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2007年 12月 23日
②佐藤優を「リベラル保守」とする認識
この批判者は、「金光翔氏は、「リベラル保守」とも手を組めという姜先生(注・姜尚中)をも、「改憲後の生き残りのための右派への擦り寄り」とするだろうか。私は、そこにもっと誠実な動機を見るのだが。」「護憲のために肝要なのは、「リベラルな保守」がどう動くか、であろうと思う。したがって、私は姜先生の認識と提案に、同意したいと思う。」と述べているのだから、佐藤を「リベラル保守」と見なしているわけである。 私は、論文で、佐藤について以下のように書いている。 「そもそも、佐藤は白井聡との対談(注・『国家と神とマルクス』太陽企画出版、2007年4月、194~195頁。) で、潮匡人の、「憲法を改正せずに、しかも一円の予算支出もせずに今すぐできる日本の防衛力増強のための三点セット」の提言、すなわち、内閣法制局の集団的自衛権解釈変更(現行憲法下でも集団的自衛権を保持しており、行使可能であるとする)、周辺事態法の「周辺地域」に台湾海峡が含まれることの明言、「非核三原則」を緩和して朝鮮半島有事の際には「持ち込み可」とすることを紹介した上で、全面的に肯定し、「国家が自衛権をもつのは当然のことで、政府の判断で、潮さんが言うようにこれだけ抑止力を向上させることができるのですから、潜在力を十分に使っていない状況で憲法九条改正に踏み込む必要はないと私は考えています」と述べている。護憲派ジャーナリズムでは、佐藤は「保守の立場からの護憲派」と紹介されるが 、これで「護憲派」ならば日本の保守派にどれほど「護憲派」は多いことだろう。佐藤の(潮の)主張が、極端な解釈改憲論であることは言うまでもない。護憲派ジャーナリズムのやっていることは、完全な詐術ではないのか。」 この批判者は、私の論文を読んだらしいから、当然この一節も読んでいるだろう。とすると、この批判者は、こんな解釈改憲論者まで「リベラル保守」として、護憲のために手を組む相手と見なしているわけだ(注2)。また、当然ながら、論文で挙げた、「拉致問題」解決のための対北朝鮮武力行使の容認や、朝鮮総連弾圧の煽動、イスラエルの侵略戦争支持などの佐藤の発言も、この批判者は読んでいるわけであるから、この批判者にとっては、その主張が佐藤を「保守」ではあっても「リベラル」だと見なすことの障害にはならないということを意味する。「リベラル」とはなんなのか?一つだけ明らかなのは、この批判者にとって、憲法九条の擁護が、自分が「リベラル」である「立ち位置」を示すもの以外の意味を持っていないことだ。 そのことは、具体的に明らかにできる。この批判者の、「護憲」についての以下の一節を見ればよい。 「アジアにおいて、日本が戦後、現行憲法によってかろうじて自由社会を一貫して維持してきたという実績は、日本が他のアジア諸国にたいして保持する何よりの政治体制上の優位であるはずだと私は思っています。しかし、まさにその自由によって日本が、中国や北朝鮮など大陸アジア諸国に対する政治的なhigh groundを保っているという事実を、与党の政治家はどれほど認識できているのか、疑わしいと思っています。具体的には、「戦後レジームからの脱却」なるスローガンや、愛国心を盛りこんだ教育基本法の改正、日の丸・君が代の訴訟、初等教育における道徳教育の科目化などです。なかなか金日成バッジをはずさない帰国直後の拉致被害者の姿から、北朝鮮の洗脳的な独裁体制の深刻さを強調した拉致被害者家族会やそれを支援する政治家たちが、その思いのあまりブルーリボンの着用を日本国民に強制しないかどうか、心配でさえありました。 北朝鮮や中国のような、高圧的でみじめな国民統合をしないですんでいるという点において日本の自由国家としての優位性があるにも関わらず、現在の保守政治家が、それらのグロテスクでilliberalな国家と同じような心性を持っているという点に、liberalとしての自分は、最後の最後で成熟した自由国家になれない日本の「弱さ」を感じている次第です。日本の議会政治のこの「弱さ」が、9条改正や集団的自衛権の行使を考える上でも、どうしても気になる点です。 私はむしろ、憲法9条2項による強度の平和主義は、他のilliberalな大陸アジア諸国に対する日本の政治道徳上の優位性を示す証左として、戦略的かつ積極的に押し出すべき理念として活用できないかと考えています。」 全体に流れる無根拠なエリート意識には失笑せざるを得ないが、それはさておき、この批判者の論理で考えたとしても一つだけ確かなのは、「中国や北朝鮮など大陸アジア諸国」、特に、「高圧的でみじめな国民統合」を行なっている「北朝鮮や中国」への「自由国家としての優位性」を示すためならば、改憲でも全然構わないではないか、ということである。この批判者は、改憲後、日本が戦前のようなファシズム国家になるとでも思っているのだろうか(それが、妄想であることは既に論文で指摘している。イラク戦争を遂行したアメリカや、最悪の侵略国家イスラエルは、政治的自由や民主主義体制が維持されており、議会での論戦や市民運動も日本よりはるかに活発である。現代戦争を遂行する上で、戦前型の総動員体制は必要とされない)。