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2008年 05月 12日
中西新太郎氏から、私の論文を高く評価してくださるメールをいただいたため、該当部分をご本人の了解を得た上で、掲載する。中西氏については改めて紹介するまでもないだろう。現代日本社会へのその鋭い批評からは、私も多くを学んでいる。
90年代以降の広義の政治言説が、「ありうべき批判を排除してしまう構造」を作り出してしまっている、という中西氏の指摘は、特に重要である。 先日も、リベラル・左派系のメディアで活躍するある人物が、私の論文を意識していると思われる文脈で、日本の左派や社会運動は、内部闘争にエネルギーを浪費してばかりで大局に立てていない、などと述べていた。勝手に「一枚岩であるべき左翼陣営」なるものを設定して、その中に勝手に私まで加え(言うまでもないが、一緒にされる筋合いはない。ここ参照)、(批判内容ではなく)批判自体を不当だとしているわけである。「ありうべき批判を排除してしまう構造」そのものだ。こうした独善性に基づいた排除の姿勢は、私が首都圏労働組合のブログで述べている、岩波書店労働組合による私への嫌がらせや、それへの株式会社岩波書店による容認の根底にあるものであろう。 それにしても、リベラル・左派による私の論文への反応は、ほとんどがこんなレベルである。ここで批判した「大学4年生」の文章や、この佐高信の文章が典型であろう。この批判の排除の構造は、批判する主体が日本人であっても当然成り立つが、ましてや私の場合、<佐藤優現象>が排除する当の在日朝鮮人なのだから、二重に抑圧的である。この連中は、「君の利益は、自分たちの方がよくわかっているよ。だから黙っていろよ」と言っているわけだ。どこまで破廉恥なのだろうか。 前置きが長くなったが、中西氏の文章は、多くの示唆を含むものである。他の触発された点については、後日改めて論じたい。 ---------------------------------------------------------------- 「〈佐藤優現象〉批判」、興味深く、共感をもって読ませていただきました。佐藤優氏の主張については、金さんの仰るように、陳腐な(とはいえ90年代のグローバル資本主義-帝国主義秩序に対応するものかもしれません)国益論の域を出るものでなく、まるで興味を惹かれません。その主張が、なぜ「リベラル・左派」にもてはやされるのかに焦点を当てたご論文は、現代日本の歴史的位置と状況とを検証・検討するうえで、大変に有効かつ刺激的なアプローチだと思います。その問題把握に深く共感します。 90年代以降の政治言説(もちろん広い意味での政治です)が、言説の社会的・歴史的文脈への自覚を欠き、かつそうした自覚の欠如自体を有効な手段へと反転させて特定の政治舞台をつくり、ありうべき批判を排除してしまう構造を持つこと――この点をあきらかにするために、金さんが提起されているような問題把握が不可欠だと思います。 「論壇」(はたしてこの言葉がいまも有効で適切かどうか疑わしいところですが)をつらぬいている言説の政治を「論壇」が解明することは不可能に近く、「〈佐藤優現象〉批判」は、この困難な課題に挑んだ勇気ある試みではないでしょうか。「言説の政治」が日本社会の歴史的変化とどのようなかたちで共鳴・共犯関係を結んできたかについて検証することの重要性をあらためて感じさせられました。 私としては、70年代に始まった思想・イデオロギー変容と金さんが今回問題とされている90年代の状況とを俯瞰する「言説の政治」分析が必要だと感じています。 上の点とも関係しますが、「リベラル」とは何かについてきちんと議論すべき状況ですね。あいまいなリベラル意識が保守二大政党型の政治舞台づくりに結節していることの問題を金さんは指摘しておられます。それはそのとおりですが、あいまいなリベラル像が、新自由主義対福祉国家型リベラリズムという政治哲学上の対抗とはおそらく無縁に日本社会では流通していることの検討が必要だと思います。それは、「リベラル・左派」がなぜ、「・」で結ばれるのか、という問題ともかかわります。 もう一つ、この論文から触発されたことがらとして、東アジアの諸社会に対し、現代日本の言説政治が、たとえば「反日ナショナリズム」非難に典型的なように、特徴的な排除(排外主義)機能を果たしていることを考えると、「排除されない東アジア」がそうした言説政治のカウンターパートとして不可避的に想定されるという問題があります。「リベラル」な言説もふくめた、言説政治のいわば、「東アジアスパイラル」を批判的に検討すべき状況になっていると感じます。
by kollwitz2000
| 2008-05-12 00:00
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