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2008年 07月 07日
新刊の、山口二郎編著『札幌時計台レッスン 政治を語る言葉』(七つ森書館、2008年7月1日発行)に収録されている佐藤優の講演録「思想で抗する新自由主義」を読んでいたところ、佐藤の以下の発言が目に入り、唖然とすると同時に、改めて強い怒りを覚えた。
オリックスの宮内義彦会長の「北海道の人口は二百万もあれば十分」という発言について、佐藤は、以下のように言っている。 「北海道の右翼が情けないですよね。街宣車で会社の回りをグルグル回るというようなことをして、怖いと思わせなければ、こういう発言はやめないですよね。「発言は自由である。しかし、それには責任がともなう。これが民主主義だ」って。」(強調は引用者) 佐藤は、言論に対して、暴力をちらつかせて威圧させて黙らせることを積極的に肯定しているのである。これが、言論・表現の自由の公然たる否認ではなく、一体なんなのだろうか。 既に述べたように、現に佐藤は、『週刊新潮』の記者に対して、私を攻撃する記事を書くよう教唆しているのであり、佐藤が、『週刊新潮』の私に関する記事に関して、積極的に関与していたと推測する論拠もある。また、前にも書いたが、自身のブログで、佐藤を批判する記事を書き、佐藤批判の内容を含む本を刊行することを述べた明言した原田武夫は、本の刊行直前に、『週刊新潮』に大々的な中傷記事を書かれており、佐藤の怒りを買ったらしい『AERA』の大庭記者も、『週刊新潮』に中傷記事を書かれている。 佐藤の怒りを買ったと思われる書き手について、『週刊新潮』が中傷記事を書くというケースが、3つも続いているのだ。これだけこうしたケースが続けば、私以外の2件も私の件と同じように、佐藤が『週刊新潮』の記者に中傷記事を書くことを教唆した、と考えるのが自然であろう。しかも、佐藤は私の論文について、「私(注・佐藤)が言ってもいないことを、さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容です」などと言っているにもかかわらず、論文中のどこが「言ってもいないこと」なのかすら示せておらず、一切反論していないのである。 今回の佐藤の講演の日付は、「2007年11月20日」とのことである(なお、巻末に「講演をもとに、書き下ろしを加えて再構成したもの」との記載がある)。前に述べたように、佐藤に情報を提供されたらしい『週刊新潮』の記者が、私に最初に接触してきたのは2007年11月23日であるから、上記の発言時には、当然、私の論文のことが念頭にあっただろうし、この発言自体が、私の論文をも念頭に置いたものだったかもしれない。 今回の佐藤の発言は、佐藤が「言論・表現の自由」を公然と否認していることを示しており、一連の『週刊新潮』による、佐藤への批判者への攻撃が、佐藤の教唆によるものであったことを強く示唆している。佐藤は、自身への批判に対して、公的に反論するのではなく、まさに右翼の街宣車が相手に怖いと思わせるのと同じように、『週刊新潮』という言論テロ雑誌を用いて、批判者を叩き潰そうとしたのではないか。一体、どこまで卑劣な人間なのだろうか。こんな男が「公共性」を云々することは、茶番以外の何物でもあるまい。 なお、映画『靖国』の上映をめぐって、鈴木邦男を中心として、「右翼の街宣車の抗議活動は、表現行為の一つであり、決して暴力的な威嚇ではないのであって、「表現の自由」が適用されるべきものだ」といった主張が展開されているが、佐藤の今回の発言は、こうした鈴木らの主張を、真っ向から否定するものである。右翼を自任する佐藤が、街宣車による抗議活動は、相手に「怖いと思わせ」るのを目的としていることを明言しているではないか。 『靖国』の上映中止に関して見られたリベラル・左派の言説は、明白に右翼の暴力的威嚇があったにもかかわらず、そのほとんどは、そうした威嚇の度合いを低く見積もり、中止の責任を映画館の自主規制という姿勢に負わせるものであった。 私は、「佐藤優・安田好弘弁護士・『インパクション』編集長による会合の内容について②:コメント(4)」の「(注1)(※※)」で、以下のように書いた。 「上映中止は映画館の自己規制のせいだと言わんばかりの論調が、リベラル・左派内でも出てきている(例えば、日下部聡「政治時評 常套句は思考停止をまねく 「靖国」の騒動を「民主主義の危機」と括るのは早計だ」(『金曜日』2008年4月18日号)、田原牧「こちら特報部 右翼・民族派の憂うつ」(『東京新聞』2008年4月26日付朝刊))。