この批判者は、自民党の改憲案すら読んでいないのではないか。この批判者の論理にしたがって、「自由国家としての優位性」を示すためならば、最低限度は機能している議会制民主主義と市場経済があれば十分だろう。 だいたい、「北朝鮮や中国」に対して「自由国家としての優位性」があるとする思考法は、恐ろしく古典的な冷戦図式そのものの「陣営論」的把握であり、丸山真男らリベラル左派が、まさに批判の対象としたものだ。ここには、現在の「リベラル」が、戦後民主主義のリベラル左派の国際政治観とは、基本的に切れたものとして(だが一方で、限界は引き継ぐ形での連続性を有しながら)存在していることが、端的に表れている。 この批判者は、現在の日本が「政治体制上の優位」にあるとするならば、「北朝鮮や中国」ではなく、韓国や台湾と比較しなければなるまい。ところが、彼は、恐らく証明が困難なそうした比較はやらない(やれない)わけである。「中国や北朝鮮など大陸アジア諸国」と、「など」とあるから、韓国と比べても「政治体制上の優位」にあると考えているのだろうが、どういう理屈でそう言えるのか、政治学専攻の人間としては、教えていただきたいものだ。まさか、日本は「平和憲法」があるから、「徴兵制」がある韓国よりも「政治体制上の優位」にある、と言いたいわけではないだろうな・・・。本気でそう思っているのならば、韓国でそれを言ってみろよ。 何回も強調しておく必要があるが、日本の「平和憲法」と韓国の「徴兵制」はワンセットだ。韓国の権赫泰の言葉を借りれば、「アメリカが軍事的リスクを負担し日本が軍事基地を提供する日米間の「役割分担」により、建前としての「平和路線」が維持された。このような日米の役割分担のなかで、日本には兵站基地、韓国をはじめとする周辺国には戦闘基地としての役割がそれぞれアメリカによって与えられた。」「日韓関係にそくして考えるならば、日本の戦後民主主義が・・・周辺諸国の「軍事的犠牲」の上に乗っかっている・・・。日本が本格的な軍隊を保有しなくても「平和体制」を維持できた理由は、アメリカの対アジア戦略に組み込まれ、米軍基地の75パーセントを沖縄に駐屯させ、また韓国が日本の戦闘基地あるいは「バンパー」としての役割を引き受けたからである。言い換えれば、周辺諸国が軍事的リスクを負担することによって、戦後「平和体制」が維持できたのである。わかりやすくいえば、韓国の厳しい「徴兵制」は日本の「軍隊に行かなくともいい若者の当たり前の権利」と関連しあっているということである。」(権赫泰「日韓関係と「連帯」の問題」『現代思想』2005年6月) 権は、こうした批判を何度か書いている(例えば、『世界』2007年10月号「9条の世界的意味を探る 第2回 改憲と歴史認識を周辺国から問う」)。権の文章は明晰で分かりやすいので引用したが、こうした戦後日本の「平和体制」への懐疑は、韓国だけではなく、恐らく東アジア全般の多くの人間が共有していると考えた方が良い。この批判者の脳裏からは、朝鮮戦争もベトナム戦争も、綺麗に抜け落ちているようだ。こんな認識で、どうやってテロ特措法に反対するのだろう。 仮に日本国内で、イスラム原理主義集団によるテロが発生したら、日本が「対テロ戦争」に実質的に軍事参加しているという実態は忘れて、こうした「リベラル」は、「平和体制」を脅かすテロリストに対する、「対テロ戦争」への日本の積極的参加と国内治安の強化を煽ることだろう。少なくとも、そうした煽動に何の抵抗力も持てないことは明らかである。 もちろん、この批判者には、米軍と、強大な自衛隊の日米安保体制が「北朝鮮や中国」に軍事的な緊張感を与えており、そのことが「北朝鮮や中国」の国内統合のあり方を大きく規定している、という認識もかけらもない。こんな認識で、憲法の「平和主義」を、「他のilliberalな大陸アジア諸国に対する日本の政治道徳上の優位性を示す証左として、戦略的かつ積極的に押し出すべき理念として活用できないかと考え」ているわけである。仮に今後、「理念として活用」されたら、アジアの人間から見れば、馬鹿としか見えないのではないか。「戦後民主主義」の「一国平和主義」的傾向の醜悪さが、行きつく所まで行った例がこの批判者であろう。 要するに、この批判者の「護憲」の中身は、何一つ実質がない。そりゃ、現行憲法下での集団的自衛権の行使を容認する佐藤を「リベラル保守」として手を組む相手と見なすのだから、無内容なのは当たり前である。この批判者の「護憲」論は、「自由国家としての優位性」「戦略的かつ積極的に押し出すべき」など、空疎な修辞のオンパレードである。「護憲」論としての中身がないから、修辞に頼らざるを得ないのだ。このことは、山口二郎らの「平和基本法」にもあてはまるのであり、論文での、<佐藤優現象>を推進する護憲派ジャーナリズムが、改憲論に反論できる理屈を持っていないという私の主張を補強してくれている。この批判者の文章は、「戦後民主主義」の「一国平和主義」が、改憲論に行きつかざるを得ないことも示してくれている。
by kollwitz2000
| 2007-12-23 23:34
| 日本社会
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