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2019年 01月 29日
以下の鄭栄桓氏の発言の一節を読んで「え?」と思った。 <日本はこの慰安婦問題や朝鮮人強制連行といった問題に向き合うことを通じて、大日本帝国という存在を「相対化」し、縁を切らなければいけないと考えます。大日本帝国がおこなった植民地支配あるいは戦時強制連行、慰安婦問題を、戦後の日本は向き合おうとせず、むしろ現在でも多くの市民たちは自らと戦前の国家を同一化する思考から逃れられていません。多くの人は大日本帝国時代のかつての蛮行を韓国から批判されると自分が韓国から批判されていると感じる。あたりまえのように国家、しかも戦前の国家と自らを同一化させるのは、非常に異様で恐ろしいことです。むしろ、大日本帝国の戦争責任と植民地支配責任、そして戦後の日本が果たさなかった戦後責任を、日本国家の構成員たちが、果たしていくというのが重要なのではないでしょうか。> 日本国家は大日本帝国を「相対化」し、「縁を切」ることができるのだろうか?これ自体重要なテーマだと思うが、それをこんなに軽々しく言っていいのか、という疑問がまず生じる。また、「多くの人は大日本帝国時代のかつての蛮行を韓国から批判されると自分が韓国から批判されていると感じる」ということが問題とされているが、そのような蛮行への(例えば)韓国からの批判は、謝罪・賠償・名誉回復措置等を履行しない日本政府・日本社会への批判ということになるであろうから、主権者である日本国民がそのように感じることは真っ当な反応であろう。そうでなければ、国民としての政治的責任を果たす、という認識も出てこないはずである。 今回の徴用工の問題に照らして言えば、問題は、日本国民の大半が「自らと戦前の国家を同一化する思考から逃れられてい」ない点ではなく、賠償が必要な「蛮行」だとは認識していない点と、自ら(および現在の日本国家)と戦前の国家をしかるべき形で同一化できていないがゆえに国民としての政治的責任という認識が生じないまま、「解決済み」だとして終わって(韓国を攻撃して)しまっている点であろう。「大日本帝国の戦争責任と植民地支配責任、そして戦後の日本が果たさなかった戦後責任を、日本国家の構成員たちが、果たしていくというのが重要なのではないでしょうか」という結論部分はひとまずその通りであろうが(「日本国家の構成員たち」という言葉を用いるならば、「・・・戦後責任を、日本政府が果たしていくよう日本国家の構成員たちが行動していくというのが重要・・・」とでもした方がよいと思うが)、そこに至る論理がおかしいと思うのである。これだと朝日新聞みたいになってしまう。 リンク先の記事(特集)は、この一節以外はいつもの鄭氏の文章らしく、大変勉強になるだけに、この一節は残念である。このような論理は今回だけにしていただきたいと思う。
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by kollwitz2000
| 2019-01-29 00:00
2018年 11月 29日
ブログ「先天無極派」の兪佩玉氏が、以前、私が書いていた姜尚中論の連載(左の方の「カテゴリ」の「姜尚中」をクリックしていただければ読める)を紹介してくれていた。この連載は、書いている途中で姜への関心を失ってしまい、放置してしまっていたのだが(読者には申し訳なく思う)、最近、姜については改めて見直してみたいと思っていたところでもあるので、これを機会に続きを書いておく。 ⑨ 姜は単行本『在日』(2004年3月23日刊、講談社)で、以下のように述べている(182~188頁。強調は引用者、以下同じ)。 <わたしがあえて――この点を強調しておきたい――「在日」の立場から社会的に発言するということについては、エドワード・W・サイードから触発されたものが大きい。(中略) 彼は『知識人とは何か』の中で知識人とはつねにアマチュアであると言い切っている。アマチュアを悪く言うと、ただの素人。しかし考えてみると、父親や母親はこの日本の社会で生きていくうえで明らかにアマチュアであった。なぜなら、「在日」になったとき、父母は日本のことがわからなかったはずだ。普通の日本人が知っていることがわからない、完全にアマチュアだったのだ。 日本人であるということは、それだけで日本社会についてのエキスパートである。 そう考えると、彼がアマチュアと言ったのには非常に深い意味があることに気づくようになった。つまり、どっぷりとインサイダーの中に浸からずに、どこかでアウトサイダー的な面を保ち続けることは困難がともなう。しかしそれには「亡命」のような境涯を生きるものにしかわからない歓びがあると言う。そう思えば、父母や「おじさん」たちは、ただ辛かった、悲しかっただけではなかった。底なしに明るい笑いと屈託のないたくましさがあった。それはきっと、そうした歓びを知っていたからではないか。(中略) 知識人とはなんなのか。孤立していながら、そこで発言することにどういう意味があるのか。そんな迷いを持つわたしに、アマチュアとして発言するということの中に知識人という一つの役割を見出そうという彼のメッセージは、非常に胸にこたえた。だからこそ積極的に発言したいと思った。 けっきょく、行き着くさきは「他者」という問題かもしれない。「在日」というのは、日本の社会において、「他者」としても承認されていない。