日下部は、毎日新聞の記者である)。 念のために書いておくと、映画館に出向いて直接抗議した右翼の当事者は、抗議の際に『南京1937』でのスクリーン切り裂きの前例を持ち出した、という映画館側の主張を否定しておらず(4月7日放映のTBS『NEWS23』より)、また、上映中止活動を行っている右翼は、「無論上映となれば断固抗議行動を徹底し、日本の正義を守る覚悟である」と明言しているのだから、これが「表現の自由」の侵害でないならば何が侵害になるのか。日下部も田原も、こうした事実には触れていない。」 上記の文章をアップした直後に出た『論座』2008年6月号(2008年5月1日発売)は、「映画『靖国』騒動への疑問」を特集していたが、『論座』編集部は、特集タイトルページで、「助成金を問題にした国会議員の横槍と、報道に触発された右翼の街宣活動に、映画館側が過剰に反応した」(強調は引用者)と書いている。 同誌同号で、上野千鶴子は「「自主規制」という名のファシズム」と主張し、森達也は、上記のTBS番組に言及しているにもかかわらず(その番組のコメンテーターだった)、右翼青年が抗議の際に『南京1937』でのスクリーン切り裂きの前例を持ち出したことには触れず、上映中止を決めた映画館の対応を「お粗末」だとする。斎藤貴男に至っては、「右翼を何だと思ってるんだという話ですよね」と、右翼は警察のメンツを潰さないよう合理的に行動するとして、そのことを計算できずに「自主規制」する側を批判している。暴力的な威嚇を前にして、なぜそんな計算を働かせなければならないのか?倒錯もここまで来ると、見事というほかない(注)。 自分たちは東京大学教授や朝日新聞記者や売れっ子言論人という安全な地位にいながら、右翼の暴力的威嚇や警察の放置を問題にせずに、小さな映画館に毅然とした態度をとることを要求しているのである。よく言えたものだ。前にも書いたが、<まっとうな右翼>を救い出して、反グローバリズムなどの争点で<まっとうな右翼>と連帯していきたいという衝動が強いからこそ、上映中止を映画館の自己規制のせいにするという認識が生まれるのである。こうした認識は、ある種のイデオロギーに根ざしたものなのであって、イデオロギーは現実を簡単に乗り越える。 こんな認識の下では、テロ行為も含めた右翼によるいかなる「言論・表現の自由」への侵害行為も、「<まっとうな右翼>ではないニセの右翼によるもの」として表象されることになり、「言論・表現の自由」の深刻な問題として受け止められなくなる。 『世界』2008年6月号の「メディア批評 第6回」で、神保太郎(筆名であろう)は、『靖国』上映中止問題について、以下のように述べている。 「過剰な萎縮の背景にあるもの。日本の警察の右翼団体のやりたい放題に対する野放しを、メディアはどこまで自覚しているだろうか。耐え難い騒音をまき散らすあれらの街宣車を、警察は国会周辺、皇居周辺以外では放置・黙認している。あの騒音レベルを計測してみるまでもなく、違法行為が堂々と黙認されているのである。これが法治国家と言えるのだろうか。前述の通り、靖国神社の境内で青年が殴打される現行犯を警察は明らかに放置していた。映画(注・映画『靖国』)がそれを撮っているのだ。これが法治国家か。」 上の発言は、少し前ならば、当たり前に見られたものだったはずである。こうした発言が、リベラル・左派系の論壇でこれ以外にほぼ全く見られなかったこと(しかも筆名の筆者)こそが、現在のリベラル・左派論壇の変質がいかに進んでいるかを示している。 また、『金曜日』編集部で、佐藤と昵懇の伊田浩之は、『金曜日』2008年6月27日号の編集後記で、以下のように述べている。 「本誌連載「飛耳長目」をまとめた佐藤優さんの新刊『世界認識のための情報術』を7月中旬、発売します。佐藤さんは、この本のために400字詰め原稿用紙100枚超を書き下ろしました。本誌購読者などで佐藤さんの言説に違和感を持たれている方がいれば、その方にこそ書き下ろし部分を読んでいただきたいと思います。」 前にも述べたが、佐藤が『金曜日』に書こうとするのは佐藤の勝手である。佐藤ではなく、『金曜日』こそが、佐藤をなぜ『金曜日』が使うのか、また、左派ジャーナリズムたる『金曜日』が佐藤を重用することが、佐藤が右派メディアを中心に展開している排外主義的・国家主義的主張に対する、一般読者の警戒感や、リベラル・左派の抵抗感を弱める役割を果たしていないと本気で考えているのか、答えるべきだろう。 