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2009年 01月 20日
年末に何気なく「愛川欽也 パックインジャーナル」(朝日ニュースター)を見たら、「ソマリア沖海賊対策に自衛隊派遣」をテーマとした討論をやっていた。
http://asahi-newstar.com/program/packin/onair/081224-007597.html 司会の愛川(キンキン)は護憲派らしい(例えば、このインタビュー参照)。愛川はこの日、<派遣に反対したら、政府が憲法解釈を変更して、集団的自衛権の行使を容認する新法が制定されかねないから、現行でも派遣可能とすべきだ>といった趣旨の主張をしていた。めちゃくちゃな法感覚に笑ってしまったが、別にこれは愛川だけがおかしいのではなく、現在の護憲派ジャーナリズムの大多数の関係者、発言者は、本来はこういった主張になるはずである。「対テロ戦争」自体への批判的認識はほとんど持っていないのだから。現に、『金曜日』編集委員の落合恵子もその場にいたが、ほとんど沈黙を守っていた。愛川は、別に護憲派ジャーナリズムとのしがらみを持っていないから、率直に語っているだけだ。 それにしても、私は愛川のこの主張の、うまく言いがたい奇妙なぬるさに、強い既視感を覚えた。以前、どこかで愛川の発言について読み、似たようなぬるさを感じたはずなのだ。だが、私は愛川に取り立てて興味もなく、政治的な発言もあまり目にしたこともない。どこで読んだのだったかという、恐ろしくどうでもいいことが気になりながら、新年を迎えたのだった。 年が明けても、なぜかこのことが気にかかっていたのだが、ようやく最近、ついに思い出したのである。以下の文章だ。 <スタートから1年で、「キンキンのとことん好奇心」(注・テレビ朝日)が最終回を迎えた。 負けての撤退であることは明白だが、しかし一応、番組上は穏便に、「キンキン、1年間ご苦労様」と拍手でねぎらう形にはなっていた。しかし拍手の音は妙にまばらだ。 (中略) さて、「とことん好奇心」はフィナーレを何で飾ったかというと「涙のリクエスト ベスト30」という企画である。好評を博した名物コーナーらしい。要するにハガキとFAXで募ったリクエストによるナツメロベスト30なわけだが、いきなり30位が中村メイコ「田舎のバスで」29位白根一男「はたちの詩集」である。別に1位が「いい日旅立ち」であるようなありがちなナツメロのランキングとズレていたっていいのであるが、30位「田舎のバスで」(いなかーのバスはオンボロ車(ぐるま)ー、という歌らしい)というのは、ちょっとすごい。全く別の世界観すら感じる。世界観は大げさにしても、どうやらこれまで回を重ねてきたこのコーナーで、過去にスタジオに出演してくれた歌手の曲が多くの票を集めるというからくりがある模様。中村メイコは常連ゲストだし(でも「田舎のバスで」を歌うことは拒否しつづけているらしい)、白根一男も(も、とは言っても私はこの人知らないです)何度か出ているのだろう。 (中略) でもキンキンはこの企画で最終回を迎えたことに、いたくご満悦だ。「古い歌謡曲には歌詞世界がありドラマがありいろんな事を教えられもする」という今更陳腐な御高説をぶち、「後世に残し伝えていく義務がある」と使命感に燃えている。これは「TVフランス座」(キンキン司会の月イチ深夜番組。テレビには乗らない芸人さんを紹介。玉乗り一筋50年の老芸人とか)と同じである。「TVフランス座」ってのも辛い番組である。「もうこれは文化です」って言われても。文化だからって全部残さなきゃいけないってわけでもないだろう。ふるいから落とされる文化だってあるはずだ。いや落とすべきものだってある。二代目浅草駒太夫のおいらんストリップってさあ。悪いとは言わないけどさあ、キンキン、自分の懐古の情を全て「文化」とか「伝統」にしちゃうんだもの。「なつかしい」だけじゃいかんと思ってるんだろうな。それもいかんことはいかんけど。でもキンキン変だぞ。あんたは文化選定委員か。 (1996・4・11)> (ナンシー関「愛川欽也よ、アンタは文化選定委員か」『テレビ消灯時間』文春文庫、1999年。強調は引用者) ナンシーは、愛川や『金曜日』に代表されるようなぬるい護憲派――護憲派ポピュリスト(の主張)に私が感じる気持ち悪さを、端的に代弁してくれている。多分、マスコミでよく見かけるこうしたぬるい護憲派の人たちは、憲法9条さえ残してくれれば、恐らく後はどうでもよいのである。彼ら・彼女らは、憲法9条を「もうこれは文化です」として、「自分の懐古の情を全て「文化」とか「伝統」にし」てしまっているだけだ。護憲を唱えているのは、個人的なこれまでの行き掛かりや、社会的にはどうでもよい「懐古の情」にすぎないと思われる。 ぬるい護憲派ジャーナリズムでは、佐藤優と結託する、佐高信、香山リカ、森達也、斎藤貴男、魚住昭といったかわりばえのしない顔ぶれがいつも並び、お互いに褒めあっているが、これなど、ナンシーが愛川の番組について指摘した、「過去にスタジオに出演してくれた歌手の曲が多くの票を集めるというからくり」そのものだろう。そして、「中村メイコ」「白根一男」に対応するのが、『金曜日』での連載執筆陣である、「永六輔」、「矢崎泰久」、「中山千夏」ではないか。「佐高信」も含めていいかもしれない。佐高は以前、『金曜日』にはユーモアの感覚が欠けているから、自分は小沢一郎のことを「フリチンスキー」と呼ぶ、といった文章を書いていた。確かに「全く別の世界観」(「まばらな拍手」)ではある。 愛川や現在の護憲派ジャーナリズムのような、被害体験を強調する護憲論、めちゃくちゃな法感覚は、<明文改憲よりも、集団的自衛権の行使を容認する解釈改憲の方がまし>という主張に行き着かざるを得ないだろう。