思う。 まとめよう。要するに、佐藤優現象の下で起こっていることは、「日本がファシズム国家の道に進むことを阻止するために、人民戦線的に、佐藤優のような保守派(私から見れば右翼)とも大同団結しよう」という大義のもと、実際には、イスラエル型国家に適合的なリベラルへと、日本のジャーナリズム内の護憲派が再編されていくプロセスである。イスラエル型国家に適合的なリベラルとは、憲法九条とは背反的であることは言うまでもない。このまま行けば、国民投票を待たずして、ジャーナリズム内の護憲派は解体していることだろう。これが、佐藤優現象の政治的本質だと私は考える。 もっと言えば、佐藤優自体はどうでもいい。仮に佐藤優が没落して、「論壇」から消えたとしても、「佐藤優現象」の下で進行する改編を経た後のリベラル陣営は、佐藤優的な右翼を構成要素として必要とするだろうからだ。 恐らく、国民投票法案審議などにおける安倍政権の強硬姿勢は、この辺のことも一因ではないかと思われる。私は、佐藤優現象で、ジャーナリズム内の護憲派が死に体に向かっていることに気づいたが、安倍らは安倍らでどこかでそれに気づいたのではないか。 ジャーナリズム内の護憲派が解体することは、反改憲派全体にとって大きな痛手ではあるが、過剰に悲観的になる必要もない。どっちみち、こんな連中では戦えないのだから。われわれに必要なのは、佐藤優現象に侵されているジャーナリズムへの全面的な批判であり、新しい出発点である。
by kollwitz2000
| 2007-06-05 00:51
| 佐藤優・<佐藤優現象>
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