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2008年 11月 06日
少し前に出た東浩紀と大塚英志との対談本である『リアルのゆくえ』(講談社現代新書、2008年8月)を読み、東の発言内容の酷さに驚いた。私は東の文章を大して読んでいなかったのだが、昔からこんななのだろうか。
枚挙に暇がないのだが、私が最も呆れた箇所を挙げておこう。 「東 ぼくが言っているのは、むしろ了解可能性の拡大を大切にしたいということです。たとえば、日本のサヨクが2000年代になぜ急速に影響力を失っていったかというと、リベラルな人たちはリベラルではないということが大衆レベルで分かってしまったからです。リベラルは、みんながリベラルになることを望んでいる。たとえば、みんなが在日に対して優しくしようとリベラルは言う。でも世の中には、在日を差別する人がいっぱいいる。その現実はどうするのか。/ネット右翼の問題も同じです。彼らが言っているのは、左翼は出版メディアを握っている、みなが自分たちのようにリベラルになるべきだと言っている。しかしそれこそが抑圧だということです。そういう意見に対する処方箋はひとつしかない。リベラルでない立場も認めるような「拡張されたリベラル」しか実践的にとりようがない。それが現在の日本で唯一リアルな政治的ポジションだし、それにこれはもともとのリベラリズムのなかにあった議論でもある。」(207頁) 東の主張を要約すれば、在日朝鮮人を差別する人が世の中には大勢おり、そうした人々に、「差別はすべきでない」という認識を押し付けないのが、真の「リベラル」だ、ということになる。いやはや、とんでもない「リベラル」である。東は、「これはもともとのリベラリズムのなかにあった議論でもある」と主張しているが、仮に「リベラリズム」の原理で、「言論の自由」として嫌韓やネット右翼を容認するとしても(もちろんこの場合、個人や組織への誹謗中傷や名誉毀損も「言論の自由」として容認されることになる)、それらを批判することはそれこそ「リベラリズム」の原理から当然肯定されるだろう。ところが、東は、そうした批判すら「抑圧」だと理解しているから、これでは単なる嫌韓やネット右翼の容認論でしかない。 東の主張を読んで、私は、サルトルの『ユダヤ人』(岩波新書、1956年。原書1954年。強調は原文どおり)の冒頭の箇所を思い出した。 「今、誰かひとりの男が、国家や自分の不幸の全部、あるいは一部を、共同体におけるユダヤ分子の存在に帰したとする。あるいは更に、その不幸な状態を改善するには、ユダヤ人達から、かくかくの権利を取り上げるとか、かくかくの経済的、あるいは社会的地位から遠ざけるとか、領土から追放するとか、あるいは、皆殺しにすべきだとか提案したとする。すると人々は、この男が、反ユダヤ的意見の持ち主だというであろう。/この意見という言葉は、いろいろなことを思わせる。たとえば、一家の主婦は、議論が険悪な空気を帯びてくると、この言葉でその場を救う。すべての見解は同じ価値を持つものであることを、この言葉がほのめかすからであり、また好みということの中へ、思想を含めてしまって、それに無害な外見を与えるからである。好き嫌いなら生れつきで、従って、どんな意見を持とうと許される。趣味とか、髪の色とか、意見とかは、論じてみても仕方がないということになる。/かくして、民主主義機構の名において、また、言論の自由の名において、反ユダヤ主義者は、ユダヤ人攻撃の十字軍の必要を、いたる所で説き廻ることを当然の権利と心得る。/ところが同時に、われわれは、大革命以来、一つの物事にむかう場合、分析的精神を働かせるように、すっかり馴らされてしまっている。ある人物、ある性格を見るのに、まるで、単純な要素に分析出来る化合物か寄石細工であるかのように考え、そのうちの一つの石が、残りの他の石と混り合っても、すこしもその本質が損なわれないと思い込む。