近い存在であると同時に遠い存在であり、遠い存在であると同時に近い存在。それは、日本と朝鮮半島の関係そのものではないかと思えるのだ。(引用者注・ここで第6章終わり)> ここが文庫版『在日』(2008年1月25日刊行、集英社文庫)では、以下のようになっている(199~201頁)。 <わたしの思考の一班に大きな影響を与えたエドワード・サイードは、『知識人とは何か』の中で知識人とはつねにアマチュアであると言い切っている。アマチュアは悪く言うと、ただの素人。しかし考えてみると、父や母は明らかに知識人ではなかったが、この日本社会で生きていくうえでアマチュアであった。父や母が「在日」になったとき、彼らはアマチュアとして生きていかなければならなかった。フツーの日本人が知っていることがわからない、完全にアマチュアだった。 日本人であるということは、それだけで日本社会についてのエキスパートである。 そう考えると、アマチュアには深い意味があるように思える。アマチュアとしての「在日」とは、多数者の日本人、言ってみれば「インサイダー」としての日本人の中にどっぷり浸からず、どこかで「アウトサイダー」的な面を保ち続けることを意味している。その極端な例は、「亡命」のような境涯に違いない。しかしそこにも歓びがあるのだ。 そう思えば、父や母、おじさんたちには、ただ悲哀があっただけではない。底なしに明るい笑いと屈託のないたくましさがあった。それはきっと、そうした歓びとどこかで通じ合うものだったに違いない。 そうしたアマチュアとしての「在日」とは、最も近くにあって遠く、最も遠くにあって近くに生きる存在でもある。日本だけにとどまらず、韓国にとっても、ましてや北朝鮮にとって、「在日」はそんな存在なのではないか。 父や母、おじさんたちにとって生まれた祖国は、数十年に及ぶ「異国」暮らしのために、最も遠く、そして最も近く、逆にまた最も近く、最も遠くに感じられたはずだ。その近さと遠さの、決して埋まることのない距離。それは時には紙一重のように思われ、時には千里の距離もあるほどに感じられたに違いない。そして彼らの悲哀も、彼らの歓びも、その埋められない隔たりに発しているように思えてならない。 これまでずっと遠かった父母たちの国が、わたしに近づいてくるようになるにつれて、わたしはやっと彼らの哀歓の一部を実感できるようになった。だが、そう実感できるようになった時、もはや彼らはこの世にはいなくなっていたのだ。ひとり取り残されたような寂寞とした哀愁がこみ上げてくることがある。その度にわたしは、彼らの生きる「作法」にわたしのそれを重ね合わせたいと思うのだ。(引用者注・ここで第6章終わり)> このように、単行本版では「「亡命」のような境涯を生きるものにしかわからない歓びがある」として、「在日」「アマチュア」にポジティブな評価が付されており、そのような認識こそが自分の社会的発言の土台となっている、と書いている。 ところが、文庫版では、「「亡命」のような境涯を生きるものにしかわからない歓びがある」という認識は消えており、「そこにも歓びがある」と記述されている。つまり、「在日」にも「フツーの日本人」と同じような(同じ程度の)「歓び」は得られる、という主張になっているのだ。また、文庫版では、「アマチュア」としての「在日」は、もはや鎮魂の対象である。 単行本版においては、姜は「アマチュア」としての「在日」性について、父や母の世代から姜が受け継ぎ、恐らくそれを未来に引き継いで行こうと、直線的なイメージで捉えている。文庫版では、「アマチュア」としての「在日」性は、父や母の世代にほぼ固有のものとして描かれており、姜自身がそのような性格を持っているのかすら曖昧である。「アマチュア」としての「在日」性を、姜の父や母の世代に封じ込めようとしているのである。その結果として、姜の次の世代の「在日」は、「アマチュア」性を最初から持っていない、「フツーの日本人」と同等である(あり得る)ものとされる。これからは「在日」はそのようなイメージで表象されるべきである、ということである。文庫版でのこの箇所の修正における姜の狙いは、以上のようなものであると私は思う。 兪氏の取り上げている姜の発言は、『在日』の文庫版の上のような立場からの論理的帰結であると見ることができるだろう。ただ、姜のそうした発言や近年の言動を笑うのは簡単だが、兪氏ら数少ない例外は除き、それらの人々が上で見た文庫版の姜の主張の論理を越えられているのか、ということには疑問がある。 (つづく) #
by kollwitz2000
| 2018-11-29 00:00
| 姜尚中
2018年 11月 17日
「基地引き取り運動」への批判をツイッター上で行ってきたある人物に対して、「基地引き取り運動」のツイッターの匿名の人々が集団で、相手の実名や職場を繰り返し連呼し、誹謗中傷を浴びせている。実名や職場をあげるのはやめるよう、繰り返し言われているにもかかわらず、より攻撃がエスカレートしている。異常な光景である。
