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2007年 12月 23日
③「リベラル保守」を探し求める論理と衝動
②で、佐藤を「リベラル保守」と見なすことの馬鹿馬鹿しさを指摘したが、ここでは、さらに考察を進めて、リベラル・左派の、護憲を唱えてくれるような「リベラル保守」をなんとかして探し出そうとする論理と衝動について考えたい。佐藤を「リベラル保守」と見なすのは、本質的には現在のリベラル・左派が、暗黙のうちに集団的自衛権や対外的武力行使を容認していることの問題であるが、それとは別に、護憲派の「リベラル保守」を探し出したいという衝動が強力であるからこそ、私が論文であれほど、そうした「人民戦線」的な思考法を批判したにもかかわらず、その批判には何一つ答えることなく(あたかもそうした批判自体がなかったかのように)、この「大学4年生」は、佐藤を「リベラル保守」としたがるのである。そのことは、この「大学4年生」の文章の、「社共の潜在的支持層は固定化している。護憲のために肝要なのは、「リベラルな保守」がどう動くか、であろうと思う。」という一節によく現れている。「リベラルな保守」が現実的にどの程度層として存在するか、などという肝心な議論とは全く無関係に、「護憲」の戦略上の観点から、「リベラルな保守」の登場が要請されているのだ。「リベラル保守」が、具体的な存在とは無関係に、あくまでも「護憲」のための論理上の必要物として、呼び出されているのである。 このことを非常に鮮明に示してくれるのは、<佐藤優現象>の中心人物の一人である、『金曜日』代表取締役社長、佐高信による、宮沢喜一評価の変容である。 このことを、佐高信のファンのブログの記述に沿って見てみよう。 この人物は、佐高が、宮沢について、2001年7月に出した本では、「経済戦犯」の一人として、「評論家的無為無策の罪、平成の高橋是清とは片腹痛い」とまで述べているにもかかわらず、宮沢死去後の文章(「政経外科 追悼宮澤喜一」『サンデー毎日』2007年7月22日号)では、極めて好意的に書いていることを紹介し、「これを読んで、さすがに言葉を失いました。佐高さんのコラムを最近読み始めた人ならばいざ知らず、ずっと前からの愛読者なら、それはないのではないかと感じるでしょう」と驚いている。この佐高ファンは、その2001年と2007年の文章両方で、佐高が、宮沢との会合に関する同じエピソードを使っていることを指摘し、「今週の「政経外科」とほぼ同じ話なのにこうまで違う結論になってしまうとは!!!!」と絶句した後で(そりゃ絶句するだろう)、「一時代をつくった同じ人間に対して、わずか6年の期間差でこうまで違う評価をするのはいかがなものかとは思います。/佐高さんには宮澤さんのよいところを強調したかったのでしょうが、以前に批判していたことをおくびにも出さずにその人間の最後の評価とすることは疑問です。」と、正論を述べている。 私は、この、佐高の宮沢評価の変容は、「リベラル保守」を殊更に高く持ち上げたいという衝動を、現在の佐高が強く持っていることの反映であると考える。そして、こうした傾向こそ、<佐藤優現象>を成立させている大きな要因になっていると思われる。こうした衝動が強すぎるからこそ、改憲後の護憲派ジャーナリズムの(恐らくは無意識の)生き残り戦略と相まって、佐藤のような右翼まで「リベラル保守」にしてしまうのだ(注3)。 だが、もうそろそろ、こうした衝動に基づいた、「リベラル保守」探しは止めるべきではないか。「リベラル保守」なんてどこにいるの?どんな層が、どんな像が想定されているの?「九条の会」このかた、ここ数年間、護憲派がやってきたのは、いかにして「護憲派」陣営に「リベラル保守」を組み込むか、ということだった。私自身は、「リベラル保守」なる存在が、そもそも層として存在すること自体に懐疑的なのだが、「リベラル保守」たる可能性を持った層として想定されているのは、一定の教養と生活水準を持つ中産階級(以上の層)であろう。だが、彼ら・彼女らは、ある程度明確な政治意識を持っていると考えるべきであって、ここ数年間で、「護憲」「改憲」問わず、これだけ憲法論議が行なわれてきた後の現段階において、「護憲」の立場に立たない「リベラル保守」に、改めて「護憲」を訴えようとしても無駄である。それこそ、身の程知らずの愚民観の最たるものではないか。だいたい、現在の護憲派ジャーナリズムの「護憲」の根拠など、主張を読んでも説得力が全くないし、この「大学4年生」の主張などその最たるもので、自分でも何が言いたいのか分からないのではないか。こんな論理で「リベラル保守」を説得できると、本気で思っているのだろうか。明確にしておく必要があるのは、日本の「国益」の擁護を大前提に置く価値観からすれば、改憲の方がはるかに合理的かつ整合的なのである。 私の論文でも指摘したが、現在の護憲派ジャーナリズムには、下層階級への(いや、上で指摘したように、中産階級(以上)へも)愚民観が蔓延している。