従って、反ユダヤ的意見にしても、われわれにとっては、他のどんな分子とでも、すこしも変質することなく化合出来る一分子にすぎないと思われてくるのである。一方では、善良な父親か夫であり、勤勉な市民、洗練された知識人、あるいは博愛主義者であって、しかも、同時に反ユダヤ主義者たり得ると考えるのである。釣道楽だったり、恋を楽しんだり、宗教問題にはごく寛大だったり、中央アフリカの原住民の状態については、すぐれた意見に富んでいたりしながら、しかも、同時に、ユダヤ人を憎悪することが出来ると考えるのである。」(1~2頁) 「直ちに特定の個人を対象とし、その権利を剥奪したり、その生存を脅かしたりしかねぬ一主義を、意見などと呼ぶことは、わたしには出来ない。(中略)こうした反ユダヤ主義は、言論の自由の原則によって保証さるべき思想の範疇にははいらないのである。」(4頁) サルトルは、東のような単なるレイシズム容認論だけではなく、上で「仮に」として述べたリベラリズムの限界も衝いている。東は論外としても、嫌韓のレイシズムを、批判することなく一つの立場として容認しようとする傾向が、リベラル・左派の一部でも最近見られるが、こうした傾向こそ積極的に批判されるべきであろう。 ところで、『リアルのゆくえ』での、以下の東の発言にも呆れた(本当に、挙げ出すときりがないのだが)。 「東 世界にはいろんな立場の人がいます。たとえば、南京虐殺があったという人となかったという人がいる。ぼくは両方とも友達でいます。このふたりを会わせて議論させても、話が噛み合わないで終わるのは目に見えている。なぜならばふたりとも伝聞情報で判断しているからです。歴史学者同士なら生産的な会話は可能でしょう。しかしアマチュア同士では意味がない。(中略)ちなみにぼくは南京虐殺はあったと「思い」ますが、それだって伝聞情報でしかない。そういう状況を自覚しているのが、大塚さんにとっては中立的でメタ的な逃げに映るらしいですが、それはぼくからすれば誤解としかいいようがない。 大塚 南京虐殺があると思っているんだったら、知識人であるはずの東がなぜそこをスルーするわけ?知識人としてのあなたは、そのことに対するきちんとしたテキストの解釈や、事実の配列をし得る地位や教養やバックボーンを持っているんじゃないの? 東 そんな能力はありません。南京虐殺について自分で調査したわけではないですから。 大塚 でも、それを言い出したら何も言えなくなる。柳田國男について発言するのは柳田國男以外できなくなってしまう。歴史学自体がすべて成立しなくなってしまう。資料はすべて伝聞情報だからね。一次資料だって誰かのバイアスがかかっているわけで、南京虐殺論争だって、そのバイアスの部分で虚構と言うのか、あるいはバイアスを取り除いたところであったと言うのか。とにかく、東浩紀っていうのは、結局は人は何も分からないって言ってるようにしか聞こえないよ。 東 ある意味でそのとおりです。 大塚 (前略)つまり君が言っていることっているのは、読者に向かって、君は何も考えなくていいよと言っているようにぼくにはずっと聞こえるんだよね。 東 ええ。それはそういうふうにぼくはよく言われているので、そういう特徴を持っているんだと思います。 大塚 そうやって居直られても困るんだって。」(209~211頁) 大塚はこの後、居直り続ける東に対して、「君の個性だと居直られた瞬間に、このあと対談する意味もなくなってしまう」(212頁)と呆れるのだが、それにしても、東の主張はほとんど子供が喧嘩するときのそれのように聞こえる。この後も、対談は続く。 「東 たとえば、なぜ歴史の問題すら解釈次第という立場なのかと言われたら、それはぼくがポストモダニストだからです。ぼくにしてみれば、高橋哲哉氏が靖国問題であんなにポジティヴな話をしてしまえることに違和感がある。だからそれは、ある種の知的訓練の中でそういうポジションを取らざるを得なくなってしまったということでもある。 