by kollwitz2000 カテゴリ
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2009年 06月 04日
『金曜日』がおかしくなっていることはかなり認知されつつあるようであり、部数も相当低下しているようであるから、もう『情況』のように放置しておこうかと思っていたところだった。
そこに現れたのが、最新号の佐高信の文章である。 佐高信「佐藤優という思想」 http://www.kinyobi.co.jp/backnum/data/fusokukei/data_fusokukei_kiji.php?no=630 これについては、用事でばたばたしているうちに小谷野敦に先を越されてしまった。 http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20090601 小谷野の言うように、佐高の一文はあまりにも支離滅裂であり、上の小谷野の批判でとりあえずは十分であるが、これは、注目すべき文章である。なぜならば、これが、『金曜日』が本誌で佐藤優を使うことを弁明した、恐らく最初の文章だからである。 これまで、佐藤優が、単行本(『世界認識のための情報術』金曜日刊)の中で、『金曜日』に自分がなぜ書くかを開陳したことはあった。また、読者による投書で、佐藤の『金曜日』での執筆を望む声が(恐らく意図的に。佐藤自身が、「「週刊金曜日」という雑誌があります。これに私も書いていますが、書いても連載しても大変なのです。「佐藤の野郎はけしからん、あいつは右翼だ」とか「あいつは国家主義者だ」といって批判の手紙ばかりくるのです」と証言している)載せられたこともあった。だが、編集委員や編集委員が弁明したのは本誌で弁明したことはなかったと思う。 以前から指摘しているように、『金曜日』(これは岩波書店も)は、佐藤優をひたすら使い続け既成事実化して、『金曜日』に佐藤優が書いていることへの疑問などあたかも存在しないかのような<空気>を作ることだけに専念してきたように見える。この方針は、この号でも、相変わらず佐藤が4ページの連載記事(「佐藤優の歴史人物対談」(月1回)。これとは別に、佐藤は『金曜日』で「佐藤優の飛耳長目」なる連載(月1回)も持っている)を執筆しているように、基本的には変わっていないと見るべきであろうが、それだけではやっていけなくなっているようである。部数減が原因と思われるが、もう遅いよ。 以下で示すように、佐高のこの一文は、近年の佐高の混迷ぶりを反映して、何から突っ込んでいいかわからないような奇妙かつ悪質なものであるが、私見によれば、この一文が最も問題である点は、これが私の「<佐藤優現象>批判」への応答であるように見えて、実は、はじめから、私の批判は応答の対象外になっている点である。したがって、佐高の文章内容の検討に入る前に、その点について述べておこう。 佐高はこの文章を「本誌の読者の中には、佐藤優を登場させることに疑義を唱える人もいると聞く」という書き出しではじめている。呼びかけの対象を「本誌の読者」にしている。そして、それを前提としていろいろと弁明しているわけだが、ここには、『金曜日』が佐藤を使うことが、日本社会という<外部>に与える影響をどう考えるのか、という視点が決定的に欠落している。要するに、私が問題にしているのはこの<外部>への影響という問題であるのに、佐高は問題を<内部>に封鎖しようとしているわけである。 念のために言っておくが、私は『金曜日』の購読者ではないから、「本誌の読者」では多分なくて、一市民(または一在日朝鮮人でもよい)として批判しているのである。私の批判を誤解している人をたまに見かけるので、まずこの点について改めて述べておこう。 何回も書いていることではあるが、佐藤は、イスラエルの現在進行形の蛮行を、日本の名の知れた言論人で最も精力的にあちこちのメディアで擁護しており、また、朝鮮総連のような民族団体を、「国益」の観点のみから排撃するよう主張し、「言論・表現の自由」を公然と否定している。その「過激さ」を、恐らく一つの売りにしており、こうした主張を展開している著名人は、右派メディアでもほとんどいない。 『世界』や『金曜日』のような左派(ということになっている)ジャーナリズムが佐藤を重用することは、「左派が佐藤を使っているくらいだから」ということで、佐藤の排外主義的な主張への違和感、抵抗感を薄める結果を世間一般の人々やリベラル・左派の読者に対してもたらすだろうし、現にもたらしていると私は考える。 私が一貫して言ってきているのは、極めて単純な話だと思うのだが、そうした社会的影響はあるのかないのか、そして、あるのにこうした左派(?)