それにしても、少し前に『金曜日』は、まさに『週刊新潮』の煽動により、右翼の街宣車をはじめとする抗議を受け、それこそ「怖いと思わせ」られ、謝罪文を公表することになったはずである。 周知のように、2006年末の、『金曜日』主催集会での劇団「他言無用」の皇室劇をめぐる一件である。 この時の『週刊新潮』の記事が、右翼への扇動的な内容であったことは、鈴木邦男や『創』編集長の篠田博之も指摘している。 2006年12月22日号の『金曜日』に掲載された、『金曜日』編集部による文書「「11・19」緊急市民集会について」は、同時に掲載された「『週刊金曜日』発、読者のみなさまへ ~緊急市民集会のパフォーマンスと『週刊新潮』の記事を発端とした一連の経緯について」という文章とともに、下のサイトに転載されている。 http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/32f9e618b34205f77f4e2389c0065694 この文書は、「読者のみなさま」宛になっているが、『金曜日』の主要な読者で、その緊急市民集会の皇室パフォーマンスにより、「人権およびプライバシー上、一部の表現に行き過ぎや不適切な言動があったことで、誤解や不快の念を生じ」、『金曜日』に謝罪してほしいと考えていた人間は、ほとんどいまい。この文書における謝罪の宛て先が、右翼や「世間」であることは、誰の目にも明らかである。「「11・19」緊急市民集会について」の前に附されたあらゆる言い訳にもかかわらず、そうである。念のために言っておけば、一義的な責任は、『金曜日』編集部よりも、『週刊新潮』の扇動、右翼の暴力的威嚇、そうした行為を野放しにする警察、一連の事態に沈黙するジャーナリズムにある、と私は考える。 『週刊新潮』に、批判を向けられた相手の中傷記事を書くことを教唆し、また、右翼の抗議活動による威嚇的行為を肯定する佐藤と、『金曜日』がこれほど緊密な関係を結ぶという事態は、どう考えても奇妙というほかあるまい。『金曜日』は、まさに、佐藤が肯定し、実践しているところの、「言論・表現の自由」の侵害の被害者ではなかったのか。 <佐藤優現象>を通じて、リベラル・左派の自壊が進んでいること(もちろん、リベラル・左派の自壊という現象があってはじめて、<佐藤優現象>が成り立っているわけだが)はすでに指摘したが、これほど明瞭に自壊ぶりが現れている事例もないだろう。「戦後民主主義」は、最も基本的な市民社会の原理たる「言論・表現の自由」すら、自ら破壊しつつあるのである。 五・一五事件が起こった際、大手紙をはじめとした当時の日本のマスメディアは、テロリズムを批判するのではなく、決起した青年将校たちに同情的であったことは、有名な話である。私には、映画『靖国』上映中止に関する一連の言説状況や、「言論・表現の自由」を公然と否認し、しかもそうした否認行為を実践する佐藤をリベラル・左派論壇が重用している事態は、今後再び、より深刻になって現れるであろう、「言論・表現の自由」の危機の予兆であるように思われる。 (注)『論座』の同号の長谷部恭男「がっかりなさいましたか?」において、長谷部は以下のように述べている。 「今回の(注・映画『靖国』上映中止をめぐる)騒動で議論の焦点になっているのは、多くの映画館が「お客様や周辺の方々に迷惑になってはいけないので」という理由で、上映を「自粛」したことである。(中略)自分や従業員の身が危ないかもしれないのに、あえて一般公共のために表現の自由を守るのが映画館主の「義務」かというと、そういうわけではない。非難されるべきなのは、中止を求めて圧力をかけたり脅したりした人々であって、映画館主ではない。自分は脅していないという人も、脅した人たちと「合唱」したことは認識すべきだろう。しかし、あえてそれでも表現の自由を守るため上映するという映画館主に対しては、称賛を惜しむべきではない。自分たちの義務を超えて、表現の自由のために尽くしているのだから。」(強調は引用者) 左派でもなんでもない長谷部ですら、「非難されるべきなのは、中止を求めて圧力をかけたり脅したりした人々」だと述べている。リベラル・左派の『靖国』上映中止をめぐる論調がどれほど歪んでいるかを、このことはよく示している。
by kollwitz2000
| 2008-07-07 00:00
| 佐藤優・<佐藤優現象>
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