大塚 その話を聞いてしまったら、ポストモダンっていうのは、何もかもから距離を取れて、すごく楽な思想だっていう話になっちゃうよね。 東 楽と言えば楽ですが、楽じゃないと言えば楽じゃない……(苦笑)。 大塚 楽じゃないか。全部に傍観者でいられる当事者で、それこそ俺には関係ないって言えるような思想がポストモダンなわけ?デリダなわけ?(中略)あなたの言うポストモダンがそうだとしたら、ポストモダンって本当にそういう思想なの?もしくは、それはポストモダンっていう思想のせいなの?あるいはポストモダンという思想がもたらした時代のせいなの? 東 ポストモダンという思想のせいではないかもしれませんが……だから、ぼくが言いたいのは、ぼくという人格は個別にあるものではなくて、時代性とか、さまざまなものによってつくられているわけです。 大塚 その時代性っていうのはポストモダンの一つの要因で、戦後民主主義でもいい、君のメンタルな人間性は、いったい何から形成されているの?歴史的な要因っていうものの中に君の論理っていうものがさ……。 東 この議論は続けても仕方ないんじゃないかな。今、大塚さんはぼくの人格を批判しているので、それはやめたほうがよろしいんじゃないかと……。 大塚 人格の批判じゃないよ。論議の問題として、自分の人格の問題だから、ここから先は論議が成り立たないと言ったら……。」(212~214頁) 呆れた「ポストモダニスト」である。2008年にもなって、まだいたのか。ここで興味深いのは、上記の「在日」「南京虐殺」の件といい、ここでの「高橋哲哉氏」の「靖国問題」に関する主張といい、東が「リベラリズム」「ポストモダニズム」の立場からの主張を行う際、歴史認識問題に関連したテーマが、例として挙げられていることである。もちろん、こうした一部の例から結論付けることはできないが、私には、東の「ポストモダニスト」としての立場は、「ある種の知的訓練の中でそういうポジションを取らざるを得なくなっ」たというよりも、日本の歴史認識を批判的に問うアジア諸国の人々や、在日朝鮮人、日本の一部の左派への対抗上、強化された、政治的に保守的な性格を元から持っているもののように思われる。 東は、次のようにも言う。「そもそも、ポストモダニズムというのは、政治的には本質的に現状肯定しかできないロジックのはずです。なぜなら、それはあらゆる理念を脱構築するからです。それなのに、なぜかポストモダニズムがアイデンティティ・ポリティクスとかカルチュラル・スタディーズと結びついて、左翼のラジカルな議論がポストモダニズムによって支えられるようになってしまった。でも、それは本当は無理なんです。/どうしてそんな無理をして政治化しなくてはいけないのか。むしろポストモダニズムの言説の毒というのは、政治性や主体性の議論を無効にするところにあるのではないか。」(292頁) 実際の「ポストモダニズム」がどうであるかは私は興味がない。ここでの東の主張は、私が以前「ちくま・イデオロギー」として書いたものと本質的に同じだと思う。その意味で、大塚による、東の「小さな遊び場で、大人にならなくてもいいから」(これは大塚による要約。303頁)という主張が「団塊世代の思想」だとの指摘(303頁)は興味深い。東は、加藤典洋や竹田青嗣や小浜逸郎らの正当な後継者であるように思われる。 それにしても、上記の一番下のやりとりで、大塚の当然の質問を自分への人格批判だとするくだりは笑ってしまった。どれだけ脆弱なのか。大塚は東のやっていることを「マーケティング」だと批判しているが(228頁)、脆弱さにしても「マーケティング」にしても、確か東は鎌田哲哉から10年くらい前にも言われていたはずである。東がどうこうと言うよりも、東が10年来生き延びれてしまう「論壇」とは一体何なのか。改めて考えさせられる。
by kollwitz2000
| 2008-11-06 00:00
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