「沖縄ヘイト」やら「セクハラ」やらとレッテル貼りをして集団で攻撃しているが、元の発言を見れば分かるように、完全な言いがかりである。実名・職場を暴露する場合、そのことの公共性・公益性が必要であると考えるが、この場合はそんなものは全くなく、まともに反論できないから言いがかりをつけて嫌がらせをして黙らせようとしている、ということは明らかである。しかもこれを匿名で行っているのだから、どこまで卑怯なのかと呆れざるを得ない。 反論できないから黙らせようとしているのではない、と言うならば、実名・職場をあげる必要はなく、普通に批判すればよいだけのはずである。しばき隊の類と同じく、言論・表現の自由を平気で踏みにじる集団である。 私は近年、沖縄に積極的な関心を失っており、沖縄の運動については勝手にやったらいいという感想しかないが(その意味で、嫌がらせの対象になっている当該人物は、沖縄の人々・運動に対して親切すぎるのではないかと思う)、安保反対の声が減ることは、日米安保の矛先の朝鮮半島・中国・世界からすれば日米安保への抑制が弱まるものでしかないのであるから、こんな運動を支持する(日米安保反対の)在日朝鮮人がいるらしいということには驚く。実質的には日本人・日本社会に完全に同化しているということだろう。 ちなみに、特別永住者・外国人が享受してきた日本人と同等の権利を、2015年に沖縄県は公的に否定したが、これは恐らく日本全国で初の事例である。先例を作ったということだ。 こうした個人への集団による嫌がらせは、政治的立場の違いを越えた、言論・表現の自由への脅威である。政治・社会問題に関してツイッター等で発言している人物は、「基地引き取り運動」による個人への嫌がらせ行為への反対の意思を、ツイッター等で公的に表明すべきではないか。 #
by kollwitz2000
| 2018-11-17 00:00
| 日本社会
2018年 06月 19日
某ツイッター(あまり目立ちたくないようなので、名前は挙げない)経由で知ったのだが、以下の書き込みはその通り、と思うところ大だった(「ペテン師」とまでは言わないが)。 「89番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ c27b-m0US)2018/06/17(日) 21:30:19.27ID:jTel7VvD0 各界の良識あるご意見番たちは、SNSなどを通じて政権批判したり市民運動への参加を呼びかけるのはもうやめたほうがいいと思う そんなことやってる段階じゃない。もう手遅れ いまやるべきことは、まだ十分な残り時間をもつ若い世代へ、海外で生きていけるだけの知識と技術を身につけて、 できるだけ早く、ほかのまともな近代民主国家へ逃げるよう助言すること これをやろうとしないゲンロン屋は生活費稼ぎと自己保身が主な目的のペテン師だろう 編集者の竹熊健太郎は弟子たちに将来は海外へ移住することを勧めているとツイッターに書いていた この人は正しい」 https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1529157077/ これは特に在日朝鮮人に当てはまる。いかにして「海外で生きるだけの知識と技術を身につけ」させるかが、在日朝鮮人の民族教育の最も重要な課題でなければならない。「日本において「在日」を生きることの意味」などというものはない。私らの世代は、「共生」論を主観的には批判しつつも、客観的にはそれに騙されたのであって、私などは能力と金銭の不足で日本にいるだけである。せめて、将来世代の自己発展を邪魔することだけはしたくないものである。
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by kollwitz2000
| 2018-06-19 00:00
2018年 06月 18日
佐藤優が同志社大学の「特別顧問」に就任したという。 最近ではあの「週刊金曜日」ですら、佐藤を編集後記で批判するようになっているのに、同志社は随分と佐藤に熱心である。 同志社が宣伝役等で佐藤を使うことはこれまでもしばしば行われてきたが、「特別顧問」にまで至るということは、学内での批判が非常に弱かった、ということであろう。少なくともウェブで読める形では、全然ない。 同志社大学・大学院には周知のようにリベラルまたは左派として知られる教員が多数いるが、今後は、立派なことを公に言ったとしても、勤務先で先にやることがあるだろう、と言わざるを得ないのではないか。 同志社との間で地位確認訴訟中である浅野健一氏は「同志社神学部の教授陣は私が解雇された直後に、評論家の佐藤優氏(同大大学院神学研究科修士課程修了、元外務省主任分析官)を客員教授に呼んで喜んでいます。日本の文化人の中で最も嫌いな人の一人があの人ですね。あちこちで言っていることが違う」と述べているが、その浅野氏に対する同志社の解雇、執拗な嫌がらせは、同志社の佐藤への近年ののめり込みを見れば、やはり政治的なものだったということだろう。 「日本の民衆がメディアと大学の学者を信頼しなくなって久しい。民主主義社会と基本的人権の確立のために最も重要な二つが機能していないのが、この国の不幸だ。」(『冤罪とジャーナリズムの危機――浅野健一ゼミ in西宮報告集』の浅野氏による「まえがき」4頁より。強調は引用者 ) 6月12日の米朝会談は、日本の戦後史において、1950年6月25日の朝鮮戦争勃発以来の大事件だったと思う。今後、旧時代のメディアと大学(の学者)は、ますます民衆から信頼されなくなるだろう。
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by kollwitz2000
| 2018-06-18 00:00
| 佐藤優・<佐藤優現象>
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