そこで、前述のように、「護憲」のためには、半ば妄想の、一定の教養と理性を持った「リベラル保守」を探さざるを得ない。そうした、「リベラル保守」を欲する衝動の結果、「リベラル保守」の概念は、不断に拡大され、護憲派ジャーナリズムは、野中広務や加藤紘一らハト派どころか、最近では、石破茂や後藤田正純まで「リベラル保守」に加えたがっているような気配すらある。この、「リベラル保守」の外延の馬鹿げた拡大の行き着いた先が、佐藤を「リベラル保守」とするこの「大学4年生」の(いや、<佐藤優現象>に乗っかる護憲派ジャーナリズムの)主張なのだ。 では、改憲を止める主体として、どのような層が想定されるべきなのか。それは、「リベラル保守」などとは違い、具体的な層として明確に存在し、「改憲」による結果、具体的な不利益を蒙ることが明確な層である。 私は、その層とは、リベラル・左派が、その愚民観のもとで、まともな政治的判断力を持った対象と見なしていない、「下層」階級、すなわち、ワーキング・プアや、ワーキング・プア化への不安に晒されているフリーター、派遣・契約社員、パート、中小企業正社員や、その他の低所得層だと考える。 改憲は、「対テロ戦争」他の武力行使に日本が積極的に十全に参加することを通じて、グローバル企業の海外展開を円滑に進めることと、そのための国内改革、「国民」統合の洗練化・強化という観点から行なわれる。改憲後、こうした「下層」階級が、戦争以外には這い上がれない社会(既にそうなりつつあるが)、アメリカのように奨学金のために軍隊に入るような社会になるのであって、「対テロ戦争」に日本が中心的アクターとして十全に参加することにより、国内での「テロ」の可能性が現在よりも格段に高まる。このことは、アメリカやイギリスなどの「普通の国」の欧米諸国を見れば明らかだろう。しかも、日本の場合、現行憲法があるからある程度抑制されているものの、過去清算すらまともにされないような社会意識なのだから、改憲後は、欧米諸国よりもはるかに抑圧的・排外的な体制になることは明らかである。 「下層」階級にとって、改憲問題は、本来、極めてリアルな問題なのである。だが、現在の憲法論議においては、そうした問題がほとんど論じられておらず、護憲派ジャーナリズムの「護憲」の主張は、この「大学4年生」に毛の生えた程度のものに過ぎない。「下層」階級に訴えようとする護憲派ジャーナリズムの言語は、『金曜日』に典型的なように、「護憲」を唱える有名人・芸能人を使ったり、現行憲法の素晴らしさを抽象的に(観念的に)説いたり、「憲法九条」のグッズを販売したり、あげくの果てには「徴兵制の恐怖」を訴えたりといった、私が論文で「護憲派のポピュリズム化」と呼んだ、ぬるい、あからさまな愚民観の下での「手法」でしかない。有名人やグッズが一概に駄目だとは言わないが、今のところ、そればかりではないか。そうではなく、改憲で具体的にどうなるか、を明確に、明晰に示せれば、言葉は「下層」階級にちゃんと届く。そのことは、2005年の衆議院選挙を見ればよい。あの時に、自民党に投票した若者や女性を、リベラル・左派は、愚民視したが、論文で既に論じたように、あれは、彼ら・彼女らの置かれた状況にしてみれば、合理的選択である(私がこの投票行動を肯定しているわけではない。念のため)。愚民観からそろそろ脱却しなければならない。 このままでは、来たるべき国民投票においては、「下層」階級の多くは棄権するか、メディアやネット右翼によるプロパガンダの影響で、改憲に一票を投じることになろう。 私を含めた、「改憲」に反対する勢力に必要なのは、現行憲法下での、「下層」階級にとって魅力的な社会像の提示だろう。既存の、男性正社員中心の企業社会(御用労組も含む)が、「下層」階級には打破するべきものとしか映らないのは当然である。そして、護憲派ジャーナリズムは、まさにそうした企業社会そのものであり、護憲派の亜インテリの大学院生・大学生の大多数は、中上層出身なのだから、現在の「体制」に根本的な疑問を持たないだろう。せいぜいが、論文で指摘したように、「格差社会」の是正として、外国人労働者を排除した上での調整を志向するといったところである。こうした、現状を打破する、現在の「体制」とは別の社会像を提示しない限り、「下層」階級を「護憲」に引き付けることはできまい。「リベラル保守」を探し求めるという志向の下では、現在の「体制」を打破することは極力避けられる。「保守」と「下層」階級は、明確に利害が対立するのだから。この志向の下では、「護憲」の立場からの現状打破の主張は、この「大学4年生」のように、「本来の敵と当座の見方が区別できないで、結局、団結できない」などとして否定されることだろう。
by kollwitz2000
| 2007-12-23 23:40
| 日本社会
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