メディアがその状態を放置しているとすれば、一般市民としては、こうしたメディアを、左派が「国益」中心主義の方向に転向したもの、あるいは、左派と極右が融合して形成されたヌエのようなもの(「民主党的なもの」と言ってもよいだろう)と捉える他ない、ということである。そして、そういうものとして批判していくべきだろう、ということだ。 たまに、私の論文「<佐藤優現象>批判」について、論文を高く評価してくれている人の中で、「護憲派メディアに「在日」の人が反省を切実に呼びかけているもの」だと認識している人を見かける。高く評価してくれるのはありがたいし、<佐藤優現象>が問題であることを表明している分、当の護憲派メディアよりもはるかにまともであることは言うまでもないが、ただ、残念ながら、こうした認識は私の論文を誤読していると言わざるを得ない。 私の論文というのは、暴力的に要約すると、「<佐藤優現象>はなぜ起こっているのか?」といった問いに対して、それは集団転向現象であり、護憲派ジャーナリズムがシオニスト左派のようなものに変質していくプロセスだ、と答えたものであるから、「反省を切実に呼びかけているもの」という読解はそもそも成り立たない。ただ、私が指摘しておきたいのは、こうした単なる読解ミスの点よりも、こうした理解が、読者の善意にかかわらず、以下のような好ましくない機能を果たす点である。 「切実な呼びかけ」だとする認識は、当の護憲派メディアを、「<佐藤優現象>の推進を反省し、「国益」中心主義的な方向への論調の変容を止めることができる主体」だと見なしていることになる。もっと言えば、そのように「反省する主体」を想定する認識は、私の批判を、変質したリベラル・左派を<外部>から批判するものとして捉えるのではなく、リベラル・左派の<内部>に回収可能なものとして捉えることになってしまうのである。 こうした認識は、護憲派メディアが昔ながらの「左派」「進歩派」「良心的勢力」であるという前提自体は毫も疑っていない。日本人の「良心的」な人々に対して、「在日」の人が切々と「反省」を訴える、という昔からおなじみのパターンだ。だから、これならば、護憲派メディアにしてみれば、大して怖くもないのである。以前、「『世界』『金曜日』などの左派ジャーナリズムには、左派の著名人が<佐藤優現象>に批判的であることを表明した場合、その人物を誌面に登場させて、そうした批判を無化させようとする傾向がある」ことを指摘したが、このこととも絡んでいる。護憲派メディアは、肝心の、<佐藤優現象>の推進への批判には答えずに、<佐藤優現象>批判への賛同者は自分たち護憲派メディアの一員なのだ、とアピールすることで、<佐藤優現象>の推進への批判それ自体を<内部>化しようとしているわけである。 繰り返して言うが、左派雑誌が佐藤を重用するのが問題なのは、左派雑誌としてよくないから、ではない。そもそもそんな雑誌には何も期待していないのである。問題なのは、それが社会という<外部>にもたらす悪質な影響である。 <佐藤優現象>を推進する左派メディアは、自らの社会的責任という観点が欠落しているからこそ、こうした行為を平気で行なえるのである。このことは、「<佐藤優現象>批判」の「注(48)」で指摘したように、現在の護憲派メディアの編集者たちの、手前勝手かつ矛盾した自己規定の帰結でもある。彼ら・彼女らは、「佐藤優さんとつるんでいるからといって、私たちのような左派が、佐藤さんの主張に賛同しているわけはないでしょう?私たちは左派なのだから、佐藤さんを使っても、私たちが左派であるということに変わりがあるはずがないでしょう」と言いながら、他方で「私たちは左派ではないのだから、佐藤さんを使おうが誰を使おうが、問題ないでしょう。私たちの好きなように雑誌を作るのであって、社会的責任なんて関係ありません」と言っているわけである。単純化したが、だいたいこのように考えているはずである。後者とほぼ同じ内容の発言は、私が、『世界』の岡本厚編集長や他の編集部員から直接聞かされたものである。 私としては、こうした護憲派メディアの影響力が低下し、『情況』のような影響力皆無の雑誌になってくれるならば(そうなりつつあるようだが)、どんなに酷い誌面になろうと基本的にはどうでもよいのである。したがって、「まだ『金曜日』や『世界』には良い記事が載ることもあるから、こうしたメディアを守り立てていくべきだ」と考えている人々は、私よりも一層、こうした雑誌が<佐藤優現象>を推進することを批判すべきであろう。 長くなったので、佐高の記事内容への批判は次回に譲る。
by kollwitz2000
| 2009-06-04 00:00
| 佐藤優・<佐藤優現象>
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