そのことは、『金曜日』が、内閣法制局の集団的自衛権解釈変更(現行憲法下でも集団的自衛権を保持しており、行使可能であるとする)、周辺事態法の「周辺地域」に台湾海峡が含まれることの明言、「非核三原則」を緩和して朝鮮半島有事の際には「持ち込み可」とすることを肯定する、佐藤優を重用することが、端的に示唆している。 「伝統」「文化」としての憲法9条を擁護しようとする認識がより意識的(確信犯的)になれば、「護憲論の2つの立場」や「リベラル・左派からの私の論文への批判について(2)」で既に論じたが、現在の朝日新聞のような、「国益」の観点から憲法9条をナショナル・アイデンティティとして打ち出す、という主張になる(注1)。 これは、論理的には集団的自衛権の行使を容認する解釈改憲に行き着くが、明文改憲よりも、アジア諸国をはじめとした世界の諸人民からすれば、危険極まりない、迷惑極まりないものである。この場合、<平和国家・日本>という自意識のもとで、明文改憲と同じ海外での軍事活動が展開されるわけであるから。明文改憲の場合よりも、抑制意識が働かないどころか、優越感すら持った形で軍事活動が行われるわけであるから、より悪質である。イスラエルが、<中東唯一の民主国家>という自意識と優越感のもとで、蛮行を繰り返しているのと構図的には同じだ。 護憲派ジャーナリズムは、<大衆に主張を広げよう>という意図のもと、自らのポピュリズム化を進めているが(「<佐藤優現象>批判」の注「24」「49」参照)、かえって主張は説得力を失い、結局読者は従来の護憲派の読者層に落ち着いているように見える。 また、ナンシーが愛川から感じている「文化選定委員」的な態度は、これまで私が指摘してきた、リベラル・左派の愚民観(「<佐藤優現象>批判」参照)、エリート意識(「リベラル・左派からの私の論文への批判について(4)」参照)と対応している(注2)。こうした態度も、大衆からの反発を買う(買っている)だろう。 こうした状況は危険である。なぜならば、「普通の国」化を拒否しようとする護憲運動が、「護憲派のポピュリズム化」に染まってしまえば、運動としての活力、説得力を失ってしまうし、大多数の大衆からすれば、「護憲派のポピュリズム化」によって、憲法9条は「二代目浅草駒太夫のおいらんストリップ」と同じものに見えるようになるだろうからである。そうなれば、「ふるいから落とされる文化だってあるはずだ。いや落とすべきものだってある」とされて終わりである。 こうなってしまえば、体制側からすれば、憲法9条は別に残しておいても脅威にならない、むしろ残しておいて集団的自衛権の解釈を変更した方がよい、ということになるだろう。いや、もうなっているのかもしれない。年末年始と、爆笑問題がテレビに出ずっぱりだったが、爆笑問題の太田が昔と変わりなくテレビに出続けているというのは、体制側にとって、ぬるい護憲論が脅威ではないことを示唆している。 安倍政権時と異なり、現在の政治的争点は憲法9条の明文改憲か否かではなくて、「普通の国」としての日本の軍事大国化か否かである。民主党のように、憲法9条を(とりあえず)維持して安全保障基本法方式で「普通の国」化を進める、という道の方が今後、実現の可能性が高い。以前に書いたように、憲法9条が日本の過去清算の問題と関連付けられて問題化され、「普通の国」の下でおこぼれにあずかること(『ロスジェネ』とかはこっちだ)を肯定しない「下層」階級を引き込まない限り、この「普通の国」論に護憲派が対抗することは難しいと思われる。 (注1)朝日ニュースターでは、『金曜日』常連執筆陣が「レギュラー出演者」「ゲスト」である、「痛快!おんな組」なる番組もやっている(私は観たことがないが)。 http://asahi-newstar.com/program/onnagumi/detail/ 今の朝日新聞が、「国益」中心主義のリベラルに再編されていることは言うまでもない。朝日新聞とポピュリズム化された護憲派との結びつきは、後者と<佐藤優現象>に強い親和性が見られるという現実を考える上で、示唆的である。 (注2)典型例として、ここでは佐高の発言を挙げよう。 「佐高 ・・・六〇年代のことですが、吉本隆明が丸山真男を批判したことがあって、それに対して丸山は一切答えなかった。吉本隆明は当時の彼なりのラジカルな問題意識を込めて丸山真男を批判したとは思うんだけど、丸山としては、自分は右の側から叩かれながら一生懸命にやっているのに、なんで左から叩くんだという思いがあったんじゃないかな。当時の吉本は反体制のスターだったわけですが、喝采を浴びる人は、敵よりもむしろ味方の陣営にいる人を叩いてのし上って行くところがある。これは日本の左派のいやな流儀だと思うんですよ。 雨宮 そうですね。それをやられたらたまらないですね。 佐高 私なんかは丸山真男には及びもつかないけれども、左派からもいろいろ批判されるから、何かを生みだすような論争だったら別だけど、ためにする非難や罵倒にはあまり答えないようにしている。「それをやっちゃおしまいよ」という気がするんです。」(雨宮処凛・佐高信『貧困と愛国』毎日新聞社、2008年3月30日、31頁) この発言は、時期的に言って私の批判も(こそ?)念頭に置いていると思われるのだが、それはさておき、一つだけ明らかなのは、売名行為のために「叩いてのし上って行く」対象として、よりによって佐高を選ぶ人間が存在するとは、まず考えられないということである。恐らく佐高自身を除いて。
by kollwitz2000
| 2009-01-20 00:00
| 日本社会
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